第四四話 大森林の大氾濫
食事が日々私の好みになっていったり、夜のカード習慣が増えたりしながらフィールドを彷徨くこと一か月以上、リリーバーは新魔法の完成を高らかに宣言する。
「それで、今度はどんな魔法を作ったの?」
「ふっふっふ。聞きたいですか。ならば教えてあげましょう」
フライリッツの街を出たばかりの頃は作成する魔法の方向性が定まっていなかったためか、私に質問されてもリリーバーは答えようとしなかった。そのお預けもどうやらここまでだ。新種のアンデッドは魔法開発の成果を誰かに言いたくて辛抱堪らなくなっている。緩みに緩んだルカの顔が内心を如実に物語っている。
「魔法を使う際は、魔力のはたらきが必ず要ります。この魔力は、使い手一人ひとり異なっている波長のようなものを持っています。指でいうところの指紋にあたるもので、これを“魔力指紋”と呼びます。この魔力指紋による個人の識別手法が“魔力指紋法”です。これはマディオフ以外の国においても実用されている既存の技術、しかしながら比較的、近代になって開発されたものです」
ルカは滑らかな顎の先をイジイジと抓んで滔々と語る。
「あの真贋鑑定器は貨幣を構成する金属の成分解析と、魔力指紋法という二つの手法を組み合わせて真贋判定を行っています。魔力指紋法が貨幣の真贋鑑定に使われていることは鑑定器を分解して初めて知りました。同技術を我々が持っていなかったこともあり、ちょうどいい機会なので実器を教材として技術理解を深め、そのまま素直に魔法の形にしました。“新規作成”よりも“復元”のほうが、表現として適切でしょう」
語られるのは開発背景ばかりで、なかなか開発した魔法の詳細に入らない。私が少しばかり話の長さに倦んでいるとも知らず、ルカはえへんと胸を張る。
「あまり使い途が思い浮かばない」
「世の中、見た目を変えたり、声を変えたり、種族を誤魔化したり、と手を替え品を替え他者を欺こうとする輩が無数にいます」
剣やら顔やらに年がら年中、変装魔法をかけている連中が何を言う。アンデッド流の冗談なのだろうか。
しかし、声の調子はいたって真剣だ。ポーたんも、『私を笑わせたい』なる“メッセージ”は拾わない。
そこで、私も話の腰を折る無用のツッコミを頑張って我慢し、黙って話を聞く。
「しかし、魔力指紋を変える技術は我々の知る限り存在しません。つまり、我々が開発した新魔法は姿を自在に操って社会の日陰を渡り歩く者たちを私的な裁きの場に引きずり出す一助になるものと期待されます。ただ、技術的探求心に動かされて開発した趣味としての側面も大きく、今後本当に役立つかどうかは微妙なところです」
変装魔法や偽装魔法は小妖精の能力で簡単に見破れる。ただし、小妖精も決して万能ではない。
ポーたんが読み取れるのは幻惑魔法の根底にある『騙し隠す』という“意図”だけであって、幻惑魔法の下に隠されている“真実”までは突き止められない。
魔力指紋法は使い方次第で、ポーたんやトゥールさんでは消し去りきれない闇を照らす光明となるだろう。
◇◇
私たちが次に訪れたのは、フライリッツから北西に位置するリブレンという街だった。直線距離はフライリッツから遠くも近くもない……らしい。リリーバーの距離基準は一般人の感覚と乖離しているから、実際は地図上でもそれなりに離れているかもしれない。少なくとも私が自らの脚で体感した移動距離はかなりのものだ。
規模的にフライリッツと大きく変わらないというリブレンの街中を歩く人々の様相はフライリッツと大きく異なっている。
それというのも、街の活力を顕著に表す大通りのあちらこちらに浮浪者らしき集団が屯しているからだ。薄汚れた風体の目に力を宿さぬ人々は、通りの右にも左にも、行けど進めど、どこまでも続く。その悪しき影響は地元住民らしき身なりの整っている人々にも及び、街全体の雰囲気をひどく鬱然としたものにしている。
最初はなるべくジロジロと見ないようにしていたが、あまりにも目に付くので、反感を買わない程度に注目してみる。すると、ジバクマでしばしば見かける浮浪者とは違った特徴が浮かび上がってきた。
浮浪者というものは独り身の男性が圧倒的に多い。それなのに、ここにいる集団は女性や子供を数多く含んでいる。しかも、服装は多少汚れているものの、思ったほどの襤褸ではない。
気付いた瞬間、私の脳に過去の映像が大量かつ鮮明に蘇る。
そうだ。私はこれによく似た光景を見たことがある。
間違いない。この人たちは長年の住所不定者ではない。どこか別の街から逃げてきたばかりの避難民だ。
強烈な感情と共に脳裏に蘇る映像が肌を粟立たせる。
ルカは避難民の多さに嫌気したのか、冷然となって宿探しを開始する。避難民がどのような理由でどこから逃げてきたのか考える前に、まずはその日泊まる場所を確保する。はたしてその行動は正解か否か……。
新種のアンデッドは散策にも食べ歩きにも興味を示すことなく、脇目も振らずに宿を探す。しかし、リブレンの宿泊施設はどこも満室で、低級の宿にはじまり、中級の宿はおろか、高級宿にいたるまで全ての宿に宿泊を断られた。
正攻法では宿泊場所が決まらないと分かったリリーバーは方針を変える。道行く人に道を尋ね、次に目指すはワーカーが出入りする飯場だ。
飯場は他の飲食店とは一線を画する独特の匂いがあるから、近辺に辿り着くだけで後は誰に何を言われずともどの建物が目的地なのか分かってしまう。
フライリッツの飯場によく似た匂いを漂わせる店の中に足を踏み入れるのは私とルカだけ、後のメンバーは飯場脇で待機だ。
湯気に曇る飯場の中は食事時でもないのにそれなりの人口密度で、空席があまり多くない。
適当な席を探して店内を歩くと、四人は楽に使える卓を二人の男で占有している箇所があった。
椅子は丁度二つ空いている。座っている男二人も誰かのために席を取っている、という様子はない。
ルカが二人の男に相席を申し出ると、男たちは相席を快諾してくれた。なんなら快諾どころか、むしろ頼み込んででもルカと一緒に卓を囲みたい様子だ。
