第三一話 演じる者たち 一
首都ジェラズヴェザを発った私たちはゲルドヴァを経由してレンベルク砦へ到着した。窮屈な馬車の中で溜まった疲れを取る時間などなく、到着即座に負傷兵の治療に駆り出される。
現在のジバクマ軍の目標は、砦の北に位置するジバクマ北西部最大の街ゲダリングの奪還だ。ゲダリング付近で展開されている戦闘は今のところ激戦とまでは至っていないようで、砦に運び込まれている負傷兵の数は、前回私たちが初めて訪れた時よりは少ない。あくまでも前回と比べて多くないだけであり、医療班の面々は冗談でも誇張でもなく休む間もない忙しさだった。
足りないのは人手だけではない。エルリックがいないと圧倒的に足りないのが魔力量だ。医療物資同様、軍医の魔力も限りある資源のひとつであり、魔力消費は厳格な理性によって制御されなければならない。目に入った傷を手当たり次第に治すのは理性に反する行為だ。
大量の負傷兵の身体に刻み込まれた無数の創傷の中から緊急度の高い傷を選び、生命を繋ぎ止められるギリギリのところまで治療する。致命的な部分だけを何とかしたら、あとはどれだけ痛がっていても、開きっぱなしの患部の見た目がド派手なことになっていようとも衛生兵に任せ、また別の死に瀕した負傷兵の治療に向かう。より多くの命を救うための選別だ。
呻き声すら上げられない深昏睡状態の負傷兵は、大量に負傷兵がいるこの状況だと助けられない。もしも状況さえ違えば、この意識のない同胞だって助けられたのかもしれない。しかし、より多くの命を救うために断腸の思いで選別する。助けられる見込みのある負傷兵だけを治療対象に選び、魔力を節約に節約して回復魔法をかけ、それでも軍医の魔力はほどなく枯渇する。底力が試されるのはここからだ。
軍医が行える治療は回復魔法だけではない。止血魔法が使えなければ患部を焼けばいい。裂けて血を吹く血管が露出しているならば糸で縛ってしまえばいい。頭の中で血が出て脳を押し潰しているのなら、頭蓋骨に穴を穿って血抜きすればいい。
前回との大きな違いは、医療物資が足りている、という点だ。魔力が枯渇しても、潤沢にある物資を使って治療を継続できる。軍医たちは立ち止まらない。口は絶えず衛生兵に指示を出し、手は常に動かし、目は患部、負傷兵の顔色、衛生兵の仕事ぶりを見て、ほんの少し余裕があれば、次に治療予定となっている負傷兵の受傷状況を一瞥して頭の中に治療計画を立てる。口、手、目、頭を全て動かし、並行して同時にいくつもの作業を行っている。
水を得た魚のように躍動する軍医たちの横で手が止まりがちなのが情報魔法使いの私だ。小妖精による調査は手抜かりがないように行っているが、これは大抵すぐに終わる。“転写”したトゥールさんに、『お前はジバクマを売るような真似をしていないか』と問えば、圧倒的大多数の場合『いいえ』と返答が得られ、それで調査は完了だ。一度、内通者が見つかると調査にかかる時間は途端に長くなるのだが、内通者の絶対数はとにかく少ない。“質問”を厳選すべく調査に集中している時間よりも、目の届く範囲にいる全ての兵の調査を終えて手余ししている時間のほうが長い。
手が空いているのだから治療の手伝いをしたいのだが、日頃軍医に混じって講義を聞いていようとも所詮私は畑違い。私の医療能力は衛生兵よりも圧倒的に低い。軍人や憲兵ならば誰でも知っている応急手当程度の知識は、こういう本職の人間がいる治療現場では正直役に立たない。治療に直接役立つ能力といえば患部を洗浄する水魔法程度のもの、ただし出る水は低温だ。軽傷者の擦り傷を洗い流すのには使えても、体温が失われつつある重傷者には全く適さない。
ラシードやサマンダから、「どれそれの医療器具を持ってこい」とか「あの薬をこれぐらいの比率でお湯に溶け」とか、具体的な指示を貰えれば喜んで働こう。しかし、せっかく貰った軍医の指示を私が遂行する前に、ほぼ全部衛生兵がテキパキとこなしてしまう。
指示されなければ動けないのに、指示を出されたら出されたで衛生兵よりも動きが遅い。自分の存在価値を見失いがちになる辛い仕事場である。貰って一番嬉しいのは、「患部を照らせ」という指示だ。影ができやすいランタンや蛍光石を用いた無影灯の光よりも、私のマジックライトのほうが患部の視認性を良好に保てる。この指示だけは絶対に遅れを取らない、という強い意気込みで、指示が出たら遅滞なく魔法を放つ。もちろん光量の調整や色温調節も怠らない。暗ければ照明として役に立たないし、眩しいと軍医の視界の妨げとなってしまう。
