第一ニ話 大森林の魔物と人間の記憶
「何でこんなに魔物が多い……」
ナフツェマフ東方の魔物の多さにラムサスは辟易として何度目か分からない溜め息を衝く。
現在我々がいる場所は二ヶ月半前に通ったリブレンからほどない距離である。
スタンピード直後の当時よりも、現在のほうが、大森林の魔物の密度は高い。倒しても倒しても少し進むとすぐに魔物と遭遇する。
ホレメリア東方は討伐隊のはたらきによって魔物の駆除がそれなりに進んでいた。ナフツェマフ近郊はバズィリシェクの威光によって近付く魔物が少なかった。
ここ最近、そういう魔物の少ない場所を進んでいたせいで、今の場所がとりわけ高密度のように感じてしまう。
ナフツェマフを発って以降、進めば進むほど魔物の密度は濃くなっていく。これで自然魔力の濃密な大森林に入り込むと、どれだけ魔物が多くなることか。
量だけではなく質の違いにも注意を要する。ホレメリア方面で多く見かけたのは被食者側の魔物。こちらでも被食者側の魔物との遭遇回数が多いことに変わりはない。ただし、全遭遇回数における捕食者との遭遇頻度は、こちらのほうが断然高い。特に、レッドキャットを多く見掛ける。
レッドキャットは群れを作らない魔物であり、ホレメリア付近にいたブルーウォーウルフと比べれば絶対的な個体数はそこまで多くない。
数は少なくとも特別討伐隊にとって難敵であることは間違いない。イオスとバンガン抜きにレッドキャットの数を減らすことは叶わないだろう。
「レッドキャットがいると、足を止めざるを得ないので辛いところです」
よほど大きな大群を見掛けない限り、被食者は大半を無視して素通りしている。後々、特別討伐隊が狩ってくれるだろう。
我々の手で魔物の数をあまり減らしまうと、後方から迫りくる特別討伐隊に追いつかれてしまう。かといって残しすぎると特別討伐隊が倒しきれなくなるから難しいところだ。せっかく優秀なハンターがいても、指揮官が盛大に足を引っ張っているせいである。
我々が優先して狩っているのは、特別討伐隊に大きな被害をもたらしそうな捕食者側の魔物。特にレッドキャットはただ倒すだけでなく、一旦生け捕りにしてソボフトゥルで情報を抜き出している。この作業に時間を取られる。
私の予想通り、ソボフトゥルは魔物にも有効だった。しかし、せっかく手間暇かけて情報を調べても、レッドキャットは肝腎のツェルヴォネコートの位置を把握していない。
無駄に時間だけを浪費することになっている。
「全数調査はやめて標本調査にしましょうかねえ」
出会うレッドキャットの全ての個体を調査するのではなく、五頭に一頭とか、十頭に一頭を抜き出して調査するのなら、必要時間は大幅に削減できる。
「いっそのこと、大森林にぶつかるまで調査はやめにしてもいいんじゃない? この近辺にツェルヴォネコートがいないことは間違いないよ」
「確かにそうですね。いつの間にか調査することを前提に物事を考えてしまっていました」
「そうしよう、そうしよう」
レッドキャット生け捕りに見切りをつけると決めたことにより、私の心には隙が生じてしまったのかもしれない。
パーティー前方を歩かせているフルルの静音行動に失敗し、足元の枯れ枝を派手に踏み抜いて大きな物音を立ててしまった。
バキン、という乾いた音が森の中に響き渡り、それを聞きつけた一頭のレッドキャットがフルルに視線を向ける。
今のフルルは幻惑魔法で人間の姿に変わっている。レッドキャットからすると、人間など二本足で歩き回る食肉のようなものである。そうでなくとも好戦的な魔物で、非空腹時でも我々の姿を見つけると果敢に襲い掛かってくる。それがレッドキャットという魔物なのだ。
そのはずが、このレッドキャットはフルルの姿を見て明らかに動揺していた。腰は引けて、尾を丸め、じりじりと後退っている。
妙なことこの上ない。特別臆病な個体なのだろうか?
