第三七話 洗礼 一
エルリックと共に首都を発った私はそのまま歩く、歩く、歩く。
おかしい。なぜ私は歩かされている?
都庁を発ち、首都ジェラズヴェザから出るくらいまでは、自分の足で街を離れることに感慨のようなものを感じられた。あとはもう焦らされるばかりである。
いつになったらイデナは私を背負ってくれるのだろう? そろそろだろうか? もう少し街から距離が取れてからだろうか?
期待混じりの視線をいくら送れども、エルリックは立ち止まらない。
そうこうする間に夜が空ける。適宜休憩を挟み、また歩き、それでもエルリックは、『さあ、もう疲れたでしょう。背負子に乗ってゆっくりと眠ってください』と言い出さない。そればかりか、先頭を歩くフルルは街道から逸れて脇道に入っていってしまった。
ああ、嫌な予感がする……。
当たらなくていい悪い予感は的中し、エルリックのメンバーはフルルに続いてゾロゾロと、道とは到底呼べない獣道に入っていく。
マディオフへの行路では、いずれ必ず道なき道を進むことになるにせよ、整備された街道がある場所は街道を歩いてほしい。エルリックと違って私は人間、生きたヒトなのだ。疲労という概念があることを忘れてはならない。獣道を行くのは街道歩行のざっと数倍、疲れが溜まる。
街道端で私がまごまごしていると、私を待たずに歩くエルリックの背中はすぐに草木の陰に隠れていく。
仕方なく私も獣道へ足を踏み入れる。
パーティーの最後尾を歩くのが私で、私のひとつ前はシーワが歩いている。
シーワ……エルリックにおいて物理戦闘最強のメンバーだ。この巨躯のアンデッドがアリステル班の訓練相手を務めてくれたことはない。背高たちと違ってシーワは食事を取らない。おそらく新種ではなくて旧種、普通のアンデッドなのだろう。オルシネーヴァに潜入した時、一回だけ私を背負ってくれた。あの時を除き、シーワは誰も背負ってくれたことがない。
人間を背負って運ぶのは結構な重労働であり、人間感覚ではシーワのような力の強いメンバーがこなすべき労務のように思うが、疲労しないアンデッドには関係のないことらしい。
首都を出てからここまで、短時間しか休憩を取っていない。この際、いつものイデナではなくてシーワでもいいから、早く私を背負ってくれまいか。
もはや期待というよりも抗議の念を込めて視線を送り続けていると、不意にくるりとこちらを振り向いた。ただし、振り向いたのはシーワではなく、その少し前を歩いていたポーラだった。
振り返ったポーラの顔には笑みが浮かんでいる。
ポーラの笑みにはいくつか種類がある。二年近い共同生活を経て、私はその笑みの意味が大凡分かるようになっている。
分かってしまうのが今ばかりは恨めしい。ポーラが今浮かべている笑みは、私たちに良くないことをさせようと企んでいるときの邪悪な笑みだ。
騎乗の提案以外、何も聞きたくない! ……と突っぱねられたら楽なのだが、そこはクールな情報魔法使い。そんな子供じみた真似はしないし、できない。
不安も拒絶の心も挙措には出さず、泰然と構えてポーラの言葉を待つ。
「ラムサスさん。ここからはあなたが先頭を歩いてください。目標は、ざっくり北の方角です」
あわわ……。
エルリックの無茶振りには、冷静沈着な情報魔法使いも衝撃を覚えずにはいられない。
やだやだやだ。勘弁してほしい。
安全な街道の先頭を行くならまだしも、ここはフィールドだ。フィールドとかダンジョンといった安全確認のために繊細な感覚が要求される場所において、先頭というものはサマンダとかアリステルが歩くものだ。遠方視力や気配察知能力等、野伏、斥候系統の能力が高くない私には不向きな立ち位置だ。
シーワの背中に送る視線にあれほど強く“願い”を込めたのに、それがどうしてこんな形でひどく裏切られてしまう?
そうでなくとも私の身体には“すりこみ”や反射のような自然な応答が起こっている。長時間任務が珍しくない軍人の私が、前回の睡眠覚醒から一日半と経っていないのに、今これだけ眠くなっているのは、エルリックのせいだ。
毒壺攻略以来、エルリックと一緒に遠距離移動するときは、少し歩くか走るかした後、ほとんど例外なく背負ってもらっていた。適度に疲れた後に快適な背負子の上で優しく揺られていると、強烈な眠気に襲われる。眠気に抗えないのは私だけではない。ラシードもサマンダも、アリステルだってこっくりこっくり背負子の上で眠っていた。
歩いては眠り、走っては眠り、の繰り返しによって、確固たる条件反射が形成された。エルリックと共にフィールドをしばらく歩いたら、歩いた倍くらいの時間はイデナの背中の上で眠らなければならない。そういう身体に、私はもうなってしまっている。エルリックがそうしたのだ。
背負子を出せ。私に安息の休眠時間を与えろ。これは私の力を借りるエルリックの、決して免除されない義務だ。
とはいえ思慮不足アンデッドと非言語的な手段で意思疎通を図るのは無理がある。私が人間的な奥ゆかしさを保ったままでは、いつまで経ってもエルリックは私の心を理解しない。
仕方ない。奥ゆかしさは一時だけ封印し、直言してあげようではないか。
「私は視線感知や気配察知のスキルを持っていません」
「ええ、そうでしょう。ですから是非この機会に習得し、血肉としてください」
「……目的地に着くのが遅くなりますよ」
「大丈夫です。日程はこちらで見積もってあります。あなたが気にする必要はありません。急ぐことではなく、丁寧にクリアリングすることを心掛けましょう。最初から速く進もうと考えるのは向上心ではなく、手抜きや怠慢というものです。感心できません」
これは参った。睡眠時間を確保するどころか、先頭役すら回避できなさそうだ。私が挙げた否定的な意見二つは、どちらも軽く蹴り飛ばされてしまった。
「ほらほら、まごまごしていると出てきたばかりのお日様がすぐに沈んでしまいます」
私はもう少しだけ粘ってみることにする。
「ですが、私はこういうのは初めてなので……」
「誰でも初めての時があります。あなたは能力がある分、人より一歩リードした状態で始められるのです。知ってのとおり、こんな首都の近辺に強い魔物など出ません。いきなり危険な場所で試すのではなく、安全な場所から慣れていくべきです。さあ、歩いて歩いて」
私の精一杯の抵抗に、エルリックは耳を貸さない。
小妖精が魔物の探索に役立つ?
