第三〇話 共和国の王 三
憲兵団の大将ジェフ・ジベウとエルリックの間で繰り広げられた会話、そして交わされた約束を私たちが直接知ることはできなかった。これは後になって分かったことだが、ジェフはエルリック八人の中からポーラひとりだけを選び壁内へ招いていた。招いた場所というのが、私たちが押し込められていた控え室と同じ建物の一室だったというのだから、何とも皮肉めいている。大将自ら足を運んでおきながら接見場所は小汚い場所、ひどくちぐはぐな対応である。
ジェフにとっては、ワイルドハントのひとりを境界の中に招いて対応に当たった、という事実が重要なのだろう。壁門さえ越えさせてしまえば、接見に用いる場所が掃除小屋だろうが国家賓客を迎えるための応接室だろうが問題ではなかったのだ。
ジェフは密室でポーラと契約を結んだ。なぜ契約締結の事実が判明したのか。答えは簡単だ。エルリックがそう明言したからだ。
密談を終えたポーラは、ジルとも私たちとも顔を合わせることなく真っ直ぐに壁外へ戻った。そして、エルリックを取り囲む観衆の前で高らかに宣言した。
『聞け、ジバクマの国民よ。我々はジベウ大将からゲダリング奪還の依頼を受けた。我々は幾つかの条件を提示し、ジベウ大将はそれを受け入れた。その条件は近日高札により公示される。それを見届けるがいい。我々は公示を以てジバクマの依頼を受諾する。悪辣なオルシネーヴァに奪われた領土がジバクマに復帰する日はすぐそこまで迫っている。繰り返す。高札を見よ! ジバクマの決意が示されるのを諸君らは見届けるのだ!』
それは誰の側に立っているのかよく分からない、演説じみた謎の宣誓だった。エルリックの宣誓に観衆は沸き立った。門前の喝采は私たちがいる控え室まで届き、それで初めて私たちは異常事態を察して建物から飛び出した。
いざ、外に出てみればエルリックの演説はもう終わっており、見えるのはその場から立ち去ろうとするローブ集団の後ろ姿ばかりではないか。
呼び止めようにもエルリックがいるのは開いた門の向こう側である。エルリックが首都の外へ向かって歩きだすと、物見の人間たちがすかさず背後を幾層にも固める。私たちがエルリックの背中に向かって伸ばした手は、観衆が織りなす分厚い壁に阻まれて届くことはないのであった。
歩きだしたエルリックは壁内を一顧だにせず、熱狂するヒトの海を割り進んで私たちの前からいなくなってしまった。
エルリックがいなくなる。
ある程度はそういう予想もしていた。しかし、それはあくまで悲観的な予想に過ぎず、現実には起こらないだろう、とも思っていた。その望ましくない展開が目の前で起こり、しばし呆然とさせられてしまう。
「控え室に戻ろう」
アリステルの一言がなかったら、私たちはいつまでもその場に立ち尽くしていたかもしれない。
控え室へ戻ると、間もなくして私たちの待機命令は解除になった。足止めの原因になっていたワイルドハントがいなくなったのだから当然である。
自失から立ち直ってみると、急ぎやるべきこと、考えるべきことがいくらでもある。何はともあれ状況の確認と情報共有が必要だ。警備兵から開放された私たちは手近な場所にいる人間からザッと事情を聴取した後、都庁にあるジルの部屋を訪れた。そこにレネーはいなかったが、“仲間”の賢老院議員のひとり、モルテンがいた。モルテンは何も言わず、内心の推し量れぬ鋭い視線を私たちに向ける。
ジルは私たちを入室させると、朗らかに話し始めた。
「早い戻りだったじゃないか。今日はアリステルたちだけだな。何があった? 具体的に頼む」
「陛下、外の騒ぎはご存じでしょうか?」
「ワイルドハントが城壁正門前に姿を見せた、ってやつだろ。職員がそんな話をしていた」
一般人だけでなく、壁内にいる都庁職員も噂話に花を咲かせるものらしい。おかげで壁門前の大騒ぎは王の間にいるジルの耳にも届いていた。
「その件にはジベウ大将が対応に当たった、と聞きました。どのような話になったのでしょう、ズィーカ中佐?」
モルテンは冷ややかな目をしたままアリステルに尋ねる。これは私の勘なのだが、モルテンがここにいるのは、ジルに何か用事があったからではなく、騒ぎを耳にして匂いを嗅ぎつけたからではないだろうか。金の動く匂いというやつを。
モルテンは人一倍耳が早い。特に金が動く、となると判断を下すのも動きだすのも早い。“仲間”の中では最も利に敏い人間である。しかも、どちらかというと私利に傾いている。好きか嫌いかで言ったら、私はあまり好きではない。ただ、賢老院議員という地位は容易に挿げ替えのきかない貴重なものであるし、モルテンは一応私たちを仲間意識の範疇に置いてくれている。こういう目端の利き方をする人間も“仲間”には必要だ。
「私はエルリックと大将との会話に立ち会えておりません。二者間でどんなやり取りが行われたのかは不明です。エルリックは大将と会話した後、城壁の正門前に集まった民衆の前で『ジベウ大将の依頼に応じ、ゲダリング奪還のために戦う意志があること、大将と交わした約束の内容が近日高札で開示されること』の二点を公言して立ち去りました」
「はあ? 何だそれは……。エルリックは予定に無いことをしてくれたものだ。こっちも苦労して色々と手を集めているのに、好き勝手にもほどがある」
ジルは眉間をつまみ、首を左右に振って憤慨している。
「約束の内容というのが何か、中佐たちは予想がつきますか? あなたたちはずっとワイルドハントと一緒にいたのでしょう?」
