第八話 イオスの憂鬱 一
遠くの森の中から、パラパラと炸裂音が断続的に鳴り響く。勢子役を任された軍人達が行動を開始したのだ。
イオスは崖上の高台から、炸裂音の中心地点を眺める。
(この作戦で、どれだけのスヴィンボアを倒せるというのだ……)
イオスは心の中でだけ、大きな溜め息を衝く。
大森林より溢れ出した魔物の討伐を任じられた特別討伐隊。その運びは、順調とは言い難かった。
王都東の街、リブレンに呼び立てられ、足労させられるやいなや、遥か北西に位置するホレメリアへの移動を命じられる。最初からホレメリアに集合をかけていれば、どれだけの日数が短縮されたことか、と、要員の誰しもが考えたに違いない。イオスもまた、そう考えた一人であった。
しかし、イオスは分かっている。嘆いたところで何も始まらない。大多数を占める"使われる側"の人間は、"使う側"たるごく少数の愚かな人間によって振り回されるものなのだ。特別討伐隊においても、それが変わらないことは、リブレン到着時点で全員が理解している。
どれだけ文句を並べたところで状況は好転しない。選べるのは、国を救うために無能の下について特別討伐隊として戦うことか、国の命令など無視して特別討伐隊への協力を拒み、国が滅びゆくのを傍観することか、大きくこの二つである。
イオスも他の多くのハンターも、選んだのは前者だ。ミスリルクラスのイオスとバンガンが従えば、チタンクラス以下のハンター達もまた国に従う。
国から指揮を任されている飾り物の特別討伐隊隊長。絵に描いた無能の如きこの隊長が、ホレメリアの本部に黙って控えていてくれさえすれば、討伐はずっと捗っていた。
あろうことか、隊長は"やる気のある無能"だった。自らは何もできず、暗愚な采配しか振るわないというのに、なぜか前線に居座りたがる。
イオスとバンガンの二人を中心に、ホレメリア付近の魔物を一掃したまでは良かった。むしろ、二人が魔物を順調に倒しすぎたのが良くなかったのかもしれない。特にスヴィンボアはかなりの数を仕留めた。
討伐隊の成果に気を良くした隊長は、討伐の効率化を謳って隊を二つに分けた。
副隊長のグラジナが率いるバンガンのパーティーは、ホレメリア北東のアイスオーガとブルーウォーウルフの群れの討伐へ。隊長のカツペル・ヘディンが率いるイオスのパーティーは、ホレメリア東のスヴィンボア討伐へ。
効率化の名の下に、効率を最悪なまでに下げられた二つのパーティーは、人員被害の最小化を第一の目標に据えてフィールドを彷徨った。
第二の目標は、戦力分割が失策である、と隊長に理解させること。理解してもらえるまでは、パーティーの消耗を最小限に抑える。ハンターが欠けては、どのみち魔物の猖獗を許すことになるのだ。今は魔物の討伐など二の次。
ハンター、軍人、衛兵、特別討伐隊に所属する全ての人員の目標が一致をみた。無能な隊長の存在が、仲違いしがちな三者の結束を固いものにした。
現在、イオスのパーティーはスヴィンボアの大群を東に追い立てながら、ボアの個体数を削っている。日々、隊長には、そう報告を上げている。
実際はロクにボアを倒せていない。戦力分割する前の、バンガンが居た頃の影響で、ホードは黙っていても東へ移動を続けている。イオスのパーティーは、東へ移動するホードの後を追い、道すがら遭遇する、その他の大森林の魔物を討伐する。
ホードの中にはネームドモンスターであるビェルデュマがいる。イオス一人しかミスリルクラスのいない状況では、このネームドモンスターは倒せない。ビェルデュマを刺激せぬように、スヴィンボアには手を出さない。そんな日が、もう何日も続いていた。
スヴィンボア討伐の初期の初期から鳴らし続けた爆竹に、スヴィンボアはもう反応を見せない。
人間が市街で真昼を告げる鐘の音を聞いても、「飯時か……」程度にしか思わぬのと同様、スヴィンボアが爆竹の音を聞いても、「無害な人間が近くにいる」くらいにしか考えていないことであろう。
