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第三六話 隣村 三

「浅瀬まで追うな、って言ったの、大尉じゃないですかー」

「いやー、ごめんごめん。確かにそう言ったけどさ。他の個体が出てくる風もなかったし、なんとかなりそうだ、って思ったんだよ」


 サマンダはパシャパシャと水音を立てながら、決め事を破ったラシードの軽挙をちくりと責める。


 この寒い中でサマンダが何をしているかというと、外套を洗っているのだ。


 サマンダはレッドドラウナーの魔法を身に受けてしまった。大物から魔法が飛んでくるところは見えていたらしく、闘衣による防御で負傷を免れたサマンダだったが、悪臭という最大の被害からは逃れられていなかった。


 レッドドラウナーが口から放つ水衝撃(アクアショット)は悶絶ものの臭さがある。


 レッドドラウナーの体液と混じり合って粘性を帯びた臭い液体はいずれ魔力を失って魔法部分が消滅し、体液だけがそっくりそのまま外套に残る。その前に洗い落とさないと、サマンダはずっと臭い外套を羽織って寒さから身を守らないといけなくなる。


 そのため、身を切るような冷たい川の水に身体を濡らしながら一所懸命に外套を洗っているのだ。


 一見すると汚れは落ちている。はてさて、臭いはどれだけ落ちているものだろう。濡れているうちは臭いが漂わずとも、いざ乾かしてみるとツンと香り立つかもしれない。そのあたりは実際に乾いてからのお楽しみだ。


「水中に潜んで隙を窺う個体がいる場合だってあるんですからねー。本当に最後の一体じゃなければ危なかったですよー」

「うん、サマンダの言うとおりだね。次からは気をつけたほうがいい」


 試験監督のアリステルもサマンダの意見を支持する。これはただの多数決などではなく、重要な安全事項の共有徹底だ。


 私の無言の叱責と合わせて三人から叱責を頂戴したラシードは抵抗を諦める。


「はい、気をつけます」


 ラシードは少しだけ肩を落とし、しょげた感じになる。ラシードの身振りにポーたんが反応を見せる。


 ラシードがしょげているのは、どちらかというと外向けの装いだ。本当は自分が挙げた戦果に満足し、充足感を味わっている。




 反省すべき点はあるが、ラシードはレッドドラウナー戦で間違いなく最も大きな仕事を果たした。


 ラシードは強い。本当に強くなった。それこそ私の知るラシード以上に強くなっている。


 ラシードの戦闘力に関する私の見識は、エルリックが新魔法を開発して別行動を取るようになって以来、更新されていない。なぜか?


 別行動以降、戦闘訓練は班の中でしか行っていない。地稽古は班員同士で行うしかなかった、ということだ。ラシードは膂力、腕力、闘衣の技量など、剣戦闘に必要な様々な能力の面で、班員最優秀である。


 病身のアリステルが闘衣を使えない現状、ラシードに闘衣を纏わせ全力で剣戦闘をさせられるだけの訓練相手が、班の中にはいないのだ。私とサマンダはラシードを相手に戦って剣戦闘力を磨くことができる。しかし、ラシードは私たちと戦う際、力も技術もかなり手加減しなければならず、本人の練習にはあまりなっていない。ラシードが強くなる道は対戦相手のいる地稽古ではなく、相手のいない素振りや型の繰り返しにしかないわけだ。


 だからきっと、ここ最近はそれほど強さに磨きがかかっていないだろう、と私は思っていた。今日の一戦を見て、その考えが間違いであったことを理解した。


 戦闘スタイルこそ違えども、今のラシードは昔のアリステルに肉薄する強さがある。もうラシードはそこまでの強さに到達してしまった。


 ……悔しい。


 ラシードの成長は朗報、喜ばしいことではあるのだが、私との差が広がってしまったことに関しては、悔しい、の一言だ。


 私だって相当強くなっているはずなのだ。しかし、実力を何よりも正確に証明するのが直近の実績だ。もっとあっさり倒せるはずのレッドドラウナーを相手に私は苦戦を演じてしまった。実戦で発揮できる力こそが真の実力だ。ラシードと比べて、今日の私にはいいところが無かった。戦果の差が、そっくりそのまま私とラシードの実力差だ。ああ、我ながら何という(てい)たらくなのだろう……。




