第三九話 追想 スヴェン 一
「よし……忘れ物は無いな」
もう何度目か分からない持ち物確認をして、僕は独り言つ。なにせ、これから生まれ育った街を離れ、命懸けの任務に身を投じるのだ。装備や携行品は何度確認しても確認しすぎということはないはずだ。
僕の出発を待って不安そうにする家族の姿を見て、僕は自分の半生を振り返る。
◇◇
僕は運が良いのか悪いのか分からない。
父の息子として生まれたのは、運が良いことだったかもしれない。
父は優秀なハンターだ。僕たち家族に人並みよりも少しだけ余裕がある生活をさせてくれる。そんな父の元に生まれたのは紛れもなく幸運だ。
そして、僕は長男だった。だから、学校に通うことができた。一部の裕福な家庭を除き、学校に通えるのは長男長女だけ、という厳しい社会常識は今も昔も変わらない。貧しい家だと長子でも無学文盲のまま生涯を過ごすことになる。
でも、同じ父の子供として生まれるならば長男でなくたってよかった。弟だって学校に通っている。
僕は次男に生まれたかった。それが無理でも、あと数か月早く生まれるか、一年遅く生まれていればよかった。そうすればあいつと一緒の学年になって、同じ学級になることはなかった。
アルバート・ネイゲル。
あいつは異常だ。
初めて会った時からおかしい奴だった。あいつが僕に初めて話しかけてきた時、お互いに名前を教え合った直後のあいつの言葉を、僕は今でもよく覚えている。もう二昔近く前のことだというのに……。
あいつはこう言ったんだ。
『スヴェンの知り合いに、“生まれ変わった人”っていない?』
やっと幼児期を脱したばかりの子供には似つかわしくない言葉を口にすると、あいつは濁った目で僕の奥底を不躾に覗き込んできた。
たとえ六歳の子供であっても、『こいつは関わってはいけない危ない奴だ』と、すぐに分かる。
それでも、話が転生云々だけで済んでいれば、あいつは熱心な紅炎教の家庭で育った子供としてギリギリ済ませられたかもしれない。
初対面の相手に持ち掛ける話題がおかしいだけで、あいつはただの優等生だった。最初だけは……。
あれは乱暴者のポヒムがアルバートに突っかかっていった時のことだった。
ポヒムは学年で一番身体が大きい。二つ、三つ上の学年に混じっても違和感が無いくらい大きい。
ポヒムがアルバートに絡んだ経緯を僕は覚えていない。忘れてしまったのではなく、当時から知らなかったのかもしれない。ポヒムは馬鹿で我儘だったし、アルバートは異常者といえども表面上は優等生だったから、おそらくポヒムがアルバートに難癖をつけたのだと思う。
この時の僕は異常者アルバートをまだ嫌いにまでは思っていなかったから、ポヒムに乱暴されるアルバートに哀れみを感じていた。今考えると、無知ゆえの愚かさが招いた不適当な感情だ。
アルバートは自分よりずっと大きなポヒムに掴みかかられても、まるで動じていなかった。
それどころか、アルバートの胸ぐらを掴んだポヒムの腕を逆に捻り下げた。ポイントは、捻り上げようとせずに、迷いなく捻り下げたことだ。あいつは、相手に効率的に痛みを与える手法を分かっていた。
力が入りにくい方向に腕を捻られたポヒムは痛みに叫ぶ。それでも、何とか全身を使って“捻り下げ”から逃れると、あいつに果敢に殴りかかっていった。その時の僕には“果敢”に見えたが、今考えると、悲しくなってしまうほど“無謀”な行為だ。
襲いかかってきたポヒムを、体格に劣るはずのあいつはこてんぱんにやっつけた。
アルバートは体格がいいだけのポヒムと違って武術が身に着いているようだから、ポヒムを技で圧倒しても何も不自然ではない。でも、僕はあってはならない重要な問題に気が付いてしまう。
おかしかったのは技ではなく、アルバートの力だ。
アルバートは一見、僕らと同じ普通の体格しかない。それなのに、純粋な腕力でもポヒムに負けていなかった。
魔法を知っていた僕は、その理由が分かった。将来役に立つから、と、父が就学前からこっそり魔法のことを色々と教えてくれていたからだ。
知っているとは言っても、別に自分で使えるわけではない。単にどういう種類の魔法がこの世に存在するのか、という知識があっただけだ。あいつは多分、“身体能力強化の魔法”を自分の身体にかけていた。だから体格差があっても力負けしなかった。
魔法習得は法律で年齢下限が定められているのに、まだ習得しているはずのない、習得していてはならない魔法をアルバートは行使した。