色々気張ってはみるものの、残念ながら手持ち無沙汰なことは否定のしようがない。本当に何もすることが無いときは、急を要する患部の処置が終わっていて、かつ受け答えに応じられる意識状態の負傷兵を探し、包帯交換や更衣を口実として近付いて雑談の体で話し掛ける。情報収集とは小妖精を介するものに限らない。機密には該当しない重要情報が山とある。そういうのは小妖精を使うよりも、口で聞いたほうがずっと早くて簡単だ。戦場で負傷した兵士多数からいくつもの話を聞くにつれ、生々しい最前線の様子とエルリックの直近の動向が見えてくる。
ゲダリングへの攻撃は、砦攻めというよりも城攻めに近い。基本的に砦というものが周囲に街を伴っていないのに対し、ゲダリングは防壁の周囲にジバクマ国民の住む街区が広がっている。ゲダリングの中心地を守る防壁は簡易な砦に好んで用いられる木製の砦柵に毛の生えたような低廉な構造とは比較にならない強固なものだ。それを攻めるとなると攻城兵器が要る。ジバクマ軍が攻城兵器を用意すれば、壁内のオルシネーヴァ軍は当然破壊しようとする。壁内から放たれる魔法と弩、砲弾は攻城兵器だけでなく、その周囲にある建造物を巻き込んで破壊する。街がいくら壊れようとも、オルシネーヴァは何も痛くない。損害を被るのはジバクマ軍とジバクマ国民ばかりだ。これがあるからゲダリングの奪還は難しい。
ジバクマ軍が攻撃すべきは、壁の内側にいる人間たちだ。防壁の中にも、おそらくジバクマ国民はいるだろうが、割合的にはオルシネーヴァの軍事関係者が圧倒的に多いはずだ。少なくとも、ゲダリングの役所に潜入した際の短時間の調査ではそうだった。オルシネーヴァの部隊が配置を変え、ゲダリングを厚くしている現在では、あの時よりも更に軍人の割合が多いことだろう。
攻城兵器絡みの大規模戦闘はなくとも、壁付近をジバクマの中小規模の部隊が行動するだけで死傷者は発生する。壁上、壁内から放たれるオルシネーヴァ軍の遠距離攻撃を受けたり、街区に身を潜めた伏兵と衝突したり、と負傷機会には事欠かない。
さて、ゲダリングで守りを固めたオルシネーヴァ軍は、いわゆる籠城をしていることになる。籠城の際に問題になるのが物資の補給だ。ジバクマ軍は防壁にちょっかいを掛ける以上に、補給線の完全な遮断に努めなければならない。周辺地や本国から物資が際限なく補給されるのを指を咥えて見ていては、ゲダリング包囲はいつまで経っても終わらない。輜重隊の姿が見えないか、ジバクマ軍がゲダリングの周囲に物見を出すと、輜重隊の代わりにそこかしこでワイルドハントの姿を目撃する。
斥候部隊はワイルドハントを認識しても接触を持たない。いや、持てない、と表現するほうが正しい。ワイルドハントは斥候部隊の姿を視認すると、斥候部隊が何らかの行動を起こす前に音もなくフィールドの奥に消え去る。目の前に現れては無言で姿を隠す、という奇行が何度も繰り返される様は、エルリックに好感を持つ一部のジバクマ軍人からしても、『不気味』の一言に尽きる。
あれほど気配遮断に秀でたアンデッド集団がジバクマの斥候部隊にうっかり何度も見つかってしまうわけがない。エルリックがやっているのは、『我々はここにいる』という存在の主張だ。斥候を通して、ジェフや“愚者”に契約の履行を暗に迫っている。
ゲダリング付近を選んで出没するのは、いつでもゲダリング攻めに加われる、という意思表示だ。取引内容が高札に掲げられる時を今か今かと待っている。
◇◇
無駄な負傷兵を出すだけのゲダリング包囲が続くこと数週、首都から臨時法の制定と施行の報せが届いた。ジェフとエルリックが接触を持ってから、まだほんの一か月しか経っていない。政権を握っていると、ここまで短期間で事をなせる、という証明だ。それにしたって、ジェフたちは動きが速い。“愚者”の頼みとあって、法制局の人間はさぞかし急いで法案を作成したとみえる。“仲間”の議員の法案作成には多忙を理由に協力を渋る、“愚者”の鞄持ちのような連中だ。
臨時法制定までの国内の動きを思うと私の不満や怒りはとどまるところを知らないが、この際それは忘れよう。いずれも問題の要点ではない。今、最も注視すべきは臨時法が定めた内容だ。