爆竹が炸裂する横で欠伸をするスヴィンボア、という悲しい光景を目にした隊員は何人となくいる。
今日の、この追い込み狩猟にしたって、誰も何の成果も期待していない。期待に心躍らせているのは、ハントのことどころか、世の道理を何も分からぬ隊長ただ一人である。
隊員に負傷者が出ないことこそが最高の成果なのであり、爆竹がいくら鳴ろうとも、イオスの立つ高台の下を、恐慌を起こしたホードが通ることはない。
そのはずであった。
爆竹が鳴り始めてから少しの時間が流れた。イオスが待つのは作成失敗の笛の音だ。そんなイオスの耳に、『ホードが予定地点に向かった』ことを意味するホイッスルの音が届く。
「おっ。この笛の音を久しぶりに聞いたな~。今日は大漁だぞ!」
同じくホイッスルの音を聞いた隊長が、顔を綻ばせる。
本来、このホイッスルは、作戦が順調に進んでいることを意味している。そういう意味では、隊長の発言は間違っていない。
ただし、隊員にとっては意味が違う。
今日の作戦は、昨日や一昨日、三日前と同じく、失敗する予定だったのだ。失敗するはずの作戦が成功する。
それは即ち、想定外の事態が生じていることを意味する。これで、スヴィンボアが自発的に移動を開始したのであれば、必ずしも大きな問題にはならない。新しい餌場を求めてノロノロと移動するのは珍しいことでも何でもなく、それは必ずしも隊員に被害をもたらさない。
だが、ホードが狂乱に陥り、無我夢中で逃走しているのであれば、討伐隊は穏やかではいられない。素早く駆けるスヴィンボアは、それだけで危険な存在なのだ。隊員の大半は、体当たりを一撃受けるだけで、大ダメージを免れない。辛くも耐えられるのは、チタンクラスの前衛くらいのものであろう。
(隊員の被害を最小限に食い止めなければ……)
スヴィンボアの討伐よりも、優先すべきは隊員の安全を守ること。最善手を求めて、イオスは深く思索する。
思考は止めずにホイッスルの音の発信地点に目を凝らすと、イオスの横に立つ隊員の一人が誰にともなく漏らす。
「あの爆風、ビェルデュマの魔法だ。一体何と戦っているんだ……」
イオスとバンガンがビェルデュマと交戦を数回重ねたことで、隊員達はビェルデュマの操る風魔法に少々の理解がある。遠目の利く隊員の一人が、森の中で展開されるビェルデュマの風魔法を発見した。
「誰か一人上空に弾き飛ばされた!」
「あの高さから地面に叩きつけられては……」
大きな喚声が上がり、遠方視力にはさして自信のないイオスも、再度目を凝らす。すると、空中を舞うボロ布のようなものがイオスの目にも見える。
「人間と戦っている、ってことは、バンガンがいるんじゃない?」
上空で風に翻弄される人間を発見したシルヴィアが声を大きくする。
隊長抜きの隊員間だけで共有していた裏の作戦とは展開が異なるものの、バンガンの参戦によってホードが追い立てられているのであれば、表向きの作戦通りにスヴィンボアを大量に仕留めることができる。
「ホードが崖下に来る!!」
走り来るスヴィンボアの群れを発見した隊員の一人がイオスに振り向いて叫ぶ。
イオスは迷う。
安全策を取り、ホードを素通りさせるか、危険を冒してでも魔法を放ち、ホードに大打撃を与えるか。
「いけっ、イオスー!!」
一人だけ、現場の緊張を理解していない隊長が喜色満面にイオスに下知する。
イオスは、隊長警護の名目下、自分を守るためにここに残ってくれている隊員全員を見回す。バンガンがなぜ危険な追い込みを強行したのかはイオスにも誰にも分からない。強行するだけの理由が、森の中にはあったのかもしれない。
いずれにしても、現にホイッスルという形で成功の合図が出されているのだ。イオスが魔法を放てば、スヴィンボアを大量に討伐できる可能性が高い。
「危険なことになるぞ」
