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第一話 三度目の戦いの後に

 三章以降の内容は、サイトのガイドラインに抵触するおそれがあります。ガイドラインをいくら読んでも、実際に自分の作品が抵触「する」のか「しない」のか判断がつかなかったため、このまま連載を続けます。


 不適切な描写がある、と運営から警告された場合は、該当箇所だけでなく作品全てをミッドナイトノベルズに移行します。

 陰国マディオフの深夜は、盛夏であっても陽国ジバクマの余寒よりもなお寒い。十の影が並ぶこの小広間を包む凜とした冷気は、剣と打棍を交えた後の身体を鋭く冷やす。


 影は十なれど自らの意思で立つのは、そのうち三つ。三つのうちで唯ひとつ、憎悪と憤怒に燃え(たぎ)る影だけはマディオフの冷気に曝されても冷めることがない。


「素手で聖なる強撃(ホーリーバッシュ)を放つとは、思いもよりませんでした。ですが、あれは相手がアンデッドの場合に限り卓効を奏するものです。私の顔に叩き込んだところで、普通に打ち込まれる拳と違いはありません」


 母の打棍はアンデッド化した私の右手にあり、母は無手。勝敗は決したと判断し、勝利を宣言した。……が、母は何も応えない。虚しい私のひとり語りになってしまっている。


 怒りの熱に遮られて、私の言葉は母の脳まで届いていないのだろうか。


 それはきっと違う。


 母がどうこうではない。私が急いてしまっている。


 四半世紀にわたって母を苦しめておきながら、自分の都合で唐突に始めた説明をたちどころに了解してもらおうとは、我ながらあまりにも身勝手ではないか。


 母の反応を待ちながら、ボンヤリと自分のことを考える。




 傀儡を介さずに自分の口で人と話すのは数年ぶりだ。


 立て続けにマディオフを襲う国難が私の背中を直押(ひたお)しに押さなければ、私は未だに仇讐探しを口実にして母への懺悔から逃げ回り、沈黙を続けていただろう。


 声を発するのが久方ぶりすぎて上手く言葉を出せるかどうか自信が無かったが、存外に通る声が喉から出てきた。


 私の声はルカの耳で問題なく聞き取れた。訥弁(とつべん)でもなければ嗄声(させい)でもない。必ず母の耳にも届いている。聞く耳さえ持っていれば……。




 落ち着いて聞いてもらえる話ではないと分かっている。それでも、おそらくこれが最初で最後の機会だ。気を鎮めるためにあらゆる手を尽くすしかない。


 まず、立ったまま、というのは、対話において好ましくない。立位保持はそれだけで肉体に一定の緊張をもたらし、同時に心の緊張緩和を遠ざける。


 心を落ち着けるには、まず肉体から。ここは是非、母に着座してもらいたいところだ。


 別室から椅子を持ってくるのはどことなく格好がつかない。かといって土魔法で椅子を作り上げても、血走った目の母が腰掛けてくれるとも思えない。




 ()の整え方を思案していると、母がやっと口を開く。


「私の息子を(かた)るな、アンデッド!!」


 悲痛な叫びが胸に突き刺さる。


 しかし、痛みにかまけることは許されない。


 私の声は、確かに母の耳に届いていた。さて、では心には届くかどうか……。


 どこからどう話したらよいものか。


 ()()()以来、筋道立てた懺悔を何百回、何千回と考えていたはずなのに、こうやって本人を目の前にして、強い言葉をぶつけられると、説明の順序も心に訴えかける台詞も即座に遠く彼方へ飛んでいってしまう。


 私の心は十五の頃から足踏みを続けたままだ。


 用意していた言葉は失った。それでも私は語らなければならない。


 どんな切り口でどう話したら、“真実”を母に……()によって人生を台無しにされた、この人間に伝えられるだろうか。


「真実を証明する魔道具の使い勝手の悪さを、今ほど恨んだことはありません。私が話すことを信じてもらう他にありません」

「お前は……必ず滅ぼす!!」


 誰ひとりとして真の味方が得られぬ中で、母は数十年間孤独に戦い続けてきた。


 こうやって私と傀儡、そして協力者からなる九つの影に囲まれ、戦うための武器すら失っても、憎しみの炎には一片の翳りも見られない。


「あの晩、そして私が十四才を迎える前の年、計二度、あなたと戦いました。そして三度目の今日、初めて全力のあなたに勝つことができました。勝者への褒美として、私の話を聞いていただけませんか?」


 落ち着いて耳を傾けてほしいとは言っても、鎮静魔法( コーム )を弄して炎を形だけ上から下まで一時的に消し去るのは本意ではない。この炎こそが私の向かい合うべきものなのだから。


 世界で最も私の状態を理解している人間が母であり、だからこそ母は私を怒り、憎んでいる。しかし、そんな母ですら理解は限局的で、まだまだ足りていない。


 感情と向き合わねば真の理解は得られず、かといって燃え盛る感情は理解の妨げになる。


 性急となってはならないが、無駄な足踏みもしない。


 迷いながらでも、焦らず逸らず話を進めよう。


 ルカを操作し、首にかけたペンダントを鎧の外へ引っ張り出す。


「今夜、私がここに来たのは、あの晩の“真実”をあなたに伝え、懺悔するためです。本当はもっと早く来るべきだったのに、私にはそれができませんでした。あなたに再び絶望をもたらす覚悟も、あなたから向けられる怒りと憎しみに正面から向かい合う気概も、どちらも無かったのです。弱くて、臆病で、(ずる)くて、ずっと自分に言い訳して、責任からずっと逃げていました。あなたから授けられたペンダント、頂いてからたった数か月で私の手を離れてしまったペンダントを取り戻したら責任と向き合うと決めて以来、時間は流れに流れ、今日に至りました」


 怒りに身体を震わせる母に、どれだけ私の言葉が届いているのだろう。


 この家で暮らした一八年弱の間に私が見てきた“あの目”とは比べものにならないほどの激しい憎しみの炎が、母の目の中で燃え盛っている。あの日、私が(とも)した炎だ。


 エルザがいたら、母の手を握って慰めただろうか。父がいたら、母の肩を抱いて支えただろうか。


 生者の腕を失った私にはどちらもできない。たとえ腕があったとしても、私にそうする資格はない。


「私が自分の犯した罪を思い出したのはペンダントを頂いてからほんの数か月後のことです。この家を出て王都へ行き、そこで新しい人間に触れ、思いも寄らぬ事件に巻き込まれ……そんな中、私は自分の能力をひとつ思い出しました。あなたを苦しめる元凶になった能力を。その時からずっと分かっていたのです。あなたに会って全てを伝え、謝らなければならないと。しかし、私は責任から逃げました」