甘めに評価しても、人相が良いとも愛想が良さそうとも言えない悪漢風の男たちは、私たちが使うに邪魔となっている卓上の私物をそそくさと片付ける。
準備ができて椅子に座ると、ルカはそのまま男たちに会話を持ちかける。
「すみません。我々は流れのワーカーで、実はこの街に初めて来ました。見ると街中はただならぬ様子ではありませんか。こちらでは一体、何が起こっているのでしょうか」
男たちは険相に反した柔和な笑顔でルカの問いに答える。
最初の一瞥以降、二人の視線がルカに釘付けとなってチラともこちらに向かないのは実に印象的だ。
「ああ、そうなのか。あんたがたも大変な時にリブレンに来たね。外の様子を見て驚いたろう。俺もよくは知らないんだけどさ、何でも大森林で魔物の大氾濫が起こっているらしいんだよ」
男は締まりのない顔のまま、こちらの心の準備を大きく超える衝撃的な情報をもたらした。
大氾濫はそれだけで緊急事態だ。人の生活圏に近い場所に棲息する、そこまで強くない魔物が大氾濫を起こした場合でも、被害はかなりのものになる。
今回は、それが“白楼の森”、マディオフ人の言う“大森林”の大氾濫ときた。有事中の有事といえる。
仮に大氾濫の原因が大発生だった場合には、数十、数百では全くきかない、桁違いの人命が失われる。被害額ともなれば、それこそ天文学的数字にのぼるであろう。
大きすぎる衝撃を私が受け止めきれぬうちに、男は更に先を紡ぐ。
「ナフツェマフまで大氾濫に飲み込まれてさ。そこの住民も周りの小さい村の連中も挙って避難してきてる。避難民の大半はこの街を素通りして王都の方まで逃げたから、その残り分がリブレンにいるだけさ。それでもこれだけの数の避難民がここにいるんだから、ナフツェマフらへんも住みづらい場所の割に、人間がたくさん住んでいたんだなあ、って驚かされるよ」
街に犇めく避難民たちは、大氾濫から逃げてきた、元は大森林近くに暮らしていた人々だった。
ナフツェマフなる街に残って魔物と抗戦せず、一目散に避難したのは大正解だ。大森林の魔物の強さをダンジョンになぞらえるならば、下層の魔物相当とされている。
チタンクラスのハンターでも苦戦必至の強力な魔物が大挙して押し寄せてきたならば、最優先に考えるべきは街の防衛ではない。まずは生き延びること、その最善手が、何を捨ててでも逃げることだ。
大森林と聞いて真っ先に浮かぶのが大森林の頂点に立つ固有名持ちの魔物、古代語で“真なる赤きネコ”という意味を持つ“ツェルヴォネコート”だ。
ツェルヴォネコートを輩出した原種は“レッドキャット”。レッドキャットの並個体は広い大森林にいくらでもいる。毒壺で例えるなら、クロールドラゴンがワラワラいるようなものだ。
毒壺脱出間際の時期を思い返しても、アリステル班で一番強いラシードですら、クロールドラゴンを単独では倒せなかった。もちろん今の私もひとりだと歯が立たない。
ヒトという戦闘力に劣る種が大森林でハントをしようと思ったら、ミスリルクラス以上の強さがあるハンターを二人以上揃えなければならない。存在自体が希少なミスリルクラスを二人用意する難しさについては言を俟たない。
その極めて難しい条件を最初から満たしているのがリリーバーだ。リリーバーであれば、大森林の魔物を問題なく倒せるはずだ。並個体はもちろん、強個体も大群も上手くやれば処理できるだろうし、最難関たるネームドモンスターであっても低位の個体ならば、倒せる可能性は十分に秘めている。
リリーバーは疲れを知らないアンデッド集団だ。大氾濫の大波に後から後から押し寄せてこられたとしても、無際限に押し返せる。
たとえ大氾濫を起こしているのが大森林の魔物であろうとも、大氾濫に先立って大発生が生じていようとも、私たちはどうとでもできる、私たちは。
ところが、マディオフの一般住民はそうはいかない。
ここリブレンなり、マディオフ最大の都市、王都ジェゾラヴェルカなりに逃げて安全を確保したとしても、そこに生活基盤は無い。郷土に跋扈する魔物が排除されるまで、元の安定した暮らしは取り戻せない。
では、誰が魔物を排除し、大氾濫を収束させる。
大氾濫を起こしているくらいなのだ。街とその付近を闊歩する魔物だけ数えても一〇や二〇ではきかないはず。まさに桁が違う。
地元ハンターが結集し、そこにチタンクラスのハンター数名が加わり、ついでに心優しいミスリルクラスが一名程度、手を差し伸べてくれたとしても、それでもまだまだ多勢に無勢だ。
大前提として、戦える人間を相当数、集めなければならない。しかも、集めた人員に好き勝手させてはダメだ。全体を俯瞰し、駒を戦略的に動かせる司令塔も欠かせない。
高い実力を持つ者は我が強いと相場は決まっている。司令塔を務める人物は軍略に長けているだけではだめで、そういった我儘な実力者たちをまとめ上げられる高い統率力も求められる。
精選された戦闘者を中等数以上集め、それを指揮できる人間を招聘し、さらに活動を維持するための資金、食料、装備、消耗品等、各種物資も持続的に確保する。部隊というものは規模が大きくなればなるほど必要物資の現地調達が困難になる。前線の部隊が活動を継続するためには、側方および後方から支援する専用部隊も編成必須だ。
……少し熱を入れて考えすぎてしまった。とにかく、大森林の大氾濫もなると、これだけやって最低限だ。地方の自治体でどうこうできる範疇にはない。必然、国を挙げ、軍や衛兵が事態の収束に向けて動き出すことになるだろう。
言葉を失う未曾有の急を告げられたというのに、ルカは平然と口を開く。
「そうだったんですか。それは大変です。それで、少し話は変わりますが、お二人はどんな仕事をなさっているのですか?」
ルカは大氾濫話を掘り進めず、なぜか別の話題を始める。
二人の職業からはじまって、リブレンの景気、マディオフ軍が一般に公開している軍事状況、最近の国内ハンター事情など、種々雑多なことを聞き出していく。