重く深いイオスの一言に、全員が頷いて同意する。妻のシルヴィアも、もちろん頷いている。
心を決めたイオスは魔力を練り上げる。イオスの魔法構築は、チタンクラスの魔法使いですら舌を巻いて瞠目する驚くべき速度。掲げた魔法杖の先、討伐隊の上前方に無数の氷柱が形作られていく。
ホードが崖下を通過するその瞬間、弓に番えられた矢が放たれるように、血を欲した氷の柱が崖下に勢いよく降り注ぐ。
恐慌に陥り視野の狭窄したスヴィンボアは、上方からの攻撃に備えも警戒もない。がら空きのスヴィンボアの背を襲う氷柱が、分厚い毛皮と肥え太った肉を容赦なく貫く。
ホードが突き進む道は、左右を切り立った崖に挟まれた狭路。走るスヴィンボアが降り注ぐ凶器に気付いたところで、逃げ場などはどこにもない。
後ろからは次々と同胞が押し寄せる。氷柱の隙間を縫って走れることを信じ、ただ前に進むことしかできないのだ。
極淡い青が一滴混ぜ込まれた、白くどこまでも澄んだ氷。それが何本も何本も落ちていく。氷が一つ、また一つと落ちていく度に、生命の象徴である深緋色が激しく飛び散り、美しく輝く魔法の氷の表面に見事な模様を描き上げる。
止まることを知らぬボアの群れは、氷に縫い留められた同胞の身体に牙を掠め、身体を摺りながら、猛烈な勢いで横を駆け抜けていく。
時にぶつかり、時には引き摺り、ボアの身体と地面を縫い止める氷柱が折れると、開いた空間めがけてボアが押し寄せる。
そこに再び氷柱が落ち、ほんの一呼吸足らずですり抜け遅れたボアが一頭、また一頭と身体を貫かれていく。
氷柱とボアの死体が複雑に交叉して進路を阻み、津波が如く猛進するボアのホードの後ろ半分は遂に駆ける脚を止める。
先行したホードの幸運な数割は、氷柱降り注ぐ崖下を抜け、人の気配の無い森の中まで抜けていった。
氷と死体が作る壁によって道を断たれたホードの後ろ半分は、進むべき方向も分からずに右往左往を体現し始める。
そこへまた一つ、勢子役の軍人が鳴らす指笛の音が届く。
「ビェルデュマがこちらに来るぞ!」
ネームドモンスターの到来を告げる指笛が、特別討伐隊の緊張感を一層高める。
(今の我々ではビェルデュマを倒せない。ならば、この機に少しでもモブの数を減らす!)
ビェルデュマが現れたら、一斉に多方向に逃げなければならない。一箇所にまとまっていては、良い標的になってしまう。
バンガン抜きのイオス単騎では、ビェルデュマを完全に食い止めることができない。イオスもまたビェルデュマ相手には、逃げるが最善の策となる。
ネームドモンスターの目の届かぬ場所で、少しずつ群れの個体を減らしていくしかない。今は、一挙大量殲滅のまたとない好機。逃走を余儀なくされるまでの暫時を惜しみ、イオスは魔法杖を地面に突き立てた。
イオスの練り上げた魔力は両腕を通って魔法に変換され、魔法杖を伝って地面を凍らせる。氷は地面を伝い、崖を伝って、崖下まで一気に広がっていく。氷の拡大はなおも止まらず、崖下で暴れ狂うホードの脚を絡め取っていく。
脚元の異常にスヴィンボアが次々に気付く。右脚が氷漬けになりそうになれば、右脚を上げ、左脚の下に氷が広がれば左脚を上げる。脚を二本上げても足りなければ、その場で脚踏みを繰り返す。そのうちに体毛が氷にへばりつく。
氷に包み込まれた体毛は、万力のごとく身体を強固に固定して、凍る地面から離れることを許さない。踏ん張るために脚に力を入れると、足は氷にズブズブと埋まる。動かせなくなった足のせいでバランスを崩し、身体を氷の上に倒してしまうと、もう二度と起き上がることができない。
右半身から倒れ込めば、右半身が凍りつき、左の口の端で呼吸し、左の脳で助かる術を考える。
全てが氷に包まれていく。自由に動く左目だけをキョロキョロと動かし、その目までが氷に包まれてしまうと、もはや思考すら凍りつき、ボアは完全に氷に閉じ込められたオブジェクトに成り果てる。