 現実逃避の一端がジェダの護送だ。ドノヴァンの影響があったにせよ、あの行為はジェダの守護を口実にして責任から目を背けていたにすぎない。


「くしくも記憶が戻ったその日に、私はペンダントを失いました。失ったペンダントを取り戻せるくらい強くなったら、あなたのもとを訪れる。弱い心に(そそのか)されるままに自分に言い訳して、犯した罪と向き合うことから逃げたのです。それから私は、それまで以上に強さを求めてもがきました。私からペンダントを奪ったのは、剣も魔法も私以上の男でした。まずはその男よりも強くなる必要がありました。男に挑戦しようと思えるぐらいに強くなるまでは四年かかりました」


 大学に在籍した四年間で私の戦闘力は飛躍的に成長した。


 グレンを相手に対人剣の訓練を積んだ。


 エヴァとダンジョンに潜り、対魔物の剣の腕を磨いた。


 ハンター最高の純魔イオスから魔法の技術を盗んだ。火と風の合成魔法の練達ブレアと、風魔法一本でブレアを一方的にあしらうイグバルも魔法の道標となった。


 教育と研究にしか役立たぬ機関かと思ったらとんでもない。自己強化に最適な場所のひとつだった。


「その時には大学卒業が目前でしたから、正式に卒業してから行動を起こそうとしていました。状況が一変したのはそんな時です」


 過去を語る私の脳裏にひとりのドレーナの笑みが浮かぶ。


 オドイストスは本当に期待に胸を躍らせていただけだった。それが、濁り曇った私の目には邪な嗤いにしか見えなかった。


「ゼトラケインからひとりのヒト型吸血種が私の前にやって来ました。その吸血種はセーレとギブソンの有名な英雄譚に憧れ、旅に出ることを夢見ていました。旅のパートナーとして、英雄譚になぞらえるように強いヒトを求めていたその者は、自国で相応しい人物を見つけられず、吸血種排斥を徹底しているマディオフへやって来ました。それはその吸血種の意志ではありますが、焚きつけたのは別の何者かです。吸血種も私も、何者かの計略の中にあったのです」




 アールとオドイストス、今となっては()()()()()だが、その二者を陥れた何者かを私は異端者(ヘレティック)の符牒で呼んでいる。


 異端者(ヘレティック)の手はゼトラケインにもマディオフにも及んでいる。


 一方ではゼトラケイン国内でオドイストスを(そそのか)し、マディオフに密入国する手助けをした。


 もう一方のマディオフでは、国内の吸血種対応にあたる軍の部署、防除部の吸血種監視隊にオドイストスの情報を流した。


 さらに、私を逮捕させるため、衛兵団の偽金捜査部も巻き込んでいる。


 逮捕されて“取り調べ”を受けた後は裁判だ。これも完全に出来試合だった。


 私も、我が身に降り掛かったことでなければ笑ってしまうほど、結審までの日数が短かった。


 あんなものは裁判でもなんでもない。どの罪状を真実と認定し、どれほどの量刑とするか最初から決まっていた、ただの茶番劇だ。


 脚本どおりに刑が執行された後に待っていたのは監獄内での“病死”ではなく、再会の道への解放だった。


 異端者(ヘレティック)は、そこから先も脚本を書いていたはずだ。


 私が脚本に明確に抗ったのは再会の道に解放された時が初めてだ。それまではずっと異端者(ヘレティック)の意に逆らう行動を慎んでいた。


 異端者(ヘレティック)はマディオフ国内において軍にも衛兵にも、そして司法にも強い影響力を持っている。人間のまま抗おうとするにはあまりにも強大な存在だ。


 異端者(ヘレティック)と事を構えるならば、ヒトであることをやめるか、少なくとも表社会から姿を眩ます必要がある。


 正直なところ、刑を執行される前に逃げる手段はあった。だが、量刑が私に脱獄を思い留まらせた。


 私の刑は死刑ではなく両腕の切断だった。


 なぜだ?


 私が邪魔ならば殺せばいい。


 しかし、異端者(ヘレティック)は私を殺さずに腕だけを切り落とさせた。


 異端者(ヘレティック)の本当のねらいは下した刑そのものではない。刑が執行された先にある。


 ほんの一部とはいえ目論見を見抜いたのだ。そう好きにばかりはさせない。


 とはいえ、直接的な抵抗は禁物だ。もし、短慮にも私が脱獄してしまった日には、外患援助の咎が家族にまで及ぶ。


 もちろん私への量刑が死刑であれば絶対に逃れなければならない。だが、両腕切断であれば、再起への道筋はかろうじて存在する。


 辛く、長く、ヒトとして生きることを放棄する必要がある代わりに、アールの家族を守りながら異端者(ヘレティック)に反撃できる道だ。


 険路ではあるが、私以外には踏破できないからこそ価値が高まる。


 異端者(ヘレティック)は私の能力を知らない。腕の無い私の秘めたる手を決して見抜けない。


 だから私は刑の甘受を選択した。規則を守らぬ監獄の馬鹿どものせいで覚悟していた以上に身体を欠損してしまったものの、目標を頓挫させるほどのものではない。


 事前の仕込みがきっちりと用を為してくれたおかげで再会の道から脱出するのは至極簡単だった。むしろ、難しかったのはその後しばらくの間だ。


 両腕の欠損は極上の試練だった。なにしろ食事は取れない、泥を(すす)らなければ水も飲めない、飲んだら飲んだで排泄は垂れ流しだ。


 どこに追跡者がいるか分からない王都から抜け出すまで、餓えと渇きにずっと苦しめられた。体力を限界まで失っていた身にとって王都は無限にも思えるほど広大だった。


 ただ、王都脱出が最大の難所で、フィールドに到達してからは比較的順調に事が運んだ。


 王都周辺で出くわす強いとは言えない魔物を傀儡化することから始め、傀儡で食事を作り、傀儡に身体の手入れをさせて体力の回復を図り……。


 フィールド入りしてほどなく生活面は安定し、体力のほうも時間がそこそこかかったもののこれと言って(つまず)きはなく回復していった。


 手こずったのは戦力面の拡充だ。両腕が無い以上、私本体が取り戻せる戦闘力の限界はたかが知れている。


 ゴブリンの群れを殲滅するくらいなら、残された両脚だけで難なくできた。だが、私がやろうとしていることを考えたら、その程度では到底足りない。


 生活面と同様、ドミネートが戦闘面充実の核となるのは疑問の余地がなかった。


 しかしながら、ドミネートには重大な欠点がある。


 パーティー強化の近道は強い魔物を手足に組み入れることだというのに、ドミネートは強い相手に抵抗(レジスト)されてしまう。


 ドミネートは幼少期からずっと使い続けている、私とは切っても切れない関係にある魔法だ。知見は年々集積していたものの、技術的には大学入学前後からずっと停滞していた。


 私は切っ掛けを探していた。限界を突き破るための確固たる成長方針とそれを明確化させるだけの大きな影響力を持つ事件、その両方が必要だった。


 両腕離断とヒト社会からの脱落は、これ以上ない切っ掛けだった。


 腕を失ったのは私の中で最悪の出来事だったが、そのおかげで剣を撃つ腕としてシーワを、魔法を撃つ腕としてヴィゾークを入手できた。この二本はアルバート・ネイゲルの肉体よりも圧倒的に優れた能力を持っている。


