第五〇話 ポジェムジュグラの噂の真相 一
一年の毒壺籠もりを経てダンジョンに一家言を持つに至った私に言わせてもらうと、ポジェムジュグラの中層上部は総じて毒壺の中層上部よりも難易度が低い。しかも、中層上部と中層下部との行き来を阻むネズミ返しのような構造は、ポジェムジュグラには無いものと思われる。
私が先頭を務めている都合上、パーティーの歩みは極めて遅いというのに、ダンジョン突入三日目にして中層下部に辿り着いてしまった。
中層下部に到達したことは、得も言われぬ空気の変化ですぐにそれと分かる。
その日は無理をして第二セーフティーゾーンを目指さず、道中での野営と相成った。
来る四日目、張り切って中層下部を進む。
いかに毒壺より容易といえども、そこは流石に中層下部だけあって、中層上部に比べて出現する魔物がひと回りか二回りほど強い。
けれども、私にとって重要な意味を持つのは、魔物の強さの変化ではない。魔物の種類の変化だ。
ここ中層下部にはゴキブリが出ない。
虫系の魔物で見かけるのは、見るからに毒々しい色合いをしたマイマイが専らだ。見た目に違わず毒を持っているらしいのだが、毒が問題になるのはこのマイマイをヒトが喫食しようとしたときだけだ。横を静かに通り過ぎる分には、マイマイのほうから襲いかかってくることはないため、毒の有無はさしたる意味を持たない。
伸び伸びと戦える地に辿り着き、パーティーの進行速度がグンと上がる。
手強い魔物を溌剌と屠っては前進し、丸一日とかからずに第二セーフティーゾーンに到達した。ゴキブリがどれだけ私の歩みを妨げていたか分かるというものだ。
空間を見回すと、先客ハンターの姿がちらほらと見える。
私は、ヒトの姿があることにホッとしたようながっかりしたような、複雑な気持ちを抱いてしまう。
私にとってのセーフティーゾーンとは言わずもがな、毒壺の第二セーフティーゾーンだ。あそこでは、アリステル班と旧エルリック以外の存在を一度たりとも見かけなかった。
おかげで、セーフティーゾーンは、『身内だけで寛げる場所』と深く身体に刷り込まれてしまっており、セーフティーゾーンに見ず知らずの存在がいると、他人と相部屋させられているときのような形容しがたい居心地の悪さがある。
これは完全に変わり種アンデッドの悪影響だ。
シーワたちは第一セーフティーゾーンと同様、はしゃぐことなく設営を進める。夢であり趣味である各種実験道具を大々的に広げることも、情報交換名目でルカがハンターたちに話し掛けに行くこともなく、淡々、黙々と作業する。
話し手のルカが黙れば、聞き手を務める私の口も自然と重くなる。
待望の第二セーフティーゾーン初日は沈黙の行を思わせる静かな夜となった。
五日目、いよいよ下層攻略が始まる。ここでも私が先頭を歩く。ただし、私の横は、クルーヴァではなくフルルが歩く。
待望のフルルが横にいてくれるから安心かというと、そうでもない。
近接戦闘能力パーティー第二位のフルルが先頭に配置される。
それは即ち、第三のアンデッドたちが下層をそれだけ危険な場所と評価している、ということを意味する。
安心と油断は紙一重。先頭人員としてもハンターとしても私は未熟なのだから、決して気を抜いてはならない。
それまでとは段違いの緊張感の中、ダンジョンを進み、魔物集団との交戦を重ねること数回、徐々に私なりの『ポジェムジュグラ下層寸評』が心の手記に認められていく。
出現する魔物の一体あたりの戦闘力が毒壺の魔物にやや劣っているのは、上層や中層と同様だ。対応難度を劇的に押し上げる毒も、ここの魔物は基本的に持っていない。
特徴がそれだけならば、『ポジェムジュグラ下層は毒壺下層よりも易しい』という評価に落ち着く。
しかし、そうならないのは、単体の評価を無にするほどの圧倒的な数だ。どの魔物も単独行動を取らず、必ず複数体で私たちの前に現れる。
一体しか魔物が見当たらないことに喜ぶのはぬか喜びに他ならない。そういう場合、魔物に仲間がいないのではない。私たちからは見えないだけだ。こちらの死角となる場所に例外なく一体以上の魔物が隠れている。
クルーヴァの成長機会を求めてダンジョン下層を訪れたリリーバーからしてみれば期待どおりの豊猟なのかもしれない。
けれども、私にとっては誇張抜きで死活問題だ。
毒壺より弱いとはいえ、そこは下層の魔物だけあって、私にとっては十分過ぎるほどに強い。