モルテンは不祥事を起こした部下を追及するような口調で私たちを問い詰める。政治家のモルテンが放つ圧迫感は下僚を叱責する軍人とはまた異趣で、爬虫類を思わせる独特の気色悪さを孕んでいる。
問い詰め方はどうあれ、確かにエルリックとジェフが結んだ契約の詳細は気になる。エルリックはどのような報酬をジェフに要求したのだろうか。
ゲダリング奪還については既定路線だ。ジルが依頼するのか、レネーの指示の下に軍が要請をかけるのか形は定まっていないが、とにかくエルリックに協力を求める話になっていた。要請主体がジェフを代表とする“愚者”に置き換わっただけであれば、得られる結果の一部には特に変わりがない。
変わるのはそこから先のことだ。戦力配置上、ジバクマがゲダリングを取り戻すとオルシネーヴァは死に体になる。オルシネーヴァ軍が事前に周到に準備をしてゲダリングから撤退すれば話は変わるが、そのような動きはこれまで取られていないはずだ。そんな動きを見せたならば、レネーが確実に報告を受けている。
ゲダリングを奪還してオルシネーヴァを瀕死にしたら、そこから停戦へ持ち込む。この停戦交渉の前後で結界陣が猛威を振るう。詳細こそ煮詰めていないものの、アリステルもジルもその路線で展開を考えていたはずだ。
エルリックが、『既定路線を踏襲しつつ、そうと知らないジェフら“愚者”から新しい報酬を取り付けた』だけであれば何も問題ないのだが、それをどうやって確認すればいい……。
あの汚い城壁警備兵の営所を使って密談したことからして、おそらくこれはジェフの独断専行だ。議員連中の発案ならば交渉場所にももっと拘る。ジェフは“愚者”と懇意にしていても、決して“愚者”に尻尾を振るだけの飼い犬ではない。
“愚者”やその周囲でも権力争いや椅子の奪い合いは常時発生している。ジェフはそういった身内の闘争の一環としてエルリックに近付いたはずなのだ。エルリックはジェフに提示した条件を高札で公にする旨を宣言したが、契約内容の全てが高札に記されるとは考えにくい。公にされるものとされないもの、重要度が高いのは考えるまでもなく後者だ。では、それは何なのか……。
「エルリックは、金銭や地位には興味を示しません。物であれば少しは考えられます。美術品等ではダメで、超級の魔道具や精霊宝具、固有名持ち武具等には関心を示すはずです。しかし、そんなものを高札に掲示するよう要求するとは思えません」
「確かに……」
「あの気紛れなアンデッド側から推理を展開するのは無理があるな。ジェフたちを探るほうが現実的で手っ取り早い」
ジルはここで思案に暮れるのは徒労と判断し、条件を確実に知っているジェフの調査を提案する。
それは、可能か不可能かで言えば可能だ。ところが大きな問題が立ちはだかる。こういう方向性の見えない調査は、トゥールさんには不向きだ。ある程度、当を得た“質問”をすればこそ効果的に情報を引き出し、真実に辿り着ける。当てずっぽうで頓珍漢な“質問”をしても時間の浪費にしかならない。
どちらかと言うとエルリックに結界陣を展開してもらい、結界陣の効果範囲でジェフに喋らせたいところだが、そのエルリックも結界陣もなくなってしまった。
「陛下、私の能力では少し時間がかかるかと」
「あー、こういう漠然とした調査には向いていないんだったか。……よし、分かった。それはゆっくりやってくれ。約束を取り付けた、ということはジェフか、その手の有力議員に必ず動きがあるはずだ。その動きを見てエルリックとジェフ間の契約内容に当たりをつけてみせる。ある程度絞り込めれば確定させるのは難しくないんだろ?」
「仰るとおりです」
やはり対人間の頭脳戦になるとジルは頼りになる。
「そういえば魔法は完成したのか? 結界陣を安全に使うための魔法は」
アリステルは魔法開発の成功と、新たに追加された結界陣の使用制限を説明する。
「使用時間と間隔の制限か……。なんか怪しいな。俺たちに何も言わずジェフと取り引きしたことを考えると、その使用制限というのは嘘なんじゃないか? こうなることを見据えてお前たちに嘘を吹き込んだ、とも考えられる。でも、ラムサス相手に嘘はつけないか……」
ジルは私の能力を高精度の嘘発見器とでも思っているようだ。実際はそこまで便利なものではない。見え透いた嘘はポーたんが拾う“メッセージ”で簡単に見抜けるが、エルリックの場合は秘密を多々持っている関係で普段から思わせぶりな発言が多く、“メッセージ”は私を混乱させること度々だ。“メッセージ”はあくまで漠然とした大意に過ぎない。読み解くのは私の地頭だ。あの奇っ怪なアンデッドの思考を私が完璧に読み解けるわけがない。
「そうとも限りません。それに、私たちはエルリックが結界陣を使用する現場を見ていないのです。使用制限が嘘とも本当とも断言できません」
私が断りをいれると、アリステルがそれに補足する。
「エルリックは死者蘇生の魔法を開発しているものとばかり思っていました。ですが、魔法開発の研究過程を見ても、時間制限の話を聞いても、開発した魔法は死者蘇生とは違うように思われます。もし、使用制限が魔力消費に起因するものであれば、ある程度は説明が可能です。結界陣に消費する魔力が大きいとはいっても、エルリックのメンバーが保有する魔力を考えればそこまでではありません。では、新魔法のほうはどうか? 新しい魔法が結界陣使用以上に魔力を消耗する、というならば、辻褄は合います。ただ、これも推測のひとつでしかありません」