臨時法の骨子は大きく二つ。ひとつは、ジバクマ北東の国ゼトラケインからの難民や移民の受け入れ間口を今までよりも圧倒的に大きく広げる期間限定の規定だ。新法施行の狼煙として吸血種数十名が移民としてジバクマに受け入れられた。国内で立法するだけでなく、広告塔代わりにゼトラケインから移民をすぐに引っ張ってこられるとは、“愚者”の政治力は侮れない。
吸血種を正式に受け入れた、とあっては、ジバクマは将来的にマディオフとの対立が避けられない。しかし、そうするだけの価値がある、と“愚者”は踏んだのだ。
マディオフにとってみれば挑発的な政治方針だが、法律ひとつでいきなりマディオフと戦争が始まってしまう心配はないだろう。マディオフとの国境にはグルーン川が作り上げた深い渓谷がある。ジバクマがゲダリングを奪還しても、そう簡単にはマディオフから攻められるおそれがない。大規模な行軍経路となると、ブライヴィツ湖を渡るか、オルシネーヴァ領土を通過する以外、現実的なものはない。
“愚者”にしたって、それは承知しているだろうから、オルシネーヴァを完全に滅ぼすつもりはないはずだ。“愚者”もオルシネーヴァを細く長く生き永らえさせ、マディオフとの緩衝地帯として存分に機能してもらおう、と考えている。
……これは私の願望的予測に他ならない。“愚者”の抱える常軌を逸した暗愚な議員の数はひとりや二人どころではない。オルシネーヴァを完全に滅亡させた結果、ジバクマがマディオフと一触即発の国境を接することになったとしても、ワイルドハントを利用すればマディオフとも渡り合える、と考えていたらどうする。“愚者”に限ってありえる話だ。何せ“愚者”は、エルリックがこの先、ジバクマを出てマディオフに行く、という予定を知らない。そういう戦略を立ててもまるで不思議ではない。
臨時法のもうひとつの骨子は選挙の予告だ。今後、オルシネーヴァから奪還、獲得した都市において首長選挙を執り行うこと、その選挙において選挙権、被選挙権の特別措置が取られること等が条文に盛り込まれている。ゼトラケインから来たばかりの移民、それも吸血種まで含めて、選挙権と被選挙権を与える、という特例中の特例が法的に約束された。
これが、エルリックがジェフに要求した報酬の中身だ。“仲間”だと達成が難しいなら実行者には固執せず、あえて敵陣である“愚者”にやらせるという逆転の発想だ。
吸血種の受け入れと選挙、という二つの前提に立って考えてみるにつれ、やはり“愚者”はオルシネーヴァを丸々全て落とせると考えているような気がしてしまう。そういう甘い目論見や欲望というものが法律細則から何となく透けて見えるのだ。オルシネーヴァを滅亡させることは、マディオフとの新国境ができることを意味し、それは即ちマディオフとの戦争が不可避である、ということだ。マディオフとの敵対が決まっているのであれば、吸血種をジバクマに受け入れるデメリットは特に無いと言えよう。だからこそ、“愚者”は吸血種の移民をジバクマに受け入れた。
それに、首長選に目を向けても、“愚者”が負ける要素はほとんどない。移民に選挙権や被選挙権を与えたところで大勢に影響はない。ゼトラケインの主流吸血種であるドレーナは絶対数がそこまで多くないし、吸血種以外の移民希望者がそれなりにいたとしてもゲダリングなどの奪還、獲得都市に流入させなければいい話だ。
ジバクマへ移住を希望する者は、都市奪還に先駆けて首都なりリレンコフなりゲルドヴァなりの他都市で受け入れてしまえばいいし、都市を入手した後にジバクマに来た移民が向かう先も、恣意的な誘導を行えば選挙の大きな障害にならない。
少しばかりの移民が新都市に流入し、そのうちの誰かがその都市で選挙に立候補したところで、その人物には選挙基盤が存在しない。選挙に勝つのは高い執政能力を持つ者ではなく、票獲得能力が高い者だ。瞬間的な大衆の人気取りに長けた人物と言い換えてもいい。当選に必要な人的資源や技術的知識を“愚者”はたっぷりと持っている。新都市に“愚者”の子飼いの政治家を送り込んで立候補させれば、他の候補者たちに大差をつけての当選間違いなし、と思っているに違いない。