    ◇◇    




 三者は三様に反省しながらドラウナー戦の後始末を行い、それが済んだら、いざ、グライアス釣りを開始する。隣村の村人から借りてきた竿数本にヨナが仕掛けを準備していく。


 ある程度準備が整った仕掛けを見ても、小虫とか肉団子とか押し麦といった餌らしきものは何も見当たらない。不思議に思ってヨナに質問する。


「これから虫でも探して仕掛けに餌を付けるのでしょうか?」


 するとヨナが剣幕を変える。


「グライアスは苔を食べる魚だぞ!!」


 豹変するヨナに私は呆気にとられるしかない。私がポカンとしていると、ヨナは続けざまに吐き捨てる。


「それに、冬場は虫を簡単に見つけられない! どっちもさっき教えただろ!」


 ヨナは単に怒鳴るだけでなく、説明された内容を忘れている私の記憶力を馬鹿にし始めた。


 アリステルやラシードと違い、私は道中のヨナの話を背景音楽程度にしか聞いていなかった。そういえばそんなことを言っていたような気がする。


 思いがけない叱責劇に、私は何も言い返せなかった。


 階級下位の憲兵に怒られたこともそうなのだが、咄嗟に言い返せなかったのが何よりも悔しくて仕方ない。今日の私はダメダメだ。悔しい思いばかりする。




 手短に私を怒鳴りちらした後、ヨナは仕掛け準備を再開する。


 タイミングは完全に(いっ)した……が……私がこれからヨナの後頭部に拳打を五、六発浴びせても許されるはずだ。こいつは職務怠慢かつ階級差を弁えない大馬鹿者だ。そうだ、これは感情任せの八つ当たりではなく、適切な指導だ。泣いて感謝しろ、ヨナ!


 私はグローブに包まれた拳を固く握りしめて決意する。


 ところが、正義に燃える私を、何も分かっていないラシードが邪魔する。


「俺でも仕掛けって作れますか?」


 ラシードは階級下位の憲兵に叱られた私を気遣いもせず、ヨナに教えを乞い始めた。


「見た目は難しいのだが、慣れれば簡単だ。どうれ、一緒にやってみよう」


 口調がどこぞの講師のように高ぶっているヨナは、口調とは対照的に面倒見よくラシードに手ほどきする。


 アリステルまでいつの間にかラシードに加わり、三人で一緒になって仕掛けを自作していく。二人とも、思った以上に順応性が高い。


 ダメだ、こいつら……。


 ヨナへの怒りは収まらないが、こいつは憲兵ではなくて釣り人だから仕方ない。そう自分の心を慰める。


 サマンダが何をしているか、というと、一度洗い終わった外套を再び洗いに水辺に戻っている。見た目には綺麗になっていたが、やはり専用の洗浄剤も無しに臭いを完璧に落とすのは難しいようだ。


 仕掛け作りに入れ込む馬鹿な男たちと、それどころではないサマンダ、そして、ひとり怒りを(こら)える私。


 馴染めるはずのないその場の雰囲気を嫌気した私は、釣り場を少し離れることにした。




 川からあまり離れぬように歩き、倒木を見つけては乾いた樹皮を一枚剥いで中をほじる。すると、黒子(ほくろ)のようにポツリと目立つ動かぬ点を見つける。冬季の暖を得るために倒木の中に隠れていた越冬虫だ。


 ちょっとゴキブリっぽいけれど、こいつはゴキブリではない、大丈夫だ、と自分に暗示をかけて枯れ枝を木の奥に挿し入れる。枝の先を虫の身体に引っ掛けて外へ引っ張り出したら、水魔法で作った氷の虫籠(むしかご)に移し入れる。


 そんなことを何度か繰り返し、数匹の虫が籠に集まったところで釣り場へ戻る。




 戻ってきた私をヨナたちが不審がる様子はない。何食わぬ顔でヨナから竿を受け取り、自分の釣り位置を決めるために川沿いを彷徨(うろつ)く。


 ヨナはそんな私に構わず、外套を洗い終えて愛想を振りまき釣りの手助けを乞うサマンダに気を取られ始めた。仇敵ヨナが見せた大きな隙に、私は捕まえてきた虫をこっそり仕掛けの針に刺して川の中へ投入した。


 ふふふ、誰も私の()()には気付いていない。上手くいったではないか。


 餌として針に刺した虫は季節が冬だからか、虫籠が氷でできていたためか分からないが、死体のように動かなかった。


 あんなので餌の代わりになるだろうか。


 仕込みが思惑どおり奏功するか、不安が拭えない。




 心配を余所に、竿にはすぐに反応が表れた。


 勢いよく竿を上げると、そこには小さな魚がかかっていた。


 それを見たヨナがすぐにこちらに寄ってくる。


「あれれー? イアスじゃなくてハゼイダだ。しかも針を完全に飲み込んでる。なんでこの魚がこの時期、この仕掛けの針にかかるんだろう……。あんまりこういうことはないんだけどなー。おっかしいなー」