そんなことはない。
ハンターが仕掛けっぱなしにした罠でも転がっていれば、ポータンはその存在を見逃さずに私に伝えてくれる。でも、ポーたんは魔物を見つけたとしても、魔物が私たちを攻撃しようとか、強い“意図”を込めた行動を取らない限り、何も反応しない。『寝ている魔物を見つけました!』なんて、親切に召喚者に教える機能は備わっていないのだ。それに、有効距離だってそんなに長くない。
「もしも命を落とすことになったら恨みますよ」
「死にそうになったら手を貸してあげます。心配は要りません」
冷徹アンデッドは私を死の直前まで追い込もうとしている。そんな物騒な発言を聞いて、どうしたら心配せずにいられる。『大切なラムサスさんには、掠り傷ひとつだって負わせません』くらいは言ってもらいたいものだ。
説得を諦めた私は渋々パーティーの先頭を歩く。
エルリックの言うとおり、まだまだ首都に近い雑木林程度のフィールドに強い魔物などいるわけがない。魔物よりも有毒植物のほうがよほど要注意だ。触れるだけで皮膚がかぶれる、まるで罠のような植物は街道沿いにもそこかしこに生えている。残念ながら、ポーたんは地に生えているだけの有毒植物に何も反応を示してくれない。小妖精頼みでは自分の安全を確保できない。自分の感覚を研ぎ澄まさなければ……。
ずっしりと気が滅入る。何ということはないはずの林も藪も、自分が先頭に立ってかき分けて進むとなると途端に魔窟じみた雰囲気を帯びだす。
楽しいマディオフ行なんて幻想に浸れたのは一時だけだった。現実は甘くない。
いよいよこれは、予測していた中で最も恐ろしい展開が現実味を帯びてきた。エルリックがアリステル班の班員三名に振り分けていた容赦ない尚武と操練の気が、私ひとりに全て圧しかかるとんでもない恐ろしい展開が……。
どんよりとした気分で投げやりに植物をかき分けていると、すぐにポーラの注意が飛んでくる。
「ラムサスさーん。かぶれたくないのは分かりますけれど、音を立てすぎですよ。静音にも気を割きましょう。自分が静かに動くことで、より周囲の音も聞こえてくるはずです」
私の先頭行動に注文をつけるポーラを振り返ると、何が楽しいのかニコニコと笑っている。案外と邪悪さのない、親心を感じさせる笑みだ。
ポーラの笑顔一級鑑定師としての力に目覚めつつある私が思うに、こういう正の感情に由来するポーラの笑みを見られるのは私たちだけだ。
確かにポーラは大抵、微笑んでいるけれど、初対面の相手に見せるのは事務的なもの、作られた笑顔の仮面に過ぎない。たまに邪悪な笑みが滲みでるくらいのものだ。本当の笑顔は私たちにしか見せない。
……などと、先頭行動には役に立たない考え事をしながら、私は野伏の心得に従ってフィールドを進む。
進路上に生えた枝草を押して除けるだけでは、獣道は安全に進めない。
絶対に欠かせない安全確認のひとつは魔物の気配を探ることだ。辺りに立ち込める獣臭さ、ポンキルスの棘に絡まって残った体毛、地に散らばる糞、足跡、木々に刻まれた爪痕、新芽を齧った痕、どこからともなく差し向けられる視線、呼吸時に漏れ出す鳴き声、なんでも手がかりになる。
魔物の気配が無ければ、次に注意を払うは危険植物だ。接触毒性を持つ植物の枝葉をグローブで軽く押し避けて開いた空間を進むのは、素人のやりがちな愚行である。うっかり手を滑らせると枝葉が顔面を直撃することになる。
これで無毒であれば顔が数分ヒリヒリと痛むだけで済むが、ぶつかったのが有毒植物だった日には顔が何日も無残に腫れ上がる。毒が目に入った場合、ひどいと失明する。
有毒植物や鋭い棘の生えた植物の生えている場所をどうしても通らなければならないときは、枝を完全に折るなり、切り落とすなりして進路を確保するべきだ。
専用の剪定鋏も無しに静かに枝を処理するのは難しい。かぶれないように気をつけるだけで精一杯で、とてもではないが静音行動にまで集中力を割いていられない。
足音、装備と装備がぶつかり合う音、装備と植物が擦れる音、呼吸の音、動けば必ず音は生じる。フィールドを静かに動き回るには、一挙手一投足に神経を尖らせなければならない。そんなことは、初心者には無理に決まっている。
それでもなんとか役割を果たそうと奮闘していると、後ろから、「ラムサスさーん、近くに何かいますよ。見つけてください」と小声で指摘が入る。
はっとして目を凝らすと、向かって真っ直ぐの地点で結構な数のディアーが植物を食んでいるではないか。しかも、数頭の個体は、フィールド環境に悪戦苦闘する私を冷ややかに見ている。
注意力を横、斜め、下と分散させるあまり、私は前方の注意を怠っていた。
……ふっ、ふふふ。
心の中で乾いた笑いを零す。
なにが、『今の私はワイルドハントのひとり』だ。気取って格好つけたところで、アリステルやサマンダの助けなしにフィールドに立たされた私はこの程度だ。
体裁振る必要なんてない。ここから成長していけばいい。
できもしないのに完璧にこなそうとしたところで視野狭窄に陥るだけだ。過剰に気負わなくていい。どのみち私の索敵なんかちっとも信用していないエルリックは、周囲の脅威を独自に見つけだしている。私は私のやれるだけをやっていればいい。
慣れない先頭行動によって静かに恐慌に陥っていた自意識を思考の泥沼から引き上げ、一先ずリラックスを心掛ける。
確かに集中は必要だ。だが、適度に別なことを思考の片隅で考えるのも、視野狭窄を防ぐという意味で無駄ではないだろう。
雑念が主となってしまわないようにだけ気を付けながら、気を取り直した私はまた前へ進んでいく。
そういえば、エルリックがマディオフで舐めさせられた辛酸とは、具体的にどのようなものなのだろう? 王の間でマディオフ行きの話を聞いた時、私を含めて“仲間”は全員あの話と勘違いした。