ルカは時にかなり突っ込んだこと、男たちの気分を害しかねない微妙なことを躊躇う素振りすら見せずに思い切りよく尋ねる。
尋ねられた男たちは嫌な顔ひとつせずに、質問には何でも喜んで答える。
リリーバーはオルシネーヴァの宝物庫から頂いた“交渉力向上”の魔道具を持っている。シーワやヴィゾークにそれを持たせる意味があるとは思えないから、売却していなければルカが着用しているはずだ。
盛り上がる三人の横で、卓座の枯れ花として黙っているだけの私に言わせれば、ルカはこれと言って話術、交渉術を駆使していない。話の持って行き方も何もない。ただ普通に質問しているだけだ。いや、適切な前置きや遠慮が無い分、普通よりもむしろ程度の低い聞き出し方をしている。
どうやら、男たちの口が綿よりも軽くなっている理由を正しく察するには、私の持つ情報を今一度、検める必要がありそうだ。
大前提として、ルカの容姿が格別に優れている、という事実は踏まえておくべきだ。今、男たちに見えているのはルカの素顔ではなく、変装魔法によって作り出された偽りの顔である。これがまた女の私から見ても男ウケが良さそうな、元の顔とはまた違うかわいらしい顔をしているのだ。
男という生き物は、『美人に弱い』という誠に遺憾な弱点がある。あざといアンデッドが男の弱点を的確に突いているのが、雑談の名を借りた暴露話大会を成功に導いている理由の半分で、残り半分が交渉力向上の魔道具の影響、私はそのように睨んでいる。
私は魔道具の効果を誤って理解していた。「交渉力向上」とは、「着用者の話術の上達」を意味していない。「着用者が交渉相手から信頼を得やすくなる」ないし「交渉相手の疑う思考力を奪う」といったほうが、効果概説として、より現実に即しているだろう。
私の読解能力はまだまだ不足している。ポーたんが拾う“メッセージ”を正しく読み解かないと、こういった勘違いが起こる。
容姿と魔道具に強く依存しているにせよ、新種のアンデッドは私よりもずっと上手く男を操る。サマンダなんかも、振り返るほどの美人、というわけでもないのに、それはもう見事に男の心に取り入って言うことを聞かせるのだから大したものである。
女性の持つ“男性操作能力”とは、生まれつきのものなのだろうか。それとも後天的な努力や心のあり方で上下動するものなのだろうか。
サマンダはいいとしても、性の有無すら不明な新種のアンデッドが、紛うことなき女性である私よりも高い男性操作能力を持っているとは、何とも不愉快だ。
男は上手くあしらえない。感情を隠すのも下手、小妖精の能力によるカサ増しを考慮にいれても、私は潜入捜査にあまり向いていない。
◇◇
雑談を装った情報収集が終わり、飯場の外に出てから私はリリーバーに問う。
「もしかして、あなたたちは大森林で大氾濫が起こるのを予見していた? それとも、全てはリリーバーが引き起こした、とか……?」
詰問調の私の問いに、振り返ったルカがニタリと笑う。変装魔法で作り出された顔ではあるが、初めて見る黒く濁った笑みだ。ラシードに意地悪するときの、どこか愛嬌のある黒さとはまるで違う。
「あなたは我々といつも一緒にいたではありませんか。我々は何もしていません。偶然です。我々にとってとても都合が良い、純粋な偶然です」
ほくそ笑んで語るルカの言葉から、小妖精は特に何の“メッセージ”も読み取らない。リリーバーは今の言葉に特別な“意図”を何も込めていないし、おそらくは嘘も言っていない、という何よりの証拠だ。
しかし、こんな偶然があるものだろうか。あまりにも時宜にかない過ぎていて気味が悪い。
リリーバーは飯場を出た足で今度は鍛冶場へと向かい、製錬前の無垢素材、石の小片を譲り分けてもらう。
石を道具袋にしまい込み、ホクホク顔で鍛冶場を後にするルカに私は尋ねる。
「その小石は何に使う?」
「これですか? 記録用紙の代わりにします」
リリーバーが頼み込んで譲ってもらった石は隕鉄だ。魔道具や闘衣対応装備の材料となる、言わずと知れた霊石の一種である。
隕鉄の硬度はそれなりだったはずだから、これを筆記具のように使って何かを書き記したり、刻み込んだりするのはまだ分かる。しかし、『紙代わりの記録媒体にする』と言われても、『何のこっちゃ』という感じだ。上手く圧延すると植物紙よりも扱いやすい金箔ならぬ隕鉄箔でもできあがるのだろうか。
お得意の意味不明な回答で私を悩ませた新種のアンデッドは意気揚々と言う。
「さあ、せっかく大森林の魔物が出張ってきてくれているのです。力試しに何体か狩りに行ってみましょう。放っておいたら軍に全て狩られてしまいます」
大森林に引きずり込まれる悲劇の情報魔法使い。
幾分前に考えた全く好ましくない展開が、少しばかり事情を変えて私の前に広がっていく。
私はこれ以下がないほど……それは少し言いすぎだが、とにかくすごく不幸なのに、新種のアンデッドはこれ以上ないほど楽しそうにしている。世界はとても不条理だ。
日が傾いてからの出発ということで、リリーバーは久しぶりに背負子を取り出す。
私は確かに背負子に乗りたかった。背負子の上で余裕たっぷりに休みたかった。けれども、このような成り行きで背負子に乗らされたところでどうして喜べよう。
ああ、不幸だ。ああ、腹が立つ。
怒りに堪える情報魔法使いを背負子に乗せて、新種のアンデッドが暗い森を進む。進めば進むほど森の闇は深くなっていく。大森林の魔物が溶け込んだ森は暗くて、静かで、そして単純に恐ろしい。
リリーバーは、『北に進路を取る』と宣言して森に入った。せっかくこの間、南下したばかりなのに、また北上だ。北上の何が悪いのか、と問われても、満足な答えはないのだが、とにかく私は不愉快だ。もうリリーバーのやることなすこと何もかもが腹立たしい。
しばらくの間、私はずっとイライラしていたが、涼しい夜風に曝されながらイデナの背中で揺られていると、そぞろ出てきた眠気が怒りの熱を奪っていく。