第一胃が絶妙な歯応えをしている、食べて美味しい二足歩行のウシのような魔物ミノタウロスは、出現する個体のほとんど全てが私よりも強い。たまに遭遇する種の平均値を大きく下回った弱小個体に限り、素の私でもかろうじて倒せるかどうか、といったところだ。
平均的な個体は、ヴィゾークたちから補助魔法をかけてもらって、どうにかこうにか戦いの形に持っていく。
ただし、補助魔法を貰ってもなお、ミノタウロスと私との間には、圧倒的な膂力の差がある。
ミノタウロスの力の強さは毒壺のブルーグリズリーに勝るとも劣らない。アリステル班筋肉担当のラシードでもブルーグリズリーの一撃はまともに受けられず、躱すなり受け流すなりしていた。
私はラシードに比べてずっと低い筋力しかないのだから、ミノタウロスの攻撃を直に受けられるわけがない。
身体から自然に生えてくるのか、それとも別の魔物に作ってもらうのか、なぜかミノタウロスは武器を持っている。大抵は、上品さとは無縁の野暮ったい斧だ。
豪腕から繰り出される暴斧を受け止めるには、私の腕にしろ操る剣にしろ、あまりにもか細く弱い。
技術的難度が極めて高く、失敗してしまうと大ダメージ確定で、しかも失敗せずとも武器破損のおそれがある受け流しは必要最小限に留めるべきで、すると必然、回避が第一選択となる。
敵の攻撃は、斧を一振りして終わり、とはならないのだから、避ける際も考えなしではダメで、より上手い、より適当な避け方を常に模索しなければならない。
ダンジョン内を走る道というものは、それがたとえ真っ直ぐな一本道であったとしても、局所々々をよく観察すると、幅員が突然、細くなっていたり、地面が隆起あるいは陥没していたり、壁から垂れ下がる植物で視界が極端に悪かったりと、それなりに地形特徴を有しているものだ。
構造や空間の広がりを意識し、頭を使って避けるのが肝心だ。斧を怖れて無駄に大きく避けていては、すぐに環境に阻まれて身動きが取れなくなる。
そうならないためにも、絶えず横や背後に一定の意識を割きつつ最小限の動作で攻撃を回避し、さらに余裕があれば反撃を考える。
マディオフ行が始まって以来、先頭を歩いてきたおかげか、それとも自分の命がかかっているためか、自分でも意外なほどすんなりと地形が頭に入ってくる。
眼前の敵を一点凝視するのではなく、視野を広く持って常に周囲の情報を拾い集めながら戦う。
見ようと思えば見えるもので、周囲を見て把握する力がメキメキと伸びていくのを戦いの中で実感する。
適正難度の相手を前にして適度な緊張感を持って戦うと成長が加速する、という事実を久しぶりに思い出す。
ポジェムジュグラにおける私の成長速度は、体感上、毒壺での成長速度を超えている。それくらい急激に強くなっている。
そんな私をあざ笑うかのように、クルーヴァは信じがたい速度で成長する。
操練アンデッドたちの良からぬ思惑の只中にあるブルーゴブリンが遂げる成長速度の異常さたるや、呼吸するたびに魔力がひと回り増えているかのようだ。
◇◇
ヒトとブルーゴブリンの成長競争の結果は火を見るより明らかだった。下層到着から半月ほど経った今では、クルーヴァの魔力は私とあまり変わらないくらいまで増加している。
厳密には、まだギリギリ私のほうが魔力は多い。でも、もう剣では全く敵わない。訓練で私とクルーヴァが戦う際、補助魔法は私のほうにかけられる。私は身体能力が強化されてようやくなんとかクルーヴァの相手ができる。
自分のことながら、私がクルーヴァに勝てない理由は判然としない。
クルーヴァの絶対的な身体能力は今でも私より低い。背丈や手足の長さと、それに基づく間合いはほぼ同等にせよ、単純な腕力、膂力、瞬発力、俊敏性、いずれも素の時点で私のほうが上だ。そこに補助魔法がかかるから、身体能力差は更に開く。
私は圧倒的優位にあるはずなのに、なぜかクルーヴァにやられてしまう。これで補助魔法がなかったら、それこそ手も足も出ないだろう。
実際の剣速にしろ、一撃の重みにしろ、繰り出す手数の多さにしろ、私はクルーヴァを上回っていて、負ける要素はどこにも無いはずなのに、いざ地稽古形式で打ち合うと私はすぐに劣勢になって押し込められてしまう。
それはつまり、私の技の組み立て方が悪いのに他ならない。そこまではかろうじて分かる。しかし、それ以上の客観視が不可能な私には、どこをどう直せば優勢に持ち込めるのか、妙手はまるで思い浮かばない。