ジバクマは共和国となった際に民主化を果たし、選挙権は旧貴族だけでなく国民ひとりひとりが持っている。ジバクマの選挙に勝つには情報戦を制することが極めて重要であり、権力者同士のコネクションだけでは勝利が約束されない。
“仲間”の知る限り、“愚者”は私たちの手札に伍する情報魔法の使い手や魔道具を持っていない。先だってトゥールさんでジェフを調査した時にそれは再確認している。“愚者”は敗北が決定的となる瞬間まで、情報力の差に気付かない。
ジルたち首都組が小半年かけてできなかったことを、少し形こそ変わったもののジェフらがこの短期間で実現したことには内心複雑であるが、ここは割り切ろう。“愚者”はワイルドハントと取り引きし、近い将来に得られる莫大な利益のために労力を費やした。その利益の大半は幻となって消えうせる。エルリックと関わった者は例外なく幻惑される。それを身をもって知るがいい。
幻が消え、現実に立ち返った“愚者”が見るのは、“愚者”の身体から切り落とした肉と骨で作り上げた橋と、橋を渡り終えた私たちの後ろ姿だ。後塵を拝していることに気付いた“愚者”は敗因を探し、私たち“仲間”の所持するものが何なのか見定めようとするだろう。しかし、私たちはそれを身体の前に包み隠し持っている。後ろにいる“愚者”からはどうやっても見えない。情報力の差とは、そういうものだ。
◇◇
臨時法の施行を待っていたエルリックは温めていた“作戦”未満の単純明快な“予定”を実行に移す。オルシネーヴァ軍が籠もるゲダリングの防壁南側が大きく崩されたのは、臨時施行の情報が最前線の兵たちに届いた翌日の話だった。“レンベルクの悪夢”から、これで数えて三度目、ベネリカッターはオルシネーヴァに破壊と衝撃をもたらした。
ゲダリングは計画的に造成された純粋な要塞ではない。平和な普通の都市を改造して疑似要塞としたものだ。厚く高い防壁があり、その周囲にジバクマの街が広がっていたからこそ、ジバクマ軍に対して要塞としての価値を発揮できていた。防衛力は本物の城や砦に劣る。
それに、オルシネーヴァ兵は知っている。戦争に介入を始めたワイルドハントには、人間相手の防衛構造が用をなさない。本国の本城が盗賊に侵入され、ひどく破壊されてしまったことは記憶に新しい。盗賊の正体がワイルドハントだと、まことしやかに噂されている。ワイルドハントの異常な戦闘力を目の当たりにした“レンベルクの悪夢”からの生還軍人は、その噂が真実である、と民間人よりもずっと深く確信している。
ゲダリングを捨てて逃走すればどうなるか。オルシネーヴァ兵はきっとこう考える。『レンベルクの悪夢の再現になる』と。復讐の炎に身を焦がしたジバクマ軍は哀れに逃げ惑うオルシネーヴァ兵を許さない。では、このままゲダリングに籠もって守り勝てるだろうか。そこまで楽観的に考えられる阿呆もいないだろう。
逃げたところで落ち延びられる可能性は低く、かといって勝利するのは一層無理難題だ。となると、残されるのは玉砕覚悟の突撃だ。せめてひとりでも多くジバクマの軍人を道連れにして死ぬ。おそらくオルシネーヴァ軍はそんな覚悟をして防壁内から出てきたはずだ。しかし、防壁の外でオルシネーヴァ軍を待ち受けていたのは、ワイルドハントによる停戦への呼びかけだった。
将官だろうと下級の兵卒だろうと、オルシネーヴァの軍人は皆、幾度となく降伏や停戦について考えていたことだろう。だが、ワイルドハントから停戦を呼びかけられると想像していた人間はいただろうか? 実際に大量にオルシネーヴァ兵を殺害し、多くの死体をアンデッドに変えた惨劇の呼び水からの停戦提案を、もしも予期できていたならば、それは未来予知のような特殊能力を持つ人物か、救いようのない馬鹿だ。慧眼をもってこの未来を見通すのは大変に難しい。
ワイルドハントの中心で停戦を叫ぶポーラは見目麗しい女性の姿をしている。これには多くのオルシネーヴァ兵が、美しい容姿と歌声で漁師や航海者を食い殺すセイレーンの逸話を思い出したことだろう。美味い話には裏があり、甘美な提案には罠がある。これは遍く世界で語られる訓話である。
ワイルドハントの誘いにオルシネーヴァ軍がそう簡単に乗るわけがない。では、全く揺さぶられないかというと、そうはいかないのが人間だ。一心不乱に戦った末での討ち死にを覚悟して出てきた兵であっても、生存の目がある、となれば、決意は揺らぐ。もうこうなっては、死物狂いの武勲など期待できない。迷える兵が積み重ねられるのは、武勲ではなく自らの屍だけだ。