もう辺りは真っ暗で、私の目では何も見えない。それに、時間もかなり遅い。
そろそろ夜間移動も終わりの頃合いだろう。
欠伸がこみ上げてきたところで、突如、激しい衝撃が私の身体を襲う。イデナがいきなり立ち止まったのだ。
無言の急制動は、これから何かが起こるというリリーバーの黙示だ。
闇の奥に潜む危険を探し、私も右左を見回す。星の光が十分に届かない森の中を観察するには、ヒトの目だと暗順応が完了してもなお足りない。
それでも懸命に目を凝らしていると、私を背負うイデナの横にひとつの影が忍び寄る。
影は随分と大きい。シーワを考えても、ずんぐりとまあ大きい。この不自然な形はルカと、それを背負うフルルの影だ。
ルカと思しき影は何も言わず、手で前方を指し示す。
指示する先へ目を向けるも、そこに広がるは闇ばかり。そこがどんな地形になっていて何があるのか、私には何も分からない。
私が首を横に振ると、ルカは聞き取れないほど微かな声で何かを囁く。
耳ではなくポーたんに頼って言葉の意味を拾う。その心は、『見えなくても、そのまま見ていろ』といったところだ。
パーティーからひとつ大柄な影がヌルリと抜け出し、ルカが示した地点に忍び寄っていく。大きさから考えて、この影はおそらくシーワだ。
シーワはあっという間に闇に紛れて見えなくなってしまう。
しばらくそのままシーワを飲み込んだ黒一色の空間を眺めていると、どこからともなく小さな発光体が現れて木々の間をちらつく。
闇に浮かぶ光の吸引力たるや相当なもので、私の視線をガッチリと掴んで離さない。赤と黄色が煌めきながら移ろい変わり、ユラユラ、ヒラヒラと空中を動き回る様は宛然、蝶の如し。
闇夜舞う光る蝶の美しさに見惚れていると、突然、ドサリと美しくない物音が響く。そうは固くない、しかしながらそれなりに重量のある物を無造作に土の上に放り捨てた、そんな音だ。
イデナが私を背負ったまま異音の源に向かって歩みだす。
そこにはいつもと変わらずに悠然と立つシーワがいて、その足元にはズングリとした謎の塊が転がっていた。状況的に、この奇妙な塊はシーワが仕留めた魔物だろう。
危険な魔物はリリーバーによって排除された。他に迫りくる危険は取り敢えず無さそうだ。
おや、そういえば光る蝶はどうなっただろう。
蝶が飛んでいたのは、ちょうど今、私たちが立っている辺りだ。ところが、前後左右を見回せど、あの美しい発光体はもうどこにも見当たらない。
「これがレッドキャットのようです。我々も見るのは初めてです。近くに他の個体の気配はありませんから、討伐した個体の身体を少し調べてみましょう」
ヴィゾークは倒れた魔物を包み込む形で土魔法の小屋を作り出す。できあがった小屋の中にヴィゾーク、私を乗せたイデナ、そしてルカを乗せたフルルが入ると、入り口の扉が閉められる。
完全な暗闇の中、ルカに求められて私はマジックライトを点す。光が謎の塊の正体を露にする。
倒れた魔物の優雅な深緋の体毛は、燃え盛る炎さながらだ。体長は、優にヒトの倍はある。異様に巨大ではあるものの、顔の作りはネコそのまま。なるほど、これは確かに“レッドキャット”だ。
ルカがレッドキャットの口を手でグイとこじ開ける。大きな魔物は開いた口もまた立派で、ヒトの頭であれば二つ三つは楽々同時に丸呑みできそうなほど大きい。
脚の一本につけても、私の胴回りより一回り以上太い。脚の先に伸びる爪は短剣を思わせるほどの長さがある。口も脚も、凶器としての存在感は十分だ。
シーワはこのレッドキャットを奇襲一撃で仕留めたらしく、死体には傷口がひとつしかない。この大きさの魔物をよくたったの一撃で絶命させられるものだ。
ルカは死体を検めながら、私の心を読んだかのように語りだす。
「戦うとどうなるか分かりませんが、奇襲で倒す分には楽な相手です。大森林の頂点捕食者だけあって、フィールドに生きる魔物とは思えないほど警戒心が薄かったです」
リリーバーが言うのだから、レッドキャットに忍び寄るのはディアーに忍び寄るよりも簡単なのだろう。しかし、一撃で仕留められなければ反撃を受けることになる。
見よ、レッドキャットの皮膚と肉の分厚さ。これは天然かつ至高の防具だ。
奇襲に成功しても、生半可な攻撃では一発で倒せない。
レッドキャットが熟睡していたとしても、私では一撃必殺とはなりそうにない。奇襲なら簡単、というリリーバーの意見には、これっぽっちも同意できない。
リリーバーは私の返事が無いことに頓着せずレッドキャットの解体を始める。
ルカは、手先は器用でも力は並であり、大柄な魔物や固い魔物の処理には難渋する。力の要る工程は私やフルルたちが担当し、協力して大きな身体をサクサク解体していく。
全身を腑分けしても、残念ながら精石は見つからなかった。素材各種を回収して街で売り払おうにも、身元を怪しまれる原因になって難しい、ということで、食用と薬用に適した部分だけを切り取り、それ以外の部分、つまり全身のほとんどをそのまま地中に埋めた。
◇◇
レッドキャット初遭遇からの初討伐、初解体を終えたところで大森林の魔物討伐初日が終了になる。
翌日、朝日が射す森の中を進むと、何頭ものレッドキャットと出くわす。リリーバーはやり過ごしも迂回もせず、レッドキャットを見つける度に勇んで戦いを挑む。
ネームドモンスターは特別すぎるから除外するとして、レッドキャットは生態系における最上位種のひとつだ。そのレッドキャットを苦もなく倒すリリーバーを見ていて思う。
オルシネーヴァ軍との戦争を経て、私の中にあるリリーバーの心像は、『高度な対人戦闘能力を持つパーティー』に塗り替えられてしまっていたが、元々リリーバーはワイルドハント、つまり、本来は広い意味でのハンター集団である。
私たち軍人が魔物を相手にしたときではなく人間を相手にしたときこそ本領を発揮するのと同様、リリーバーが最高の力を発揮できるのは人間を相手にしたときではなく魔物を相手にしたときだ。