 強力な魔法の行使や魔法練習、新魔法開発にはヴィゾークが適している。自分でやったら百回試して一回も成功させられそうにない高難度の魔法を、ヴィゾークは場合によっては挑戦数回で成功させてしまう。長所は魔法分野に留まらない。知力のほうも妬ましいほど高い。私では理解に時間のかかって仕方がない難解な本をヴィゾークはひと目で理解し、易易と読み進めていく。


 シーワの強みは言うまでもなく圧倒的な近接戦闘能力だ。膂力、腕力、瞬発力、俊敏性、アンデッドだからこその永遠に続く持久力、毒や各種属性攻撃などに対する高度な耐性、前衛として非の打ち所がない。力を最大限に利用したドノヴァンの剣術を完全に再現でき、その理不尽なまでの暴力剣を魔力が続く限りいつまでも撃てる。オルシネーヴァが秘蔵していた、ヒトでは扱えないヒト型吸血種半専用の魔剣クシャヴィトロを問題なく装備できるのも大きい。


 剣、魔法、知。


 優秀な手足の入手により、いずれの能力も単身で行動していた時に比べて飛躍的に向上した。厳密には傀儡の能力であって自分の能力ではないが、実用にあたってなんら問題にならないその部分をウダウダ卑屈に考えてしまうのは、ヒトの身ならではの下卑(げび)た嫉妬や執着としか言いようがない。ヒトとして生きることは既に諦めたのだから、割り切りもまた必要だ。手足の力は私の力なのである。


 シーワとヴィゾークがいれば戦闘面に関しては完成形にちかい。フルルやニグンら、その他の手足は言ってしまえば盾のようなもの、シーワたち主力二本に実力を遺憾なく発揮させるための補助具に過ぎない。


 ただ、ベネリカッターだけは魔法に秀でた手足を最低でも三本必要とすることから、ヴィゾークだけでなくイデナとマドヴァの存在も事実上、不可欠だった。暴れ馬(フシチェカン)討伐の際に下手を打ってマドヴァを失ってしまったせいでベネリカッターは使いにくくなったが、あれは威力が大きいばかりで活用場面の限られる扱いにくい魔法だ。手札落ちしても当面は困らない。




「吸血種という名の外患を援助した罪で私は裁判にかけられました。ハンターとしての功績と、王都や学園都市で関わった人間の嘆願を考慮に入れた、という表向きの理由の下、量刑は死刑から両腕切断へと減刑され、あなたから授かった両腕を失いました。機能を著しく損なった私は、ヒトとして生きていくことを諦め、別の形での再起を模索しました。その別の形というのが、そこに並んでいる者たちです。彼らは私の両腕であり、脚であり、食事を摂るための口であり、そして、人間たちとの会話口でもあります。処刑以来、自分の口で会話するのは今日が初めてです」


 ジバクマに行くまでは人間と会話する機会もする気も無かったが、街の機能やジバクマという国を利用しようと思ったら、どうしても会話口が必要になる。


 ずっと破れなかったドミネートの壁を私ならではのスキルの組み合わせによって裏技的に破り、その裏技を存分に駆使して十分満足のいく強い手足を収集した。ところが厳選の結果、増えたのはアンデッドばかりで渉外に適した傀儡が一本も無い。


 ()()を探していた折にちょうど手に入ったのがルカだ。


 詳しくは調べていないから、こいつが本当はどこの誰なのかよく把握していないが、確実なのは犯罪者集団の一員(いちいん)であることだ。それも、ただの犯罪者ではない。


 大抵の犯罪は私にとってなんの意味も持たない。私は世の中にある多種多様な生き様を正義と悪の二つに簡単に分けられるとは思っていないし、よしんば分けたとしても、自分が正義の側に属しているとも、自分の手で悪を成敗したいとも思わない。私の目の前で犯罪が起ころうが、それが私やアールの家族に害をなすものでなければどうだっていい。


 だが、こいつらが手を染めようとしていたのは、こともあろうに唯一と言っていいほど数少ない、私の絶対に見過ごさない種類の犯罪だった。


 企みの決行を目前に控えたこいつらに私が出くわしたのも、誰も聞いていないと思って油断したこいつらがベラベラと丁寧に犯行計画を語ったのも全ては偶然だ。


 しかし、あまりにもできすぎていて、なんらかの因果を感じずにはいられない。


 こいつらは大きな過ちを犯すことなく安らかな眠りに就いた。私は需要に合った手足を手に入れ、世はなにも知らぬまま太平を謳歌した。振り返って考えると正味な話、私はあの場面でなにも選択していない。世界の決定に従ったまでだ。


 世界が私に与え(たも)うたルカは戦闘力が皆無に等しい代わりに交渉を有利に進められる端麗な容貌をしている。実際、ルカを介した情報収集は自分でやっていて呆れてしまうほど捗る。


 私は昔、エヴァの情報力の高さに舌を巻いていたが、ルカという傀儡を得た今では考えを改めている。


 エヴァは、私が思ったほどは情報収集に苦労していない。適当にニコニコと笑っているだけで、情報の方から勝手にやってきたはずだ。


 なにはともあれ、ルカはパーティーの重要な役割を占めるに至った。嬉しいことに、ルカは細かい仕事が昔の私よりもずっと得意で、料理に裁縫、書記、装備補修、生体や生命球(バイオスフィア)の手入れ、あらゆる手作業をスイスイとこなす。


 難点を挙げるとすれば、アンデッドよりも心身の状態が変動しやすい点だ。鈍感なアンデッドと違って生体は繊細で管理に慎重を期さなければならない。


 食事はその好例だ。私は栄養管理にそれなりの自信を持っている。軍医のアリステルたちも私の栄養管理力を認めていたから、決して過信ではない。


 ルカは私の手足に組み込まれて以降、理想的な栄養摂取ができていた。傀儡になる前よりもずっと良いモノを食べていたはずなのに、ルカは食事に満足していなかった。


 ドミネート越しにルカの感情は伝わってきてたが、私はそれを食の好み程度にしか認識していなかった。


 溜め込ませた感情の大きさが明らかになったのはマジェスティックダイナーに行った時だ。


 料理を食べて泣き出すルカを見て、私は初めて理解した。


 私が食べさせていた素材の味しかしないモノは、ルカにとって『食事』ではなく『餌』だった。自分の意思と無関係に餌を食わされるのが屈辱ならば、人間的な美味しい食事にありつけるのは尊厳の回復かというと、それもまた違う。