エルリックの言い分を信じるならば、エルリックはあの話と全く関係がない。では、マディオフでいかなる経緯でどんな酷い目に遭わされたのか。エルリックに限って、それはいくらでも考えられる。なぜならエルリックは新種のアンデッドだからだ。
紅炎教が浸透したマディオフでアンデッドが排斥されるのは極めて自然なことだ。まさかエルリックが、『マディオフ人は我々がアンデッドというだけで仲良くしてくれないのです』などと見当違いな恨みを吐くとも思えない。
エルリックはマディオフにおいて社会の裏側で細々と活動していたはずだ。人目を忍んで静かに暮らすエルリックをアンデッドと見抜く輩がある日現れ、エルリックの力を利用するために擦り寄る。その時代のエルリックは世間擦れしておらず、不心得者にまんまと騙されてしまう。その者はエルリックの力を利用するだけ利用して用が済むと、裏切って国にエルリックの存在を告発した。
こういう話が何度も繰り返されていたとしても別段おかしくない。
時に真相というものは意外なほどに単純なものである。しかし、今私が何となく思い浮かべたような簡単な話であれば、意趣返しにあたって別段情報魔法を必要としない。私の力を必要としている時点で、それなりに複雑な背景事情があることは確実だ。
マディオフに居た頃のエルリックは新種のアンデッドどころか、従来のアンデッドですらない普通の生者で、大恋愛、大冒険をしていた。その陰に隠れて蠢く陰謀、嵌められたエルリック……。
うーん、これだと推理や予想ではなく妄想の類だ。私が無意識下に願う劇的な展開を言語化しただけでしかない。
それもそのはず、エルリックは詳細をまだ何ひとつ語っていないし、私はマディオフに行ったことすらないのだから推理のしようがない。
それに、改めて考えてみると、エルリックがはたして私の小妖精の力を必要としているのか疑問な部分がある。
エルリックには審理の結界陣がある。この魔道具は、私の小妖精とは情報の得られ方が違う。エルリックはエルリックで結界陣の使用に制限があるようだけれど、選挙時、結界陣の使用時間は三十分からぐーんと長くなっていた。謎の魔法を開発した際に判明した欠点の一部は、エルリックの何らかの工夫によって穴がかなり埋まった。一回、結界陣を使った後、数日の冷却時間を変わらず強いられたとしても、アンデッドたるエルリックには時間など有り余っている。気長にやれば結界陣一本で必要十分な情報を集められそうなものだ。
結界陣は誰が使ったとしても、例えばダニエルが使ったとしても欠点が必ずある。この魔道具は黙秘を貫く相手に功を奏さない。黙り込む相手に無理矢理自供させる機能は備わっていない。その欠点もエルリックが拷問を行えば消える。結界陣作用下での拷問は、通常の拷問と違って精度の高い情報が得られる。
審理の結界陣入手によって高い情報収集力を備えたエルリックが、それでもなお私をマディオフに連れて行く本当の理由とは何なのだろう? 今更ながら、とても不思議だ。
◇◇
初心者の私が考え事をしながら先頭を歩くものだから、パーティーの進みは遅々としたものだ。ただ、初心者といってもさすがに昼間の行動で方角までは間違えない。一路北へひたすら歩く。
牛歩が祟り、何日歩けど歩けどマディオフとの国境は一向に見えてこない。
そんな鈍足行軍をエルリックは全く気にしない。歩きながらだったり、休憩しながらだったり、色々と私に助言を授ける。私の誤りや失敗に注意を与えるときも、教戒アンデッドは頭ごなしに叱らない。
感情的に叱責しないのはいつものことではあるのだが、思うに私ひとりがエルリックに再合流してから、今まで以上に言動に気配りをしてくれている。
元々、ポーラの言葉遣いは悪くない。国王のジルや大将のレネーに対する敬語の遣い方はなっていないが、かといって無礼過ぎるほどではない。あれは『知らない』というよりも、過剰な尊敬語の使用を厭ってのことのように思う。
ラシードやサマンダ、三人に分散させていた訓練時の観察の目が全て私ひとりに向けられるようになったのは間違いない。でも、私にかかる負担は三倍になっていない。むしろ、今まで三等分になっていた“気配り力”が全て私ひとりに傾けられるようになった、という感じだ。
アリステル班を抜け、生まれ育った国を離れてひとり異国に付いてくる私に、エルリックはとても心配りしている。私自身がそう感じるだけでなく、小妖精もポーラをはじめとしたエルリックの何気ない所作の一つひとつからそういう“意図”を読み取ってくる。
慣れない先頭を歩かされる精神と肉体の疲労は確かにそれなりだ。しかし、何かあってもエルリックが必ずすぐに助けてくれる、という安心感は何ものにも代えがたい。先頭行動によって摩耗し、減っていく精神力よりも、エルリック総出の“応援”によって私の心の底から湧き上がってくるやる気のほうが、圧倒的に多量だ。私の精神力は日々増大している。
首都を発った翌日にエルリックは、『死にそうになったら手を貸す』なることを言った。あれは完全に有言不実行だ。死にかけるまで放って置かれる、なんてことはまるでない。ある程度私が困ると、エルリックは基本的に助けてくれるか、適切な助言をくれる。危険度が高いものに関しては、私が危険に曝される前に、先回りして助言を与えてくれる。
私が困っていても、エルリックは手も口も出してこないことがある。意地悪にも、私が困ったり苦しんだりしているのを見て、腹を捩って楽しんでいるかというと、それはまったく違う。エルリックは私が独力で問題を解決させることを信じ、手出し口出ししたい心を堪えているのだ。