「死者蘇生か。アンデッドのくせに自分を蘇生する魔法を使う、というのもおかしな話だが、それも新種なればこそだ。結界陣の対価である命を一旦支払ったうえで蘇るのは、一見するとスマートな解決方法だな。ただ、普通は命を奪われずに済む方法を考えるようなものだと思うが?」
それも私たちが幾度となく考えた説だ。
アリステルは、不快さゆえにあえて伏せていたゴブリンの解剖について説明する。モルテンは顔を顰めながら、ジルのほうは平然とその話を聞き、両者は私たちと同じような思考の渦に飲み込まれる。
魔道具から命を守る防御魔法や呪破の魔法を開発したのであれば、ゴブリンを解剖する必要はないはずだ。エルリックの新魔法は人間的な発想を捨てないと辿り着けない奇術の類に違いない。
「エルリックは新魔法を、『難しいものではない』とも言っていました。死者蘇生魔法の難易度を考えると、これもまた奇妙な言葉です。私たちが目で見て耳で聞いて集めた情報と矛盾せずに安全に結界陣を使う技術。これがいくら考えても思い当たりません。新魔法の効果も結界陣の制限も、人間的着想とはかけ離れたところにあるのかもしれません」
「信用するには秘密が多すぎる連中だな、エルリックは。最終的に俺たちとの関係を切ってジェフたちの側につきはしないだろうか……」
ジルとモルテンがエルリックの今後の動きを予測する最大の材料は私たちの説明だ。話の要点だけ聞かされた二人がエルリックの裏切りを疑うのは道理である。二人には、エルリックがいかにも裏切りそうな集団に見えていることだろう。しかし、実際にエルリックの傍にいた私は、全くそうは思わない。
エルリックが私たちを裏切るはずがない。
私の思考の中にある感情的な領域が、そう断言している。
ただ、“仲間”相手とはいえ感情論をかざすのは不適当だ。ジルやモルテンを納得させる論理的説明はないだろうか。少し遡って考えてみよう。
エルリックは私をマディオフに連れて行くと言っていた。ジルの部屋で初めて話をした時は、結界陣と私の両方を持って行く理由について随分恐ろしい推測をした。酷く妄想じみた勘違いをしたものだ。
エルリックはダニエル・ゼロナグラの生まれ変わりではない。よしんば生まれ変わりだとしても記憶は曖昧だ。エルリックはあの時点で結界陣の効果を知らなかった可能性が高い。だからこそ、朧気ながらも効果を理解しつつあった情報魔法能力者である私を連れて行こうとした。
エルリックは妙なところで事情に詳しいが、これは魔法を得意とするアンデッドのリッチの得意魔法、ドミネートで全て説明可能だ。例えばジルの秘書の住所を知っていたこと。当時はなぜエルリックがそんなことを知っているのか全く分からなかった。それも今振り返って冷静に考えれば分かる。
エルリックはこの部屋でジルやレネーを前に会話している間、ずっと傀儡を動かして都庁にひしめく書類の中から役に立ちそうな情報を大量にかき集めていたのだ。拾得した情報の中にジェラズヴェザの地図やジルの秘書の住所があったため、エルリックはジャネタ・ペルコフやユイス・ハンコヴァの住居を真っ直ぐ訪れることができた。ただし、ジャネタやユイスの顔は知らないから、私に確認作業を行わせた。
エルリックは光り油虫なる毒壺最下層特産のゴキブリを操り、人間とは比較にならない猛烈な早さで情報を収集できる。小妖精とは別種の高い情報収集力がある。それを知らなければ、まるでエルリックが何らかの情報魔法を使ったかのように見えてしまう。
エルリックの情報収集力は傀儡を活かしたもの。ポーラを口役として人間から話を聞き出すのも、ドミネートの活用法の一例に過ぎない。それを前提にして考えてみると、ひとつの意外な結論に到達する。
エルリックは情報魔法を使えない。
もしかしたら、魔力量測定魔法のような比較的簡単なものは使えるかもしれないが、私の小妖精のような直接的に秘密を探る高度な情報魔法は使えない。この一年強を思い返せば、それは明らかだ。
ドミネート以外に秘密を探る能力を持っていないからこそ、情報魔法使いである私の力を必要としたのだ。
あの時と違い、今のエルリックは結界陣の効果を知っている。オルシネーヴァの馬鹿共がご丁寧に説明書を作ったせいで、具に理解してしまった。エルリックはこう思っているかもしれない。『もはやラムサスをマディオフに連れて行く意味はない』と。エルリックが言う結界陣の使用制限が嘘でないならば、結界陣と私の両方を手中に収める価値は零ではないかもしれないが……。
私が上手い説明を思いつけずにいる間に、アリステルがエルリックに擁護的な意見を述べ始めた。
「どうでしょう……。それほどまでにエルリックを喜ばせる何か、というのをジベウ大将や議員の方々が用意できるとは思えません。しかも、本日エルリックに会ったのはジベウ大将だけです。大将の一存で、議員の方の所持品等を報酬として差し出す確約はできないはずです。確約できるとすれば、大将が保有している物か、大将や議員一派の権力でほぼ確実に履行できる何か、くらいものです」
「そうだよな。俺たちが頭を捻って考えても思いつかない適当な褒美を今日会ったばかりのジェフが閃き、なおかつそれを履行する確約ができるとは考えにくい」
エルリックの要求する報酬……。ダンジョンへの挑戦? いや、ダンジョンは好きだろうが、今に限っては多分違う。
……代償……等価交換……。これらはもしかすると縛られた考え、固定観念というものではないだろうか?