体格や内在魔力を見る限り、他のレッドキャットと変わらないように見える。大きな負傷も外から分かる疾病もなさそうだ。
挙措のおかしなレッドキャットを見つけてしまったことで、たった今決定した事項を覆すことになる。
レッドキャットに見据えられているフルルは動かさず、別の手足をレッドキャットの背後に回り込ませる。
細心の注意を払って隠密に動かすも、極限に張り詰めた警戒心を発揮するレッドキャットはその気配すら察知したのか、それとも動かぬフルルに対して抱く恐怖に耐えられなくなったのか、後ろを向いて駆け出した。
あのレッドキャットはおかしい。他のどのような魔物を逃しても、あのレッドキャットだけは逃すべきではない。
レッドキャットを全力で追跡する。
「な、何を追っている……」
突然に始まった追跡劇にラムサスが事情説明を求める。説明される前から「追跡している」ことは分かっているようだ。
「追っているのはレッドキャットです」
「レッドキャットはもう調査しないって言ったばかり」
追跡中のレッドキャットの特殊性をラムサスに簡潔に説明する。
「変装魔法がかかっているフルルを見て逃げ出した。怪我や病気もなさそうなのに……。そのレッドキャットは人間を恐れている?」
「そのようです。不思議ですよね」
「リブレンには特別討伐隊の余り者がいる。彼らだと、レッドキャットに強い恐怖を刻み込めるとは思えない」
強い魔物を討伐するには、ハンターに高い戦闘力が求められるのは事実。しかし、ハンターは狩猟方法次第で自身よりも圧倒的に強い魔物を討伐することができる。罠を駆使するとか、囲い込みをするとか、毒を用いるとか、ハンターならではの狩り方でレッドキャットを討伐できる。
ハンターの魔手から辛くも逃れた個体が、人間とは恐ろしいものだ、と学習する。それもまたあり得る話だ。しかし、ここまでそんなレッドキャットには一頭たりとも出くわさなかった。余り物達は、陸すっぽ活動していない。
この場所にいるレッドキャットが人間に対して恐怖を抱いているのは腑に落ちない。この一頭が隠し抱いた真実を確かめておいても損はない。
「レッドキャットに恐怖を刻み込む。特別討伐隊以外だと、どのような人間がそんなことをしうるでしょうか?」
「今回の大氾濫とは関係なく、それよりも昔に、ハンターと戦ったことがあるのかもしれない」
「そうかもしれません。それ以外だと……」
ラムサスの額に汗が浮かぶ。
「ドラゴン出現と関係のある人間」
「私もその可能性を考えています」
マディオフを襲う災厄。事態の発端はドラゴンの出現だ。裏舞台はともかく、表舞台ではドラゴンが起点となって始まった流れである。
裏舞台の真相によっては、このドラゴンが人間の悪意によって召喚されたものでも不思議はない。
ドラゴンを降臨させるために大森林を訪れた人間が道すがらレッドキャットを屠るのは必然だ。
私の敵である異端者はゴルティアと濃厚に関わりがある存在。そのゴルティアはドラゴンの出現を予測していた。
ドラゴンに干渉した者を調査することで、異端者の正体が一気に判明するかもしれない。
異端者と"干渉者"が無関係だったとしても、ドラゴンに影響を及ぼす存在を放置などできない。無理に倒すことまで考えなくともよい。倒すどころか、歯が立たない強さかもしれない。先ずは正体を探っておくことだ。
「深追いすると、ご本人か、下手したらドラゴンが飛び出すことになる」
「そこまで長い追走劇を演じたくはないですね」
とは言ったものの、レッドキャットの脚は速い。アンデッドの足で短距離走をしたところで到底及ぶ速度ではない。
レッドキャットの脚が保つのは極短時間に限られる。偶蹄目を追いかけているのではないのだ。中時間を見据えてアンデッドの足で追えば、必ず追い詰められる。
焦って追い方を誤り、長時間追跡する羽目にならないように気をつければいい。
方針を固めてレッドキャットを追跡する。追いかけるレッドキャットの先に待ち構えているものの大きさを考えると緊張が走るというものだ。
前を走るレッドキャットの逃げ脚は、見込みよりも速くない。これはあまり好ましくない成り行きだ。
全速力で駆けて、短時間で疲労してもらいたかったのだ。ダラダラと軽速歩をされると、厭わしい長時間追跡になってしまう。
リスクを取り、こちらから仕掛けることにする。
フルードとリジッドを駆けさせてレッドキャットの左右両方の斜め前方に配置する。ブルーウォーウルフ二頭が所定の位置に着いたところで、ヴィゾーク達を使ってレッドキャットの進路前方に攻撃魔法をばらまく。
目標は討伐ではなく生け捕り。クレイスパイクにあまり魔力を籠めてはいけない。