固かったはずの決意をいとも容易く崩されてしまったオルシネーヴァの部隊は混乱したまま、壊れた防壁の中へ引き上げる。そして提案の真意を探るべく、ジバクマ軍へ軍使を出す。
ジバクマ軍の陣から戻ったオルシネーヴァの軍使は自軍の指揮官、将官に提案の目的をこう告げる。
『戦争の大勢は決しており、これ以上の継戦は両国の無意味な人的資源の損耗に他ならない』
まるで普通の戦争のような、変哲のない停戦理由であり、それそのものは情報として特別な意味を持たない。だが、それでもヒトは十分に動揺する。降伏要求ではなく停戦提案だったのも大きかった。
本当は誰だって生き残りたい。生きて家族の下へ戻り、未来の世界をその目で見たい。
揺さぶりはこれ以上無いほど効果的にオルシネーヴァ兵の生存欲求をくすぐった。生き残れる道が示されてなお、殉職覚悟で奮戦できる者は多くない。決死の覚悟の兵が激減してしまっては、指揮官はもう最後の突撃命令を下せない。
名誉ある死の花道を塞がれた将官たちは後々の体裁を考え、形ばかりの抵抗を模索する。生き残るにも理由がいるのだ。だから、オルシネーヴァ軍がジバクマ軍に一騎打ちを申し込んできたのは、自然な帰結なのである。
一騎打ちにはいくつか役割があり、状況によって意味合いは変わる。此度の意味は、戦況不利に陥った側が希望する“儀式”だ。優位に立つジバクマ軍が応じるとは限らない。仮に一騎打ちに応じたところで、名乗りを上げるのがワイルドハントであることは考えるまでもない。それでもなお一騎打ちを望んだオルシネーヴァ軍の真の目的とは何か。好意的に解釈するならば、軍人や貴族として誇り、矜持といったものか、あるいは意地を見せることで停戦後に少しでも自国の立場を良くすることを願った自己犠牲の精神だろう。しかし、その底に蠢いているのは、体良く生贄を捧げたがる醜い保身の心だ。
真実は常に日の目を見ず、それでも時間は流れていく。
ジバクマ軍は一騎打ちの申し出に興味を示した。オルシネーヴァの要求が半ば通った形になる。すると、オルシネーヴァは新たな要求を出す。
『一騎打ちに臨むのは、各国の軍に正式に所属する者に限定すべし。傭兵やそれに相当する者を要員としてはならない』
この未練がましい愚かな要求がワイルドハントの怒りに火を点ける。
ワイルドハントはオルシネーヴァの軍使に告げる。
『オルシネーヴァの軍人の心意気や見事なり。華々しく散ろうというならば、無粋はしまい。存分に戦うがいい。一騎打ちの後、戦争がどのような結末を迎えようと、それは二国の人間にとっての真実だ。しかし、忘れることなかれ。我々を排除して二国のみで到達した結果は、我々には意味をなさない。停戦したければすればいい。民の最後のひとりとなるまで抗戦したければ、それも自由にするがいい。二国の決定は我々の行動に何ら影響を及ぼさない。戦いが終わろうとも狩りは終わらない。我々に先に攻撃してきたのはオルシネーヴァ人だ。停戦提案も拒否された。その意気や良し。もはや交渉の余地はない。オルシネーヴァ人の全生命を刈り取るか、我々の手足、最後の一本が滅びるまでハントは続くだろう』
ワイルドハントの苛烈な宣言に軍使は参ってしまう。
ワイルドハントが一騎打ちに立ち会うだけで満足しないことは予見できても、オルシネーヴァにほんの少し探りを入れられるだけで、ここまで極端過ぎる返答を突きつけるとは予見できない。どういう利害がはたらけば、こんな極端なことを言い出す集団が降伏ではなく停戦を提案するのか理解できない。
軍使はそれなりに頭の切れる人物が就く。予想される利害に基づき賢しく考えれば考えるほど、あらぬ幻を見てドツボにはまる。
思考の沼に囚われた軍使は、結局“真実”が何も分からないまま、ワイルドハントの脅迫的な意見を持ち帰る。その後、ゲダリングでどのような軍議が行われたのか定かではないものの、最終的にオルシネーヴァはワイルドハントとの一騎打ちに臨むことを願いでた。
◇◇
オルシネーヴァ軍は、ゲダリングに残存する兵力の中で最強の剣士ヒレール・ジェギットを選出した。ここで最強の駒ではなく、あえて弱い兵を捨て駒にすることもできたはずなのだが、ワイルドハントの怒りの沸点の低さを知ったオルシネーヴァは腹を括ったようだった。