オルシネーヴァと戦った時は、『戦争に早く決着をつけたい、それも、かなり特殊な形で終わらせたい』という事情もあって、ちまちました小技には頼らず力ずくで敵を倒した感があった。
それが今、リリーバーは力押しではなく、数的有利を活かして巧みに連携し、技でレッドキャットを弄ぶ。
ウルフが群れで獲物を狩るときを彷彿とさせる多方向からの息の合った攻撃に、レッドキャットは完全に翻弄されている。
肉食の魔物であるレッドキャットの視界は前方向に限られている。ディアーとは違って側方への視野は狭く、後方視野にいたっては全くない。
レッドキャットが右手に立つフルルを向けば、フルルは一歩後ろに引き、逆に左のシーワが一歩前に出てレッドキャットの後脚に創を刻む。
レッドキャットが怒りの闘衣を纏ってシーワを振り向くと、今度は奥のヴィゾークと手前のイデナが魔法を放ち、それが見事なまでにレッドキャットの闘衣の切れる瞬間に着弾する。
被害を最小限にして敵を倒す方法としては極めて有効である。とはいえ、レッドキャットにとってみれば、嬲り殺しのようなものだろう。こうなってしまうと、身体の大きさも牙の長さも闘衣の強さも、あらゆる長所が形無しとなる。
苦し紛れにレッドキャットが唸り声を上げて威嚇しても、恐れを知らぬアンデッドはビクリともしない。
レッドキャットは動けば動くほど疲れる。アンデッドはいくら動いても疲れない。
レッドキャットは魔物だてらに闘衣を使いこなす。絶だって使える。しかし、闘衣の理解はアンデッドのほうが深い。性悪アンデッドはレッドキャットの絶の瞬間を狙いすまして剣なり魔法なりを撃つ。
絶が自分の首を絞めることにしかならないと分かったレッドキャットは、遮二無二、闘衣を絶やさず牙を振るう。
すると、リリーバーはもう剣を引かない。濃密な闘衣を纏ったレッドキャットの頭部めがけて剣を叩き込む。
絶を禁じたレッドキャットは牙で剣を防ぐも、闘衣同士の衝突による硬直で動けなくなる。
戦闘中の硬直は一瞬でも命取り。
すかさず四方から伸びてきた剣がレッドキャットの身体に音もなく沈み込む。
大きく斬り裂く必要はない。最小の創を作って体内に侵入した刃はレッドキャットの腱を断つ。
闘衣の硬直が解けても、もうレッドキャットの身体は動かない。
骨と筋が無傷でも、それらを繋ぐ腱が断たれてしまうと、随意に身体を動かせない。
哀れ、レッドキャットにできたのは、入れ代わり立ち代わり自分に剣を撃つワイルドハントを追いかけて、その場でグルグル回り狂って歌うばかりだった。
一方的に剣を浴びた即興歌手は、最後は静かに生命を終えた。
リリーバーにハントされるレッドキャットを見届けるなかで、昨日見かけた光る蝶の正体が判明する。あれは、どうもレッドキャットが作り出す火魔法の一種だ。
光る蝶は、リリーバーがレッドキャットに襲いかかる直前のフィールドに時折、飛んでいる。それが、戦闘開始からしばらくすると音もなくフィールドの空気に溶けるように消えてしまう。
私はあれを、レッドキャットが狩りに用いる囮なのだろうと推測している。実際、昨晩の私も光る蝶に完全に目を奪われていた。もしもリリーバーと一緒でなかったら、光る蝶に気を取られている間に、忍び寄ったレッドキャットに一噛みにされていたかもしれない。
ある程度レッドキャット討伐数を積み重ねて満足がいったリリーバーは、方針の微調整を宣言する。
フィールドを進み、新たなレッドキャットを見つけると、今度も洋々と戦闘を仕掛ける。しかし、レッドキャットの身体を削って弱らせるばかりで、致命の一撃は与えない。
いいだけレッドキャットを弱らせたら、私に言語道断な命を下す。「サナもレッドキャットと戦ってみてください」と。
瀕死の一、二歩手前まで弱らせてあるとはいえ、私の目の前にいるのは大森林の最強種だ。私なんかが満足に戦えるわけがない。瀕死のレッドキャットの攻撃を一発もらうだけで、こちらは瀕死を通り越して死に至る可能性が大だ。
直撃だけは絶対に受けないよう、自分の残り体力等は全く考えずに全身全霊で臨む。
ヒトとレッドキャット、両者の死にものぐるいの戦いは、悪趣味アンデッドを楽しませる良い見世物だ。
私が守りに徹していると、全身から流血するレッドキャットはそれだけで次第に弱っていく。
レッドキャットの攻勢が翳り、これならこちらから剣を撃ってもいいかもしれない、と私が思い始めたところで、見世物は終わりとなる。
リリーバーは私を後方に下がらせると、もはや目が見えているのかも怪しい濁った眼差しのレッドキャットを一撃で絶命させる。
対戦相手が事切れるのを見届けた瞬間、私の全身をドッと疲労が襲う。究極の緊張が、今の今まで私に疲れの自覚を許さなかった。
分かった途端に何もかもが重くなる。普段から着用している鎧も、手に持った剣も、信じられないほどに重い。こんな身体でレッドキャットに鈍重な攻めの剣を撃っていたら、逆に瀕死のレッドキャットに殺されていただろう。それほどひどい疲れを自覚できないくらい、私は緊張していた。
◇◇
背負子の上で存分に休み、失った体力が回復してから次に戦わされたのはディアーだった。ディアーといってもそこは大森林の魔物、怪物じみた大きさのブルムースである。
雄々しい角を計算に入れずとも、蹄の先から額までの体高は私の身長の倍近い。角を含めると、それこそ私の三倍ほどはありそうな立派な魔物だ。
ブルムースは弱体化を経ずに私のほうへと追い立てられる。代わりに私の身体にかかるのが、リリーバー手製の身体強化の補助魔法だ。
私にとっては本日二戦目。
いざ戦ってみると、ブルムースは肉食獣も斯くやの強さだ。
角のしゃくり上げは肉食獣の爪や牙と変わらない致命の攻撃だ。執拗にこちらを角で攻め立てるブルムースを前に、私はなかなか攻勢に転じられない。
ちょっと強い魔物が相手だと、私は何もできない。
角攻撃を何度も捌いていると、ブルムースは持久戦の様相を呈し始めたことに倦んだのか私から距離を取り、左右の角の間に魔法を構築しはじめる。
あの魔法は何だ!?