低威力のクレイスパイクの雨がレッドキャットの眼前に降り注ぐと、レッドキャットは堪らず進路を右斜めに変える。その方向にはリジッドが待ち構えている。
レッドキャットの進路を制限するため、広く魔法をばら撒いてリジッドに向かって真っ直ぐ進むように調整を繰り返す。
絶え間なく降り注ぐクレイスパイクの一発がレッドキャットの身体に命中すると、レッドキャットの速度が俄然増した。胴体は激しく伸び縮みを繰り返し、正真正銘の全力疾走だ。
この走り方ならば、すぐに疲労困憊になる。追跡はじきに終わる。だが、せっかく隊形を整えたのだ。じきに、と言わず、直ちに終止符を打ちたい。
魔法の手を止めずにきっちりとレッドキャットを誘導する。
疾駆するレッドキャットがリジッドとぶつかる、その直前を狙い澄ました一発のクレイスパイクが場に落ちる。
レッドキャットは急減速、急速方向転換してクレイスパイクを躱し、クレイスパイクは地面に突き刺さった。
一瞬速度の落ちたレッドキャットにリジッドが飛びかかると、レッドキャットは激しく牙を剥いた。
レッドキャットにとってブルーウォーウルフは格下の魔物。生者であろうがアンデッドであろうが序列は変わらない。
格下に襲いかかられて激怒したレッドキャットは逃げることを忘れ、もつれ合ってリジッドに力ずくで序列を叩き込む。
並外れて優秀だったリジッドとはいえ、アンデッド化により力が衰えている。種の中では並に過ぎないレッドキャットの一個体を力で押し返せない。
しかし、リジッドに任されているのは足止めだ。爪で身体を引き裂かれ、牙が喉に食い込もうとも、乾いて久しいアンデッドの身体からはいくらも血が流れない。呼吸をしていないことから、窒息もまた起こらない。
リジッドの首元に噛み付いて組み伏せるレッドキャットに追いついた我々本隊が一斉に魔法を放つ。慌ててリジッドを吐き捨てて飛び退いたところでときは既に遅い。
避けきれなかったいくつもの魔法が身体を直撃する。火を操る魔物に相応しい耐性を有しているらしく、ヒートロッドでは身体を貫けないものの、クレイスパイクの一本がレッドキャットの片足を打ち砕くと、動きは急激に鈍る。
続けざまに放つクレイスパイクによって散々に負傷したレッドキャットが地面に倒れ込んだところで土を伸ばし、血塗れの身体を飲み込んでいく。土がレッドキャットの身体の大半を覆い、自由を完全に奪ったことで捕獲は完了した。
動けぬレッドキャットに手を伸ばして魔力吸収魔法を行い、魔力回線を占有した上でドミネートをかけて支配下に置く。
レッドキャットの身体から、全身に駆け巡る痛みが伝わってくる。痛みだけではなく、恐怖や憎しみといった負の感情が止め処なく私の脳に伝わる。
怪我は重く、このまま放置すると死んでしまう。このレッドキャットの持つ重要な情報の量が多ければ多いほど、調査完了までに長い時間を要する。先に手当を行うべきだろう。
レッドキャットに鎮静魔法、鎮痛魔法、回復魔法をかけてやると、負の情報は急減していく。
「治してしまうの?」
ここまでレッドキャットは適度に弱らせてソボフトゥルを使ってきた。それを回復させるものだから、ラムサスは戸惑っている。
「予定よりも深手を負わせてしまいました。放っておくと死にます。一旦回復させてから、改めて安全に弱らせましょう」
「怪我させて治して弱らせる。矛盾を繰り返している」
「矛盾ではなく手間暇です……」
ラムサスは危険な瀕死状態と、安全な仮死状態の違いを正確に理解していない。多発外傷を放置すると失血か心臓麻痺によって急死する。
魔力と時間を費やすのは先行投資だ。調査中にレッドキャットが死んでしまっては目も当てられない。長時間を見越して、安全な仮死状態を作り出すのが確実だ。
「矛盾しているくせして、回復魔法は相変わらず上手い」
レッドキャットの傷の塞がり方を見て、ラムサスは呆れるとともに感心している。
ドミネートした状態だと、見た目と体感の両方から回復具合が分かるので便利である。
危機を脱して状態が安定したところで、レッドキャットの口に中空の管をあてがい、管を飲み込ませる。
土魔法と変性魔法を駆使することで作成できるようになった柔軟性のある管だ。十分長く飲み込んだところで管の中に一匹の光り油虫を走らせる。
目ざとく油虫を見つけたラムサスが顔を引き攣らせている。嫌なら見なければいいのに、なぜか彼女は管の端から入り込んでいく油虫を凝視している。
管の中を走って端まで辿り着いたところで辺りを見回す。管は気管ではなく、上手く胃の中に入ってくれたようだ。健康な胃粘膜の襞が見える。
管の端が胃内に留置できたことを確認して油虫を回収し、今度は管を通して胃の中に水で溶かしたビービーを注入する。
ビービーは致死毒ではない。仮死状態の一歩手前、深昏睡状態に落とすための薬だ。