残存兵力最強とはいえ、オルシネーヴァには元々強力な「個」がいない。ミスリルクラスと目されるオルシネーヴァ最強の宮廷魔導師ルーヴァン・ブロイスは王都エイナードに控えたままであり、ゲダリングにはいない。前線で戦っている兵はいずれもチタンクラスかそれ以下の強さしかない。純粋な破壊力ならばヒレールを超す魔法使いはいたものの、期待されているのは魔法比べではなく一騎打ちなのだ。所持するスキルや魔法、装備にもよるが、同程度の強さの剣士と魔法使いを一対一で戦わせると往々にして剣士が勝つ。
ジバクマ側から出た剣士が誰だったのか、実際のところは分からない。なぜなら、ジバクマ軍人ですら、ポーラ以外のワイルドハントの面々を見分けられないからだ。剣士というのだから、それはきっと、シーワかフルルだったのだろう。アリステル班にとっては名前のあるメンバーでも、ジバクマ兵にとってはエルリックの誰か、オルシネーヴァ兵にとっては名もなき邪悪なアンデッドの一体に過ぎない。
一騎打ちとは国と軍を代表する者同士がぶつかり合う、全力を尽くすべき場だ。両国の想いが激突し、混ざり合う闘技の場でワイルドハントは予想外の戦法を選んだ。
好戦的なワイルドハントが選ぶ戦法は、最初から全力での短期決戦であろうと、少なくともジバクマの軍人は誰もが考えていた。しかし、蓋を開けてみると、始まったのは見てつまらぬ、やって苦しい持久戦だった。オルシネーヴァが繰り出した駒であるヒレールは、これをワイルドハントの手抜きだと思ったかもしれない。
それが卑劣な作戦だろうとただの手抜きだろうと、生贄役を託されたヒレールは手を抜けない。ワイルドハントが積極的に攻めてこないから、ヒレールは仕方なく攻めの剣を撃つ。ワイルドハントはそれを防ぐ。
ヒレールがまた剣を撃つ。ワイルドハントはまた防ぐ。
ヒレールが撃っても撃ってもワイルドハントには余裕を持って防がれてしまい、守りの剣を全く打ち崩せない。
右から撃っても左から撃っても、弱く撃っても強く撃ってもフェイント入れても、まるでワイルドハントは動じない。
攻め続けるにも限度があり、息があがってヒレールが攻撃の手を止めると、それまで攻めてこなかったワイルドハントが手を繰り出してくる。しかし、撃ってくる剣はやる気がない。
真意の分からぬワイルドハントの剣をヒレールは鮮やかに防ぐ。
ワイルドハントがまた剣を撃つ。ヒレールはまた防ぐ。
どうしたことか、ワイルドハントの剣はやる気がないのに間断もない。殺意はない、しかし静かに撃たれる剣は速く重い。疲れを知らないアンデッドと撃ち合えば撃ち合うほど、ヒトであるヒレールは疲弊していく。
ワイルドハントとヒレールの切り結びを瞬間的な剣撃の速度だけで評価してしまうと、訓練未満の退屈な切り返しと防御なのかもしれない。“観客”にはそう見える。されとて、やらされている方からすれば、堪らない過酷な責め苦だ。
これが訓練であれば長くとも数分で終わる。それが、この切り返しはダラダラダラダラ……いつまで経っても終わらない。しかも、訓練と違い、撃たれるのが素直な左右面という約束はどこにもない。実際、ワイルドハントの撃つ剣は少しずつ変化が混じっている。どんな変化にも対応しようとすると、守る側の消耗度合いは一気に跳ね上がる。
観客にとって退屈極まりない消耗戦は、思わぬ形……アリステル班からすればよくある形で終わりとなった。
ワイルドハントがまたひとつ剣を撃つ。対するヒレールはワイルドハントの剣を防ぐために自らの剣を操作し守りの構えをとる。取り立てて変哲のない普通の応手だ。
ワイルドハントの剣の重みを受けきれる万全の姿勢を取るヒレールだが、ワイルドハントは剣を途中で止めた。
突如、予期しない変化を見せたワイルドハントに、ヒレールは困惑しながらも反撃を繰り出す。何せ、ワイルドハントは攻撃の手を止めるどころか、剣を鞘に納めようとしている。
この瞬間、何が起こっているのか理解していないのは、ヒレールだけだった。
対戦相手のワイルドハントだけでなく、オルシネーヴァとジバクマの“観客”たちも、全てを理解していた。