闘衣無しでこれなのだ。
闘衣戦になると、もうてんで話にならない。子供が大人から稽古をつけてもらうような形になってしまう。
下層に来るまで全くと言っていいほど闘衣を使ってこなかったクルーヴァが、今では他のメンバーと遜色ない水準で闘衣を見事に使いこなしている。
闘衣を纏って消して、という基本技術の“替切”のみならず、“絶”も、“外骨格”も、“外紋”だってお手の物だ。
これらの事実から、あるひとつの仮説が導き出される。それは、『ドミネートの操者は、自分が習得しているスキルを傀儡にも同等の水準で使用させられるのではないか』という、信じがたいものだ。
この仮説が真だった場合、クルーヴァがベネリカッターを使える可能性が俄に浮上する。
各国の軍人たちが命懸けの戦いの果てに作り上げた戦局を、操り人形に過ぎない一介のブルーゴブリンが易易と打ち砕く。
こんなふざけた話、あっていいはずがない。
「随分と煙が濃くなってきましたね」
考え事に夢中になっていた私は、唐突に掛けられたルカの言葉を聞き逃してしまった。
「え? 今、なんて言ったの?」
ルカは、ダンジョンの先頭役として、あってはならない迂闊な放心ぶりの私を責めるでもなく、真剣な面持ちで続きを話す。
「霧のような煙のようなものが濃くなってきたせいで視程がかなり短くなっています。魔物の間合いにうっかり入りこんで、出会い頭の一撃を貰わぬように注意してください。視覚情報や視線感知のスキルに頼ってはいけません。聴覚や気配察知のスキルを十分に活用するようお願いします」
このポジェムジュグラというダンジョンは複雑な迷路構造となっていない代わりに、ダンジョンとは思えないほどの植物密度の高さと、上層からずっと続く視界の悪さが挑戦者を惑わす。
見通しが悪いとヒトは簡単に方向感覚を失う、ということを、私は身を以て学習した。
視界不良の主因となっているモヤモヤは一見すると霧のようなのだが、モヤモヤに触れても装備は濡れないため、霧とは別の何かであることは間違いない。
「何がこのモヤモヤを発生させているのだろう」
「煙の原因ですか? そういえば私も忘れていましたが、ポジェムジュグラ下層には、スモークゴーレムが出現する、という話があるのでした。ゴーレムが張っている煙幕の影響でダンジョンが曇っているのかもしれません」
物忘れアンデッドは下層攻略開始から結構な日数が経った今更になって重大な安全情報を思い出した。
「ゴーレムって、あのダンジョンの最下層にいたゴーレムと同等のもの?」
「私は見たことがないので何とも答えられません。目撃者はそれなりにいるため、そこそこ信用できる情報が教えてくれることには、ゴーレムは無用な戦闘を回避するために煙幕を張っているらしいですよ」
ポジェムジュグラ通いのハンター情報に基づくと、ここの下層を闊歩しているゴーレムは非好戦的らしい。
思えば毒壺の最下層にいたゴーレムも、最初に私が見た時は地面と完全に一体化しておとなしくしていた。リリーバーが狩り尽くす前に最下層を埋め尽くしていたというヴェスパの大群とも争わずにやっていた。毒壺全体を崩落させんばかりに暴れだしたのは、リリーバーが要らない手出しをしてからだ。
スモークゴーレムがどれだけ穏やかなゴーレムだったとしても、リリーバーはきっとちょっかいを出す。それにより、毒壺を彷彿とさせる苛烈極まる戦闘が再びここで始まる可能性は大いにある。
「それを見つけたら戦うつもりなんだよね、あなたたちは……」
間違いなく即座に肯定する、と思われた問いに対し、ルカは腕組みして口を尖らせる。
「いやー、それは難しい相談です」
第三のアンデッドは何を勘違いしたのか、私の言葉をスモークゴーレム討伐への期待と受け取っている。
「あそこのゴーレム、取り敢えずその色を取って黄褐色ゴーレムとでも呼ぶことにしましょう。シェンナゴーレムに有効なダメージを与えられたのは試作段階のベネリカッターだけでした。ところが我々はもうあの魔法が使えません。スモークゴーレムがシェンナゴーレムと同じだけの防御力を誇っていた場合、今の我々にはゴーレムを倒す術がない、ということです。それに、あそこの最下層と違って、ここには確実な逃げ道もありませんし」
予想に反した返答の理由は、これまた予想だにしないものだった。
ベネリカッターが使えない?