審理の結界陣を使うには魔力だけでなく命を引き換えにしなければならないように、エルリックの力を借りるには等価の何かを差し出さなければならない。この考えがそもそも誤っているのだとしたら……。
「陛下。もしかしたら、ですが――」
論理的な説明を考えていたはずが、私が行き着いたのはかなり感情寄りの説明だった。本来であれば、こういう感情に走ったことを情報魔法使いかつクールな私が口にすべきではない。しかし、何遍考え直してみても、エルリックに限ってとてもしっくりとくる。思いついたら言わずにはいられない。
まとまりきっていない考えを、私は訥々と“仲間”へ説明した。
◇◇
私が説明し終えると、室内には不快な沈黙が広がった。突飛な私の考えを聞き、皆、返す言葉を選びあぐねている。
最初に口を開いたのは、この中では最もエルリックから遠い存在であるモルテンだった。
「その話を信じると、新しいワイルドハントは底なしのお人好し集団にしか思えませんね」
モルテンは怒鳴り散らしたい衝動を抑えているような、呆れ返っているようなひどく不安定な抑揚で私の考えを切って捨てた。きっと私のことを、『目は曇り、思考は妄想じみた暗愚な人間』と思っているに違いない。
班員は私の考えを荒唐無稽なものとは捉えていないようだが、二人とも私と同様、目は大分曇っている。サマンダやラシードの同意が得られても、私の推測が的中している、という根拠にはならない。
では、アリステルはどうだ。アリステルは私たちとは違い、自分の命を天秤にかけられても、なお中庸な姿勢を崩さずにエルリックを見定めようと心掛けている。そのアリステルは私の考えに否定的な反応を見せていない。むしろ、強く共感を示す表情を浮かべている。的外れな読みではないはずだ。
「お人好し、というのはある意味先生の仰るとおりかもしれません。ワイルドハントとか、アンデッドという事実に基づき、誰しもが先入観をもってエルリックを判断します。かつては私たちもそうでした。例えば今回の件とは少し違うことですが、ここまでエルリックが奪った人間の命を考えてみても、それは分かるかと思います。レンベルクではそれなりの数のオルシネーヴァ人が命を失いました。一見すると、ワイルドハントによる大量殺戮です。しかし、エルリックの述懐から紐解くと実情は異なります」
レンベルクの悪夢と呼ばれるに至った一大会戦の後、砦で行った感想戦を振り返る。エルリックはあの一戦でオルシネーヴァ軍に大打撃を与えるつもりなどなかった。ジルやモルテンが知っているのは顛末だけで、あの結末に至った詳しい経緯を知らない。
「あの日、大戦力を率いて攻めてきたオルシネーヴァ軍を前に、レンベルク砦は陥落の危機に瀕していました。エルリックはそれを見て焦ったのです。かの集団は攻撃には秀でていても防御力、特に他者を守る能力は決して高くありません。そんなエルリックが、砦で接触を持ったジバクマの兵たちを守ろうとして行使したのが、あの大魔法です。極大魔法のベネリカッターとファイアーボールはオルシネーヴァ兵の命を大量に奪いました。ですが、オルシネーヴァ軍が潰走を始めてからは追撃の手を緩めに緩めています。逃げようとするオルシネーヴァ兵の背中に剣を撃ち、大量に人命を奪ったのはレンベルク砦から打って出たジバクマ兵です。オルシネーヴァ兵の死体の大半は、ジバクマ兵が積み重ねたものであり、エルリックが奪った命は、エルリックの戦闘力に比べると極めて少ないものでしかありません。エルリックの殺傷能力を知っている私たちだからこそ、そう断言できます」
懐疑の目のままで私の話を聞くモルテンは沈黙を止め、異を論じる。
「ジバクマ兵がオルシネーヴァ兵を殺すことを含めて、彼らの想定内、あるいは願望の範疇だったのでは?」
真っ当ではあるが、いやらしいモルテンの指摘にアリステルが反論する。
「その解釈には同意いたしかねます。彼らは私の班員に訓練を行いました。それにより、ラシードたちの戦闘力は大幅に向上しました。個々の戦闘力を高める操練に長けているのは間違いありません。しかしながら、軍の部隊を操る攻守術、将帥術、少し大きく言うと戦術、戦略思考を彼らは持っていません。レンベルク砦で図上作戦や戦術、戦略を相談するにあたり、私はそのことを何度も感じました。彼らはあの一戦であれほど大きな被害をオルシネーヴァに与えようとは全く考えていなかったものと思われます。あの大会戦の過剰な戦果は、私たちにとってだけでなく、彼らにとっても失敗以外の何物でもないのです」