 ヨナはブツブツとボヤきながら魚から針を外し、新しい仕掛けに替えてくれた。


 私の仕掛けた虫が魚の口の中から見つかりはしないか、と少しだけドキドキしたが、特に悶着は起こらず魚の回収と仕掛け交換が終わった。


 交換が終わって私が再度釣り糸を垂らしても、ヨナはまだ、本来ならばありえない釣果を不思議がっている。今後、解けることはないであろう謎に思い悩むヨナを見て少しだけ胸がすいた。




 その後、私の竿には全くアタリがこなかった。釣れなかったのは私だけではない。ラシードたちも、誰も何の釣果も挙げられなかった。好適なポイントを確保してもなおグライアス釣りは難しい。釣り人ヨナだけは何匹かイアスを釣り上げては、「まだ小さいから」と言って放流(リリース)していた。


 そうこうしているうちに日は高く昇り、糧食でもかじろうか、と思い始めた頃にアリステルの竿にアタリが来た。


 竿の先がくんくんと(しな)り、アリステルが、「おっ、なんかきたみたい」と言った直後に、竿が折れんばかりに撓り始める。


 荒ぶる竿と糸に対応するためアリステルは深く腰を落とし、水中に引きずり込まれないように強く踏ん張りを利かせる。


 陸上で耐えるアリステルを川底へ引きずり込まんと、糸の先は右へ左へ川面を走る。


 糸の引きの強さを如実に示しているのがアリステルの身体の傾きと足のめり込みだ。アリステルは、まるで綱引きでもしているかのように身体を深く後傾させており、足は地面に深く引き()られた跡を刻み、泥濘んで柔らかい地面に足背ほどまでめり込み埋まっている。


「ぐ……う……うあああぁぁぁ!!」


 アリステルが額に青筋を立て、腕をプルプルと震わせながら(うめ)く。


 あのアリステルにこういう声を上げさせるとは、いやはや魚の引きの強さとは侮れない。


 拮抗状態はそのまま一、二分ほど続いたものの、アリステルの体力が魚の体力を上回ったのか、徐々に魚影が岸辺の水面に浮かび上がってくる。


 岸から見える魚の影の大きさは想像を優に上回っている。


 魚影を確認したヨナは素早くタモ網を伸ばすと、尾側から網の中へと魚を(すく)い入れ、折れんばかりに()を撓らせて網ごと魚を川岸に引き摺り上げた。


「グライアスだ! このサイズは文句なしにグライアスだ!」


 ヨナは興奮を隠さずに叫ぶと魚の口に指を突っ込んで顎をがっしりと掴み、そのまま高く掲げた。


 全長は人の背丈ほどではないが、ヒトの成人男性と並べたら腰の高さくらいまではありそうだ。昨日食べたイアスの五割増しくらいの大きさがある。




 たった数分の魚との格闘で息が上がってしまっているアリステルは、何が何だか分からない、という表情でヨナの掲げるグライアスを虚ろに眺めている。


「凄いじゃないですか、班長! グライアスを釣り上げるとしたら、班長しかいないと思っていましたよ」

「あ、ああ。凄い引きだった」


 アリステルは白昼夢から覚めたばかりのような自信なさげな声で答えると、フラフラと歩いて乾いた土の上にふにゃと座り込んだ。




 体力を使い果たしたアリステルにはお構いなく、ヨナがグライアスにかかった針を外していく。仕掛けは飲み込まれずに魚の横っ面に張り付き、針は外から内側へ口の浅い部分を貫いている。


 グライアス釣りの仕掛けというものは、魚にごくりと深く針を飲み込ませるものではなく、魚体の側面に引っ掛けて釣るものだったのか。道理でヨナは私が釣り上げたハゼイダを不思議がっていたわけだ。


 針を外し、地面に下ろしたグライアスの全長や体長、体高をヨナはノギスを使って測っていく。満足いくまで計量したヨナはアリステルに向かってぐっと親指を立てて歩み寄っていく。


 二人は、まるでそう打ち合わせでもしていたかのように息を揃えて雄叫びを上げ、勢いよくハイファイブを交わす。なぜかそこにラシードも突入し、三人の男たちは勝鬨(かちどき)のように「ウェェェイ!」とか「ヨッシャアアア!!」と叫びながら何度もハイファイブを交わす。


 な、なんだ、こいつら。なぜ、いきなり頭がおかしくなった?