レッドキャットが何の毒に耐性を持ち、どの薬が有効なのか分からない。取り敢えず人間とイエネコに共通して有効な物質を選択する。
今回選んだのは、ベタブルガリス抽出物質と精製尿、塩から合成した薬だ。
少量であれば睡眠薬として作用する。ただし、耐性形成と身体依存の面から、睡眠薬として処方するのは全く不適当な物質だ。
ベタブルガリスは大量に生産されている農作物で希少性がないとはいえ、薬の状態にまで加工するのはそれなりに時間がかかる。しかも、レッドキャットのこの巨体。
昏睡に必要な薬の投与量は体重に比例する。ここで使用した量を後から補充することを考えると、それだけで憂鬱になる。これで、レッドキャットがこの物質に耐性を持っていた日には辛すぎて泣きたくなる。
イエネコに効くのだから、科からして無効ということはないはずだ。頼む、効いてくれ。
私の想いが通じ、ビービー投与から二十分ほど経過したところでレッドキャットは昏睡に陥った。
これでレッドキャットがこの物質に先天的な耐性を持っていないことは確認できた。つまり、ツェルヴォネコートにも有効な可能性がある。
有効成分が加熱により失活すること、身体が一際大きいツェルヴォネコートには今回用いた以上に大量投与を要することから、討伐時に用いるのは非現実的である。役に立たない知識が一つ増えた。
「出番ですよ、サナ」
「何でこんな眠らせ方をする必要がある」
これまでのレッドキャットとは全く違う手順で調査の用意を整えられ、ラムサスはご立腹だ。
ラムサスが怒っているのは時間がかかったせいでも、薬を用いたせいでもなく、油虫が視界を出入りしたせいだろう。
「時間を十分に設けるためですよ。一時間は保つはずです。余す所なく調べ尽くしてください」
酸っぱい顔をしたラムサスの前に、人型の魔力がジワジワと滲み出るように現れる。ソボフトゥルだ。
ポジェムニバダンもソボフトゥルも内包する魔力の量は多くないが、質は他のどんな魔法とも異なる奇怪で不気味なものだ。
ソボフトゥルは標的に見られてしまうと消えてしまい、一定時間再召喚できないと言う。標的以外なら見られても問題ないというのは不思議な制約だ。
私やアンデッドに見えているのが"真の姿"ではなく、"魔力そのもの"でしかないからなのかもしれない。
何を調査すればいいか、ラムサスは私に尋ねない。尋ねずともラムサスは全て分かっている。
私はただ待っていればいい。待ちながら、大量に消費した薬補充でもしていればいい。地道に、少しずつ……
◇◇
作業をして時間を潰すことしばし、ラムサスが一つ息を衝いてこちらを振り向いた。その顔はとても自慢げだ。成果を語る前から、「褒めろ」と目が語っている。
「いい情報が入手できたみたいですね」
「その逆。悪い情報だけが沢山集まった」
悪い情報を得意になって語るラムサスの言葉に傾注する。
このレッドキャット、仮にジーモンとでも呼ぼう。ジーモンはつい最近まで大森林内部で暮らしていた。ドラゴン出現後も、魔物の減った大森林で悠々と過ごしていた。
たまに目にする、空を舞うドラゴンから怯えて隠れることが必須なだけで、スタンピード後の大森林は、縄張り争いに負けがちな若いレッドキャットにとって、スタンピード発生前よりも住みよい場所になっていた。
快適な大森林を楽しむジーモンの生活が変わったのはおよそ一週間前。レッドキャットの日付感覚は曖昧なため、人間の一週間前と正確に一致しているかは分からない。少なくともここ二、三日の話でなければ、一ヶ月も前のことではない。とにかくおよそ一週間前だ。
一週間前のある日、大森林南方を歩いていたジーモンは、五人の人間を見掛けた。吸血種ドレーナやゴブリン、オーガなどではなく、間違いなく人間。ゼトラケイン人なのかマディオフ人なのか、人種まではレッドキャットのジーモンには分からない。
初めて見る人間を餌と判断したジーモンは人間に襲いかかった。しかし、ジーモンは返り討ちにされる。人間達の操る剣に屈したジーモンは、深手を追う前に逃げだした。
若い個体に長距離の移動はつきもの。人間に敗北したのを切っ掛けに、逃げて逃げて辿り着いたのが現在の場所、ナフツェマフ東方。
同種をチラホラ見掛ける、ということは、人間がいないのだろう、と考え、この場所で新生活を送り始めたばかりであった。
「せっかく大森林から引っ越して来たのに、引っ越し一週間で人間に再会してしまうとは、哀れなレッドキャットもいたものです。ま、少なくともジーモンと目が合ったフルルはディスガイズで扮していただけで、人間ではありませんけどね。ツェルヴォネコートについては何か分かりましたか?」