対オルシネーヴァ戦で魔法兵の大隊を殲滅し、クラーサ城の城壁を散々に破壊し、ゲダリングの防壁を打ち破った紛うことなきゲームチェンジャーのベネリカッターが使えない、とは……。
なぜそんな重大な事実を今の今まで黙っていた。
「どうしていきなり使えなくなってしまう?」
声の震えを隠した私の問いに、ルカはケロリとした顔で返答する。
「マドヴァがいないので」
そうだったのか。マドヴァがベネリカッターを……。
あの大魔法の行使者は、リリーバー最強の魔法使いであるヴィゾークだとばかり思っていた。
「ベネリカッターって、マドヴァが使っていたんだ……。知らなかった」
驚きながらも情報を受け止めようとする私を、ルカはやや呆れ顔で眺める。
「いえ、違いますよ」
私の見当違いの解釈を、ルカは脱力した声で訂正する。
「きれいなお城で、あなたの目の前で使ったではありませんか。ヴィゾークとイデナとマドヴァ、手足三本がかりで構築したのです。あの時、威力はそんなに要らなかったので三本で済みました」
第三のアンデッドは立て続けに常識の埒外にあることを言う。
このとんでもアンデッドはまさか、魔法斉唱を行った、と言っているのだろうか。
無茶も無理も通り越した非現実的な発言だ。
魔法は、斉唱や重唱によって効果や威力を上げることが極めて難しい。複数人協力が有効なのは広範囲を守る防御魔法とか、戦意を向上させる幻惑魔法コールオブデューティーを一斉に大人数にかける場合のような限られた魔法、限定された状況だけだ。
一例として、ここにファイアーボールの使い手が三人いたとしよう。その三人が斉唱を行って一発のファイアーボールを作り出そうとするとどうなるか。
答えは簡単だ。
暴発する。
よしんば暴発しなかったとしても、多くの場合、魔法として組み上がらずに魔力が霧散してしまう。
そこで求められるのが調律者だ。魔法使い三人のうち二人を魔法構築要員として、残ったひとりに組み上がっていく魔法の魔力同期や出力調整などを行わせる。
ひとりで魔法を構築するよりもずっと複雑な工程を経て完成する魔法は、悲しいかな、ひとりで作る場合よりも威力が下がってしまう。
もちろん、でき上がる魔法の威力は調律者の能力に大きく依存するのだが、相当上手くいっても、ひとり分よりほんの少しだけ強いファイアーボールが精々だ。斉唱に加わる人数が増えても結果は似たりよったりとなる。
斉唱において調律者は最も難しい作業を担うため、自然と高度な魔法技量が求められる。
優秀な魔法使いを魔法の構築要員ではなく調律要員に回し、それでいてできあがるのはでき損ないの魔法。
斉唱という無駄に難しい手段を選び、三人で一発の大きなファイアーボールを作り上げるよりも、三人がそれぞれ別個にそこそこの大きさのファイアーボールを撃ったほうが魔法攻撃としてはよほど効率的なのだ。
斯様な理由により、ごく一部の魔法以外では、斉唱や重唱は選択肢にも上がらない。
そういう一部の魔法以外で斉唱を実用的に運用した事例を引っ張り出すには、“四勇者”の時代まで遡らなければならない。
四勇者は、ひとりの超耐久力を誇る前衛と二人の天才魔法使い、そして、その天才魔法使い二人の魔法を統合できる、ひとりの調律者からなる四人組のパーティーだったとされている。
ただ、四勇者の逸話は二人の精霊殺しよりも遥かに古い。四人が実在したかどうかすら定かではない、伝説の領域である。
それくらい長い年月、本物の調律者と呼ぶに値する能力者は再誕していない。
調律者の話を引っ張り出すくらいならば、精霊殺しのほうがずっと現実味のある話だ。
なにせ、精霊殺しのひとりであるセーレとパーティーを組んでいたギブソンはまだ存命だし、もうひとりの精霊殺し、メルクスが名を馳せた時代にしても今から千年と遡らない。
精霊殺しはこの六百年の間に二人、歴史に名を連ねている。
一方、調律者のほうは、四勇者が実話だったとしても、かれこれ千年以上、世界に姿を見せていない。
世に出てくるのは、実用未満の大道芸にしか活路のない調律者の紛い物だけだ。
「ごめん。あの時は暗かったし、そもそもベネリカッターを溜めているとは思っていなかったから、ちゃんと見えていない。マドヴァがいないとベネリカッターを構築できない、ということは、マドヴァは調律者役を担っていた?」