私はブルムースの操る魔法に見識がない。ブルムースが放とうとしている魔法に、まるで見当がつかない。ポーたんのおかげで分かるのは、あれが攻撃魔法ということだけだ。
どうする?
魔法を完璧に防ぎ、それから反撃に移るべきか。それとも魔法構築の隙をついて攻撃するべきか。
私が対応を決めかねていると、フルルが横から飛び出してブルムースを撃つ。手心なしのバッシュによる強攻撃だ。
突然の横槍にブルムースは為す術なく沈む。
大森林の魔物を相手に、私の戦績は二戦して二戦とも勝敗付かず。満身創痍のレッドキャット戦も、補助魔法を貰ったうえで臨んだブルムース戦も、いずれも相手を倒しきれなかった。
……いや、勝敗付かず、というのは私に都合良すぎる表現だ。リリーバーは、私を守る、という明確な“意図”を持って戦いに介入してきた。介入が無ければ、私はかなり酷く負傷していたものと思われる。
事実上、私の敗北だ。
◇◇
その後、フィールドを進み、また別のブルムースを発見する。今度はリリーバーが心身万全のブルムースと戦い、私はその様子をマジマジと観察する。
結果、角を活かしてブルムースが作る魔法は、爆裂魔法の一種であることが分かった。
火気こそ伴わないものの、魔法の直撃した地面にはブルムースの全高に匹敵する大穴ができている。紛れもない範囲攻撃であり、これをギリギリで避けるのは厳禁だ。
避けるならば、かなりの余裕を持って大きく回避すべき。中途半端な避け方をしてしまうと、全力の闘衣で身を覆ったとしても、守りを上回る撃力によって大ダメージを受けることになるだろう。
一戦を終えたリリーバーは、『レッドキャットだけでなく、ブルムースも目にするのは初めて』と言う。
初見でありながら、なぜ魔物が繰り出そうとしている魔法やスキルの危険度を察知できるのだろう。
自分の目で見るのは初めてでも、ハンターの予備知識としてブルムースの得意な魔法の種類や威力を覚えていたのか、それとも戦闘勘で鋭く危険を察知したのか、はたまた単にブルムースが未知の魔法を放とうとしていたから、深くは考えずに手を下しただけなのか……。
リリーバーの“ハント脳”もまだまだ私の理解が十分に及ばぬ部分だ。
大森林の魔物を倒した数が十と少しを数えるようになったあたりで、ルカが「遠目にヒトらしき集団が見えます。マディオフ軍かもしれません」と言い出し、森でのハントは終了を迎える。
ハンターであることを止めたリリーバーはヒトとの接触も魔物との接触も回避して隠密に森の中を駆けていく。先程まで連戦に次ぐ連戦だったというのに、リリーバーの心ひとつで、同じ森の中がこんなにも静かに穏やかになる。
イデナに揺られて平和な森を行く私は、何とはなしに考える。
大森林の魔物にも、狩るものと狩られるもの、捕食者と被食者という食物連鎖の関係がある。ブルムースのような狩られる側の魔物、被食者ですら、私ひとりでは倒せない強さがあるのだから、かのフィールドの難易度の高さは噂に違わない。ミスリルクラスのハンターが二人以上のパーティーを組んで行動しないとハントにならない、というのも納得だ。
この度の大氾濫にはマディオフの誇る軍隊が必ずや鎮圧に乗り出すことであろう。マディオフ正規軍は小国オルシネーヴァの正規軍よりも精強だ。近年は大規模戦闘が減っているとはいえ、オルシネーヴァ軍とは比較にならないほど実戦経験豊富な部隊だ。
そんなマディオフ正規軍といえども、あの強さの魔物をあの量、相手するとなると苦戦は必至である。なにせ、プラチナクラスの戦闘力があり、なおかつ普通の軍人よりもずっと対魔物戦の経験がある私でさえ、これだけ苦戦したのだ。ゴールドクラス以下の軍人では大森林の魔物と対峙できるはずがない。
マディオフ一国が擁するプラチナクラス以上の人材は、ハンターと軍を合計して推定二百人前後。その全てを大氾濫の処理に動員することはできないだろうし、ここは仮にその半分、百人が討伐隊として事に当たるとしよう。プラチナクラス未満の人材は、この百人を全力で補佐することとする。
大森林から溢れ出た魔物が計一万だったとして、純戦闘員百人の討伐隊がこれらを全て殲滅するにはどれだけの日数がかかるか。
半年……一年……あるいはもっと長くかかってもおかしくない。
その百人それぞれがリリーバーの構成員と同じくらいの戦闘力を有していれば、処理は極めて迅速に終えられる。しかし、それは仮定にしても荒唐無稽な話だ。それほど強い人材が百人もいた日には、ジバクマ共和国もゼトラケイン王国もゴルティア公国も、とっくの昔にマディオフに滅ぼされている。
少しだけ安心なのは、これだけ規模の大きな災害が現在進行形で生じている以上、近日中にマディオフが周辺諸国に戦争を挑む可能性は極めて低い、ということだ。足元を固めなければ戦争には興じられない。
真剣に情報を咀嚼する私を、足役のリリーバーは黙々と運ぶ。進路上にマディオフ軍と思しきヒト集団を見つける度に大回りに迂回し、マディオフ本領のほぼ中心に位置するマディオフが王都、ジェゾラヴェルカを目指した。
たまに私に訓練させる目的で足を止める場合を除き、リリーバーは魔物もできる限り無視して進んだ。
◇◇
ジェゾラヴェルカに着いたのは、マディオフに密入国してから二か月が経とうという頃だった。