エルリックがほんの少し介入するだけで問題は速やかに解決する。それでもエルリックは私を成長させるため、過ぎゆく時間を黙って耐え忍んでいる。
初めて単身、家の外へ子供が遊びに行くとき、親がこっそりとわが子の後ろを付いていく。子供が地面の起伏に足を取られて転んでも、親は物陰で固唾を呑み、決して子供を助けに飛び出さない。
それと同じで、これは新種のアンデッドによる無言の応援だ。これでやる気が出ないと言ったら嘘だ。
夕方になると訓練を行う。これはいつもどおり厳しい。ただ、訓練で消耗する体力は、ラシードやサマンダと一緒にエルリックの訓練を受けていた時とあまり変わらない。もうこの先ラシードが受けることのできないワイルドハントの英才教育を私ひとりが受けられる。優越感に浸りながら意気盛んに訓練に臨む。
夜は講義の時間だ。アリステルの医学講義に代わり、時に雑駁に、時に理解に高度な思考力を要する知識を色々と語ってくれる。日によってそれはマディオフの文学であり、マディオフの通貨や経済観念であり、数学、化学、建築、薬学と、分野は多岐にわたる。ただ、魔法に関して実践的なことは教えてくれるものの、学術的な内容は語られることがなかった。エルリックにとって最大の関心事は魔法のはずであり、無知ゆえに語れない、とは思われない。こればかりは甚だ謎である。
フィールドワークや訓練で傷を負えば回復魔法で治してくれる。レンベルク砦でエルリックの回復能力の高さは保証付きとなっている。怪我を負っても安心だ。
補償が利くのは怪我だけではない。エルリックの高い観察力は私の体調不良だって見逃さない。
ある日、唇の裏側に口内炎ができて、食べ物がしみるなあ、と思っていたら、私に何を言われずともエルリックは口内炎用の膏薬を作ってくれた。
嗅ぎなれぬ匂いを放つワイルドハント産の膏薬を塗ってみると、痛みは忽ち全くなくなり、二日とせずに口内炎は消えた。
痛みを表情に出さずとも、要望を言葉に出さずとも、私に必要なものが即座に出てくる。ふふん、悪くない協力関係だ。
エルリックは凄く私のことを見ている。出会ったばかりの頃にこれほど色々と見抜かれていたら、さぞかし気色悪く感じたことだろう。気心の知れた今では、気分はこれっぽっちも悪くない。それどころか、国を揺るがすワイルドハントが私ひとりを気遣いながら行動している、と思うと、むしろえらく気分が良くなる。
◇◇
首都を出てからおよそ半月が経過し、私たちはマディオフとジバクマの国境線を形成する自然地形、グルーン川に辿り着いた。
これも訓練、とエルリックは私に命綱とハーネスを着けさせ、崖下りをさせる。
壁を自由自在に登り下りできる“壁登り”の能力を持つエルリックからすれば、こんな断崖は平地と大差ない無特徴の一般行路だ。これもまた私の訓練のためだけの贅沢な時間だ。
目が眩むほどの断崖に、声なき声で何度も悲鳴をあげなら底まで下りる。
全員が崖を下りて谷を流れる川の岸まで辿り着くと、エルリックは川岸で土魔法の漕艇を作る。全員で一艘のボートに乗り込む。
スレプティ川を越える時はアリステルだけ乗らされたカヌーが大型化しただけのものかと思いきや、実際に乗ってみると構造がかなり違う。
進行方向に背を向けて座り、パドルではなく、ボートに半固定された櫂を漕ぐ。
ポーラ以外の全員で漕ぐ。
アンデッドとヒトの力で水上の乗り物がこんなにも速く動くのか、と驚きながらとにかく漕ぐ。
前回渡されたパドルと違い、今回渡されたオールには人頭像がついていない。その代わりにあるのは勿論、舳先に屹立する船首像だ。像はボートの進行方向を睨んでいるため、私がオールを漕ぎながら振り向いたところで尊面を拝することはできない。
ひとりオールを漕がないポーラは船尾にちょこんとしゃがみ込んでいる。何をしているかというと、さも当たり前のように釣りをしている。
エルリックは渡河するとき、必ず釣りをする。川釣りアンデッドだ。私や“仲間”たち以外誰も知らない、知っても何にもならない徒事である。
突如、ポーラはボート上で立ち上がって竿を撓ませる。
この芸術的な撓みを見せる竿を、初見で土魔法の産物と看破できたら大した刮眼だ。
土魔法とか水魔法で生み出された固形物は、文字どおり基本的に固い。弾力や柔軟性、撓りとは無縁のはずなのに、エルリック作の物品は場面に適したしなやかさがある。
ポーラはどこぞの工芸職人じみた渋みのある顔で竿を操り、獲物を水上に引き上げる。釣り上がったのは、今回もまたクラブだった。
あれは私でも知っている。ザコピューロという有名な毒クラブだ。
密入国の川越、真っ最中だというのに、私はつい声を上げて笑ってしまう。
こんなの絶対笑うに決まってる。
私を笑わすためにエルリックは仕込み芸でもやっているのではないだろうか。
ひとしきり笑ってから私は、自分が今とても楽しんでいることに気が付いた。毒クラブが面白かっただけではない。ありとあらゆることが楽しい。
何年も共に時間を過ごした上官や班員と別れてたったひとりアンデッド集団に加わり、近い将来に敵国となりそうな国に密入国して、これから先、マディオフでどんな事件が待ち構えているかも分からない。
不安や緊張に押し潰されてしまいそうなものなのに、旅が楽しい。
ジバクマは、まだまだ安定とは言い難い。もしかしたら私が国を留守にしている間にジバクマは滅んでしまうかもしれない。そうしたら弟のジェダはどうなるか分からない。私は帰る先を失う。
でも旅が楽しい。
毎日、地図に載っていない道なき道を歩き、噂で聞くか本で読んだことしかない初めて見る魔物と戦い、見たことどころか聞いたことすらない謎の物体を食べさせられ、訓練は厳しくて、でも確実に強くなることができて、新しい知識に触れて、そして時々エルリックはすごく嬉しそうに褒めてくれて。