「調律者? また、いきなり突拍子もない話を始めるではありませんか。真偽不明の四勇者が行使した奇跡など、我々には再現できません。あなたなりの冗談ですか」
「違う……」
私は真っ当な推論から仮説を導き出した。それをジバクマ風の冗談扱いされては納得がいかない。
第三のアンデッドは私をラシードと同じに扱っている。
「そもそも斉唱というものは――」
「煙がますます濃くなってきました。これは道を変えたほうがよさそうです」
ルカは厳しい表情で私の言葉を遮ると、来た道を戻り始めた。このまま先に進むと、スモークゴーレムと鉢合わせになると判断したのだろう。
ベネリカッターがなくても、こちらにはシーワもいればヴィゾークもいるのだ。ゴーレムと鉢合わせになっても、リリーバーならば、なんとかなるように私には思える。
ただ、あくまでそれは私目線での話。リリーバーもゴーレムも、私とはかけ離れた高い戦闘力を持っている。リリーバー視点では、ゴーレムがどれほど厄介な相手なのか、私だとよく分からない。
希少な魔物に背を向けるリリーバーには違和感がある。
何か普段とは違う……。
リリーバーだけではない。私も、いつもの自分ではないような気がする。今までの私であれば、危険な魔物との接触は可能な限り回避するように願っていたはずだ。
そのはずが、なぜか強梁な魔物の討伐を切望してしまっているような……。
心が不安定になってグラリと揺れた瞬間、それまでと違う視点から物事が見えるようになる。
リリーバーがスモークゴーレムから逃げているのは、もしかすると……。
「私が……足手まといだから……」
「え?」
ルカが足を止めて私を振り返る。
視界が霞んでいて顔はよく見えない。
「私がいると全力で戦えない。だから、ゴーレムを避ける。そういうこと?」
私は何を言っているのだろう。
思ったとしても言う必要のない、いや、むしろ、言うべきではないことだ。
こんな余計なことを口にしたところで、軋轢を作ることにしかならない。
「そんな卑屈な考え方をしないでください。無用な怪我を負ってほしくない、と思ったことはあっても、足手まといだなんて思ったことはありません。どうしたんです? いつものあなたと違います」
声色からするに、ルカは困り果てた表情で私の顔色を窺っている。
「深い意味はない。……単に聞いただけ」
これではまるで駄々をこねる子供だ。我ながら愚かな発言をしてしまった。
両腕を目一杯使った手振りでリリーバーに前進を促すと、ルカはそれ以上何も言わずに身を翻し、煙の薄い方を目指して道を遡っていく。
ふう……。
追及が緩めで助かった。このまま話を蒸し返されることなく、さらにはゴーレムとも出会さず、何事もなく煙の濃い場所から離脱したいものだ。
願いというものは、裏切られる可能性がより濃厚であると分かっているときほど強くなってしまうものなのかもしれない。
来た道を戻るリリーバー全員の足が示し合わせたように一斉にピタリと停止する。
ルカが私だけに聞こえるよう、空中を漂う煙すら震わせられないほどに小さな声で囁く。
「イデナに乗れ」
極小の声からポーたんが“意図”を拾う。そこに籠められているのはもちろん『緊急警報』だ。
小妖精の力を借りるまでもなく分かる。これはかなりの事態だ。
リリーバー全員がそのまま身動きひとつ取らなくなる。
ルカやクルーヴァが放つ生命特有の気配は微小化し、シーワたちアンデッドはまるで本物の死体のように存在感が消失する。
動かなくなったパーティーと、それでもなお流れていく時間。静と動の摩擦が強い熱を発生させる。
うっかりすると、数秒と熱さを我慢できずに身体を動かしてしまいそうになる。
時間経過をこれほど強く意識することも珍しい。
緊迫した時間を胸の内で数えること数十秒、リリーバーはまたも反転し、煙の濃い側へ向かって動き出す。
恐ろしく静かに、しかし、素早く、影が地面を滑るが如く煙の中を進んでいく。
ゴーレムから逃れるべく煙の淡い方へ戻ろうとしていたはずなのに、再び濃煙の揺蕩う道を行く。
おかしい。
リリーバーは“逃走”の“意図”をもって煙の濃い方向へ進んでいる。この先には、まず間違いなくスモークゴーレムが待ち構えている。
……まさか、ゴーレムとは逆の方向、煙の薄い道の先にゴーレム以上の危険度を持つ魔物がいる?