「男の人って興奮するとああなるよねー」


 サマンダはとち狂った男共を見て、冷めた顔で笑っている。


 そうなのか? 男は釣りをすると、皆こうなるものなのだろうか?


 いつも泰然の心を忘れないアリステルですらこの興奮っぷりだ。これは例外のない世界の大原則なのかもしれない。


 そうと分かれば、このとんでも珍景を今日見られてよかった。釣りの世界にこんな原則があるとも知らずに、いきなりこんな光景に遭遇したら、ヒトを発狂させる瘴気が発生したのか、などと考えて無意味な環境調査に明け暮れていたかもしれない。


 ああ、驚きのあまり、まだ少し動悸がしている。もしまた同じような現場に出くわしても、今回ほど慌てふためかぬように覚えておかなければならない。




    ◇◇    




 本物のグライアスを入手した私たちは釣りを切り上げて村へ戻った。オローナにアリステルの釣果を見せると、「確かにグライアスです」と合格が貰えた。


 一緒にバダテンに行って治療を受けること、及び、憲兵にも軍にも引き続き協力すること諸々を条件として、オローナにグライアスを食べる許可を与えた。


 もちろんオローナひとりで食べ切れる大きさではないため、私たちもグライアスを賞味できることになった。




 その晩食べたグライアスは、身体が天にも昇るような素晴らしい味だった。甘味以外にもここまで人を幸せにする食べ物があるのだ、と知見が広がった気分になった。


 オローナが気取った顔で呟く。


「ああ、これで心置きなく次の街へ向かうことができます」


 オローナが述べたのは実に危険な所感だった。私たちとの約束を反故にして逃走を試みようという予告のようにも聞こえ、不安は尽きない。




    ◇◇    




 翌日、悠然と佇むオローナに不審な部分は見当たらない。抵抗する様子もなく、隣村を発ってバダテンへ歩く私たちに付いてくる。ポーたんが何も反応を示さないことから、これが私たちの油断を誘い、機を見て逃げ出そう、という目論見ではないことが分かる。


 別に逃げてもらいたいわけではないのだが、逃げ出そうとしなければしないでオローナの行動原理に疑問を抱いてしまう。




 私たちの心配は杞憂に終わり、アリステル班、オローナ、そしてヨナとフランの憲兵二人は無事にバダテンへ帰り着いた。


 根本的な情報の誤りさえ正してしまえば、バダテンのことはバダテンの憲兵団に調べさせるのが最速だ。余所者である私たちが遮二無二調べるより、地元民のフランとヨナに調べさせるほうが効率的なのである。


 釣り人から不良憲兵に戻ったヨナの尻に火を点けて精勤させることで、オローナの身元はほどなくして判明した。




 オローナ・ストレイチェクを名乗る女の本当の名前はデリーシャ・ムドロヴァー。バダテンでは比較的規模の大きい商家の次女であり、種族はヒトだ。裕福な商家の次女、という部分は妄想ではなく現実だった。


 デリーシャは数年前から奔放な性的活動性を発揮するようになった。おそらく、その時期に性病であるバラ毒に罹患したと思われる。両親はとっかえひっかえ男と付き合うデリーシャを苦々しく思いながらも、若さゆえの熱病の一種として目を瞑っていた。しかし、デリーシャが、『自分は吸血種、ヴィポーストのオローナ・ストレイチェクだ』と言い始めた頃から様相が変わる。


 自分は、本当は高貴な血筋の人間なのだ、とか、眠っている凄まじい能力がある、と考える、いわゆる誇大妄想は、ある程度ならば若い人間が陥りがちな思考として了解可能だ。精神的な意味で子供から大人に至る過程のひとつ、ある種の通過儀礼のようなものであり、社会常識だ。それが却って良くなかった。


 病的妄想未満の“願望”程度であれば、両親からの説諭でデリーシャは正常な日常に復帰できただろう。しかし、本物の病的妄想に囚われているデリーシャに正論を唱えても親子の溝を深めることにしかならない。親子仲は完全に破綻し、両親はデリーシャを見限って少なくないお金を持たせ、家から勘当した。


 過ぎた話に注文をつけることが許されるならば、勘当前に一度でいいから医院か教会に連れて行ってもらいたかった。それだけでこの一連の事案発生は防げていた可能性が高い。


 誇大妄想というものが、ある程度は健常な人間にも生じる現象だからこそ、両親はデリーシャが病に冒されている可能性に思い至らず、医院にも教会にも連れて行こうとしなかった。