全部楽しい。
アリステル班として様々な難事を押し付けられたり、“愚者”と対立したり、時には尻拭いをさせられたりしながら、それでも私は軍人として国を守ることにそれなりに充実感を得ていたつもりだった。
でも、こうやって旅の楽しさを全身で感じてしまうと、私の天職はハンターだったのではないか、と思ってしまう。
昇る朝日も、沈む夕日も、満天の星空も、春に呼応して芽吹く緑も、崖の上から見下ろす川の流れも、崖の下から見上げる断崖の高さも、ありとあらゆるものが私の心を激しく震わせる。こんなことは今までなかった。
楽しいから世界が美しく感じられる。
今、私はどこにだって行ける。
いくらでも強くなれる。
たとえ祖国が滅び、世界がどれだけ激動の時代に突入したとしても、私は生きていける。
そんな気がした。
旅を楽しむ私とは対照的に、エルリックは気分の落ち込みを見せている。
グルーン川を越えてからというもの、ポーラは思い悩むような、真剣な表情をすることが増えている。私に話し掛けられると、いつもと変わらずに嫣然と笑って応えてくれる。でも、その笑顔は、『私を心配させまい』という配意から生み出された笑顔のように思う。
思い詰めるところまではいっていないが、エルリックは何かを思い悩んでいる。
私のまだ教えてもらっていないエルリックの“敵”がマディオフにいる。
多分エルリックは、その敵との戦い方を考えている。
思案に暮れるポーラの姿は私の庇護欲求をくすぐってやまない。
早くお悩みアンデッドの力になってあげたい。
喜べ、エルリック。情報魔法使いは八面六臂の大活躍をする、と心に誓っているんだぞ。
ああ、エルリックから泣いて感謝される日が待ち遠しいったらない。
◇◇
ある日、マディオフ入りを祝してメンバー各員の暗号名を作ることになった。
その前提として必要になるジバクマとの命名規則の違いをポーラが語る。
「ラムサスというのは綺麗な名前ですが、マディオフだと女性につける名前ではありません。凄く男性的な響きがあります」
その話は前にどこかで誰かに教えてもらった覚えがある。確か軍でも一度教わった。軍人として知っておくべき外国の常識を学ぶ際に、ついでに教えてもらったのだ。
マディオフの事という所為もあって記憶はかなり薄れてしまっている。朧な記憶によると、マディオフでは女性名の語尾に一定のルールがあるはずだ。
「一度使用したコードネームを繰り返して使用する、というのは褒められた行為ではないかもしれません。ですが、あの時は最終的に誰にも聞かれずに全てが終わったので、『サナ』を使い回すのはどうでしょうか?」
エルリックが指す『あの時』とは、オルシネーヴァ占領下のゲダリングとか、王都の本城、クラーサ城に忍び込んだ時のことだ。
特別な意図でもないかぎり、コードネームの使い回しは厳禁だ。ただし、それは軍事行動下における原則であって、軍人ではないエルリックに厳密に適用する必要はないだろう。
「それで構いません」
「一応、本名も決めておきましょう。『サナ』は愛称で、『オクサーナ』が本名だとそれっぽくなります。この名前なら、マディオフでもオルシネーヴァでも女性名として全く違和感がありません」
マディオフの命名規則に従っている、ということは分かるものの、マディオフの人名として違和感が無いかどうか、という感覚的な部分までは分からない。
私が返答しあぐねていると、ポーラは上目遣いとなってこちらに尋ねてくる。
「この名前、あまり気に入りませんでしたか?」
エルリックの勝ち気の代弁者としていつも不敵に笑っているポーラにこんな顔でこんなしおらしいことを言われると、ついついいけないことをしている気分になってしまう。
レンベルク砦でポーラに心酔していた女軍人たちを馬鹿にできない。
女色に興味などない私の心をこれだけ揺り動かすのだから、美人というのは何ともズルい。
「いえいえ、違うんです。マディオフ人の感覚として、女性名に適切か分からなくって、それで返答しかねていただけです。嫌いとか、そういうのは全然ありません」
私が慌てて答えると、ポーラは安心した様子で笑う。
「とても女性らしい、可愛い響きですよ」
そうかそうか。ならば何も問題は無い。
「では、その名前でお願いします」
私の名前が決まり、さらにコードネーム作成を続ける。
まず、『エルリック』という名前はワーカーとして用いているパーティー名だ。ここから変えなければならない。
閃いた新名称をポーラが述べる。
「リリーバー、という名前なんて良いと思いません? いかにもハンターっぽいパーティー名です」
提案された名前には、“救世主”とか“救援者”という意味がある。
御大層な名前なればこそ、大きな夢を掲げがちなハンターのパーティー名として適当な印象を受ける。
ただ、この新種のアンデッドに使わせると、途端に危ない香りが漂う。私たちとはベタ慣れ、昵懇の間柄とはいえ、アンデッドとは本来生者を殺すものだ。『死は唯一絶対にして平等な生者の救済なり。これぞ我が救世よ!』などと叫んで、マディオフ国民を殺戮し始めるほうが、アンデッドの行動としてはよほどそれらしい。
名前の意味を深読みした挙げ句、そこからこちらの正体を見抜く人間が現れやしないか少々不安があるものの、それは過剰な心配というものだろう。
私が新しいパーティー名に異論を挟まなかったため、そのまま決定になった。
引き続きドンドン名前を決めていく。
リリーバーはポーラの新名に「ルカ」を提案する。
これも私の感性だと女性名として適当なのか分からない。ポーラという旧名とは響き的に近いところもないため、特に問題は無さそうだ。