あいつの家が法を遵守していない、ということに気付いているのは、その場ではおそらく僕だけだった。
ただ、これはどこまでも法律違反に過ぎず、異常性の証明にはならない。アルバートの異常性が分かるのはここからだ。
アルバートはポヒムを抵抗できない状態にした。あいつはそれを『安全確保』とか言っていた。
そして、身動きできなくなったポヒムをあいつは教室の全員に殴らせた。虫も潰せないような優しい女の子にまで全員に、だ。
学級で一番優しいジョアが泣いて嫌がる。
『可哀そうだからそんなことできない』
アルバートはジョアに優しく語り掛ける。
ポヒムの悪行の罪深さ、悪行に対する“制裁”の必要性、適切な“制裁”によって守られる学級の“秩序”、“秩序”維持によってもたらされる恩恵、等などを優しく、粘り強く語り続ける。
正義感の強いドータが見かねて、『ジョアは嫌がっている。無理強いはやめて』とアルバートを止めに入ると、アルバートは途端にドータに冷酷な視線を向けた。
ああ、アルバートのあの目……。世界で一番おぞましいものが何か問われたら、僕は今でも、アルバートのあの目を挙げる。
暴れん坊が暴れたところで、周囲にもたらされる恐怖はたかが知れている。本当に怖いのは、普段穏やかな者が暴力性を解放したときだ。
普段、誰にも暴力を振るわないアルバートがポヒムを屈服させ、それだけでは飽き足らずに、わけの分からぬ異常行為を同級生全員に強要する。しかも、強い言葉は使わずに、皮相だけは優しくジョアに語りかけている。うわべが不気味に優しい分だけ、その裏にある異常性から醸し出される恐怖は倍増する。
僕はあの時、アルバートがドータを殺してしまうのではないかと思った。僕だけではなく、もしかしたら、アルバートの態度の変化を見ていた学級の全員がそう思ったのではないかと思う。
ジョアは単に気が弱いだけではなくて、感受性の強い子だ。ドータが危険に晒されている、と分かったのだろう。ジョアは泣きながらも、勇気を出して立ち上がり、こつり、と軽くポヒムを小突いた後、おそるおそるアルバートを振り返った。
『そんな叩き方ではダメだ。もう一度本気で殴れ』と怒られるとでも思ったのかもしれない。
でも、アルバートは振り返ったジョアを満面の笑顔で迎える。
『素晴らしい。素晴らしいよ、ジョア。君は今、とても正しい行いをした。これで君も、“仲良し学級”の一員だ』
アルバートはこれ以上ないほどの歓迎色でジョアの行動を褒め称え、ジョアを仲間の一員と認める。学級の全員にも、手を下したジョアを褒めさせる。
学級の誰も、他者を殴って褒められた経験など無かったことだろう。あるはずのない経験をして、学級全体が動揺する。教室内で起こっている事態の本質が何なのか、幼い頭で考える。
いけないことをした子に適切な罰を与えたから、怖い顔をしていたアルバートが笑顔に戻り、ジョアは恐怖から解放された?
その解釈は完全に間違っている。正確には、ジョアは解放されたのではなく、完全に“捕縛”されてしまったのだ。ポヒムを殴る力の加減はこの際どうだっていい。
あいつが定義する“仲良し学級”の一員として、学級全員がポヒムに“制裁”を与えた、という事実が重要なのだ。
これは通過儀礼だ。学級全員があいつに服従したことを証明する儀式に他ならない。ポヒムへの罰は、その建前に使われただけだ。
ジョア以外にもポヒムを殴るのを嫌がっていた子はいた。でも、最終的に誰も抵抗し続けられる子はいなかった。アルバートは優等生で、先生のお気に入りで、言っていることはそれなりに正当性があるようにも聞こえたし、ポヒム以外には暴力を振るっていない。
ポヒムは前から学級の嫌われ者で、でもボスだった。暴れん坊のボスが、狂った残忍なボスに交代するのを、僕たちは学級全員で承認してしまった。
それからしばらく経ったある日、またポヒムが問題を起こした。たしか、学級の誰かを理不尽に殴ったんだ。あの時もアルバートがポヒムを取り押さえた上で、教室の全員にポヒムを殴らせた。ジョアはいつものように、ポヒムを殴ることを躊躇った。もう僕らにとっては見慣れた光景だった。
普段と変わらずに、アルバートがジョアを優しく宥めすかすのだろうな、と僕は思っていた。でも、その日は展開が違った。
ジョアに優しい言葉で制裁加担を強いようとするアルバートに、ドータが食って掛かる。
『こんなことは間違ってる!』
ドータはアルバートを糾弾した。