群れの仲間が次々と氷漬けにされていく中に、血まみれのビェルデュマが現れる。
前脚近位から胸腹部にかけて、槍状の何かが何本も突き刺さっている。明らかに異常な見た目。
槍をいくら投擲しようと、刺さるのは背部や体側部、臀部であり、胸腹部に刺突物が刺さっているのは常識の埒外。
その埒外を現実のものにしうるとすれば、バンガン・ベイガーの土魔法か、イオスの操る水魔法くらいしか、イオスには思い浮かばない。
(やはりバンガンが……。しかし、その割には、背部と体側部から激しい出血が見られる。あれはおそらく金創。ラオグリフと戦ってもこのような創は生じない)
バンガンのパーティーメンバーであるラオグリフはチタンクラスの前衛。彼が好んで扱うのは刃物ではなく鈍器だ。実力的に、ラオグリフではビェルデュマと渡り合うことはできないし、何かの間違いで良い戦いを繰り広げたとしても、鈍器がこのような創を作り出すことは決してない。
(ハンターで前衛としてビェルデュマとギリギリ渡り合えるのは、ミレイリぐらいのものだろう。そのミレイリは、この場にいない。ロブレンだって、こんなスタンドプレーには走らない)
ビェルデュマと戦っていたのは誰なのか。イオスは、チタンクラスの前衛ハンターを思い浮かべては、そんなはずがない、と否定する。土魔法の行使者がバンガンだとは推測できる。物理戦闘の担い手は、どうにも適当な候補が思い当たらない。
しかし、そんなことよりもまず考えなければならないのは、目の前に現れたビェルデュマに対応することだ。
残る全てのスヴィンボアを逃すことになったとしても、ビェルデュマだけは好きにさせてはならない。ビェルデュマに好き勝手暴れられると、特別討伐隊は全滅する。
氷の壁を破って崖下を突っ切るのであればそれでよし。無理に討伐に拘り、パーティーの傷を広げる必要はない。問題は崖上にいるイオス達をターゲットにした場合だ。
ビェルデュマの殺意が崖上に向いたときに備え、イオスは本日一番の魔力を練り上げていく。
そんなイオスら、崖上の人間をビェルデュマは一瞥だけして視線を外し、後は脇目も振らずに崖下を突き進んでいく。氷で足を滑らせても風魔法で身体を支え、とにかく前にひた走る。
既に崖下には、ホードの流れを止めるためにイオスが撃ち込んだ氷の柱が林立している。とはいえ氷柱が食い止められるのは、スヴィンボアのモブに過ぎず、ビェルデュマにとっては少し力を籠めて押すだけで薙ぎ倒していける簡易障害物程度にしかならない。
「数等でかいのがきた! でもボロボロだ。こいつも倒せっ、イオス!!」
(役に立たずともいい。せめて黙っていてくれ……)
ただ喚くだけであればイオスの集中の妨げにはならない。しかし、今ばかりは違う。下手に騒ぎ立てると、せっかくイオスを無視するビェルデュマの注意がこちらに向いてしまうかもしれない。
苛立ちながらもイオスは水魔法を練り上げる。ガワが大きいばかりで魔力が少ししか籠もらない、見せかけだけの魔法だ。それがハリボテであることを間近に居ながら見抜けない隊長は、手を叩いて興奮する。
イオスは見せかけの魔法を崖下に放つ。ビェルデュマに当たらぬよう、ビェルデュマの進路を切り開くように細心の注意を払って。
氷柱がイオスの制御の手を離れた瞬間、彼はビェルデュマの背後にピタリとつける影が一つあることに気付く。
巨体に見合わぬ軽快なビェルデュマの足音にかき消さるほど影の足音は小さいのか、影の走りは嘘のように静かだ。
(あれは一体!?)
ビェルデュマとそれを追走する影が、その場の人間全員の耳目を集める。
敵味方、人魔が一体となって見つめるその先目掛け、謎の魔法が飛来する。
(クレイスパイク!? かなり速い! 他にも魔法が放たれている。これは何だ。ファイアボルトにしては、少し形が……。森からまた別の魔法も飛んできている!)