それを私が告げて、あっさりとポーラはルカになった。
ルカ以外のメンバーの、シーワ、イデナ、フルル、ノエルといった名称はエルリックが名乗っているものではなく、アリステル班が勝手に付けたものだ。ジルやレネーをはじめとした“仲間”以外は誰もその名前を知らない、ということで、そのまま継続使用することになった。
シーワとイデナはマディオフだと女性名に該当する。イデナはまだしも、古代語で『力』を意味する言葉の『シーワ』が、マディオフでは普通に女性に対して用いられる、というのだから驚きだ。
こういう何気ない部分に文化的乖離をまざまざと感じ、ここが異国だという認識を新たにする。
私が驚きと共に文化差を咀嚼する横で、リリーバーは変装魔法を駆使してシーワとイデナの二人に新しい顔を作り出していく。
披露してくれたシーワの新しい顔は中規模の街を探せば必ずひとりはいそうな、男勝りのがっしりとした体格の上に野太い首で強固に据えられた中年女性のものだった。今にも、『ガハハ』と下品に笑い出しそうだ。
あまりにもハマり過ぎていて、噴き出てしまうのもやむなしだ。
背高と二脚は、本名と主張できるものではないため、完全に新規に命名する。
命名前にリリーバーが私を責める。
「なぜ他のメンバーには一工夫された名前か、それなりに名前らしく聞こえる名前を付けているのに、背高だけは安直極まりない名前を付けたのでしょう?」
「今更そんなことを言われましても……班で決めたことですし……」
咄嗟にアリステル班を言い訳に使ってしまった。しかも、私は思い出さなくていいことを思い出してしまう。
背高という名前を最初に言い出したのは他の誰でもない、私だ。でも、アリステルたちは誰も反対しなかった。だから、責任の所在は班にあり、私個人にはない。
それに、名前なんてものは人間だろうとアンデッドだろうと個体を見分けるための記号に過ぎない。名付けた当時の私たちに何ら落ち度はない。仮に名前に不満があるなら、その時に言ってもらわなければ困る。
私がモゴモゴしていると、リリーバーは話を進めていく。
「別に不快に思って追及したのではなく、単に理由を知りたくて尋ねてみただけです。あなたがそんなに困ってしまう必要はありません。それはもういいので、名前を決めていきましょう。そうですね……。背高の新名は、ヴィゾークにしましょう」
「あっ、はい。そうですね。良い名前だと思います」
少しばかり負い目を感じさせられていた背高命名者の私は、何も考えずにヴィゾークという新しい名前を承認してしまった。
ぐぬぬぬ……これは大失敗だ。
このうっかりアンデッドは私に文句を付けた傍から自らも同じ過ちを犯したというのに、あろうことか私はそれに気付かず、『良い名前だと思います』なんて、寝ぼけた返事をしてしまった。
『ヴィゾーク』とは、古代語で『大きい』とか『背が高い』という意味を持つ単語ではないか。
リリーバーも安直に名前を付けた。私と同罪だ。いや、むしろ、小細工を弄して一瞬私を欺いたのだから、罪はより重い。
私を……私をあれだけ譴責しておきながら、これは許されざる了見だ。
平然を装う面の下で私の怒りは大炎上する。
ヒトの心を解さないぽんつくアンデッドは私の怒りを些とも知らずに、二脚の新名称決めに移行する。
おうおうおう、今度はどんな名前を付けようとしている。
もしもまたヴィゾークみたいなふざけた名前を付けようものなら、ここぞとばかりに大々的にリリーバーの失敗を取り沙汰させてもらおうではないか。
復讐心に突き動かされた私はギロリと二脚を睨みつけ……られない。
私は突然、混乱させられてしまう。
それもそのはず、二脚がどこにも見当たらないのだ。
二脚だとばかり思っていたローブ姿の者には、よくよく見ると両腕がある。
二脚はどこにいる?
混乱と疑問に弄ばれながら、私はその場のパーティーメンバー全員にぐるりと視線を巡らせる。
背高がいて、シーワがいて……マドヴァは残念ながら滅びてしまった、と言っていたから仕方ないとして、イデナにフルルにノエルもいる。
あれあれ、おかしいぞ。いるべきメンバーは全員揃っている。
では、あの二脚っぽい者の正体は……。
私は、二脚と見間違った者へ視線を戻す。
あああ……。やっぱりこの人は二脚だ。両腕あるけど二脚だ! 腕が無いのが二脚なのに、この二脚には腕がある! 変!!
雷に打たれたような気分で激しく動揺しながらルカに質問する。
「ルカさん、聞いてもいいですか? この人って私たちが二脚と呼んでいた人ですよね。いつ腕が生えてきたんですか?」
問われたルカは小さな声でぼそりと呟く。
「気付くの遅……」
ルカの顔には、“してやったり感”などない。背高という安直な名前を付けた私を懲らしめるために変装魔法で腕があるように見せかけて私を騙しているのではない。それに、ディスガイズを使っている場合、ポーたんが必ず私に教えてくれる。ということは、二脚の肩口からニョッキリ生えているあれは幻の腕などではなく、実在する本物の腕だ。
「サナ。今の我々は同じパーティーのメンバー同士なのです。下手に敬称呼びし合っていると、周囲から不審に思われかねません。ここからは互いに呼び捨てでいきましょう。敬語も要りません」
腹立たしいこと、分からないことだらけで私の思考は滅裂になってしまっている。だが、常語会話には大賛成だ。アリステル班時代、私の周りには階級上位の人間しかいなくて喋りにくかった。喋りやすくなるのは助かる。
「それで、先ほどの質問の答えですね。嘘は言わずに、かつ、意地悪な答え方をすることにしましょう。何を隠そう、二脚は皆さんと会った当初から両腕がありました」
……は?