マディオフの王都は、ジバクマの首都ジェラズヴェザに劣らぬ大きな街だ。軍人として、ジェゾラヴェルカの大まかな人口や都市面積を私は事前に知っている。自分の目に映る王都は、事前知識と概ね相違ない。
ジバクマの首都と同様、マディオフの王都も都市構造的な意味で特別な防衛機能というものは無さそうだ。それは即ち他国から王都の安全を脅かされた経験が無いことを意味している。ジバクマに伝わっているマディオフ史も、まずまず正確なようだ。
ワイルドハントのひとりとしてこの街に足を踏み入れた私ではあるが、ジバクマに帰還した暁にはひとりの軍人に戻る。他国の王都にまつわる見識は貴重な軍事情報になる。
帰国の日を思い、ジェゾラヴェルカの作りをできるだけ記憶に刻み込んでおく。街並みなどは絵心さえあれば帰国してから絵に書き起こすことも可能なのだろうが、絵筆と相性不良の私には負えない荷だ。トゥールさんあたりが進化して、それに相当する能力を身に着けてくれはしまいか。
叶ったら嬉しい将来の能力成長を夢見ながら、異国の大都市を我が足で歩く。国土北東部は大氾濫で大変なことになっているというのに、王都が平和そのものなのは、何とも皮肉な感がある。
リブレンの飯場で聞いた男の話によれば、大森林近くのナフツェマフなる地域から大量の避難民が王都に押しかけてきたはずだ。
魔物と避難民の衝撃を受けてなお、王都のこの泰然ぶり。避難民の避難生活を整えるために一部の公的機関は大忙しとなっているのかもしれないが、少なくとも王都の大通りにその影響は表れていない。ここでは、リブレンのように悲嘆に暮れる避難民の姿を通りの右にも左にも見かけない。本物の浮浪者を時折見つけるのが精々だ。
私たち九人は平和な王都を平和に歩いて役所を訪れ、ナフツェマフ近郊の“レキン”という村からの避難民として登録を行った。レキンが実在する村なのか、それとも出任せアンデッドがこの場で考えた架空の村なのか、私は知らない。私たちを応対した役人は思い切り胡乱な目でこちらを見ていたから、実在するにはするけれどもかなり曰く付きの村なのかもしれない。
王都で過ごすための身分を作ると、今度は役所のすぐ傍の区画にある税務署を訪ね、ハンターとして活動するために狩猟税を納付する。
あまりにも人間的に物事を進めるリリーバーに、私は正直驚きを隠せない。
“辛酸”の原因となった異端者の調査予定を思い返しても、リリーバーは年単位で先を見据えている。王都に主要な調査拠点のひとつでも設けるつもりなのかもしれない。
狩猟税を納めた後は骨肉店へ行き、これまでフィールドで回収するばかりだった魔物の素材を売却する。持ち込んだ素材の量が多かっただけあり、それなりの金額になった。
国や手配師から目をつけられることを避けるため、高額な素材は換金に回さないでこれなのだから、リリーバーが本気で金策を始めたら、私が卒倒しかねない額の金を稼げるに違いない。
骨肉店を退店した後も私が頭の中で金勘定を続けていることに気付いたのか、リリーバーはこれから先も高額な素材を換金するつもりがない旨を述べる。
私も安全第一であってほしいと思うし、そこに異論はない。……が、本気で稼いだらどのくらい金を貯められるのか知りたい、と思ってしまうのは、決して変ではないだろう。これはヒトとして極めて自然な発想だ。
リリーバーにルカ以外ヒトの構成員がいないことをこれだけ残念に思うのは初めてかもしれない。もしもリリーバーがヒト集団だったならば、簡単に資産家に……。
ああ、でも、アンデッドという種族が問題になるのは、ここマディオフにおいてだけだ。ジバクマでもゼトラケインでも人間と良好な関係を保って慎ましく過ごし、必要な手続きを踏めば市民権は得られる。
そうだ、いいことを思いついた。異端者を誅滅してジバクマに戻ったら法人を設立しよう。
一般財団法人? それでは好ましくない。ここはガツンと、とことんまで営利を追求する株式会社を設立する。会社役員には私が責任を持って名義を貸そう。その場合、ルカをどうするべきかが問題だ。
ルカはリリーバーの誰かに操られた傀儡だ。ジバクマの法律では国民をドミネートで操作することを禁じている。法が禁じていなかったとしても、私は個人的にルカをドミネートから解放してあげたいと思っている。リリーバーがルカの解放に同意するだろうか。
乾燥して頭の固そうなアンデッドを納得させるのは骨が折れそうだ。優しく言ってもダメなら、カッピカピのアンデッドを骨ごとバッキバキに折って無理矢理にでも言うことを聞かせて……。くふふ、なんちゃって。
……はっ。
私は何を考えている。まず前提からして私の考えはおかしな方を向いている。何が法人設立だ。これではジルがリリーバーを社員に登用したがっていたのと何も変わらないではないか。頭を冷やせ。
金欲に濁った思考を振り払い、いつもの頼れる冷静な情報魔法使いに戻る。
周りを見て気付く。私たちはいつの間にやら別の店の中にいた。
リリーバーが訪れるくらいだから、この店はきっと武具店……ではなかった。武具店よりはカジュアルな、それでいながら普通服よりも実用品としての趣がある作業着を取り揃えた店だ。
私がぼんやりしている間にルカと店員はあれやこれやと服を見繕い、好き勝手に私の装備の上に重ねては寸法を確かめている。