 アリステルたち三人は、小妖精の力なしにデリーシャが精神を病んでいることに気付いた。しかし、これで任務としてデリーシャを調べたのではなく、日常生活における偶然の接触としてデリーシャを知ったのならば、この女性が病に冒されたヒトだと見抜けたかどうか疑問が残る。多分私は無理だ。金を持った高慢ちきな吸血種、としか思わなかっただろう。




 その後、さらに捜査が進んでいくうちに周辺事情が色々と判明していく。


 家を勘当されてからのデリーシャは、変装魔法(ディスガイズ)で人間に扮したヴィポーストを自称して街を彷徨(さまよ)う。


 余談ではあるが、デリーシャの妄想設定は甘い。できるだけ高貴な種族を選びつつ、変装能力もあることにしようと無意識に考えた結果、ディスガイズを使えるヴィポースト、という無理のある設定になった。黙ってディスガイズの得意なドレーナを自称すればいいのに。


 閑話休題、親の目が無くなったデリーシャは性的活動性が益々亢進する。男ばかりを捕まえて不特定多数の人間と吸血契約並びに売買春契約を結び、血と肉の交わりを持った。性欲に踊らされた男たちはデリーシャから次々とバラ毒を貰う。ただし、貰うだけでなく返礼をする男もいた。デリーシャに気管支肺炎を贈った男がいたせいで、気管支肺炎を発症したデリーシャはバラ毒だけでなく気管支肺炎も広めることになった。


 デリーシャと遊び、贈り物を持たされて家に帰った男たちは、伴侶にはバラ毒と気管支肺炎の両方を、子供には気管支肺炎だけ土産として与えた。


 本物のヒト型吸血種と吸血契約を結んだのであれば、吸血の際に被吸血者は痛みなんて感じないわけだが、欲に目が眩んだ男たちはデリーシャから肉を噛み切られる激痛に加え、家族にまで広がる病気、という形で二つの痛みを与えられたことになる。家族を大事にしない無責任男には良い薬だ。


 気管支肺炎は性接触が無くても近くで一緒に過ごすだけで伝染(うつ)るから、デリーシャと明確な接点が無い人間にも広く拡散していった。


 健康な人間であれば気管支肺炎は治療を受けなくとも、早ければ一週間程度で治る。ところが、バラ毒で健康状態が悪化しているデリーシャはいつまで経っても気管支肺炎が治らない。


 やがてバラ毒が進行して皮膚症状が悪化すると、安全意識が欠落した男以外はデリーシャと肉体関係を持たなくなっていく。


 それでも疑似吸血行為によってバラ毒拡散は続く。気管支肺炎の方は性接触も吸血行為も要らないため、不幸にもデリーシャの近くを通りすがった人間、たまたまデリーシャに立ち寄られてしまった店の店員、宿泊された宿の経営者等などに好調に広まり続けた。


 自分をヴィポーストだと思いこむデリーシャの血統妄想がバラ毒による症状のひとつなのか、それとも別の原発的な精神病によるものなのかは、バラ毒の治療がある程度進まないと分からない。それはデリーシャの家族と、今後治療に携わる人間が分かればいい話だ。




 ラシードとサマンダは、『吸血種が起こした揉め事』という誤った先触れに惑わされることなく、しっかりと正解へ辿り着き、正しい対応を取った。レッドドラウナー戦では改善点を見つけながらも怪我を負うこと無く討伐を果たした。


 卒業試験の監督を果たしたアリステルは二人の成果にご満悦で合格点を与える。


 合格を果たしたサマンダが改めて事案を振り返る。


「本来さー、家族がデリーシャを医者に診させていれば起こらない事件だったのにさー。それにデリーシャと契約した男たちも、誰もデリーシャを医者に連れて行こうとしないもんねー。まあ、自分の症状に関してすら医者に行きたがらないんだから、何回か会っただけのデリーシャに構うことはないかー。でも薄情だなー」

「娼館とか、()()()()()()で貰った病気、っていうのは他人には知られたくないものなんだ。たとえそれが医者とか司祭相手であってもね。だからこそ、割と人に話しやすい吸血契約とかが前面に出て、違う事件に見えてきてしまう。本人に後ろめたいところがなくても、軍での部隊行動だって、そういう事例には遭遇する。例えば、ある兵が行動中に毒を持つ魔物に噛まれたとする。噛まれた場所が性器だったり、その周囲だったりすると、恥ずかしくて軍医にかかろうとしない、なんてこともある。傷病兵でも患者でも、時として悪意とはまた違った感情に阻まれて嘘をつくことがあるから、それはゆめゆめ忘れないようにしないといけない。僕たちは、嘘をつかれても、常に真実に辿り着けるように注意していなくちゃならない。嘘の裏にある真実に辿り着けなければ、結果たくさんの命が失われることだってあるんだ」