 マジェスティックダイナーの食事を口にした瞬間、ルカの絶望は最も深く大きくなった。


 あの時、我々の前にいたジバクマ軍人、憲兵、それとブラッククラスのハンター、ライゼン。彼らは皆、ルカにとって希望だった。


『自分を囚われの身から助け出してくれるかもしれない』


 おそらく、ルカはそんな願いを抱いていた。


 しかし、どれだけ会話を重ねても、()()()()はルカがドミネートで操られていることに気付かない。


 儚い願いは露と消え、ルカが口に含む食事は、死刑囚が刑の執行前日に食べる最後の晩餐と同じ、生への未練の味がした。


 ルカの感じた絶望は、「前」に何度か見た()()()()()を私に思い出させた。


 以降、私は『食餌』ではなく『食事』を作ろうと試みるようになった。活用機会は一生訪れないと思っていたシェルドンの料理の薀蓄が思いがけず役に立った。


 シェルドンから教えてもらっていたのはマディオフ食材の調理法だったため、それをそのままジバクマの食材に当てはめることはできない。あくまでも参考程度だ。


 それで試行錯誤を繰り返していると、全くの素人だったはずの私が段々と、それらしいものを作れるようになっていく。


 料理もまたひとつの技術なのだと実感した。


 料理に力を入れるようになると、世界の見え方がまた少し変わる。


 行動中に目にする魔物や植物を栄養ではなく味の観点から審美してしまう。


 私とルカでは味の感じ方がかなり違うことにも気付く。


 アリステル班に食事を振る舞うようになったこともあり、万人受けする味の調え方や個々の嗜好に応じて味を調整することも覚えた。


 自分ひとりのために料理するのは億劫でも、食べさせる相手がいるとあまり面倒ではなくなる。


 サマンダはアリステル班の中で一番感想を聞かせてくれた。美味しい、と言われると、また次も美味しいと言わせたい、と思うのが人情だ。


 滅多に感想を聞かせてくれないラシードやラムサスの内心は、咀嚼回数、嚥下までの時間、食事量を見れば推測がつく。


 食事にしても物理戦闘でも魔法でも、日々変化を見せる彼らを観察するのはとても楽しかった。


 アリステル班と関わることで私は懐かしい感情、“育成”の楽しさを思い出した。


 きっとそれは子育てに通じるものがある。


 子育てが生活行動に組み込まれている生物からそれを奪うのは、生きる喜びを奪うのに等しい。


 私はキーラから、よりにもよって長男を奪ってしまった。




 奪われ、時間の止まってしまった哀れな人間に私は続きを語る。


「この一戦で披露した力が現状、私の精一杯です。私自身の力はこんなものでしかありません。ですが、この場に並ぶ者たちは、今の私は勿論、以前の私よりもずっと強い力を持っています。私ひとりではできなかったことが、彼らとならばできます。私を計略に絡めとった何者かが、どれだけ狡猾で強大であったとしても、今度は対抗できる。そう思って行動を開始しましたが……」




 毒壺の中で、ラムサスに情報を探る能力があることを知った。周辺国最強のハンターであるライゼン、クフィア・ドロギスニグの娘ということで会食時から興味を抱いていたが、情報系能力者とは全く考えていなかった。


 ルカという手足を入手してなお私には異端者(ヘレティック)の謎を暴くための情報力が不足している。


 ラムサスの力は“真実”の追求に必ず役に立つ。審理の結界陣の存在も価値も知らなかった当時、私はそう考えた。


 発見からおよそ二年が経った今でも小妖精の能力詳細は解明できていない。


 特定の条件下を除き常人の目には映らない隠密性の高い小妖精を主軸として情報を収集する。


 それがラムサスの能力だ。


 ポジェムニバダンとソボフトゥルは、いずれも私やアンデッドたちの目には無形の魔物の一種のように見えている。


 形なき魔物と言われて真っ先に思い出すのはゲダリングのダンジョン、フヴォントで遭遇したドライモーフだ。あれは大きさを自在に変化させる旋風のような魔物だった。


 ラムサスが喚び出す二体の小妖精は、外観的には鍋から飛び出した煮立った湯だ。それが、完全な二脚歩行とも完全な四脚歩行とも言い難い、独特な動き回り方をする、他に類のない奇怪な存在である。


 これはあくまでも私の見え方でしかなく、どうやら召喚主であるラムサスの目には、もっと具体的な事象を象って見えているらしい。


 では、ルカの目にはどう映るかと言うと、そこは犯罪者でも常人の範疇、ルカには小妖精が見えない。


 勿論ルカは魔盲ではない。ヒトとして一般的な魔力を有しており、通常の魔法や闘衣はくっきりと視認できる。全く視認できないのは小妖精の存在だけだ。


 私は今まで虫や魔物をドミネートするばかりでヒトをドミネートしたことがなかった。ルカをドミネートして初めて()()()()()を理解できた。


 常人には見えず、私やアンデッドにだけ見えるもの、それは()()()()()()だ。


 イオスやエヴァら、超一流のハンターですら魔力そのものは見えていなかった。


 魔物の強さの判定、ルドスクシュの卵の生死、ブライヴィツ湖の水面の魔力溜まり、ドライモーフの討伐難度。


 他者とパーティーを組んだ際に積み重なった会話の行き違いやいくつもの矛盾が、『魔力が見えるかどうか』の一言で全て説明できる。


 気配というものが、感じるものであって見えるものではないのと同様、常人にとって魔力は感じるものであって、見えるものではない。


 思うに、小妖精は完全に造形された魔法というよりは未完成な魔力にちかい事象なのかもしれない。だからこそ常人の目には映らない。そんな小妖精でも魔力を視認できる目さえ持っていれば輪郭程度は認識できる。


 ラムサスから放たれては自由に動き回りラムサスに情報をもたらす小妖精を私はずっと素知らぬふりして観察し続けた。全ては情報魔法としての特性を突き止め、真価を見定めるためだ。


 ソボフトゥルのほうは目標をひとり定めた後、時間をかけて任意の情報を引き出す能力がある。ラムサス本人が目標の考えていること、知っていることにある程度当たりをつけていないと情報の引き出しにとんでもなく時間がかかるうえ、目標がラムサスよりも多量の魔力を有していると簡単な調査ですら所要時間が膨れ上がる。逆にラムサスの力が目標を上回り、なおかつある程度の周辺事情が分かっていれば、数分から数十分程度で面白いように秘密を暴ける。