「エルリックという集団の性格を説明するのは、戦争の逸話だけではありません。ゲルドヴァでフラフス社と衝突した際の出来事もそうです。エルリックはフラフスが雇ったハンター崩れの私兵団を誰も殺めませんでした。ジバクマと取り引きするため、先の利益を見据えて殺生を回避した、というのは、とても自然で人間的な解釈です。全ての行動が利害に基づく、これこそが先入観なのです。本当は、エルリックの性根が、いたずらに命を奪うのを嫌っただけのこと。そういう解釈が信じられないのは、私たちに先入観があるから。エルリックのどの逸話を振り返っても、全てそうです。話を難しくしているのはエルリックではなく、私たちの思い込みや決めつけです。これがワイルドハントではなくヒトのパーティーであれば、『無駄な殺生をしない』という信条を持って活動していても、誰も何も不思議に思わないのに、ことそれがワイルドハントとなると途端に怪しく思ってしまう。何か裏があるはずだ、と考えてしまう。問題はエルリックではなく、私たちの側にあるのです」
私を睨むモルテンの眼光に変化が生じる。
「あなたがそういう能力を持っていなければ全く信ずるに足る話ではありませんが……だからこそ、これは有益な情報かもしれません」
モルテンの疑惑の眼差しが、金を勘定するものに変わっていく。金に目の色を変える、という言葉をここまで見事に体現できる人間は、そうはいないだろう。
「ラムサスの希望的観測に基づいてエルリックが今後、取りそうな行動を考えると……。前にこの部屋で話したことを撤回していないとすれば、面白い展開になりそうだ。俺も指示を出しておいた甲斐がある」
予想が当たっている、という確証なんてものはない。確かなのは、エルリックがいつだって私たちを守ろうとしていたことだ。首都に入り、人の海をかき分けて城門に辿り着くまでの間だって、エルリックはずっと周囲を警戒し、何か不穏な動きがあれば自分たちだけでなく私たちも守ろうと気を払っていた。別離の直前にエルリックの特性を再確認できていたからこそ、エルリックが裏切らないと私は考えられた。
エルリックの想いを無駄にしてはならない。ジルが先に動いていることを考えると私たちは一歩先んじているのだ。二の足を踏んでいては、その先行分をふいにしてしまう。
「よし、読みが良い方で当たっていることを願い、俺たちも動き出そう。なにせ、ゲダリング奪還作戦は既に始まっている」
「では、大将から調査を――」
「悪いが先にリオンを洗ってくれないか? すぐにジェフを調査に行っても、所要時間が長くなるだけだろう」
リオンはまだ白黒ついていなかったのか……。尻尾を出さないというのは、逆に敵であることの証明なのでは……? それも私が調べれば分かることだ。すぐにけりをつけてジェフの調査に回ればいい。
「リオンを調べ終わる頃には、向こうの陣営もそれなりに動きを見せているはずだ。それを見てからジェフを調査すれば時間短縮になる。それが終わったら、アリステル班には高札を待たずにレンベルク砦に向かってもらいたい」
「いざジベウ大将を調べてみたときに、私の読みが的はずれであると分かった場合は如何しましょう?」
「そのときは作戦を立て直すだけさ。どのみちエルリックが俺たちを完全に切ったのであれば、武力の面からも権力の面からもできることはほとんど無くなる。ならば上手くことが進んでいる前提で準備をしたほうがいい」
「大将の調査後、他に洗う必要がある人間はいないでしょうか?」
「今、最重要情報を握っているのはジェフなんだろう? リオンを洗ってジェフを丸裸にすれば、後は首都組で何とかしてみせる。せっかくの回復魔法の使い手を怪我人のいない首都で遊ばせておく手はないし、前線側で妙な行動に出る奴がいないとも限らない」
「陛下とズィーカ中佐の班はまだまだ積もるお話があるかもしれません。私はこのあたりで失礼いたします。本日の謁見が素晴らしいものになったことを感謝いたします」
“仲間”の話し合いもそろそろ終わりだというのに、モルテンはそれを待たずして退室を申し出る。小狡い笑みを浮かべるこの男の頭の中は、近い将来手にする利益を最大化するための段取りを考えることで一杯のようだ。だからこそ、嫌味のひとつも残さずにそそくさと出ていこうとしている。
モルテンは、欲深さにかけては“愚者”にも引けを取らない代議士の象徴のような人間だ。政治の世界に長く身を置くと、思考は大なり小なり資本家や商人の色に染まってしまうものなのかもしれない。何はともあれ、金銭に関する嗅覚の鋭いモルテンが肯定的な判断を下して行動を開始する、ということは、軍人視点のみならず政治家と商人の視点からも私たちの側に勝機がありそうに見えている、ということだ。モルテンの立ち去り方はある意味でとても心強い。
洋々と出ていくモルテンを見送ると、ジルがアリステルに尋ねる。
「そういえば、薬のほうは大丈夫なのか?」
「治療を暴露されてからというもの、薬は食事に混ぜ込まれる形ではなく、まとまった量の丸薬を渡されています。当面の分は問題ありません」
エルリックと別行動を取る、ということは、アリステルの健康面も考えなければならないのだった。こういう事態に備えて私も合成魔法の練習に本格的に取り組むべきだったか……。
嘆いても詮のないことだ。今は先にやるべきことがある。薬の残量を考えても、可能な限り早く事態を動かす必要がある。