あいつは心底つまらなさそうな顔でドータに答える。
『“秩序”を維持するために必要なことだ』
あいつはドータに取り合う姿勢を見せない。
ドータはあいつの行為を前々から腹に据えかねていたのであろう。返事を聞いた直後、ドータは学級に圧政を敷くアルバートの頬を殴った。
同級生の多くは僕と同様に、背筋が冷える思いでその光景を見守っていたことだろう。一部の子供は、もしかしたら内心、『ドータ、よくやった!』と思ったかもしれない。僕も心のどこかにそういう気持ちが無かった、とまでは言えない。
でも、そんなのは偶像的英雄の光臨を切望する、いかにも子供じみた幻想でしかない。
ドータはアルバートを殴った直後、後方に吹っ飛んだ。吹っ飛ぶ勢いで机二つを横倒しにして、そのまま地面に倒れ込んだ。
殴ったのはドータなのに、吹っ飛んだのもまたドータ。
あまりにも流れが淀みなく美しすぎて、ひとつでも瞬きしていたら見逃していただろう。
アルバートは殴られた直後、一呼吸と間を挟まずに躊躇なくドータを殴り返したんだ。
普通、人が殴られてから反撃する場合、殴り返すまでに多少の間があるものだ。これは子供同士の喧嘩でも成人ハンターの諍いから発展した殴り合いでも変わらない、普遍的な法則だ。
殴り返すまでの時間が極端に早いのは大抵“殴られ待ち”をしているときだ。敢えて相手に先に手を出させ、その後、正当防衛を謳って堂々と殴り返す。そういうことをやりがちなのは、当たり屋的な側面を有する碌でもない奴と決まっている。狂ったボスことアルバートが正にそれだ。
ドータは強かった。心が僕よりも勇ましいのは当然として、教室の中の誰よりも勇気があった。腕っぷしだってそれなりだ。男子との喧嘩だって負けたことがない。
でも、ドータが強く勇敢でいられたのは、“知らなかった”からだ。
同級生との喧嘩なんて、どれだけ激しくても所詮は子供の喧嘩、じゃれ合いの延長線上にしかない。先生が過ちを犯した子を叩くのも、罰であり指導であって、決して理不尽な暴力ではない。
その日、ドータは生まれて初めて知った。“暴力”とはどんなものか、“理不尽”とはどれほど抗いがたいものなのか、理不尽な暴力に見舞われたとき、自分の心と身体がどのように変わってしまうのかを、身を以て知った。
“絶対的な暴力”を顔面に受けて倒れたドータがどうなったか。
ドータは泣かなかった。
これまたハンターとして何度も死の恐怖を味わった今だからこそ思うが、“泣く”というのは、とても人間的な行為だと思う。
原感情を揺さぶられる強烈な出来事に晒されたとき、僕たちは人間ではなくヒトに、力なき生命の一に戻る。
弱きものが絶対的な暴力に心臓を掴まれたときどうなるか。
答えは、“泣く”ではなく、“縮こまって震える”だ。
ウルフに噛まれ、生皮をベロリと剥がされて血を流すヒツジ。
群れの仲間をマッドバブーンに何羽も目の前で食い殺されたニワトリ。
パーティーメンバーの首をブラウンベアに弾き飛ばされたハンター。
そしてこの僕も……。
いずれも棒立ちしてガタガタと震え、暴力が目の前を通り過ぎるのを待つしかなかった。
叫び声を上げる? 走って逃げる? それができるのは、恐怖の程度が“それなり”の場合に限られる。
恐怖を捻じ伏せ、逃げも隠れもせずに立ち向かう? 冗談じゃない。立ち向かえるものは、断じて真の恐怖などではない。
圧倒的な恐怖の前では誰も何もできない。種族の違いなんて関係ない。絶対的な暴力に曝された弱きものは、暴力が過ぎ去るのをひたすら願ってその場で震えていることしかできない。
殴られたドータは涙を見せず、声を上げず、殴られた頬を抑えて身を丸くして震えていた。
アルバートは、そんなドータを冷たく見下ろしながらこう言う。
『少し状況を整理しようか。今、私が取り押さえているこいつは、同級生を正当な理由なく殴った“悪い子”だ。ドータ、君は“悪い子”をかばったのみならず、“秩序”の維持に邁進する私に対して暴力を行使した。もしかして、君も“悪い子”なのか?』
ドータは一言も発さず、丸まったまま、頭だけをかすかに左右に振る。
学校が始まった最初期、ポヒムが暴れていても、アルバートはポヒムに何の興味も示さなかった。
ポヒムが標的になったのは、ポヒムがアルバートに突っかかったからだ。
そして今度はドータがアルバートに食って掛かった。
僕たちは、これからドータに起こることを悟った。
でも、僕らの悪い予想は、実はとんでもなく甘かった。