弾速の違う三つの魔法が森の中から放たれる。一つの土魔法は崖の下に、もう一つは一本の光の筋を伸ばして崖下と崖上のちょうど真ん中を通過する弾道で飛んでいる。鈍い人間に知覚できるのは、その程度だったであろう。魔法の練達たるイオスは、二つめの魔法がただのファイアボルトではないことが瞬時に理解できた。それで十分だった。
イオスが二つ目の魔法の奇怪さを察知した次の瞬間、三つ目の魔法が先行する歪なファイアボルトに追いつく。謎のファイアボルトは眩い光と、身体の奥底までも震わせる爆裂音を放つ。咄嗟に腕で目を覆ったイオスが、恐る恐る薄目を開ける。
崖上を見回すと、隊長含め、全ての隊員が光に目を回し、行動不能に陥っている。しかし、崖上に迫る脅威や魔手は無いようだ。
イオスは再び崖下に視線を下ろす。そこには有り得ない光景が広がっていた。
まず、今しがたイオスが放った進路開通用の氷柱が砕かれていた。既に地面に突き刺さっていた氷柱は全て健在。並び立つ氷柱の手前で、ローブ服の者とビェルデュマが激しい戦闘を繰り広げている。
ビェルデュマの巨躯と並ぶことで分かりにくくなっているが、ローブの者も人間にしては大兵である。手に持つ剣は、これまたひどく大きい。上品かつ小ぢんまりと纏まりがちな現代の剣匠が拵えるとは思えない荒々しさと禍々しさを兼ね備えた、古代が匂い立つ大剣だ。
イオスの昔のパートナーであるミスリルクラスの剣士アッシュであっても扱えない、と即座に確信できる巨大な剣を、ローブの者は何度となく振り抜く。
銀閃が煌めくごとにビェルデュマの身体に真新しい創が刻まれていく。
(あんな剣士がこの国にいたのか!!)
久しく忘れていた驚嘆の感を覚えながら、イオスは剣士とビェルデュマの戦闘を見守る。
ビェルデュマは巨体に似合わぬ恐ろしいほどの速度で動き回る。その動きはボアというより小型の魔物であるラットやガゼルのように左右に激しいものである。そうかと思えばボアらしい猛進を見せて剣士に突進する。それらは全て風魔法の補助あっての動き。
ビェルデュマは直接攻撃よりも防御と支援に風魔法を使う。巨体と牙が何よりの攻撃手段であることを理解しているからだ。
四色の中で最も守りに優れた風魔法を防御と支援に使うのは、人間も真っ青の戦闘巧者である。
ビェルデュマが繰り出す攻撃は、破壊力そのもの。それを剣士は正面から受け止める。
体躯差を感じさせない信じ難い腕力と膂力、そして何よりイオスですら見たことのない強力な闘衣がビェルデュマの攻撃を押し返す。
魔物であればいざ知らず、ここまで力強い闘衣を使いこなす人間を見るのは初めてである。アッシュの特殊技能や爆発力とはまた違う、持続的にはたらきつづける剛腕。
剣と牙がぶつかり合うほどにボアは傷を負い、血は流れ、風魔法は弱く、闘衣は薄くなっていく。
対する剣士は超強力な闘衣を使い、見るからに重い大剣を振り回しているというのに、疲労して動きが鈍る様子も闘衣が細る様子も見られない。
よくよく見れば、ビェルデュマの風魔法は何度も剣士の身体を撃っている。牙はローブを幾箇所も引き裂いている。それでも剣士の勢いは衰えることを知らない。
剣士の動きには若さが漲っている。若さが意味するのは未熟さではない。古く聳える柱を不敬にも実力でへし折ろうとする若人の特権たる傲慢さだ。未熟さなどはなく、むしろ若さとは矛盾して老獪なまでに一手一手確実に命に近付く剣を撃っている。
剣が一つ、また一つと振るわれるごとに、イオスは自らの感情が昂っていくのを感じていた。こんな逸る気持ちは、大学で逸材を発見して以来のことである。
老いて第一線から身を引いたとはいえ、イオスもまた冒険者と呼ばれる人間の一人だ。高い水準で展開される戦闘を見て、触発されぬはずがない。
(もしも、あの剣士の動きと呼吸を読むことができれば、私も戦いに加勢できるというのに……)
一線越えの剣士と魔物の戦いには、さしものイオスも合わせなしに入り込むことができない。
未だ成長の余地を残した若い人間にとって、この戦いは目にするだけでも価値がある。そんな世紀の一戦を、光に目を回した者達は全く観られない。
口惜しさを感じ、イオスは崖上の隊員にチラと目を向ける。
強すぎる光を浴びて身体を赤子のように縮こまらせていた隊員達の中から、回復して身体を動かし始める者が現れ始めた。それと同時にビェルデュマは元きた方向へ逃げ出し始める。
(加勢するならば、ここしかない!)