王の部屋を出た私たちは、すぐにリオンを見つけた。あの晩、エルリックが作り上げた土魔法の像とそっくりそのままの顔をしていて、簡単にそれと分かった。初めて会うのに見知った顔、というも妙なものである。心の中でだけ苦笑しながらトゥールさんを喚び出す。もうリオンに隠し事はできない。全て調べ切ってみせる。
◇◇
意気込んで調査を開始したのも束の間、調査は順調に進み、結果失敗に終わった。
私は悪くない。全然悪くない。悪いのは全部リオンだ。
こいつは確かに情報を流している。流しているのはジルの動向だ。しかし、リオンは情報をどこに流しているか自分で把握していない。こんな無茶苦茶な話、あっていいはずがない。道理でジルたちでは調べがつかないはずだ。
リオンは情報の一次受け渡し先も、最終的な受け手が誰であるかも分かっていない。リオンは、ジルが都庁で行った業務内容の一切合切をまとめ、それを毎回異なる手法で“運び屋”に渡している。運び屋の素顔も本名も真の所属先も知らない。情報が流れ着く先は、ジルが王としてきちんと仕事をしているか監察する都庁職員かもしれないし、“愚者”の誰かかもしれないし、オルシネーヴァとかゴルティアとか、他国の諜報本部かもしれないわけだ。リオンはそれが、ジバクマの良い未来のためになる、とだけ信じている。おめでたい話だ。
どういう経緯で今のリオンのポジションが作り上げられたのか、までは調べていない。それを調べようとすると、トゥールさんの力があってもかなりの時間がかかってしまう。幸いなことに、リオンは“仲間”の動きを理解していない。その辺りはジルが上手くリオンの目から逃れて動いているようだ。
とにかく、リオンは味方ではなく、信用はならないけれど、敵とも断言できない。核心的な秘密には迫られていないのだから、後々を見据えて今はまだ泳がせておいたほうがいい。こちらにある程度余裕が出てきたら、リオンを利用してその先を調べることができる。活用次第では、敵に毒を飲ませることだってできるはずだ。
手出しできない、という意味では、リオンの扱いは今までとあまり変わらない。いきなり肩透かしを食う形になってしまったが、リオンの調査は一旦ここで完了としよう。意気消沈する時間などない。
リオンを洗った後はジェフだ。軍人少尉に過ぎない私が憲兵大将のジェフに謁見する機会などというのは得られない。そこでレネーの助けを借り、偶然を装って近くを通りすがらせることにする。
ポジェムニバダンもソボフトゥルも、特定の条件、特定の相手以外には、基本的に不可視だ。誰にも見えない小妖精を物陰に隠し、私たちはジェフがその場を通るのを待つ。隠れなければいけないのはトゥールさんだけで、別に私たちは隠れる必要がない。
待たされること数時間、ジェフが私たちの前を通る。ジェフは私の顔を知っているけれど、ライゼンの娘、程度にしか認識しておらず、こちらに全く警戒を示さない。ジェフだけではない。“仲間”以外は私が小妖精を使えることを知らないし、当然小妖精がどんな能力を持っているかも知らない。
物陰に隠れたトゥールさんにジェフを見据えさせて、黒い泡が沸き立ち続けているような靄の身体にジェフの身体をそっくりそのまま写し取らせる。“転写”に成功したトゥールさんは、ジェフ本人の目には映ってしまうから注意が必要だ。だからこそ、前もって物陰に隠れさせておいたのである。
憲兵団が大将のジェフに求めるのは国を守る組織の長として統率力を発揮することだ。階級でも役職でも、ある一定以上の域に達した将官というものは、あまり体力的な部分を求められなくなる。もちろん肉体や魔力の鍛錬を怠らぬよう質実剛健の理念は掲げられているが、上にいけばいくほど将官の肉体は弛んでいるものだ。それなのに、ジェフはそれなりに魔力が強く、それが調査の妨げになる。
エルリックの訓練を受けて良かった、と強く思える瞬間だ。あの非人道的な訓練のおかげで私の魔力はジェフの魔力を超えている。毒壺の魔の一年がなければ、私の魔力は未だにジェフの後塵を拝していたであろう。
それでも油断は禁物だ。トゥールさんがジェフに見つかってしまうと、おそらく丸一日はトゥールさんを喚び出せなくなる。
一旦転写してしまえば、ジェフをずっと視界に収めておく必要などない。トゥールさんの転写が解除されてしまうほどジェフから離れないようにするだけでいい。こういうときに役立つのは戦闘能力ではなく隠密能力だ。主にサマンダにジェフの動きを見張らせ、私はジェフが侵入してくる可能性の低い場所、かつジェフが移動を始めたときに追従しやすい場所に籠もって、トゥールさんに“質問”を繰り返す。エルリックの教えが思わぬところで役に立つことに驚きながら、ジェフの姿をしたトゥールさんへ何度も問い掛ける。
調べるのは契約の詳細だ。特に、エルリックが求めた報酬と高札に公示する条件の二つが最優先事項である。