あいつは僕らが考えている以上に、ずっとずっと邪悪だった。
アルバートがほくそ笑んで言う。
『ドータの意見を否定する前に念の為、目撃者たちからも意見を聞いておこう。ドータは適切な話し合いを経ることなく私に暴力を振るった。ドータの暴力は正当で、彼女に反撃した私の方が不当だと考えている子はいるかな? いたら挙手してほしい』
あいつはわざとらしい仕草で教室を数度見回す。
『いないな……。残念だったな、ドータ。理屈抜きに君の行動をかばってくれる友人はいないようだ』
あいつはくつくつと笑って続ける。
『ドータの暴力の不当性についてこれ以上論じる必要はなさそうだ。さあて……では、ここからが本題だ。ドータが私に不当な暴力を振るった動機を探らなければならない。原点に立ち返ると、ジョアが“悪い子”に適正な“制裁”を加えることを拒んだのが発端だ。“秩序”に異議を唱えるジョアの行動が、ドータに暴力を振るわせた、と言い換えることができる。ひょっとすると、ジョアがドータに私を殴るよう強く要請したのかもしれない。その場合、“悪い子”はドータではなく、ジョアになる』
教室にいるのは聡明な子たちばかりではない。物分かりの悪い子がそれなりにいる。そんな不明な子たちにも分かるように、一言一言噛みしめるようにゆっくりと優しい口調でアルバートは語る。
『ジョアが何らかの方法でドータに不当な暴力を強いたのであれば、“制裁”されるべき“悪い子”は、ドータではなくジョアだ。回数を正確に数えてはいないが、ジョアが今まで“悪い子”だったのは、少なくとも十回は下らない』
アルバートはドータとジョアから視線を外し、舐め回すように学級全体を見る。
『もしもドータが“悪い子”だと言うのであれば、“秩序”ある“仲良し学級”の全員が十発ずつジョアを“制裁”しなければならない』
吐き気を催すあいつの気色悪い視線が外れた代わりに、集団暴力の矛先が思わぬ形で自分に向けられたジョアは、すすり泣きを始める。
そんなジョアに向かって、あいつは優しい、すごく優しい声で語り掛ける。
『泣く必要は無いさ、ジョア。必要なのは正しい理解だ。今はまだ教室にいる誰も、どの子が“悪い子”なのか分かっていない。もしドータが自分から、「私が“悪い子”だ」と名乗り出るなら、ドータが一発ずつ“制裁”を受けるだけでいい。しかし、ドータは、「私は“悪い子”ではない」と主張している。ドータの主張が正しい場合、“悪い子”は君なんだ、ジョア。だから、君は十回分の“制裁”を受けなければならない。でも、きっとすぐに終わるよ。なにせ、私たちは全員、“秩序”に守られた“仲良し学級”の一員なのだから』
アルバートは一見、ジョアに向かって喋っているかのようだ。でも、あいつはジョアではなく、ドータと学級の全員に暗に提案している。
僕たちは、あいつの残酷すぎる提案の意味を理解した。
六歳の子供だって、集団の中で誰が一番偉いボスなのか分かる。
子供が多数集まれば、勉強のできる子とできない子がいる。運動の得意な子と不得意な子がいる。でも、集団内での順位付けがまるでできない子というのは、不思議とひとりもいない。
学級で一番偉いのはポヒムではない。先生でもない。アルバートだ。
優等生の仮面を被ったアルバートは先生に気に入られている。問題ばかり起こしているポヒムがアルバートの非道を先生にどれだけ強く訴えても、何度助けを請うても、先生は聞く耳を持たない。
先生はアルバートの言いなりだ。
ごく稀に先生が事情を調査することがある。先生はポヒムの言い分とアルバートの言い分を聴き比べる。二者の言い分は大抵、食い違っている。すると、次に行われるのは、他の子への聞き取りだ。
経緯を尋ねられた子は、一様に学級のボスであるアルバートに有利な証言をする。馬鹿で乱暴者のポヒムに味方しても恩恵は一切ないし、アルバートはポヒムが何の間違いも犯していないのに、いきなり“制裁”を与える、ということは無いからだ。事実を事実のまま語るだけであら不思議、アルバートに従順な下僕の完成だ。
では、もしも嘘をついてアルバートに不利な証言をしたらどうなるか。
たったひとりで嘘をついたところで学級全員がそれに同調してくれなければ、簡単に嘘が嘘だとバレてしまう。そうなると先生を敵に回し、アルバートを敵に回し、そしてアルバートに服従する学級を丸ごと敵に回すことになる。
アルバートは先生とは別の枠組みにいる絶対者なのだ。絶対的権力を持つボスの指示に僕たちは従う外ない。