 もう一体のポジェムニバダンのほうは、何らかの条件を満たすと瞬時に情報が得られる。最初は単純に罠感知の能力だと思っていた。だが、分かるのはそれだけではない。罠の種類に魔道具の(おおよ)その使い途、武具にかけられた呪い、あとは安い嘘なんかまで見抜けるようだ。これら全てを一元的に説明できる単一の条件が存在するのか、はたまたポジェムニバダンが複数の情報収集能力を有しているのかは定かではない。


 いずれにしろ、嘘を看破する能力はかなり厄介だ。ラムサスを(たばか)ろうと思ったら、嘘は喋らずに、勝手に誤解するよう上手く誘導しなければならない。試行誘導の試みは一定の成果を挙げている。私自身が直接喋らずに会話口として傀儡のルカを経由しているのも本心の隠蔽に一役買っているかもしれない。


 先程ラムサスを橋台に待機させたとき、ラムサスは置いていかれる可能性を見抜いた。おそらくあれも洞察力ではなく小妖精の能力だろう。私は九割方迎えに戻るつもりだったから、小妖精は残りの一割を見抜いたことになる。小妖精使いであるラムサスを意のままに操るのはなかなかに難しい。


 では、ラムサスに頼らずに結界陣を使えばいいかというとそれは無理な話だ。


 結界陣には致命的な欠点がある。嘘偽りなく致命的、使用者は使用後に命を失う。


 この“使用者”の定義が曲者だ。


 ヴィゾークに装備させて結界陣を起動すると、魔力はヴィゾーク消費になるが、命はヴィゾークを操作している私が捧げる羽目になる。これはオルシネーヴァが作った説明書には書かれていなかったことだ。


 私は往々に物事を悪い方向に考える癖がある。その悪い癖が(たまさか)生命を救ってくれた。先にノスタルジアの魔法を完成させたのは大正解だったわけだ。


 審理の結界陣による目標捕捉は起動から即座に始まり常時有効で、結界陣の使用が終わると同時に捕捉した標的、即ち使用者の生命を奪う。


 だからアンデッド等の無生物以外は事実上、審理の結界陣を使えない。


 私が結界陣を使うためには結界陣の起動前から終了後までずっとノスタルジアの作用下にいなければならない。


 自分にノスタルジアを使うと思考、性格まで()()()に戻ってしまう。ノスタルジアを何度も使用する中で、今の私と元の私、目的や性格を磨り合わせるようにしてきたが、どうしても限界がある。


 私の敵である異端者(ヘレティック)は不特定多数の集団だ。異端者(ヘレティック)の探索はアールの精神が主体となっている今の私にとって重要ではあっても、元の私にとっては違う。元の私にとっての最重要事項は魔法の攻究だ。


 異端者(ヘレティック)を見つけて話し合う機会を得たと仮定しよう。話し合いの場から嘘を排除するには審理の結界陣の利用が欠かせないため、必然、私はノスタルジアによって元に戻らざるをえない。異端者(ヘレティック)が話し合いに極めて協力的であったとしても、元の私は“辛酸”に対する関心が薄いから、肝心な部分を聞き出せないおそれがある。


 ジバクマの選挙の時はそれなりに上手くやれたが、あれは生者としての目的意識が強く残存したためではなくドノヴァンの願いが反映された結果と思われる。選挙時と同様にマディオフでも自分が思いどおりに動くことを期待するのは想定として甘いと言わざるをえない。


 異端者(ヘレティック)を見つけ出す手段は審理の結界陣頼みであってはならない。ラムサスの小妖精とバランスよく使い分ける必要がある。


 そのラムサスの精神状態が不安定なのは気がかりだ。生体利用時の懸念が物の見事に顕在化してしまっている。


 まず、増幅された感情。約二年観察した限りでは、喜怒哀楽をしっかりと表出するタイプではなかった。それがアリステル班と別れ、グルーン川を渡河するあたりからおかしくなった。明るくなったとか、表に出してこなかった感情を表出するようになった、という解釈だけではまるで不足している。


 場面にそぐわない大笑い、突然嫉妬に狂う、天災にも等しいドラゴンに対して直接の害を受けてもいないのに怒り出す。これらはいずれも根本は同じで、感情が制御不能になった脱抑制(だつよくせい)状態を意味している。


 次に、積極性と、それに乖離した無関心性。ストレス発散のために私が色々とはたらきかけたり、新しいことを持ちかけたりすると、それらに自分から積極的に応じる姿勢が見られる。それら新規の行動の最中だけでなく既存の訓練や勉強においても、今までの彼女であればまずやらない不注意ゆえの失敗が頻発している。しかも、本人は失敗に気付いてもあまり気に留めず、ひどいと失敗していることにすら気付かない。


 さらに性欲の亢進。マディオフに来て以来、明らかに目が男を追いかけている。街に入ると待ってましたとばかりに視線がはしたなく動き、若い男を見つけては凝視する。物欲しさを語る期待の目は品定め開始からすぐに落胆へ変わる。延々、この繰り返しだ。恋人のラシードと離ればなれになったことによる心の隙間では説明がつかないほど強い性衝動にラムサスは突き動かされている。恋路にまつわる面倒事を避けるために私が掛けたブサイクの変装魔法(ディスガイズ)を教えられた時などは、食事問題が発覚した時以上に激怒していた。


 総じてこれまでの彼女とは全く違う。ラムサスの心身に生じている一連の現象を簡単に説明する一言、それは“躁状態”だ。


 病的躁に該当するのか、それとも旅先でありがちな非病的躁の範疇に留まっているのかは、本職の治癒師ではない私に分かりようがない。


 マディオフ入りしてから相当に気を遣っていたつもりなのだが、それでも足りなかったのか、本職の治癒師が対応にあたっても同じだったのか……。


 精神的なケアについての教本を、もっと読んでおけばよかった。私にはその機会があった。


 ……機会とは、いつの話だ? モニカから教えを受けていた時か?