リリーバーの言葉の意味が、私は全く分からない。
ルカの発言からポーたんが“メッセージ”を拾う。意味はさしずめ、『私をからかう』といったところだ。意地悪な答え方をする、と明言しているのだから、それはそうだろう。小妖精によってもたらされた情報は、リリーバーの言葉の意味を読み解く端緒にまるでならない。
何から何まで嘘なのだろうか。論理的思考力を喪失した私は、つい思ったままを口にしてしまう。
「それ、冗談だよね?」
私にそう尋ねられた瞬間、ルカの表情が豹変する。以前数回だけ見せた、こちらを値踏みするような、私の奥の奥を覗き込もうとしている目だ。
リリーバーは私の“何か”を疑っている。
私は状況にそぐわない発言など何もしていない。リリーバーを怒らせるような言葉だって一切、発していない。それでどうしてこんな目で見られる。私の一言から、リリーバーは何を察した?
久しぶりに見せられたリリーバーの得体の知れなさに身震いしていると、疑惑を隠し抱いたルカの表情はすぐに消えた。
いつもの微笑を浮かべながらルカが首を横に振る。
私はルカの見せる笑みを見分けられる。これは作り笑いのひとつだ。しかし、ルカの作り笑いとかぶりの所作からポーたんが拾ってきた“メッセージ”は私の想定とまるきり異なっていた。
リリーバーは私を悪意に基づいて騙そうとか、その場を取り繕うとして笑ったのではない。むしろ、怯えてしまった私を気遣って笑みを作ったのだ。悪意ある者から放たれる“メッセージ”は、決してこのようなものにならない。
リリーバーは悪い奴ではない。それは分かっているし、そこまで心配はしていない。でも、どうしてあんな怖い表情で私を疑う?
私の頭脳だと、この情報だけでは謎を解くことができない。悔しいけれど……。
一旦、落ち着こう。落ち着いて二脚に思考を戻そう。
ルカは敢えて分かりにくい言い回しをしたものの、虚言を弄してはいないようだ。
私たちがリリーバー、当時のエルリックと初めて会ったのはゲルドヴァの旧フラフス邸、あるいは料理屋のマジェスティックダイナーだ。
思い出してみよう。あの時、二脚に両腕はあっただろうか?
……。
…………。
駄目だ、分からない。
私たちが、『エルリック九名の中に両腕のないメンバーがいる』と気付いたのは、毒壺に籠もって数か月経ってからだ。それ以前の二脚がどんな身体状態だったかなんて記憶にない。
二脚の存在を認識するようになってからはどうだろう。私たちが勝手に勘違いしていただけで、本当は“不可視の両腕”があったのかもしれない。
あるいは、私の記憶のほうが時間経過に伴い勝手に移り変わってしまったとか、何者かに改竄でもされたしまったとか……。『腕があった』という前提で振り返ると、容易には信じがたい想定が色々と可能になる。
……しかし、今、挙げた仮説はどれも間違っている。私の記憶の中にある二脚の動きは、間違いなく腕を持たない者の動きだ。動作時のバランスの取り方などもそうだし、首都ジェラズヴェザやゲダリング、エイナード等で“壁登り”のスキルを披露してた時などが、より確実な証拠だ。二脚には間違いなく腕が付いていなかった。だからこそ、スネークのような這い上がり方で壁を登っていた。
無言で謎解きの深みに沈む私に、ルカが穏やかに語る。
「見た目が変わった時期をお伝えするならば、もう大分前の話です。私も日付までは覚えていませんが、選挙終了後、年明けに都庁で会った時には既に見た目からして腕がちゃんとありました」
今の発言はとても大きなヒントだ。二脚の腕が無いように見える期間は、間違いなく存在したのだ。
良かった。これで私の記憶が改竄されていないのも確実になった。
安心が得られたところで、再度、記憶の掘り返しを試みる。
掘削する記憶の始点は、去年の秋の半ば頃にしよう。
秋半ばといえば、まだオルシネーヴァからゲダリングを奪還する前だ。リリーバーが憲兵団大将のジェフ・ジベウと契約を結んで、私たちと別行動を取り始めたのが、ちょうどこの頃だったっけか。
……当時の映像を頭の中に思い浮かべても、二脚に腕は無い。
では、選挙期間はどうだろう。
……。
…………。
ダメだ。あの時、リリーバーのことは遠くから眺めた程度のもので、近くからまんじりと観察した時間はない。見かけたリリーバーの中に二脚がいたかどうかすら判然としない。ましてや腕が有ったか無かったか、なんて分かりっこない。ただでさえ、リリーバーは全員ローブを纏っている。近くから注意して見ても、腕の有る無しを瞬時に判別するのは容易ならざることだ。
「さきほどから私ばかりが意見を出しています。ここらへんであなたが二脚にちゃんとした名前を付けてあげてください。お願いしましたよ、サナ」
リリーバーは、マディオフ人の名前をロクに分からない私にも強制的に命名作業を分担させる。
そんなことより、ちょっと集中して考えさせてほしいところだ。
私は何となく思いついた名前を挙げてみる。
「あーんと、うーんと……ニグンとかどうかな?」
「それでいきましょう」
私が挙げた名前は何の討論も経ずに一瞬で承認された。自分で挙げておいて何なのだが、ニグンという名前はマディオフで本当に人名として使われているのだろうか。マディオフでは二人といない珍名の類ではないだろうか。
承認するにしても、マディオフにおける名前としての適否を少しでいいから話してほしい。
まあいい、今は名前よりもニグンの腕のことだ。
リリーバーは嘘を言っていないのだから、ゲルドヴァでアリステル班とリリーバーが初邂逅した際、ニグンには両腕があったのだろう。ただし、両腕がどのような形で存在していたのかは分からない。もしかしたら、この時点で私たちには認識できない“不可視状態”だったかもしれないし、この時はまだ可視状態だったのかもしれない。
出会いから約二か月後の毒壺籠もりをしていた時期は、ニグンの両腕は間違いなく不可視状態になっていた。しかも、ニグンは単に両腕が他者から見えない状態になっているだけでなく、両腕がない者だからこそ取りうる挙動をしていた。
それからおよそ二年弱が経過した選挙終了後には、私たちから腕が認識される状態に変化を遂げた。
なるべく感情とか不確実な推論を排して、事実やほぼ確実と思われる推論だけを時系列順に並べると、こんなところだ。
ここから何が分かる?