アルバートが、ジョアを殴れ、と言ったら、僕たちはジョアを殴らなければならない。
アルバートが、ドータを殴れ、と言ったら、僕たちはドータを殴らなければならない。
そして今、どちらが犠牲者に選ばれるかはドータに委ねられている。
ドータは本当に勇敢な子だった。残る最後の勇気を振り絞り、か細く震えた声で答える。
『ごめ……ん……な……い……私が……悪か……たです……』
消え入るような、ほとんど聞き取れないほど小さな声による謝罪に、あいつは満足気に頷く。
『そうか、そうか。そうだったのか。ドータが“悪い子”だったのだな。それならば、ジョアに“制裁”は要らない。ドータが一回“制裁”を受けるだけで終わる』
取ってつけたようにあいつがそう嘯き、僕らが取るべき道は決まった。
僕らは、本当はドータをかばう機会がいくらでもあった。でも、ドータをかばいきるにはひとりが声を上げるだけでは足りない。
学級全員が足並みを揃え、一致団結してあいつに立ち向かわなければ、声を上げた子が逆に“悪い子”になってしまう。
恐怖に怯える僕らは自己の保身に走るのが精一杯で、ドータを守ることなんて到底できなかった。勇気を出してあいつに立ち向かったドータ、本来全員で守らなければいけなかったドータを、僕らは全員で一発ずつ殴った。
ポヒムを殴るときと違い、ほとんどの子供が軽くドータを小突いただけだった。でも、僕らはその日から全員が“共犯者”になり、より一層あいつに服従することになった。
ドータに全力で“制裁”を加えた一部の子供たちがどうなったか。あいつは、ドータを“全力制裁”した子供たちの肩を一人ひとり叩いて回り、『あまりやり過ぎないようにな』と言った。それが、独裁政権の“幹部”が任命された瞬間だった。
その日からドータは変わった。ドータは元々、よく笑う子だった。あいつの前では、『空気が悪い』とか言ってあまり笑わなかったけれど、あいつがいないところでは屈託なく笑う、明るくて爽やかな子だった。
それが、その日以来、滅多に笑わなくなってしまった。ドータが笑うのは、アルバートから話し掛けられたときだけだ。それも明朗な笑いではなく、暴力を恐れて情けを乞う奴隷とか被虐者が特有に浮かべる、卑屈で陰のある笑みだ。
僕の心が最も抉られたのは、あいつに殴られて丸まって震えるドータを見た時でもなければ、皆と一緒にドータを殴った時でもない。あいつの顔色見い見いしながら媚びた笑みを浮かべる、心へし折れた後の彼女を見た時だ。あいつに媚びるドータは、群れの上位者に腹を見せ、尻尾を振って慈悲を乞う負けイヌそのものだった。
媚びるドータを見た瞬間、得も言われぬゾワゾワとした明らかに良くない感覚と汚い感情が、僕の両脚の付け根辺りから胸らへんまで這い上がってきた。
明るかった頃のドータの笑みを再び見ることは、おそらくこの先もう二度と無いのだと悟った僕は、苦しむドータに非道徳的な感情を抱いてしまったことも相まって、自分の罪の深さにしばらく苛まれることになった。
必死に諂うドータを見るのが楽しいのか、その後、あいつは明確な用事がないときでも頻繁にドータに話し掛けるようになった。
以降、ドータは学校卒業までずっとあいつから服従心を定期点検された。ボスに肩を叩かれたら、即座にボスを悦に入らせるために自虐芸を披露する憐れな玩具、それが新しい彼女の役割だった。
全員が“共犯者”となった後、“幹部”の主導による裏学級会議で“仲良し学級”に規則が設けられた。規則は少数かつ簡単だ。
仲良し三組、命よりも重い鉄の掟その一、“悪い子”に“制裁”を課すとき以外、暴力を振るってはいけない。
その二、“悪い子”が、ボスによって“安全確保”されたら、学級全員で“制裁”する。
その三、ボスに逆らってはいけない。
学校低学年の子供でも守れる実に簡単なものばかりだ。それ以外にも諸規定があるけれど、それらは暗記しておらずとも、少し考えれば分かるものばかりだ。
分かりやすい例を挙げると、ボスの悪口の禁止だ。ボスに対する悪口は“幹部”に密告され、“幹部”から“自主的制裁”が加えられる。“自主的制裁”による暴力は、ボスの承認を経てから行われるため、ボスが“自主的制裁”を止める可能性はない。
密告した者は学級における順位に良好な影響があり、自主的制裁を受けた者は逆に悪い影響が出る。より単純に言えば、密告すると順位が上がり、密告されると順位が下がる。するとどうなるか?