 アリステルは、教科書を読むだけでは決して得られない実践的軍医心得をラシードとサマンダへ丹念に伝える。


 今回の病気は、治療さえ受ければ致死率は低いものでしかない。だが、世の中には致死率が高く治療法もないうえに、伝染性の高い恐ろしい病がいくらでもある。話がそこまで重くなると、発病の事実を本人どころか近くの人間まで一緒になってひた隠しにする場合がある。軍医であるラシードやサマンダは、そういう嘘なども病気の発生初期に見抜かなければならない。診断の遅れは伝染病の爆発的拡散へ真っ直ぐに繋がる。指揮官等とはまた別の意味で責任の重い兵科だ。


「女には気を付けよう……」


 ラシードは性病という部分に大きく気を取られ、今回の件に関する学習がかなり浅く狭くなっている気がする。


 この人はこれから大丈夫なのだろうか。この班にいる間は目立った不祥事を起こさなかった。しかし、アリステル班解散後、変な女に目をつけられたりとか、非番時や休暇中に娼館狂いになったりしないだろうか。顔は悪くないし、ポーラにも簡単に誘惑されていたからな……。全く安心できる要素がない。


 ライゼンにしてもジルにしても、男という生き物は、その手の行動が全然信用ならない。戦闘力や任務における有能無能とは丸っきり別に考えないといけない。


 なんというか、男は脳が二つあるようなものだ。馬鹿なほうの脳が愚かなことをしでかさないように、常に理性と分別ある誰かが目を光らせておく必要がある。ほとほと困ったものだ。


「死者は誰も出ていないし、吸血種が事案に関わっていなかったのは何よりだ。さあ、後は伍長たちバダテンの憲兵に任せて僕らは首都に帰ろう」


 私たちが離れた後、ヨナはちゃんと仕事をするだろうか。また仕事をフランに全部押し付けはしないだろうか。デリーシャと家族の橋渡しを満足に行わないと、デリーシャは治療を途中で投げ出して遁走(とんそう)しかねない。そうすると、治りきっていないバラ毒をまた多数の人間に伝染(うつ)して回ることになる。アリステルはヨナの憲兵上官にきっちり監督するようキツく申し送ってはくれたが……一抹の不安は残る。


 よし、切り替えよう。もう、この事案は本来の担当者に託した後なのだ。終わった話をウダウダ考えるのは止めだ。これからのことを考えなければ。


 バダテンと隣村の事案解決にはそれなりの日数を費やした。もっと早くこの任務が終わっていれば、次の任務に取り掛かることもあっただろう。しかし、もうそれほどの時間的余裕はない。多分これがアリステル班最後の任務だ。


 寒さは底を打った。きっと首都にエルリックがいる。時は満ちた。


 私たちは未練を断ち切り、バダテンを後にした。




    ◇◇    




 数か月ぶりとなるジェラズヴェザ都庁、王の間に私たちは集合した。本日集まったのは、ジルとレネー他、アリステル班、エルリックの十四人だ。()しくもエルリックが初めてこの部屋を訪れた時と同じ顔触れになった。


 部屋の中心に立つポーラが相好を崩し、ジルに感謝を述べる。


「いやあ、助かりました。陛下の会社様様です。危うく所持金皆無の状態で現地の社会生活を始めるところでした。ジバクマの貨幣をマディオフの貨幣に両替してくれたお陰で素寒貧(すかんぴん)は免れられます。ありがとうございます」


 エルリックは手持ちのジバクマ貨幣を、可能な限りマディオフ貨幣へ両替していた。


 両替しきれない分がどうなったかというと、なんとジルの会社に全額投資されていた。利殖アンデッドだ。


 両替はまだしも投資にまで手を伸ばすとは、相変わらず予測不能な集団である。


「頼んでおいて何ですが、これって汚職には当たらないですかね?」

「ちゃんと法律に照らし合わせて必要な手続きは踏んであるから大丈夫だ。俺のことを馬鹿にしてないよな?」

「まさか。ジバクマの法律が分からないから尋ねたまでですよ」


 苦笑しながらエルリックに応えるジルは、立場にも年齢にもそぐわずノリが軽い。目を瞑って二者の掛け合いに耳を傾けると、学生ないし新成人がそこでじゃれ合っているかのようだ。


 こういうあたりがジルの人間的な魅力のひとつなのかもしれない。話し掛けるのも躊躇われるような堅苦しい雰囲気の人間だったら、私やライゼンがジルと今のような関係になっていたかどうか分からない。