私なりに、当を得ていそう、と思える質問を行うのだが、なかなか上手く刺さってくれない。質問と質問の間には強制的に冷却時間が生じるため、この冷却時間のうちに次にする質問の内容を吟味する。トゥールさんは、『はい』か『いいえ』しか答えられない。注意が必要なのは、『はい』と答えさせてしまうと、次の質問が可能になるまでの冷却時間が何倍にも長くなる点だ。質問は厳選した上で、なおかつ『いいえ』と答える可能性が高い聞き方をしなければならない。制限は色々とある。
例えば、ジェフは“愚者”の側に属する人間だが、トゥールさんに『お前は“愚者”か?』と質問しても、トゥールさんは返答不能だ。なぜならば、“愚者”というのは私たちが勝手に決めた符牒であり、ジェフはそんなことを知らないからだ。それに、符牒の意味を知っていると、トゥールさんは『はい』と答えてしまう。これでは冷却時間が長くなってしまうので、とても悪い聞き方になる。
厄介なことに、『いいえ』と答えさせても冷却時間はそれなりに長い。私はジェフよりも魔力が強いとはいえ、その差は僅少。これで私のほうが圧倒的に強ければ、冷却時間はわずかなものとなり、『はい』と答えさせても大きな問題はなくなる。
エルリックがクラーサ城で親衛隊にやったように、毒を飲ませて半死半生の状態に追いやれれば調査が捗々しくなるものを……。
ああ、思考がエルリックに毒されてしまっている。いくらなんでも自国の大将にそんな真似はできない。馬鹿なことは考えず、質問の厳選に集中しなければ。
ジェフがエルリックに約束した報酬……。金銭ではない、物品ではない、地位でもない。では、一体何だというのだ? 私の頭だけでは正解に辿り着けず、積み上げた失敗例を班員に説明し、他に考えられそうな報酬はないか尋ねる。
こんなときに力になるのはやはりアリステルだった。大人として過ごした長い時間があるから、経験者だからこそ思いつくこと。
私がつい先程、ジルの部屋で述べた赤面ものの自説をアリステルは復唱する。
エルリックが欲しいもの。そういう考え方をするから答えに行き着かない。それはそれで思考経路として間違っていないのかもしれないが、近道ではない。考えるべきは、エルリック自身ではなく、私たちや“仲間”が欲すること、望んでいる展開、それを実現するための手段だ。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、エルリックは、『私たちの幸せ』を願って行動している。勿論、恥ずかしすぎるからジルの部屋ではそういう言い回しにならないよう全力を尽くしたが、意味としてはそういうことだ。
私たちはジバクマという母国を守ろうとしている。そしてそのためには、国という船が転覆しないように注意しながら色々と既存のものを『ひっくり返す』必要がある。
世の中は、自力では決して覆せないことで溢れている。しかし、覆せることだって沢山ある。私は“それ”を覆せることの範疇に入れていなかった。自分で一度やっておきながら、あの時はまだ子供だったせいもあり、当事者意識に欠けていた。何より、今“それ”を再現できると思っていなかった。
そうだ、可能だ。事情が事情なのだから、“それ”は再び行われる。
私の説を復唱した後にアリステルが発した単語はたったひとつ。それが完璧な答えだった。
エルリックは何も言葉を残さずに私たちの前を去っていった。私たちが自力で真実に辿り着けると信じていたのか、それともいずれ高札で判明すると思ってのことか。
いずれにしろ、私たちはもう答えを手にした。分かってさえしまえば、あとは簡単だ。ジェフたち“愚者”の今後の動きが手に取るように分かる。ジルの手駒に闇雲に議員を見張らせずとも、絞った範囲を監視させるだけで済む。
ジェフたちは知らない。こちらの陣営がどんな手札を持っているのかを。だからこそ勝機がある。私はもう“愚者”に勝った後のことを考えている。おそらくモルテンは詳細を掴まずして、今の私と同じようなことを考え、王の間を足早に去ったのだろう。金の匂いに鋭敏な人間の見切りや行動力というのは侮れない、恐ろしいものである。
◇◇
私たちはジルに調査結果を報告した後、レンベルク砦へ急行した。当分、首都の方は何も心配しなくていい。揺れの激しい馬車の中で、改めて事態を俯瞰する。
エルリックは普通に考えれば、どう考えても先がない、勝ち筋の存在しない選択肢を選んでいる。少なくともジェフや愚者からはそう見えている。ジェフが要求を呑んだのは、自らの勝利を確信しているからだ。
私たちが先入観を持っていたように、ジェフも“愚者”も先入観を持っている。エルリックがどのような未来を見据えているのか易易とは見抜けない。
権力があるから“愚者”が有利でこちらが不利? 戦闘力だけが力ではないように、権力以外の力を私たちは持っている。その差が歴然となるのはこれからだ。差に気付いた時には、勝負は決まっているだろう。
オルシネーヴァも私たちにとって都合がいいように動いてくれている。エルリックはエイナードで暴れて審理の結界陣や、国の財宝とも呼ぶべき魔剣、そして幾つかの魔道具を奪った。オルシネーヴァはその事実を公表しないばかりか、おそらく自軍の士気維持のためだろうが、『王城に忍び込んだ正体不明の賊徒を親衛隊は見事撃退した。人的被害も盗難被害も無かった』と、虚偽の発表をしている。これが非常に大きい。