「ツェルヴォネコートは大森林の中央部に座している。ツェルヴォネコートを見掛けたことがあるのは、スタンピード以前の話。今どこにいるのか、ジーモンは把握していない」
「ツェルヴォネコートが大森林の真ん中、自然魔力の最も濃密な場所を占有している、というのはハンター一般常識の通りです。今もそこにいるかは、レッドキャットを含めて誰も分からない、ということですね」
「そういうこと」
ジーモンが戦った人間は、特別討伐隊ではない。特別討伐隊の中で、レッドキャットと渡り合える前衛はロブレンかラオグリフくらいのものだ。
ラオグリフは剣を使わない。可能性があるのはロブレンだけ。ロブレンはイオスと同じ組に所属している。ジーモンが水魔法の記憶を持っていない、ということは、その五名の中にイオスが居ないことを意味している。
それに、特別討伐隊の現在位置は我々よりも西方のはず。特別討伐隊が我々を追い越して東側の大森林の中にまで足を踏み入れるとは考え辛い。
「一つ気になるんですけど、ジーモンは人間とドレーナの区別がつくんですよね?」
「人間を見たのはそのときが初めて。ドレーナは何年も前に見たことがあるみたい。レッドキャット全般が、人間とドレーナの見分けをつけられるかは分からないけど、少なくともジーモンは両者の違いを理解している」
何年も前……。ゼトラケインの王、ギブソンなのか、それともまた別のドレーナが大森林に出入りしていたのか。
私以外にも、活動的なドレーナがゼトラケインに居るものらしい。
「大森林の南西部を掠めて、そこからすぐに南下するわけにはいかないようです。一旦中に入る必要性が出てきました」
「水先案内人の大森林探索経験は?」
「ありません。初探索ですよ。敵がどんどん増えますね。大森林の魔物がいて、後ろからは特別討伐隊が追いかけてきて、大森林に突入すると、ツェルヴォネコートがいるかもしれなくて、ドラゴンは間違いなくいて、そして新たに謎の人間五名が待ち構えている、ときました。見回すと、四方八方全て敵、という状態ですね」
「まだ、その五人が敵とは限らないけど、今の状況でどれだけ楽観的に考えても、私達の味方になってくれるとは――」
「思えないですよねー」
レッドキャットはそれ以上有益な情報を持っていなかった。薬の効果時間を短縮するために解毒魔法をかけ、レッドキャットが目覚めるまでの間、人間達の正体を考える。
「ドラゴンを降臨させた"干渉者"、はたまた、ドラゴンの調査隊、異端者……」
「マディオフ人の可能性は低いとして、ゼトラケイン人か、旧ロレアル人、ゴルティア人……。ジバクマもオルシネーヴァも遠いよね」
「距離の話を持ち出すなら、ゴルティアだって遠いです」
「距離を物ともしない動機があるのは、断然ゴルティア人でしょ?」
「我々の知らないところで国の指導者達の方針が変わったのかもしれませんよ」
お国柄からして、ドラゴンに最も過剰な反応を示しそうなのがゴルティアだ。ゴルティア人が大本命なのは間違いないとして、その実、違った場合に驚かされそうなのが誰なのかを考えてしまう。
「ゴルティア人をかばってる?」
「ないない。むしろ私は大嫌いですよ。ゴルティア人こそが筆頭容疑者です。だからこそ、ゴルティア人以外、どの国の人物が忍び込んでいたら面白いか考えるのではありませんか」
「驚きなんて求めてない。私が考えるのは、どんな相手がいたらどう対応するか。そういうこと」
「精霊の座を除き、近隣諸国で一番危険な場所にいるくらいです。さぞ強い者達でしょう。私はギブソン一行ではないかと思っています」
「ドレーナなら変装魔法を得意とすることが多い。ジーモンが戦ったのは、人間に扮したドレーナだった可能性は確かにある」
「サナはゴルティア以外だと、どの国が怪しいと思いますか?」
軍略コンサルタントの意見を尋ねると、ラムサスは目を瞑って考えこむ。
「マディオフ人」
「さっき、自分で『可能性は低い』って言ったじゃないですか」
「低いとは思う。だからこそ、意外性があるのはマディオフ」
マディオフで何する者がここに入り込める。ハンターの実力者は全員所在が割れている。軍人の大半だってそうだ。
衛兵は知識不足故に分からないにしろ、王都の調査でも特別討伐隊から動向を窺ったときも、衛兵や近衛、王族に奇妙な動きは感じなかった。
では、所在の割れていない父ウリトラスならどうか、というと、ウリトラスは生粋の魔法使い。父が剣でレッドキャットを討伐するのは無理な話だ。
「お、ジーモン君の目が覚めましたよ」
仮死状態から復活し、目の覚めたレッドキャットの身体をゆるゆると動かす。
薬がまだ抜けきっていないのと、仮死状態になっていた影響と、私が与えた魔法のダメージの残りにより、レッドキャットの全身は強い脱力感と疲労感がある。