簡単だ。密告合戦が起こる。あいつにまつわるどんな悪口でも、自分の順位を上げるために誰かが拾い上げて幹部に密告する。次第に、だれもあいつの悪口を一切言わなくなる。
悪口減少後に一時流行ったのが誣告、いわゆる虚偽密告だ。もうこうなってくると、自分の順位を上げるためなのか、気に入らない同級生の順位を下げるためなのか、誰にも分からなくなってくる。
幹部は密告内容が真なのか偽なのか看破する能力など持っていない。密告だろうが誣告だろうが、“自主的制裁”を与えるしかない。誣告されないようにするには、自分が誣告される前に誰かを誣告する。もう学級全員が敵同士だ。
学級崩壊に繋がりかねない、悪い流れだった。
そんな流れを堰き止めたのは、意外にもあいつだった。
あいつはなぜか異様なまでに嘘を嘘と鋭く見抜くことができた。
誣告した者とされた者の間で行われた遣り取りの様子を、あいつはまるでその場で見て聞いていたかのように細かく再現して、学級全員の前で嘘を暴き立てる。あいつの行う再現劇が全て真実を再現できていたのかは分からないが、少なくとも一部は正確だった。
悪口というのは基本的に本人がいない場所で言われるものであり、あいつが直接聞いていたはずはない。しかし、知らないはずの情報をあいつは知っている。それはつまり、“陰の協力者”がいることを意味している。それも、“幹部”とはまた別の誰かだ。
あいつによる意外に上手い、そしてクソほど嫌味ったらしい再現劇が終わると、誣告者には“自主的制裁”ではなく本物の“制裁”が課される。そして、誣告者の学級内順位は急落する。
誣告制裁が数回も行われると、もう密告も誣告もパタっと無くなった。それもそうだろう。“陰の協力者”が誰か分からない以上、うかつに誣告をすると逆に命取りになる。“幹部”の目を避けるのは簡単でも、正体不明の“陰の協力者”の目と耳を完璧に避けるのは不可能だ。
ある意味では、密告よりも誣告のほうがあいつの悪口を完全に無くするのに大きな役割を果たしたとも言える。
同級生同士での足の引っ張りあいが無くなり、学級は平穏を取り戻した。ボスに目を付けられないようにするのは簡単だ。ボスはあまり部下に興味がないし、些細なことには目くじらを立てない。ボスの興味はポヒムとドータぐらいにしか向いていない。目立たず静かに過ごしていれば、ボスから目を付けられることも話し掛けられることも、謂れなき暴力を振るわれることもない。
ボスの悪口を言わないのも簡単だ。仲の良い同級生とお喋りしている時に、『アルバートってムカつくよな?』と言われたら、同調しないのは難しいかもしれない。でも、泥沼の密告及び誣告合戦と誣告制裁によって、もう誰もあいつの悪口を言わないのだから、同調圧力でボスの悪口を言わされる状況は発生しない。気が昂ぶってうっかり自分から口を滑らせるか、独り言であいつの悪口でも言ってしまわない限り、何も心配は無いのだ。
“制裁”への参加だって何ら難しくない。日々ポヒムを軽く小突きさえすればいいだけのだ。あいつが責任を持って“安全を確保”しているのだから、ポヒムから反撃されるおそれはない。
残る“幹部”規則は、ポヒム以外に暴力を振るわない、だ。これは同級生と喧嘩しなければいい話だ。少し言い争いになって険悪な雰囲気になっても、自分が手出しを一切しなければ“制裁”対象にはならない。
それに、派手な言い争いをすると、案外あいつは対話による仲裁を試みる。ポヒムのときとは違う、“安全確保”を伴わない普通の仲裁だ。あいつに仲裁されてなお手を出してしまう救いようのない馬鹿な子は、幸いにもうちの学級にはいなかった。
表面的な素行だけ見る分には、あいつは優等生に他ならない。勉強はよくできたし、足も速いし、運動が得意だし、家名だってある。言い争いが起これば仲裁に入り、暴力が起これば暴力の主だけを取り押さえる。
皆、どんどんと感覚が麻痺する。
アルバートは“良い子”で、ポヒムは“悪い子”。
アルバートが言っていることは正しくて、ポヒムが言うことは間違っている。
アルバートの悪口を言う子は“悪い子”で、アルバートに味方する子は“良い子”。
そう意識の底に刷り込まれていく。
ポヒムを殴ることに段々と抵抗がなくなり、疑問を感じなくなり、そのうちポヒムが悪事をはたらかずとも、アルバートが何をせずとも、自発的にポヒムをいじめる同級生が出てくるようになった。