 違うな。また記憶が混線している。どうせこれもダグラスの記憶なのだろう。


 いずれにしても後悔は無意味だ。どれだけ技術的な部分を学んでいても、ラムサスはポジェムニバダンを介して私の心を読んでしまう。先日まで滞在していたダンジョン、ポジェムジュグラで語らっていた時が良い例だ。浮沈の激しいラムサスの心をせっかく私が慰めていたというのに、ラムサスは逆に苛立つ始末。小妖精の能力は必ずしも状況好転に働かない。


 アリステルのように心から親身になってあげられる人物以外では、この躁という結果は変えられなかったに違いない


 精神の崩壊を回避するためにジバクマへの帰国を何度も提案してみたものの、ラムサスは頑なに受け入れない。ただ、躁の影響は多分にあるにせよ、頑固さに関しては彼女の()と思われる。


 無理矢理ジバクマに連れ帰る手段もないではないが、そんなことをした日には機嫌を著しく損ねてしまうのが目に見えている。


 下手に関係を悪化させるのは(まず)い。事態が落ち着いてから改めて力を借りようとしても、()ねてしまって協力が得られない可能性が高い。


 精神状態を安定化させるための一般論として、短期決着を図ろうとせずに時間をかけるべきなのは間違いない。しかし、マディオフの今の状況はそれを許さない。ウカウカしていると瞬く間に国が無くなる。


 一刻も早く亡国の危機から脱させる、他の全てはそれからだ。


 思えば私がやろうとしていることは、ワーカーパーティー、エルリックとしてジバクマで行動を開始して以来、二転三転している。その最大の原因がドノヴァンだ。


 ジバクマ共和国を守りたい。


 オルシネーヴァに鉄槌を下したい。


 どちらも元の私に起因する感情ではない。


 望まずに得てしまった感情に引きずられ、かの国では思っていた以上に時間を費やす羽目になった。


 オルシネーヴァ軍の被害を可能なかぎり軽減すること、民間人を殺傷しないこと、降伏ではなく停戦に持ち込むこと、いずれの目標も達成にはかなり苦労させられた。マディオフのこの窮状が予見できていたならば、それらの苦労は全く無用だった。


 あれこれと難しく考えずに破壊と殺処分に徹底するなり、最初にぶち上げたとおり、オルシネーヴァ人を全員アンデッドに転化させるなりしていれば、所要日数は大幅に減り、ジバクマの内部ゲバルトも気にせずに済んでいた。空回りもいいところだ。


 では、今ここで私がやっていることは徒労に終わらず、いずれ報われるのだろうか。


 ……その可能性は限りなく零にちかい。それでも私は言わなければならない。今を逃すと、次の機会は永遠に来ないかもしれない。




「ドラゴンの出現、大森林で起こった大氾濫(スタンピード)、ロギシーンにおける反乱軍の蜂起、そしてゴルティアとの開戦。それ単体で国家を揺るがす困難が同時に四方からマディオフを攻め立てています。大森林の魔物がいつここまで足を伸ばすか分かりません。魔物がどうにかなったとしても、ゴルティアが本気で戦力を投入すればアーチボルクはすぐに飲み込まれてしまうでしょう。この場所はいつまで安全か分かりません。お母様、私と一緒に来ませんか。もしお母様が来てくださるなら、私が命を懸けてお母様を守ります。ドラゴンを倒すのは無理でも、お母様を守って逃げることはできると思います。ネームドモンスターの一体程度であれば、我々は退(しりぞ)けられます。お母様から頂いた腕を奪った何者かを突き止めることは私にとって重要な目標のひとつでしたが、お母様が一緒に来てくださるのであれば、お母様を守ることのほうがずっと大切です」


 母の瞳に宿る憎しみの炎は火勢に翳りが見えている。迷いを感じる。母は私の正体を計りかねている。今の母の目は、この家に私が住んでいた時にずっと私に向けていた“あの目”に戻っている。


 私から一方的に押し付けてはダメだ。母が伸ばした手の上に答えを置かなければならない。耳を塞ぎ、武器を振り回す相手に教えを説いたところで意味は無い。


 母は紅炎教だ。それもマディオフの紅炎教。ジバクマやゼトラケインと違って、絶対にアンデッドに心を許してはならない、と思考の基礎に叩き込まれている。だからこそ、母から求めさせる必要がある。


 既に武器でこの身は打たせた。紅炎教の聖なる強撃(ホーリーバッシュ)が私の身体には無効なことも示した。純粋な拳打として、かなり効いたけれど。


 この家を出てからの概要はもう十分に説明した。母が本当に知りたがっているあの晩の“真実”は、母の心が求めた時に初めて話す。


 母は迷っている。それは即ち、憎しみの強さに匹敵する強い願望があることを意味している。母は“真実”を希求している。


 だから頼む。憎しみ以外の言葉を、その口から発してくれ……。


「お前は……何者なんだ……」


 母の声は震えていた。怒りではない。動揺で震えている。


 母はかつて私のせいで怒り、悩み、憎み、苦しんだ末に心の奈落、底なしの泥沼へ追いやられた。


 それでも動かずにじっとしていれば沈まない。もがくから沈み、沈むから窒息して苦しむことになる。


 沼からの脱出をきっぱりと諦めてもがくのをやめれば、最悪の苦しみからは逃れられる。つま先から首元までどっぷりと沼に沈もうとも、泥の重圧に曝されて体温が延々奪われようとも、鼻と口が沼の上に出ていれば息はできる。


 諦めることでどうにか苦しみを減らしていた母に私は縄を垂らす。泥にまとわりつかれて重くなった身体を沼から完全に引き上げるには到底足りない、途中で必ず切れてしまう細く乾いた縄を。


 諦めれば楽になれる。期待するから苦しくなる。


 母も分かっている。


 再びもがいてなんとか腕を突き上げ縄を掴んだとしても、己の身を沼から脱出させることなど不可能だと。


 沼の上から縄を垂らしているのが私であれば、身体にへばりついて苦しめている沼もまた私なのだから……。


 それでもヒトは期待せずにはいられない。


 傷つけられる。苦しみが待ち構えている。


 そう分かっていながら、それでも手を伸ばしてしまう。


 私はこれから母を傷つける。


 喋らなければ、“真実”を伝えなければ私も先に進めない。


 たとえ母が私を殺すことになったとしても、私が母を殺すことになったとしても。


「元々の私……名前はありません。便宜上、“エル”とでも呼ぶことにしましょう。エルはアンデッドです。グルーン川の流れる谷底に転げ落ちて死んだか、あるいは死後に投げ捨てられたかしたものが偽りの生命を持つに至った、ありふれたアンデッドに過ぎません。ただ谷底で蠢くだけだったならば増水の際に押し流されて他のアンデッドと同様に藻屑となっていたはずです」


 私自身、始まりを思い出したのはほんの一年前だ。


 オルシネーヴァの王都エイナードを急襲した後の道中、目に見えない、においすらしない物性瘴気に生命を刈り取られていなければ未だに元の自分を取り戻せずにいた。


 探し求めていた自己同一性の根源には奇跡も呪いも存在しなかった。あったのは己の欲望だけだ。


「エルが他のアンデッドと違っていたのはただ一点、刺激に飢えていたことです。谷底を彷徨(うろつ)き、探索し、技術を吸い尽くして飽いたエルはある日、新世界を求めて崖の上を目指しました」


 グルーン川の崖は登ろうと思って登れるものではない。ヒトが登り下りするには登攀技術と登攀道具の両方が、魔物ならば相応の身体構造かスキルが必要だ。


 普通のアンデッドは谷底から這い上がってこない。普通のアンデッドは。


 金さえ貰えればそれでいいワーカーたちは、アンチアンデッド化処理の手間を厭って死体をまとめて崖上から投棄する。崖側から脅威が現れるとはこれっぽっちも思わないから、そちらへの警戒を怠る。