一寸前、ヒレールが防御姿勢を取るために構えを取ろうとした段、ヒレールの愛剣は手からすっぽ抜けてクルクルと空に飛んでいってしまっていた。これはワイルドハントの剣技による巻き上げなどではない。純粋なヒレールの握力低下の産物である。
一対一ならぬ怠慢試合で疲労困憊となっているヒレールは、自らの手が既に剣を握っていないことに気付かない。隙だらけのワイルドハントに対し、剣も無いのに無手で“突き”を繰り出した。
ヒレールにとっては“突き”でも、傍から見れば“飛び込み”や“体当たり”だ。ワイルドハントは体当たりをヒラリと躱す。避けられたヒレールは体勢を立て直そうとするも、あるはずの剣が無いからバランスが取れず、派手に転んでしまう。
体当たりの勢いで上半身から派手に地面に滑り込んだヒレールは慌てて身体を起こし、何故か手元から消え失せた剣を探す。右を見ても左を見ても、愛剣はどこにも見当たらない。代わりに見つかるのは、空を舞い輝く謎の飛行物体と地を歩き去っていくワイルドハント、落胆する自軍の観衆、そして憐憫の眼差しを向ける敵軍の観衆だった。
ヒレールは、自分が演じていたのは死闘などではないことを理解していても、まさか道化を演じさせられていたとは思っていなかっただろう。
ヒレールは謎の飛行物体をしばし眺め、唐突に「ありゃりゃ!?」と叫んだ。それが、ヒレールが愛剣の行方と、自らの置かれた状況を察した瞬間だったと思われる。
叫び声はそのまま嘆き声に変わる。
ヒレールは、息切れ混じりに力なく嗚咽しながら、その場で突っ伏して動かなくなってしまった。
一騎打ちは死亡者どころか怪我人すら出すことなく終了した。怪我の範囲を精神的なものにまで拡大してしまうと、ヒレールの深く重い傷が取り沙汰されてしまうことになるが、ヒレールの心的外傷に執拗に食い下がる人でなしは、幸いにも私の周囲にはいなかった。
両軍にとって、一騎打ちのこの結果は満足のいくものではなかったかもしれない。しかし、これはあくまでも儀式だ。ヒレールを生贄にする代わりに晒し者にしたことで停戦に必要な見世物的手続きが終わり、二国は停戦を迎えることになった。
◇◇
ジバクマとオルシネーヴァの二国間の条約策定、交渉、及び調印のための会議が、ワイルドハントの立ち会いの下で行われることとなった。停戦を主目的とした平和条約とは名ばかりで、事実上、オルシネーヴァの降伏である。
オルシネーヴァから会議に出席するのは王族と大臣複数名、ジバクマからは国王のジルと賢老院の筆頭議員数名が出席する。
会議の滑り出しで勢いよく喋るはジバクマの議員たちだ。議員たちはオルシネーヴァに対し高圧的な態度を取り、過剰なまでの不平等条約を結ぼうとする野心を隠す素振りすら見せない。
平和条約を目指す会議とはかけ離れた様相にワイルドハントが水を差す。ジバクマに一方的に都合の良い条約ではなく、数十年先の両国民に遺恨が残らない方策を模索するよう、両国代表に提言する。
それを聞いた賢老院議員は、初めて自分の目で見るワイルドハントが戦後交渉の何たるかを知らない無知かつ怯懦な事なかれ主義者と判断し、嘲笑した。
一方のオルシネーヴァ勢は当然のようにワイルドハントの意見に賛成する。端からオルシネーヴァ人は賢老院議員よりもよほどワイルドハントの恐怖をよく分かっている。多少の無茶を振られたところで、『無理』とは口が裂けても言えない。オルシネーヴァ人の心中の手引きに、『ワイルドハントに逆らう』などという恐れ知らずな文言は存在しないのだ。そこでワイルドハントがまるでオルシネーヴァの味方のような発言をし始める、ときた。加勢しないわけがない。
和解や平等を唱えるワイルドハントとオルシネーヴァに対して強硬な態度を堅持する賢老院議員だったが、ワイルドハントがただの事なかれや平和主義の消極提案をしているのではなく、場合によってはジバクマ軍との武力衝突も辞さない、下達にも近い本気の通告をしている、と次第に理解していく。
ワイルドハントがジバクマの憲兵団大将ジェフ・ジベウに買収された上で平和の翼賛者を演じているとばかり思い込んでいた賢老院議員は困惑に包まれながらも会議の場を見回し、その場に敵が多いことを察する。