リリーバーは、ダンジョンの中とは思えないほど猛烈な勢いで下層の奥へ奥へと進んでいく。隠密行動下における全速力と言ってもいいかもしれない。
それほどまでに急いでいるのだ。後方の何かは、ただそこにいるだけでなく、こちらを追ってきている、と考えるのが自然だ。過剰なまでに自信満々のアンデッドたちすらも恐れさせる何かが。
私を乗せるイデナの横に、ルカを乗せたニグンが並走を始める。
ルカが前方をまっすぐに見たまま私に指示を下す。
「完全に気配を殺せ」
そう言われても、私は首を横に振るしかない。
できうる最高の気配遮断を私は既にやっている。
ルカやクルーヴァのように、死体に並ぶほど気配を殺す芸当など私にはできない。
私でもできる別の指示を求めてルカの横顔に切なる視線を送るも、返事は何もない。
そうこうするうちに、パーティーとは全く別の部分にある異常に私は気付いてしまう。
私は気配遮断を行っている。
自分の気配を断つと、他者から放たれる気配というものをより強く感じられるようになる。
このポジェムジュグラというダンジョンは魔物に溢れている。セーフティーゾーン以外では、至る所に呆れるほどに魔物の気配を感じる。ここはそういう場所なのだ。
それが今は、顕著な魔物の気配がどこにもない。スプリガンやピンギキュラ等の植物系の魔物はそこまで強い気配は放たないものの、ミノタウロスは鬱陶しいほど濃厚な存在感を遠くまで放つ。
あって当然の魔物の気配がどこからも漂ってこない。唯一、私たちの後方を除いては……。
存在を知覚した瞬間に肌が粟立つ。
無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ。
こんなものは倒せない。
勝てない。
リリーバーだって倒せない。
毒壺のクイーンヴェスパが恐ろしい魔物?
あれは大きい魔物だった。
ただし、積極的に人を襲おうなどと考えていない、いわば攻撃性の低いクマバチのようなものだ。
私たちの背後から迫っている気配は全く違う。
クイーンヴェスパとは比較にならないほどの凶暴性に溢れた“脅威”が私たちを獲物と見做し、尋常ならざる速度で追跡してきている。“脅威”は私たちを食らわんと垂涎している。
逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。
ぼんやりアンデッドたちは何をモタモタしている。
もっと速く走れ。
さもないと、すぐにでも追いつかれてしまう。
“脅威”は、もうそこまで迫っている。
悠長に気配を消し、チンタラと小走りで移動している余裕はない。
速く速く速く速く速く速く速く速く。
イデナにしがみついているだけの私の呼吸が速く荒くなっていく。
速く深く呼吸しても一向に拭えない、これまで感じたことのない息苦しさが胸を圧迫し始めたところで、突如、何らかの魔法が身体にかけられるのを知覚する。
横を見ると、ヴィゾークが私に魔法を放っていた。
魔法が効果を発揮するとともに息苦しさは急激に軽くなり、落ち着いた呼吸と冷静な思考が戻ってくる。
私の恐慌を察したヴィゾークが鎮静魔法をかけてくれたのだ。
一行は、鎮静魔法から間髪を容れず、ダンジョンに生い茂る植物を刈り始める。
一体何を始めようというのか。
戦闘力がミスリルクラスのワイルドハントは除草力もまたミスリルクラスだ。瞬く間に一帯の植物を刈り尽くすと、風魔法を駆使して刈り取った植物を一箇所にまとめ、そこへ火を放つ。
つい今まで根を生やしていた豊かに水を含む草の山が火魔法に炙られ、大量の煙を撒き散らしてゴウゴウと燃え上がる。
そこまで高くない通路天井にぶつかった煙は横方向に勢いよく広がる。その煙に追い立てられるようにリリーバーは移動を再開する。