そんな弱った身体が、人間という敵を目にしたことで、激しく緊張し、全身に力が入る。
過剰な緊張は健康を害する。ジーモンの身体に鎮静魔法をかけ、緊張を和らげる。
「またコーム。好きだねえ、その魔法」
「なぜこの魔法を使ったのか理解していませんね。ジーモンはレッドキャットなんですよ。しかも人間に敗北した経験のあるレッドキャットです。それが今日また人間に攻撃され、捕獲され、気を失い、目が覚めてみたら周りには多数の人間とブルーウォーウルフ。これで警戒しなかったら嘘ですよ。もしも、サナがゴルティア人に襲われて、目が覚めたら縛られた状態で、周りには多数のゴルティア人がいる。そういう状況に陥ったら、緊張しませんか? 恐怖しませんか?」
「それは……恐慌になる」
魔法の意味を理解したラムサスは憐憫の情をもってジーモンを見下ろす。
コームによってジーモンの緊張は一旦解れるものの、彼にとって危機的状況であることに何ら変わりはなく、再びジワジワと恐怖が身を襲う。
かつてはフルードが通った道である。フルードは社会性の高いブルーウォーウルフだったこともあってか、我々といることに慣れるまでが早かった。
ジーモンは単独行動主義のレッドキャット。これは時間がかかりそうだ。
そこで、消毒した地面の上にフルードを寝転がらせ、仰向けになって腹を見せさせる。
「何やってんの……」
「『撫でて』というポーズです。飼い犬はよくやる姿勢です。知りませんか?」
「知ってる。私が聞いているのは、なんで今そんなことを始めたのか、ということ」
納得するまで動き出さない、というラムサスに先立ち、ルカにフルードを撫でさせる。
「わー、フルード可愛いねぇ。こちょこちょこちょこちょ」
フルードの身体のバカでかさが異彩を放っているだけで、完全に飼い主に甘える飼い犬と、犬を甘々に愛でる飼い主の構図である。
ラムサスの目には、ルカとフルードの行動が奇行にしか映っておらず、あからさまに蔑視を始める。ルカには笑顔でフルードを撫でさせたまま、真意を説明させる。
「こうやって撫でられたがるのは、自然界だと生まれて間もない幼体に限られています。子供が無警戒に戯れている場面は、それを見たものの緊張を和らげる効果があります。これは同種の生物に限った話ではありません。爬虫類ほどに遠種の魔物だと分かりませんが、ネコ科やイヌ科の魔物には広く当てはまります」
「ジーモンのストレスを緩和するために無邪気を装っているんだ」
「全部が演技ではないですよ。フルードのお腹の撫で心地は上々です。ほらほら、サナもどうです?」
サナは少しばかり逡巡してから、のそりとフルードに横にしゃがんでフルードの腹を遠慮がちに撫でた。
普段は好き勝手に撫で回す割に、撫でろ、と言われると撫で渋る。
「どう?」
「そんな、一撫でするだけで緊張度が半減するほどの効果はないですよ。こういうのはジワジワ効いてくるんです」
今のところ、ジーモンの緊張度は露ほども下がっていない。社会性の低い魔物だと、比較的効果が薄いのかもしれない。
「フルードはあんまり私に懐いてくれないなあ、ってたまに思ってしまう。でも、そもそもノエルが操っているんだもんね。懐いたらおかしいよね」
黄昏れた雰囲気で力なくフルードの腹を撫でながらラムサスがボヤく。
懐いていない、などということはない。フルードはそれなりにラムサスを受け入れていて、フルードと一番距離の近いラムサスの匂いを頻りに嗅ぎたがっている。
私の操作の集中力が落ちると、フルードは自分の感情に基づいて自然な行動を取る。耳の裏が痒いときに後脚で耳を掻く動作は、私が意識せずとも半自動的に行われる。
それと同じ勢いでラムサスの股ぐらにフルードが鼻先を突っ込んだ日には、大顰蹙を買うことになる。全部私のせいにされること請け合いだ。
ラムサスがフルードのそばにいるときは、それなりに気を遣っている。
「イヌみたいにペロペロ舐めてほしいんですか?」
「そうは言わない……」
「イヌやウルフに舐められると、時として感冒に似た症状を引き起こします。場合によっては肺炎になり、極稀に敗血症から死に至ります」
「大概は何も起きない」
「だからといって、無意味に危険を冒すこともないでしょう」
「世界で最も危険な場所の一つに行こうとしているのに、そういうことは気にする」
含意のある笑みを浮かべ、ラムサスがこちらを振り返る。
「世界は混沌としていて、矛盾に満ち溢れているものなのです」
「話を一般化して逃げた」
「ジーモンの身体にも力が入るようになってきました。五人を逃さぬためにも、そろそろ出発しましょう。消毒、駆虫は後回しです」