 常に生命奪い、奪われるフィールドで油断などあってはならない。絶対数こそ少ないものの、あの崖にもスネークをはじめとした肉食の魔物が生息し、自在に登り下りしていたのだから。


 エルから奇襲を受けずとも彼らの滅びは必然だった。青鋼団は……私のかつての仲間たちは死ぬべくして死んだ。


「登っては落ち、登っては落ち、数え切れない試行と失敗の末、崖上に到達したエルはヒトという生き物を初めて目にしました。谷底にいなかったこの未知の生き物に興味を持ったエルはヒトの世界に潜り込み、淡々と知識や技術を吸収していきました。比喩ではなく、本当に()()していったのです。エルは手に入れた身体を通じヒトの形成する社会を見て、聞いて、触れて様々なことを学んでいきました」


 それがダグラスの記憶であり、セリカの記憶だ。私とひとつとなった後、つまりは“事後”に新規獲得した私自身の記憶だ。


 かなり曖昧になっているものの、私の想起できる記憶の大半は“事後”のものだ。“事前”の記憶は本当にわずかしか残っていない。


 ヒトの精神は他の魔物に比べて膨大かつ複雑だ。それを取り込むとはどういうことなのか、ダグラスとひとつになる前のエルは理解していなかった。失敗を踏まえ、セリカの時はかなり()を調整した。


 だからセリカやセリカ以降に取り込んだヒトの記憶を思い出せないのは何もおかしくない。だが、ダグラスの“事前”記憶だけはもっと簡単に思い出せていいはずだ。それなのになぜ……。


「エルはヒトの世で暮らすうちに、アンデッドとは異なる成長曲線を持つヒトの特性にますます強い興味を抱くようになります。そんな時期に立ち寄ったのが、ここアーチボルクです。強さ談議に花を咲かせる人間たちから、マディオフの軍で最強を争う騎士と魔法使いの噂を耳にしました。騎士には、当時まだ子供がいませんでした。それに対し魔法使いの方には生まれたばかりの子供がいました」


 語られる悲劇の結末を知っている母の顔は絶望と悲哀に満ちている。その胸は張り裂けんばかりに苦しいはずだ。それでも私は先を語る。


「強い魔法使いの子供であれば、その子供も強く育つはず。エルはそう考え、魔法使いの不在を見計らって子供の眠る家に忍び込みました。家には修道士がひとりいて、子供の眠る二階へと繋がる階段を守っています。その修道士は出産からあまり日が経っておらず、初めて臨むひとりでの育児に体力を消耗していました」


 あの時、母はひどく消耗していた。だからこそ脆弱だったはずの当時のエルが母と対峙しながら滅びを免れた。私の記憶に残っていた母は未熟な母でもなく、年老いた母でもなく、産褥と育児で消耗していた母だった。


「弱った修道士の打棍を辛くも掻い潜ったエルは谷底から這い上がった能力を駆使して戦闘の隙をついて壁を登り、二階で眠る赤子の部屋へと急ぎました。時間稼ぎのために階段上にファイアボルトを放って火を起こし、赤子の部屋に侵入した後、扉には鍵をかけましたが、修道士はすぐに部屋の前に迫ります。修道士は今にも部屋の中に入って来そうです。時間がありません。ヒトと交わり、焦りという概念を獲得するに至っていたエルは急ぎ、焦り、そして失敗しました」


 もし時間さえあれば、設定間違いさえ犯さなければ、セリカやダグラスと似たような状態になっていた。しかし、そうはならかった。


 失敗は思わぬ結果を生んだ。


「本来の予定では、エルは自分の精神の大半を残したまま赤子とひとつになり、子供の身体とともに成長して人生を歩むつもりでした。アンデッドの精神が赤子の身体を乗っ取る、と言ってもいいかもしれません。ですが失敗の結果、子供の身体の中にはエルが持っていた技術とスキル、後はわずかな精神の残滓だけが残りました。元々赤子が持っていた精神はほぼその全てが維持され、エルの精神の残滓は、赤子からすれば『過去の記憶』のような存在になったのです。そうして出来上がったのが今の私です」


 高度な精神を持つ存在とひとつになると単純に技術やスキルだけを引き継ぐことはできず、必ず精神の一部が残留する。それが、数回の失敗を経て私が理解した原則だ。


 各種調整は可能、しかし、どれだけ設定を調整しようとも原則は覆らない。


 だから、ドノヴァンが抱いていた『ライゼンの子供を守る』という使命感と、オルシネーヴァへの復讐心が私の中から消えることはない。


 私の前に現れたオドイストスはドレーナ、偶然にも変装魔法(ディスガイズ)を得意とする種族だった。オルシネーヴァに忍び込もうとしていた当時の私にとって、なによりも魅力的な能力だ。


 転がり込んできた災いを福と成すべく私は能力を入手した。その代償として、旅と仲間を夢見る青い心が今も残り火のように燻り続けている。


 自己同一性の保持を最優先にするならば、ひとつにならなければいい。“融合”などしなければいい。繰り返せば繰り返すほど私の精神は汚染される。しかし、精神の多重化を汚染と捉えるのは私の人間部分、アールとしての嫌悪に過ぎない。エルは精神の多重化に忌避など感じない。新しい技術や高度な魔法を手中に収められればそれでいい。


 私の精神は、アンデッドと複数の人間の混合物だ。アールを除外すると、人間の精神の中で最も残存率が高いのが最初に融合した人間、ダグラスだ。融合前のダグラスもまたなんらかの理由により強さを求めていた。ダグラスは私自身でありながら、私からしても実に妙な奴だ。


 説明のつかない高度な知識や謎の技術はほぼ全てダグラスのもの。ダグラスは確固たる目的があって強さと技術を貪欲に求めていた。簡単に思い出せていいはずのその確固たる目的を、なぜかどうしても思い出せない。


 時間経過によって記憶から完全に消え失せてしまったなら、思い出せずともまだ得心がいく。しかし、ダグラスの目的は風化していない。乱雑に散らばる精神のどこかに埋もれているという確信が私にはある。いや、埋もれているどころか、喉から出かかっているもどかしい感覚すらある。それでいながら何年経っても一向に現世に顔を出さないのは甚だ謎だ。


 とにもかくにも、私はエルとダグラス、両者の残滓によって様々なものを欲している。ドノヴァンやオドイストスと対話した時のような特別な状況に置かれると、私は欲望に抗えない。