学年がいくつか進む間に、ポヒムは身体が大きいだけのいじめられっ子になっていた。
ポヒムは理由なくいきなり同級生から殴られても、決して殴り返してはいけない。アルバートに“安全確保”されるか、先生から一方的に怒られるからだ。
ポヒムは机とか鞄の中から物が無くなっても先生に助けを求められない。忘れ物が多い、と怒られるからだ。
家から持ってきたお昼ご飯が無くなっても誰も分けてくれない。ポヒムに優しくなんかしたら、“幹部”に目を付けられて“制裁”の対象にされるかもしれない。
ある日、ポヒムが学校を休んだ。一度も風邪をひいたことのない、頭以外は健康優良児のポヒムが学校を休む理由は簡単だ。考えても分からないのはよほどの馬鹿だ。
“帰りの会”の時間、あいつが先生に申し出る。
『今日、休んだ子のことが心配なので、帰りに家まで様子を見に行ってきます』
先生はいつもどおり、優等生のアルバートを褒めた。
会が終わって先生が教室からいなくなった後、アルバートは教室の出入り口に立つ。ボスが出入り口を塞いでいるのだから、誰も教室から出られない。
本当は急いで帰らなければいけない子だっていたはずなのに、全員が黙ってボスの言葉を待つ。急いで帰らないことによって生じる不利益や損失よりも、ボスに逆らうことで失われる未来のほうが大きいと分かっているからだ。
ビクビクと玉音を待つ僕らに、アルバートは悠然と話す。
『“仲良し学級”に欠けが出るのは良くない。“悪い子”筆頭の彼がいなくなると、全員揃って学校を卒業するのが難しくなる。早期卒業、満期卒業というズレはあるにせよ、皆、一緒に卒業したいとは思わないか?』
同級生たちはコクコクと首を縦に振り、あいつの意見に同意を示す。
あいつは同級生の反応を見ると、今度は空を眺めながら続きを語る。
『彼は“悪い子”だから“制裁”を受けた。そもそも“制裁”とは、過ちを犯した者が、それでもなお“秩序”の中に残るために必要な、云わば禊のようなものだ。決して“秩序”からの排除を目的としたものではない。それが今では擬似制裁行為により、彼は身も心も傷ついてしまっている。いかに感受性の低い、愚鈍な人間であっても、同じ共同体の構成員である皆から辛く当たられると、居場所が無くなり、学校に来られなくなってしまう。もしかしたら、それでもいい、と思っていた子もいるかもしれない。しかし、そこにはひとつ大きな見落としがある。彼はこの学級で最も“悪い子”だ。では、その彼がいなくなったら、次に“悪い子”とは、一体誰なのだろうか?』
無感情に空を見つめていたあいつの目が、突如、凍てつくような目に変わり、着席している同級生たちを鋭く射抜く。
あいつの豹変とともに教室の空気が一変する。
目を合わせると“標的”にされる。
皆一斉にあいつから目を逸らして下を向く。
もちろん僕も逸らした。嫌な汗が、ブワッと身体中から吹き出す。
『ジーン、君かい?』
アルバートが最初に名指ししたのは“幹部”のひとり、学級でポヒムのことを一番殴っているジーンだった。
ジーンは震えたまま、何も答えずに俯いている。
『タラ、君かな?』
タラは以前ポヒムに一番いじめられていた女の子だ。今でも内心はポヒムのことを怖がっているはずなのに、昔やられたことへの腹いせなのか、日々、こっそりとポヒムのお弁当をトイレに捨てている。午後のポヒムが飢えに苦しんでいるのはほぼ全てタラの所為であり、これは学級の公然の秘密となっている。
『どうした、皆、黙ってしまって。私は、静粛が好きだが、質問には答えてもらいたいな』
あいつは忌々しげに長く大きく息を吐く。
『私は、皆、“仲良し”で、“良い子”だと思っている。“悪い子”は彼ひとりで十分だ。だが、彼がいなくなると、この中の誰かが次の“悪い子”だ。君たちが“悪い子”になるのを回避する方法は、賢明な皆であればもう分かるだろう? 明日、彼はきっと学校に来てくれるはずだ。そのとき、皆はあまり辛く当たらないようにしないといけない。分かるね、ジーン?』
あいつの視線がジーンを貫く。
ジーンは大げさなまでに大きく何度も頷く。
『お腹が減るのは辛いよね、タラ?』
タラは上目遣いで、一度だけアルバートに頷いた。