私の小妖精が普通の人からは見えない状態であっちこっち動き回るように、ニグンの両腕も不可視状態でフワフワと周囲を飛び回っていた……。
常識を無視したかなりの異説ではあるが、一応前提条件からは矛盾せずに説明が付けられる。
小妖精にすら気付かれない不可視化手法などあるのだろうか。不可視化の手段が変装魔法の変法だとすれば、ポーたんが見抜く。現に、リリーバーが現在自分たちにかけている変装魔法にポーたんはきっちりと反応し、『擬態する』という“意図”を拾っている。
ニグンの両腕不可視問題は、そんじょそこらの変装魔法とはわけが違う。
たとえそこに変装魔法という技術の介入が無かったとしても、目に映るものをそのまま信じてはいけない事態なんて、きっとこの広い世界ではいくらでも起こるのだ。それを私の目の前にいる、ふかしアンデッドが教えてくれている。
アリステルは何度も何度も私たちに教えてくれた。
『目に映るものが真実とは限らない』
今回の場合、間違っているのは見えているものそのものではなくて、見えたものに対する私たちの解釈のほうだ。
なら、ルカの言うことは……大きく言うならば、リリーバーのことは信じていいのだろうか。
リリーバーと私たちは二年間一緒にいた。二年かけて、私はやっとリリーバーのことを理解できるようになってきた。
そう思っていたけれど、結局お互いのことは、本当の意味では何も分かっていなかったのだろうか。
不意にリレンコフの街での一幕が私の脳裏をよぎる。毒壺最下層でダンジョンボスを倒し、一年ぶりに地上に出て人が暮らす街に戻って、リリーバーを首都に連れて行くために説得を試みた時のことだ。
あの時、ほんの少しの間だけルカの喋り方が変わった。あれが多分、リリーバーの地だ。
ルカの陰にリリーバーの本当の姿が見えた気がしたのを覚えている。
今、私の前で意味深に笑うルカの陰に何が見える?
……何も見えない。
当時の私と今の私……より真実が見えているのはどちらなのだろう。二年かけて理解が深まったのではなく、私の目が曇ってしまっただけだとしたら……。
リリーバーはこうも言っていた。『マディオフに借りを返しに行く』と。
これから行われるのは“復讐”だろうか、あるいは“罰”か。
総じてジバクマには寛容だったリリーバーだが、オルシネーヴァへの対応で分かるように、ヒトの不殺を誓った集団では断じてない。ヒトを殺害することに対して異様な執着や嗜癖は無くとも、特別に忌避してもいない。
必要とあればそれが魔物であってもヒトであっても命を刈り取る。それだけの力と意志がある。
リリーバーのやろうとしていることが、マディオフという国を丸ごと滅ぼすことだとしたら、その先、世界情勢はどのような動きを見せるだろう。
この数十年、領土を大幅に失ったゼトラケインは息を吹き返す機会を得る。では、失った領土だけでなく、以前からマディオフが治めていた地域まで支配下に置こうと動くだろうか?
……ギブソンが?
ゼトラケインの国王ギブソン・ポズノヴィスクは腰の重いドレーナということで有名だ。領土拡大に興味があるようには思われない。マディオフが滅んでもゼトラケインは派手に領土を広げない。
では、オルシネーヴァが台頭することになるだろうか? リリーバーに散々な目に遭わされたオルシネーヴァが、リリーバーに滅ぼされたマディオフの領土を頂戴するために派兵する? リリーバーに要請されたなら別として、独断でそんな行動には走らないだろう。
ゼトラケインもオルシネーヴァも手を伸ばさなければ、国家崩壊後のマディオフ領土は統治者不在、政治空白も同然になる。“愚者”が勘違いの末にジバクマ軍を動かすか、それとも国が新興するのか。
今のマディオフでは、ハンターにも軍人にも実力者が増えつつある。
剣と魔の双璧、ネイド・カーターとウリトラス・ネイゲルは若くないもののまだまだ健在だし、二人のそれぞれの娘であるリディア・カーターとエルザ・ネイゲルは、いずれも親に劣らぬ騎士と魔法使いになっていると聞く。
父親譲りの才能に溢れた子供か……。
自分と比較するのはやめよう。惨めになるだけだ。
とにかく、マディオフのミスリルクラス以上の人材は古兵も若手も豊富だ。ジバクマ軍にもひとりくらい分けてほしいくらいだ。
ミスリルクラスのハンターを考えてみても、アッシュとイオスは既引退者ではあっても、怪我や病気で再起不能になったわけでも死去したわけでもない。重大な事変が起これば表舞台に返り咲く可能性は十分ある。
若手のミスリルクラスと言えば、生え抜きの土魔法使い、バンガン・ベイガーに、旧ゼトラケイン領からマディオフ本領に移ってきた剣士、クリフォード・グワートがいる。
リリーバーがマディオフで大事件を起こした場合、オルシネーヴァと衝突した時とは比較にならないほどの苛烈な攻撃を軍やハンターから受けることになるだろう。
きっと、アンデッドの大敵である紅炎教の修道士だってオルシネーヴァ以上にたくさんいる。
変装魔法と偽装魔法があるから街に忍び込むのはなんとかなる。それでも、復讐目的に派手な暴れ方をするのは難しいのではないだろうか。
野望の全てを語らぬこの新種のアンデッドたちは、新たな名前を得てこれから何をしようというのだろう。私はその手助けをできるのだろうか。ヒトとして、手助けしてもいいものなのだろうか。
薄く笑うルカの陰に、あの日リレンコフの街で空見した不可視の糸でルカを操る邪念が再び浮き上がったような気がした。