走るとすぐに、まだ植物を刈り取っていない範囲に辿り着く。
リリーバーは走ったまま、生えている植物全てに火を放っていく。
動かぬ植物にはファイアボルトを飛ばして火を点け、動く植物ともいえるピンギキュラやスプリガンは火魔法で生み出した剣で串刺しにして生を奪い、そのまま着火する。
私にとって難敵である下層の魔物を瞬殺しながらリリーバーは走る。
これだけの強さを誇るリリーバーが、逃走を選択しなければならない相手。それほどの“脅威”が後ろから迫ってきている。
考えたくない事実に、恐怖が再び動く粘液のように腹の底のほうから湧き上がってくる。
リリーバーは下層にダンジョン火災を巻き起こしながら走り続け、ひとつの分岐点に差し掛かったところで足を止めた。
ここで“脅威”を迎え撃とうとでも言うのだろうか。メンバー各員は後方を振り向く。
他のメンバー同様に後方を睨んでいるノエルに、ヴィゾークが魔法をかける。
この魔法は……ノスタルジアとプリザーブだ。
これまでクルーヴァに対してしか使ってこなかった魔法を、なぜ今ノエルに使う?
ポーたんに“意図”を読み上げられてなお真意不明の魔法に続き、すぐに次なる魔法が構築されていく。
ヴィゾーク、イデナ、ノエルの三人による土魔法が、後方に伸びる通路に巨大な壁を作り上げる。
壁は通路横一杯まで広がると、今度は上方向への成長速度を増し、縦にも横にも広いダンジョン通路を封鎖していく。
虫の一匹すらも通さないまでに完全に通路を塞ぎきったら、次の成長は“厚み”だ。
みるみる厚くなっていく壁の異様さときたらない。まるでカラクリ仕掛けの壁が侵入者を押し潰さんとしてこちらに迫ってきているかのようだ。
目に映る現実と脳による理解の整合性が取れないうちに、壁はドンドンと分厚くなってグングンとこちらに迫る。
騙し絵の中に入り込んでしまったかのような錯覚に目が回り始める。
酔いそうになった私は慌てて土壁から目を切り、側方を見やる。
私が壁の造成に見とれている間に、シーワたちはその場の植物を綺麗に刈り取り終えていた。
刈り終えた草はここでも風魔法で一箇所に集められる。
目眩が落ち着き再び後ろの土壁を見ると、通路はもはや跡形もないほどに土壁で埋め立てられ、三叉路だった分岐点が二叉路……いや、ただの曲がり角のようなものになっていた。
土壁が完成すると、ヴィゾークはノエルにリヴァースをかける。
事態は未曾有の急を告げているというのに、思いがけず舞い込んだ謎を解くための鍵が、全く急を要さぬことを私に考えさせる。
ノスタルジア、プリザーブ、リヴァース。
これら三つの魔法の本質とは一体何なのだろう。
ノエルは私たちとの出会いから二年弱、一度も魔法を使ったことがない。そんなノエルが今日、初めて魔法を披露した。
ノスタルジアは、魔法を使えない者に一時的に魔法を使えるようにする特殊魔法なのだろうか?
仮にそうだとしても、ヴィゾークがノスタルジアを習得したのは比較的最近の話なのだから、ノエルが魔法を使えるようになったのも、ごく最近のことだというのに、ノエルが土魔法を扱う様は板についていて、未熟さや拙劣さといったものとはまるで無縁だった。
クルーヴァの闘衣の例があるから、ノエルもまたクルーヴァのようにドミネートされた存在だというならば、操者と同水準で各種魔法を使いこなしても、一応の説明はつく。
しかし、断じてそういうことではない。
賭けてもいい。そんな単純な理屈ではないと、私の直感が告げている。
いかなる蟠りがあろうとも、複雑な事情や交々の感情があろうとも、それらを全て捨てて協力しあうべき状況に置かれながら、死面と変装魔法に覆われたノエルの横顔を見る私の目は、今までにないほど強い疑いの色に染まっていた。