ジーモンの身体で一つ伸びをする。更に右前肢、左前肢と一つ一つ動きを確かめていく。まだ少し身体の違和感が残っているものの、歩くことに支障はなさそうだ。
水先案内人として、ジーモンにパーティーの戦闘を歩かせる。ジーモンの恐怖心が方位磁針であり、ジーモンが行きたがらない方角にこそ、その五人はいる。
「"五人"のコードネームを決めておきましょうか」
「それもそうだね。先に決めておかないと、いざ出くわしたときに符牒に困る」
命名力に優れると自称するラムサスは私に先んじて名前を付けようと頭を捻る。早いもの勝ちだとでも思っているのかもしれない。
「む、む、む……五芒星とか五角形ってどうかな」
「また安直な」
安直なときとこだわるときの差が顕著である。
「あんまり良くないかな?」
「ゴルティア人相手なら、古代語のほうが、都合がいいかもしれません。五角形改め、五角形にしましょう。安直さは変わらず、しかしてゴルティア人の注意は躱せるかもしれない」
「古代語だと都合がいい理由が分からない」
「現代でこそ我々は共通言語を用いていますが、ゴルティア人が住んでいた土地において古代用いられていた言語は、私やあなたの知る古代語と語族が違います。この先にいるのがゴルティア人だとして、彼らに『五角形』と言っても意味が通じません。よほど敵対民族の旧言語に精通していない限りね。逆に、『五角形』と言われて、意味が分かる人間は、この近隣諸国の人間かつ初等以上の教育を受けている可能性が高い、ということです」
「そうなんだ。それ、全然知らなかった」
過去の気付きを振り返り、今に活かすことを考える。
「昔、少しだけ似たような経験をしたことがあるんです。私に戦い方を教えてくれた師匠の一人が――」
「ベネンソン?」
「違います。名前はエヴァと名乗っていました。多分偽名です」
「イオスに言っていた、『ノエルが探している人物』のことだね」
「そうです。彼女は強いだけでなく、とても博識でした。ハンターでありながら、ハントと関係のない人間社会の深い部分、高度な部分をよく知っていました」
ラムサスは目を見張らせて話に聞き入っている。学問の話と違い、人間が絡んだ逸話には良好な食いつきを見せる。
「当時の私は闘衣の走りを覚えたばかりで、闘衣対応装備を持っていませんでした。エヴァはそんな私を見かねて、闘衣対応剣を買い与えてくれたのです」
ラムサスはそこまで聞くと、怪訝な顔を始めた。
「私達に装備を授けてくれたのは、マディオフの文化ではなく、エヴァを踏襲しただけ」
それは闘衣対応装備を与えた話に限らない。私のルカの操り方、特に喋り方などは、エヴァの影響を多分に受けている。
「それは否定しません。しかし、今重要なのは、そこではありません。私はエヴァから授けられた剣に『ヴィツォファリア』と名付けました」
「『撤退者』? どんな意味があってそんな名前を……」
「寝不足で気分が異常に高揚していたときに付けたので、なんでそんな名前にしたのか自分でも定かではありません。面白いのはここからです。何でも知っているはずのエヴァは、なぜか、『ヴィツォファリア』の意味を解さず、言葉の意味を私に尋ねてきました。私は彼女に『引き上げる者』と説明したら、彼女は何と答えたと思います?」
「変な名前、と答えると思う。少なくとも私ならそう言う」
「それが全然違ったのです。彼女は『成長を助ける者』という意味だと勘違いし、好意的に受け止めていました」
「……ノエルって、もしかしてエヴァのことが好きだったの?」
話の流れを切り、唐突な質問を投げかけられる。そんなことはどうだっていいだろう。
「私には絶世の美人に見えましたよ。そのときはね」
「……エヴァの気を引こうと思って精一杯の冗談を言ったのに、真面目に返事されちゃったんだ」
ラムサスは悪意なく私の心を言葉の刃物で滅多刺しにする。
「サナ、そういう心を抉ることは思っても言わないように」
「ノエルの人間時代のほろ苦い思い出か。ノエルの初恋の人は、『引き上げる』という説明の意味を『撤退する』ほうではなく、『引っ張り上げる』ほうだと思ったんだ。本当に古代語を全然分かっていない」
エヴァがゴルティアからマディオフに派遣された特殊工作員であれば、マディオフの現代社会に詳しいのに古代語までは知識が及んでいなかった説明がつく。ゴルティアの工作員かつ異端者の一人、というのは、とても分かりやすい話である。異端者という組織は、もしかしたら丸々ゴルティアの工作部隊なのかもしれない。
「五角形の中には、ノエルの初恋の人がいるかもしれない。エヴァはどんな顔をしている?」
「あなたが知る必要は……むしろ、知っておいたほうがいいか」
土魔法でエヴァの顔を複数作り出す。
「なんでこんないくつも……」