「さあて。ではラムサスさん。またしばらくよろしくお願いしますね」

「ちょっと待ってください。行く前に俺と勝負してください」


 本題を切り出したエルリックに、待ってましたとばかりにラシードが面倒なことを言い始めた。ラシードが勝ったら私を連れて行くのを諦めろ、とかいうところだろうか。男は本当にくだらない。最初みたいにカチンコチンに緊張して黙っていればいいのに。


「勝負にはならないですよ、ラシード君」

「それでもです。俺はエルリックの全力を見てみたい」


 私の予想は正解に(かす)りもしていなかった。ラシードが突然勝負を切り出したのは、エルリックに私を連れて行かせないためではなく、個人的に強さを希求してのことだった。


 ポーラは目だけを動かして天井を数秒見上げてから、アリステルをチラリと見やる。


「中佐。大尉はもう絶空を?」

「絶空に関する見識は既に伝えてありますが、病前の私も満足にはできない技術ですし、ラシードもそこまで闘衣を使いこなしていません」

「では、ラシード君。もう分かるでしょう。我々が全力を出す、ということは瘴気を展開する、ということになります。絶空を使えなければ、絶を使った瞬間に瘴気で死ぬか、絶を使わずに一合だけ斬り合った後、二の剣で死ぬか、の二択です」

「あっ。なら、瘴気は使わない範囲の全力でお願いします」


 シレっとした顔で意味不明なことを要求するラシードに、横で聞いていたジルが笑い出す。ポーラもつられて抑え気味に笑い出した。


「大尉ー。それ、全力とは言わないですよ」

「あの時言ったじゃないですか。俺たちを班長より強くしてみせるって。俺はまだそこまで強くなっていないですよ」


 今のラシードは毒壺で弱っていた頃のアリステルの強さなら確実に超えている。アリステルの全盛期にはまだ届いていないだろうが、それも目前だ。


 私とサマンダは、まだあの時のアリステルの背中が見えたくらいで、手は届かない。


「ラシード君。我々はまたジバクマに戻ってきます。その時、君が絶空を習得していたら、場所を整えてまた手合わせしてあげましょう。楽しみは先に取っておいたほうが大きくなります。いいですか。これからも訓練を怠ってはいけませんよ」


 エルリックに諭されてもラシードはまだ不満げだ。


 むくれるラシードに好適な情報をレネーがもたらす。


「ヘイダ大尉とシェンク中尉には昇格と昇任、能力に見合った人事を準備してある。新しい部隊では訓練相手に事欠かないはずだ」

「……謹んでお受けいたします」


 レネーに告げられた人事を、ラシードは膨れ面のまま全然謹しまずに了承して、ようやく引き下がった。


「そういや話は変わるが、エルリックは人数が減ったな。何かあったのか?」


 ジルが話題を変えがてら、エルリックの変化を指摘する。言われて、私もじっくりエルリックのメンバーを数えてみると、確かに七人しかいない。


 むむむ、誰がいないのだ?


「恥ずかしいことに、ハントの際に下手を打ってしまいました。暴れ馬(フシチェカン)を討伐する際、小さい群れだから何とかなるかと思ったのですが、一本手足を踏み潰されてしまいましたよ」


 多分、この場にいないのはマドヴァだ。イデナとマドヴァは今でも見分けが付きづらいのだが、ここに立っているのはイデナのように見える。すると、室内にいるのは十四人ではなく十三人だ。


 フシチェカンは時折、人前に姿を見せる危険な魔物だ。姿はウマに似ていて、体高はヒトの背丈を超えている。ウマとは違って額に角が生えており、角からはファイアーボールを果敢に飛ばしてくる。しかも、とても好戦的である。一頭だけでも討伐にはチタンクラスの強さが求められる手強さの厄介な存在だというのに、それに飽き足らず、大抵、群れをなして現れるから始末に負えない。群れの規模が大きくなると、腕利きのハンターを揃えてもどうにもならなくなる。


 エルリックですらひとりメンバーを失ったのだから、どれだけ危険な魔物なのかよく分かる。エルリックは、『踏み潰された』と表現しているのだから、魔法ではなく脚攻撃を受けて倒れたのだろう。