ルカがいきなり、「これが良さそうです。サナもこれでいいですか?」というものだから、反射的に「問題ありません」と答えてしまい、実質、私の意見は何も反映されぬまま、マディオフの装いが購入される。
唐突に決まった新しい服はローブの下の更に鎧の下、鎧下着として着るものに過ぎない。普段はローブや鎧の下にほとんどすっぽり隠れてしまう。それでも、新しい服に袖を通すのは気分がいいものだ。
身なりを整えたら、次に向かうのは料理屋だ。味には一家言ある美食アンデッドが案内するは、構えからして高級な店だ。おろしたての服ですら場違いな気がして、私は小さくなって店に入る。
給仕に案内されたのは、間仕切りによって中程度の広さに仕切られた空間だった。壁で完全に隔てられているわけではないが、他の客の視線は全く気にすることなく過ごせる、なかなか気の利いた配置だ。しかも、間仕切りは床に立てる板状のものではなく、薄く透けた帳なのがジバクマとはひと味違う。帳には透け具合に濃淡があって美しい紋様を浮かび上がらせており、異国の情趣に富んだ枯淡となっている。
店の内装だけで私の満足感が満たされていく。
着座した私にルカは満面の笑みで品書きを見せてくるものの、羅列された品目だけでは、それがいかなる食べ物なのか私にはまるで分からない。そこで、料理長にお任せならぬアンデッドにお任せで料理を頼んでもらう。
厨房から運ばれてくるのは、リブレンで食べた料理ともまた少し趣の違う、どれもこれも初めて目にするモノばかりだ。ただ、リブレンで初めて食べたマディオフ料理ほど、皿から立ち上る香りに対して驚きや抵抗を覚えない。リブレンとジェゾラヴェルカ、違う土地、違う店であっても、どちらもマディオフ国内の店。共通して使っている香草や調味料でもあるのだろう。
料理を口に入れるのに、前ほど勇気は要らない。料理を価値付けるくらいの余裕を持って賞味する。
うん、美味しい。
食べ慣れない料理であるにもかかわらず食べ辛さなど全くない。前菜に主菜、それに主食も、いずれも非常に食べやすい。飲料も、ジバクマでは味わったことのない独特な甘さで、不思議な魅力があり、喉をスルリと通る。
最後に出てくる甘味まで文句なく堪能し、適度に膨れた腹に手を当てて幸せな時間を反芻する。
異国料理だというのに、ジバクマで食べた一番美味しいものと比較してもさして引けを取らないのだから驚きだ。
『異国の美味しい料理』と『母国の美味しい料理』の二つを並べたら、人は母国の料理を、『より美味』と判定しそうなものである。ところが、私の舌と腹はこの店の料理をジバクマの最高の料理と同等と判定した。私は高級料理に縁などないから、ジバクマでの経験などたかが知れているが、それでもこの判定には自分でも驚きだ。
案外、究極に美味しいものというのは出自国籍に関係なく広く人間を満足させられるものなのかもしれない。
◇◇
美味しいものを食べると、泊まる宿にも俄然、期待がかかる。料理屋を出て、王都の宿の饗しや如何に、と思って歩く私に、ルカは「王都から出ます」と味気ないことを言う。
もう時間も遅いというのに、リリーバーは王都の隣にある学園都市に向かおうとしている。
隣の都市というから、どれだけ離れているのか、と気構えさせられたけれど、都内と然程遜色なく整備された街道を通って学園都市に着くのに、それほど長い時間はかからなかった。
それでも、到着時には夜がとっぷりと更けている。夜は深いというのに、右を見ても左を見ても建物からはそれなりに光が漏れている。
それに驚く私にルカは言う。
「夜更かしは大学生の永遠の性なのでしょう」
学園都市なのだから、ここには無数の大学生が暮らしていて然り。年齢構成がジバクマと同じであれば、大学生の平均年齢は私と変わらないはずだ。方や私のように密入国して夜の街をアンデッドに引きずり回される人間もいれば、方や夜遅くまで安全な屋内でのうのうと遊び耽る人間もいるとは。あまりの立場の違いに悲しみのひとつもこみ上げよう。
悲しみに暮れる私は隠密行動とまではいかないものの、目立たぬように静かに学園都市を進むアンデッドに付いていき、どことなく品の良さが漂う住宅街に入る。住宅街だけあって、さすがに至る所から灯りの光が漏れ出しているわけではないため、建物の質が本当に上等か判定はできない。ただ、少なくとも、一帯の住民が行儀良く寝入っているのは間違いなさそうだ。
新種のアンデッドとは縁遠そうな高級住宅街でリリーバーは私に騎乗するよう求める。さては、またどこかの建物に忍び込むつもりだ。夜の街を歩くと建造物にこっそり忍び込まずにはいられない、不法侵入アンデッドだ。
迷う様子もなくスイスイと進むリリーバーが目をつけたのは、これといった特徴のない、とある一軒家だった。
"魔力指紋法"と聞くと、人によっては"DNA指紋法"を思い出すかもしれません。二昔くらい前のハイテク犯罪捜査のDNA鑑定といえばコレのことを指していると思います。犯罪捜査以外の分野では、DNA指紋法は今でも現役で利用されている技術です。
諸先生方の作品で「魔力紋」や「魔紋」という単語は使われていても、なぜか「魔力指紋」という単語は、googleで検索する限り使われていないようだったので、拙作で使用しました。DNA指紋と被らないように意図して回避されていたのでしょうか……?