「エヴァには顔がいくつもあります。一つ一つ説明しましょう。あなたから向かって左の顔。これが、私が初めてエヴァを見たときの顔です」
「ふーん……。綺麗な人だね」
「その一つ右が、出会ってから一年後に見たときの顔、更にもう一つ右の顔は、出会いから二年後の顔です」
「なんか、骨格からして違う? 民族が変わったかのように違って見える」
同一人物と納得するにはエヴァの顔はあまりに変わりすぎている。特に最初の顔と一年後の顔の違いは顕著に過ぎる。
「一番右の顔。これも美人だけど、完全に別人」
「変装技術が世の中に存在する以上、『真の顔』などという自分の目を曇らせる固定概念は持たないほうがいい。ただ、真の顔に最も近い顔は、一番右の顔だと思います」
「話が見えてきたかも……。エヴァは幻惑魔法を使える。そういうことだね」
「その通りです。しかも、私が使う変装魔法とは作用が違う。エヴァの幻惑魔法はおそらく人間の男にしか効果を発揮しない」
「……男にだけ作用して、その人間の深層心理が描く"絶世の美人"を見せる、ってところか。じゃあ、この右の顔は?」
並んだ顔の中で、一つだけ趣の異なる右端の顔をラムサスはシゲシゲと眺めている。
「これはステラの目を通して見えたエヴァの顔です。私の土魔法の造形能力が低いために肌の質感を再現できていないのが残念です。実物はもう少し老いた肌をしていました。当時で四十前後といったところです」
初めてエヴァと会ったとき、ペトラはエヴァのことを『おばさん』と言っていた。あれには侮蔑の意味もあったかもしれないが、おそらく"見えたまま"を口にしただけなのだろう。
「初恋の人が四十前後……ぷっ」
ラムサスは嫌味ったらしい顔で笑い、土像と私を交互に見比べる。
「もし五角形にエヴァがいたら、倒せる?」
顔は笑いながらも、声には薄っすらと不安が混じっている。
「エヴァはミスリルクラスの剣士です。もしもエヴァと同格の強さの人間が五名いた場合、手がつけられない。我々は撤退者となって、脱兎の如く逃げるしかないでしょう」
私はエヴァとアッシュ以外のミスリルクラスの剣士を見たことがない。広域破壊力を度外視した対人剣の範囲で言うと、グレンはミスリルに匹敵するかもしれない。
私の手足の中で、エヴァやグレンに対抗できるのはシーワのみ。それでも守るのが精一杯で、シーワ単体で倒し切るのは無理だ。フルルやニグンだと防御に徹しても守りきることすら難しい。
シーワで一人を相手し、フルルとイデナで二人目を、ニグンとヴィゾークで三人目を、四人目をクルーヴァと私、五人目をフルードとリジッドとジーモンで相手をして……
「私の聞きたいこととは少しずれた回答。問題は戦闘力よりも、むしろノエルの精神状態。それは言っても仕方ない、か……。戦闘力に話を絞ろう。ミスリルクラス何人までだったらいける?」
「ミスリルクラスにも幅がありますが……」
敵の強さが全員チタンクラスであれば、どうとでもなるだろう。ミスリルクラスの人数が一人までならギリギリ。二人以上になってくると、傀儡操作者である私の脳内処理が追いつかない。ミスリルクラスの相手をするのは、極限に神経を使う作業だ。
「一人だと何とか。二人だと厳しくなってきます」
「嘘だよ。リリーバーにはミスリルクラスが四人いる。フルードも入れると五人の計算。それなのに二人しか相手できないなんて、おかしい」
ラムサスは手足の基本能力を知っていても、操作する私の負担までは理解が及んでいない。それに、魔法戦ならばともかく、剣は私の苦手分野だ。呼吸するように剣を振るえるものであれば、手足何本も同時にミスリルクラスの剣士の相手をさせられるかもしれないが、私には無理な話である。
「我々は剣が得意ではないのです」
「こんなに強いのに?」
「本物のミスリルクラスの剣士を見たことがないからそういう感想になるのです。ミスリルクラスの剣士とミスリルクラスの魔法使いが戦うと、戦闘環境にもよりますが、基本的に剣士が勝ちます。我々は魔法使い中心のパーティーであり、本当に強い剣士複数人と同時に戦うのは無理があります」
ラムサスは、頭の痛そうな顔で悩み始めた。敵が強いと倒せない、なる旨を宣告されたのだ。軍略コンサルタントとしては悩みもするだろう。
五角形に会ったときのことを相談しながら、ジーモンに先導されて我々は東へ進む。
大森林の南西端は、もう目の前まで近付いていた。
架空の薬剤であるビービーの元ネタの物質は、アメリカでは製造中止になっています。日本では現在も入手可能です。
フィクション作品ではしばしばこれを自白剤として用いています。実際にこれで自白を強要できるのか検証した動画が過去、Youtubeにアップされていました。現在は再生できません。