 呼吸と同じだ。一、二分は我慢できても、ずっと我慢し続けることは不可能だ。


「あの晩よりも以前からこの家に仕えていた二人が教えてくれました。私を産んでから数か月の頃に、お母様が教会や医院に何度も足を運んだ、と。私はずっと、育児に疲れて精神を病んだお母様自身の癒しを求めていたのだと思っていました。でも、事実は違いました。お母様は、あの晩以来変わってしまった私を治すべく走り回っていたのです。解呪で元に戻らないか、アンチスペルで元に戻らないか、薬で治らないか、祈りで治らないか。お父様も使用人たちも、私に起こったこと、お母様が語ることを理解していませんでした。信じていませんでした。何しろ私は健康な赤子そのものです。呪いもかかっていないし、毒にも侵されていないし、アンデッド反応だって検出されません」


 エルはこの家にいくつもの痕跡を残した。私が今しがた使い、そして折れてしまった小剣は、あの晩母との戦闘で使ったものだ。犯行凶器だけではない。赤子の傍らに残ったエルの遺留品を、母は全て保管していた。戦闘跡、ファイアボルトが焦がした床板、遺留品、これらが無かったら、父や使用人たちはエルの襲撃を母の狂言とすら考えたかもしれない。


 不審者侵入の証拠は多数ある。しかし、母の心を最も苦しめたのは侵入の事実ではない。子供に生じた異常だ。


 母にとって最大の問題である子供の異常を、父もアナもマヌも、家の者は誰も理解しない、共感してくれない。なにせ育児にはほとんど関わっていないのだ。会話もできぬ赤子のわずかな雰囲気の違いなど、育児者本人である母にしか分かりようがない。これでせめて最初から乳母がいれば話は全く違っていた。


 母は誰からも理解されないまま、たったひとり孤独な戦いに身を投じ、ずっと苦しんでいた。


「犯人である私自身も、自分がどんな過ちを犯したか覚えていませんでした。物心ついた頃の私が、学びもしない色々な知識や技術を持っていることをどう考えていたか分かりますか? 『私は転生者なんだ』と、そう思っていました」


 幸か不幸か、十八年間、私の身近で全く()()()が出なかった。隣の家の老人が死んだ、とか、同級生の祖母が死んだ、とかそういうのでは駄目だ。私が前世と呼んでいるものの正体を思い出すためには、私の目の前で高い能力や技術を持つ者が、今まさに死にかける姿を晒す、ということが必要だった。その機会が初めて得られたのがジバクマのゲダリングで、相手はドノヴァンだった。


「忌むべき能力を思い出して、自分が転生者ではないと気付いたのが先のとおり、十八歳の時です。ペンダントの喪失、吸血種との出会い、両腕の離断、様々な出来事によって私の目的は幾度となく変わっていきました。何度も寄り道を重ね、ペンダントを取り戻したのがやっと去年で、それが遠因となってまたいくつかの大事な記憶を思い出しました。その再獲得した記憶が、自分がアンデッドだったという事実であり、あの晩、この場所でお母様と戦ったという事実です」


 ジバクマでのペンダント喪失は、今日に至るまでを思えば一概に遠回りとは言えない。これを取り返すためにオルシネーヴァに行ったからこそ、私は谷底にいた頃の記憶やダグラス、セリカの身体を使って活動していた頃の記憶を取り戻せた。


 ドミネートの限界突破、ヴィゾークやシーワといった強力な手足の獲得、審理の結界陣や小妖精といった周辺数か国を見回しても稀に見る高度な情報能力、いずれも本来であればありえなかった総合力の増大だ。


 マディオフ国内で消極的に生きていたとしても異端者(ヘレティック)は私を嵌めていただろうし、ドラゴンは降臨していた。


 つまり、ペンダントを失わずとも私は強くなる必要があった。記憶を取り戻さなければならなかった。ペンダントは様々なかたちでそれを助けてくれた。


 母からこのペンダントを貰った当時は、その価値も真の想いも知らずに、これだけか、と思ってしまった。


 浅はかの一言では到底足りない、とんでもない愚かさだ。


 このペンダントは金銭価値だけ考えても、この家で最も高額だ。


 母は、私が紅炎教の絶対排除対象であるアンデッドの影響を受けていると確信していた。それでも、苦渋の決断のうえで、このペンダントを与えて私をこの家から遠ざけた。全ては家族も、自分が産んだ長男も守るためだ。


「肉体も精神も、あなたの息子とアンデッドが二つに分かれることはありません。人間、誰しも色々な顔があります。お母様であれば、修道士としての自分、母親としての自分、妻としての自分、祖父母と会う時は娘としての自分、色々な顔を持っていることと思います。でもそれは別人格でもなんでもなく、いずれも本当の自分であるはずです。今の私も、それは同様です。ヒトとしての自分も、アンデッドとしての自分も、どちらも本当の私です。完全にひとつになることも、完全に別になることもなく、不明瞭な境界しかありません。そんな私ですが、気付いてしまってからはずっと果てることの無い罪悪感に責め立てられていました。懺悔のためにここへ来た、と言いましたが、本当の望みが告解であることは自覚しています」


 母は私を憎み、恨み続けるに足る十分な理由がある。真実を伝えたところで母の苦しみが消え去ることはない。


 母は私を殺そうとするかもしれない。それでも私は母から(ゆる)しを得たい。自分の罪を告白するだけではなく、赦されて生きていきたい。


 都合がいい願いなのは分かっている。だが、それが嘘偽らざる私の願いのひとつだ。アンデッドではなくヒトだから……人間だからこそ抱く願いだ。


「やっぱり私のあの子はもういないんだ……」

「お母様がどれだけ私を憎もうとも、私はあなたを母とお慕いしています」


 それは純粋に他者を思う愛ではなく、利己的な愛に他ならない。


 誰かに自分を認めてほしい。受け容れてほしい。その誰かとは、人によっては恋人であり、好敵手であり、尊敬する人物であり、精霊なのだろう。


 自覚がなければ、母の愛にここまで飢えることはなかった。私はきっと、幼少期から潜在意識で自分が犯した罪を理解していた。だから、私に冷たく当たる母に縋り、愛を(こいねが)った。


 こんな忌まわしい存在であっても、(なかみ)が歪められただけで、肉体はただのヒトだ。


 生きていてもいい。


 そういう自己肯定を私に与えられる、世界でたったひとり私の罪に赦しを与えられる存在、それが母だ。


 心の弱さは自覚している。自分が取るべき選択を、進むべき道を決められない。コイントスと同じ。自分で決められないから、今、こうして母に選択を委ねている。散々母を苦しめておきながら、今再び母を苦しめている。


 苦しみの果てに母の出す答えが私の全てを否定するのであれば、私が進む道は決まっている。


 けれども、もし……もし、ほんの少しだけでも肯定してくれるのであれば、そのときは……。

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