此度、ゲルドヴァに出現したワイルドハントは謎の存在だった。ヒトの社会に立ち入ってはヒトと働き、時に衝突し、けれどもなぜか一般人を殺さない。かといって不殺主義などではなく、国家間の戦争に介入してはオルシネーヴァ兵を大量に殺めた。掴みどころのない奇矯な集団ではあるが、同胞を救うために活動していた、というジェフ・ジベウの報告で全ての謎が解け、賢老院はワイルドハントを買収した。今ではワイルドハントは意のままに操れる狩猟犬のような存在だ、と賢老院は思っていたことだろう。それが、講話の場でいきなりジバクマの味方ではなくなった。ワイルドハントは一時的にオルシネーヴァの王族と共闘する形を採っている。勿論、だからといって本質的にはオルシネーヴァの味方でもない。
ワイルドハントは再び真の目的が分からない、謎の存在へ戻ってしまった。しかも、この謎の存在は“愚者”の出方次第で容易にジバクマに“大量死”をもたらす。
会議の争点は賢老院議員間でのパイの奪い合い、とばかり考えていた議員たちは、慌てて方針を修正する。最優先となるのはワイルドハントの不興を買わないことであり、その点を重々弁えたうえで最大の利益をオルシネーヴァから引き出さなくてはならない。下手に賢老院議員同士で内輪揉めしていては、得られる取り分が何も無くなってしまう。
会議場は、ジバクマ勢が一方的にオルシネーヴァを食い荒らす“食堂”のはずだった。それが、何人をも震駭せしめる暴力を背景にその場を牛耳るワイルドハントに阿りながら、賜物に与る余地を探り合うヒトの阿諛追従の“晒し場”へ姿を変えていく。
そんな醜い迎合にひとりだけ加わらなかったのが、ジバクマの国王ジル・シャピエハ・ジバクマだ。
ワイルドハントは条約が目指すべき方角こそ示せど、具体的な航路は示さない。条項、内容にはなぜか一向に言及しようとしない。
皆が戸惑い一歩目を踏み出せぬ中、ジバクマ王はワイルドハントが示す方角へ孤独に足を踏み出していく。
ワイルドハントと会うのは都合四度目となるジバクマ王も、名目上は他の面々と同様に初対面ということになっている。死と不幸をちらつかせるワイルドハントを前にしても臆さずに胸襟を開き、海洋とも底なしの沼とも知れぬ未知の水溜まりの上をひとり進むジバクマ王の姿が、オルシネーヴァ人と賢老院議員にはどう映ったのか。
ひとりが行けば、我も行く、とはこのことで、次々とジバクマ王の背中を追うものが現れる。遅れを取っては、お零れに与り損ねる。先んじてしまっては、ワイルドハントに首を落とされかねない。着くべきは、ジバクマ王の背の真後ろだ。いつしか会議場の全員が、ワイルドハントの怪しい光が指し示す方角へ走り出していた。それも、この集団走行は、ともすればうっかりジバクマ王にすら諂いかねない謎の勢いがある。
会議は漕ぎ出した船のようなものになっていた。ワイルドハントが光を灯す灯台に導かれ、二国間会議という名の船はジバクマ王を航海士にして、水面すら見えない暗黒の中、櫓を漕ぎ進む。時には櫓から手を離して遠見の眼鏡を覗き込むも、暗すぎて周囲は何も見えない。動静観察を諦めて櫓漕ぎに戻れぬ者は、闇に浮かんだ甲板の上を右往左往する。
船の終着点は誰も知らない。それを知るのはワイルドハントだけだ。航海士を務めるジバクマの王が終着点を知ったものなのかは判然としない。
灯台に導かれた船は一時的に寄港し、オルシネーヴァ人は地に足が着く。
オルシネーヴァが失うは、一度はジバクマから奪った領土と戦争によってジバクマが逸失した利益、後は損害を補償するための賠償金だ。守られたのは自国の自治権と王族の安堵。かけられた枷は、終戦と相互不可侵の誓約、軍事力の削減、そして補償の一貫として、ジバクマに対する時限式の軍事力供与だ。
軍事力に関する規定は従属国にも近いものだ。オルシネーヴァは、ジバクマと共にゴルティアと戦う矛のひとつに姿を変えることが義務付けられた。
会議が終わり、生きて再び大地を歩く機会が与えられたオルシネーヴァ人は帰路に就く。
生き心地を取り戻したのはオルシネーヴァ人ばかりで、ジバクマ人たる賢老院議員たちはまだ船から降りられない。気が付けば、虚ろな明かりを掲げていた灯台たるワイルドハントの姿は既にどこにもない。航海士たるジバクマ王は思惑不明のまま別の小舟に乗り換えている。
降り立つ地面を与えられず、光も脱出路も見つけられない賢老院議員たちは、どこを目指せばいいのかも分からぬまま、水上を彷徨する船の中でお互いの肉を貪り合う。それこそが生き残る手段だと信じて。
 