 ウルドは毒壺最下層でヴェスパに倒され、マドヴァはフシチェカンに倒された。エルリックが決して不滅でも無敵でもない、という認識を新たにする。


「それはすまなかった」


 メンバーを失ったエルリックになぜかレネーが謝罪する。


「おかげで貴重な経験が積めましたし、精石も回収しました。大将にも重ね重ね便宜を図っていただきました」

「国内のハンターでは処理できず、軍でも手を(こまぬ)いていた魔物を随分と討伐してもらった。感謝の言葉もない」


 初顔合わせの時はありえないほど敵意剥き出しだったレネーも、なんだかんだ私の知らぬ間にエルリックと上手くやっていたようだ。


「お互い話しておくべきことは、もう話し終えましたかね。はい、ではこちらに着替えてください」


 ポーラが一着のローブを私に差し出す。くすんだ茶色で、エルリックのメンバー全員が纏っているローブと同じ目立たない物だ。


 これはもしや、マドヴァの遺品だろうか。そういえば、ラシードも一時ウルドの遺品の剣を使ったなあ……。このローブがマドヴァの遺品なのか、全然別のところから出てきたものか分からないが、粗末には扱わないようにしよう。


 私は着ていたジバクマ軍の制服のひとつである外套を脱いで、渡されたワイルドハントのローブに身を包む。実際に着てみると、見た目よりも温かさがある。


「軍式の外套ではなくてエルリックのローブを纏うと、ポーラさんとの対比が、こう……」


 ラシードが語尾を濁す。


 ポーラは平均的なジバクマの人間と比べると色白だ。私と並ぶと肌の色の黒白コントラストが目立つ。特に同じ色のローブを纏ってしまうと色差の大きさが明確になる。


 ごくり、と周囲にまで伝わる大きな音を立てて生唾を呑むラシードを見て、ジルが苦笑する。


「大尉も昇任して新しい環境に行きチヤホヤされても、浮かれて失敗しないように気を付けてくれよ」

「と、当然です。俺は少尉一筋ですから」


 ジルは一般的な注意をしただけなのに、ラシードは色難への警告と早合点して返事をしている。


 さっきの目を思い出しても、この人が大失敗まで秒読み段階にある気がしてならない。茶化されても億劫だ。ここは敢えて何も言わないでおこう。私が言うべきは、国王への出発の挨拶だけだ。


「では陛下、しばらく不在とさせていただきます。この国とジェダを何卒宜しくお願いいたします」

「ああ。病気の療養は大変だから、気をつけてな」


 私は表向き、肺労を患って休職し、空気の清浄な地方で療養生活を行う、ということになっている。アリステルが捏造(ねつぞう)した軍医意見書には肺労と明記されていないが、治療に長期を要し、かつ人が少なく空気の澄んだ場所へ移らなければならぬ、ときたら、誰の頭にもたったひとつの病名が浮かぶ。


 肺労の女など、咳が治まったとしても男からは見向きされなくなる。私のように男の歓心をさして欲していない人間であっても、それでもやはり思うところがあるのだから、普通の未婚女性が真に肺労を患ったときの心中が察せられるというものだ。


 マディオフ行にも国防にも無用な想いはきっちりと感情の奥底に封印する。クールな情報魔法使いは、男に興味なんてない。


 平静を装い、ジルに深く一礼する。


 班員とはもう挨拶が済んでいる。当面、私はジバクマ人でも軍人でもなく、ワイルドハントのひとりだ。


 放浪のアンデッドか。響きはそれなりに格好いい。




 私は、それまで着ていたジバクマの外套をアリステルに託す。


 私の手から外套を受け取るアリステルの顔を、じっと見る。


 大丈夫、と信じたいが、薬の効果は未知数であり、アリステルの寿命は延びていない可能性がある。元気なアリステルの姿を双眸(そうぼう)に焼き付けておく。




「さて、我々はこれで失礼しますね」


 ポーラはそう言うと、王の間の扉に手をかけて出て行った。


 扉から出ていくのは極めて常識的なことなのに、エルリックが王の間の出入りに窓ではなく扉を使うと無性に違和感がある。


『我々』は順番に王の間から出ていく。その言葉が指しているのはポーラ、背高、シーワ、イデナ、フルル、ノエル、二脚……そして私の八人だ。


 普段は使わない扉を出入り口として用い、いつもと違う色と臭いのローブを纏い、エルリックのメンバーにはマドヴァがおらず、そして何よりアリステルもラシードもサマンダも私と一緒に来てくれない。


 変化の一つ一つは受容の容易なものなのかもしれない。それら小さな変化は多数組み合わさることで、拒絶反応を起こしかねない大きな変動にいたり、私の世界をグラグラと揺らす。


 激震の中、一歩一歩を踏みしめて私は王の間を出る。そしてそのまま都庁を出て、夜の街を抜け、祖国の首都を後にした。

さあ、いよいよ「マディオフ変」です。

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