『もちろん、“悪い子”が悪を犯した場合は“制裁”が必要だ。その原則はこれからも変わらない。しかし、何も悪いことをしていない相手に“制裁”の名を借りて感情の赴くままに暴力を加えるのは悪いことだ。悪いことをするのは“悪い子”だ。“制裁”とは、“良い子”が常に理性に基づいて“悪い子”に対して課すものでなければならない。では、前提を共有したところで、改めて問おう。自分が“悪い子”だ、と思う子は手を挙げてくれ』
そんなことを言われて、誰も手を挙げるわけがない。
教室内は全員が石像にでもなってしまったかのように無動の空間と化す。
『誰もいないな。では、質問を変えよう。自分が“良い子”だ、と思う子は手を挙げてみよう』
あいつは真意不明の問いを投げかけた。これにはどう反応するのが正解か、誰も分からない。
僕たちは同級生同士で動きを探り合う。
石化を解除してコソコソと同級生たちが前後左右を窺っていると、あいつがゆっくりと歩きだす。
動き出したあいつを見て、教室は再び石像の見本市に逆戻りする。
嫌味ったらしくゆっくりと歩くあいつが辿り着いた場所は、ジョアの席の横だった。
あいつは腰を屈め、ジョアの顔の真横に自分の顔を近づけて言う。
『ジョア……。君はなぜ挙手しない。ひょっとして、君は“悪い子”なのか?』
ジョアは涙目で首を横に振る。
『ならば、“良い子”なのだろう。ほら、手を挙げなきゃ』
ジョアは震えながら手を挙げる。
ジョアに強制挙手させると、あいつは背を伸ばして歩きながら話す。
『私は、ジーンが本当は“良い子”だと思っているよ』
ジーンもゆっくりと手を挙げる。
教室の出入り口まで戻ったあいつが振り返って再び教室全体を見回す。
『では、再度問おう。皆、“良い子”ではないのか?』
どうすればあいつに絶対服従の意思を表明できるのか分かった僕たちは、全員一斉に挙手する。
『ああ、良かった。皆“良い子”で。もう手を下ろしても構わない。“良い子”の皆は、明日ポヒムが学校に来た後、どうしたらいいか分かるな?』
次の服従姿勢の示し方を教えてもらっていない僕たちは、誰も何も答えられない。
返答の得られなかったあいつは表情を一変させる。“安全確保”の時のような不機嫌な顔で、冷たく言い放つ。
『分かるなら「はい」と、分からないなら「いいえ」と答えてくれ。もう一度尋ねる。皆、分かっているな?』
僕たちは小さく不揃いに、はい、と返事をする。
『声が小さい……。どうも全員が返事をしているわけではなさそうだ。つまり、この中に“悪い子”がいる、ということだ。手間はかかるが炙り出してみるか。そうだな……。少なくとも五人くらいは』
そう言って、あいつはくつくつと嗤う。
どんな難癖をつけられて、あいつの“悪い子”狩りの標的にされるか分からない僕たちは、邪悪な笑みを前に震え上がる。
『“悪い子”探しの前に、もう一回だけ聞こう。正真正銘、これが最後のチャンスだ。皆、分かっているのか?』
はい!!!! と、今度は大きな声で唱和が響く。
予行演習たったの一回で、教育隊の訓練を終えた徴兵新兵にも劣らない、統率された“秩序”ある集団が教室にはできあがっていた。
『そうか、そうか。それならいいんだ』
下僕の忠誠心を確かめたあいつが鷹揚に頷く。
『では、また明日、彼を含めた学級全員でこの場所で会おうじゃあないか』
あいつはそう言うと、最後に冷たい目で僕らを一瞥して教室から出て行った。
次の日、ポヒムはあいつの前言どおり学校に来た。以降、学級のポヒムへの対応は少しだけマイルドになった。
通りすがりラリアット、自在箒百烈突き、二人連携技の羽交い締め飛び膝蹴り、三人連携千手拳といった“幹部”陣の必殺技の数々はピタリと見られなくなった。
もはや毎日の恒例行事と化していたポヒム処刑メニューがいきなり日常から消滅して、代わりに現れたのは幾ばくかの喪失感だった。いじめが無くなることを願っていた僕ですらそう感じていたのだから、自主的制裁に興じていた“幹部”陣を襲った虚無感は推して知るべし。
変わったのは“幹部”だけではない。男の子たちは誰もポヒムをいじめなくなった。それでもなお続いたのは、あいつの怖さをイマイチ理解していない一部の脳みそ空っぽの女の子たちによるポヒムいじりだけだった。
ポヒムはいつからか、その女の子たちから『バディ』と呼ばれるようになった。“死体”とか“肉塊”という意味だ。とんでもない蔑称でポヒムを罵倒する彼女たちを、あいつはなぜか諌めなかった。ひょっとすると彼女たちは“陰の協力者”なのかもしれないのだから、どんな経緯で彼女がポヒムを罵倒していようとも、誰も何も言えないのだった。