イオスは既に構成を終えて宙に浮かべておいた大氷柱をビェルデュマの進路目掛けて撃ち放つ。ビェルデュマだと、風魔法で簡単に躱してしまう。そんなことは分かっている。
それでも何かせずにはいられない。逃げるビェルデュマを追いかける剣士は、ビェルデュマから数歩遅れている。イオスの魔法が誤って剣士に当たることはない。
せめてビェルデュマの逃走速度を少しでも落としたい。そんな意図で水魔法を放った直後、イオスはふと疑問を感じる。
ビェルデュマは剣士から逃げて崖下に来た。崖下を通り抜けるはずが、氷の柱が織りなす障壁に阻まれて剣士に追いつかれた。
(では、なぜしばらく崖下でそのまま戦った? 守るべき群れの仲間は氷漬け。剣士よりもビェルデュマのほうが、足は速い。来た道を遡って逃げるだけで剣士を振り切れる。ビェルデュマが逃げていたのは、剣士からではなく、また別の……)
魔法を放った直後に根拠なく不安になるのは、ままあること。イオスが今浮かべた思考は、いわゆる一つの雑念に過ぎなかったのかもしれない。
その答えはすぐに出る。イオスの水魔法が放たれた直後、森の中から魔法が複数飛び出してきた。走るビェルデュマから見て、右前方から一柱、左前方から一柱の巨大な土の槍。イオスの氷柱にどことなく似た雰囲気を持つ土槍が、ビェルデュマ目掛けて襲来する。
左右から土槍、後方から剣士、後方上空から大氷柱。これでビェルデュマはどの方角にも逃げられない。少なくともいずれか一つ以上の暴力をその身に受けることになる。
魔法を嫌気したビェルデュマは急制動をかける。止まってしまえば、捌かなければならないのはローブの者の剣だけだ。剣に応戦することが生存確率を最も上げると踏んだのだ。
(ここからどうぶつかる!?)
振り返ったビェルデュマは身体を覆う闘衣の密度を最大に引き上げ、風魔法を剣士に撃ち込む。
万物を吹き飛ばしてもおかしくない暴風を身に受けても剣士は前に走り続ける。
剣士が尋常ならざる闘衣を使いこなすことも、巨大な剣を振り回すことも、驚愕でこそあれ、理解の及ばぬものではない。理解が及ばないのは、風魔法への対応だ。万人が吹き飛ばされるはずの風の巨拳に、剣士は何度も殴られている。それなのに、剣士の身体は吹き飛ぶことも体勢を崩すこともない。
剣士の戦う姿は、まるで足が地面に根を下ろしているかのようであり、揺るがぬ安定感で大剣を振るうのだ。しかも、安定感とは矛盾した機敏かつ軽快な動きもまた同時に見せる。
(風を抜ける能力。そんなスキルや魔道具が実在するのかどうか分からぬが、それに類いした何かを持っているのか……)
イオスがそう考えてしまうほどに剣士は安定した走りでビェルデュマに近付いていく。
ビェルデュマには、前後左右に逃げ場がない。真正面から剣士にぶつかっていく。剣士もまたビェルデュマの突進を躱さない。身体を少しだけ捻り、巨剣を横に大きく回転させる。剣身は、必殺スキルの発動を予感させる逼迫した光を放っている。
光り輝く剣が扇状の軌跡を描き、気高きボアの鼻先に触れた瞬間、圧縮に圧縮された暴力が爆発する。巨剣という名の狭き牢獄から解放され、行き場を求めた無垢な力の奔流がビェルデュマの身体に殺到する。触れるもの全てを殴り潰す強すぎる力がボアを襲い、押し負けた巨体は敢えなく後方に突き飛ばされる。
後方に待っているのは、イオスの放った大氷柱と、二本の土槍である。逃れようとした魔法の交点にビェルデュマの身体は押し返され、三本の力がボアの身体に突き刺さる。
左右斜めから土槍がビェルデュマの身体を貫いた直後、身体の中心に大氷柱が突き刺さる。ビェルデュマの身体を超える大きすぎる氷柱は、ボアの身体を貫くことなく威力で肉を押し潰す。
氷柱はボアの脊柱を圧壊し、内臓を破裂させるだけでは終わらない。土槍を折り、地面を抉り、赤い水を周囲に散らして、やっと動きを止めた。