オルシネーヴァが自国民に向けたはずの偽報は、致命的な刃としてジェフたちに深く刺さっている。当のジェフたちは、自分の身体に刃物が刺さっている、と気付いていない。
ああ、感動で溜め息が漏れてしまうほど素晴らしい。何もかもが上手くいっている。
一見エルリックの深謀遠慮にも見えるが、真相は違う。単にお人好しだっただけだ。どちらかというと自分や私たちを苦しめることに繋がりがちだった情けや哀れみが、ここではたまたま良い方向に作用した。多分いままでもずっとそうだった。
エルリックは強い。確かに暴力を有していて、ワイルドハントで、アンデッドで、でもそれだけだ。そういう尋常ならざる事実が私たちを恐怖させ、恐怖がエルリックを策略家のように見せていた。とどのつまり、私たちは思い込みで勝手に幻覚を見ていた。
初めてジルの部屋を訪れた時などは分かりやすい一例だ。
アリステルの魔力硬化症の治療薬を引き合いに出して、私をマディオフに連れていく? 私をマディオフに連れていきたい、というのは本音だろう。でも、そのためにアリステルを治療したわけではない。アリステルを治療したのは、アリステルを治したかったから。アリステルという人間が好きになって、アリステルに生きていてほしいと願ったから。だから薬を作った。私たちと何も変わらない。
治療のついでに何か貰えそうだったから、『強者たるエルリックが弱者である私たちに無理強いする』という形を演出して、私をマディオフに連れていく約束を取り付けた。あの時もそうだし、二回目にジルの部屋を訪れた時も、ポーラの発言からポーたんが読み取ったメッセージは何かがおかしかった。おかしいように思ってしまっていた。
毒壺の最下層でポーラに対してトゥールさんを使って以降、エルリックは私にトゥールさんの使用を禁じたけれど、『罠探知魔法』くらいにしか認識していなかったポーたんに関しては、その後も使用を黙認した。ジルの部屋に行った時も、私はポーたんをずっと呼び出したままだった。
そのポーたんがポーラの発言から読み取る“メッセージ”に、ずっと違和感があった。特にジルの部屋では、チグハグさが目立った。ポーラがエルリックに操られた傀儡に過ぎないからだろうか、とか、小妖精が壊れてしまったか、あるいはエルリックの干渉で機能不全を起こしているのかもしれない、と浅慮した。
実際はどれも間違っていた。
小妖精はずっと正しく機能し、誤りなく“メッセージ”を拾っていた。おかしかったのは、エルリックでも小妖精でもなく、その意味を解釈する私のほうだった。
エルリックは、私たちを欺こうとも威圧したい、とも思っていなかった。私たちが勝手に作り上げた“エルリック像”に沿いながら、交渉とか相談といった“形式”を壊さないように発言を選んでいた。つまり、空気を読んでいたのだ。
私が審理の結界陣の話を持ち出した時、エルリックは結界陣のことをよく分かっていなかった。話を合わせるのにさぞかし苦労しただろう。
しかも、私も“仲間”も、『エルリックは私のことを恨んでいるはずだ』と盛大に勘違いしていた。この勘違いに至っては、詳細を知らないエルリックが、よくぞかわしきったものだと今更ながらに呆れてしまう。
先入観を取り払い、エルリックの真意を正しいものに置き換えてあの場面を振り返れば、当時ポーたんが読み取った“メッセージ”が何の矛盾もなく当てはまる。エルリックがポーラに微妙な言い回しばかりさせたのにも納得がいく。
私たちとエルリックはずっと一緒にいながら、ずっとすれ違っていた。エルリックだけはすれ違いがあることに気付きながら、私たちを守ってくれていた。
小妖精が使える分、私は普通の人よりもずっと深く他者を理解できると思っていた。でも、本当にそれは正しいのだろうか。
私の中にある、『アリステルは優しい父親のような上官で、ラシードは馬鹿で、サマンダは要領のいい器用な女性』といった人物像は、どれだけ当たっているだろう。自分の目で見ても、小妖精の声を聞いても、真の人間性とは一朝一夕に理解できるものではない、と今は思う。
ジバクマのごたごたにそれなりの決着がつき、エルリックとの約束を果たす日に思いを馳せる。
エルリックはもしかしたら私に、『無理にマディオフについてこなくてもいい』と言うかもしれない。そんな展開は、判断材料に欠けた段階では、私の一方的な願望に基づく都合の良い妄想にすぎなかったであろう。しかし、遣り取りを重ねた今では、エルリックに本当にそう言われても、私は何の疑問も覚えない。エルリックは、『私の能力に頼りたい、縋りたい』という気持ちを必死に押し殺し、私がジバクマで安全かつ幸せに暮らすことを願っては笑顔の仮面を被り、報酬の受領を辞退するのだ。顔で笑って心で泣く人情アンデッドだ。涙を呑むエルリックの提案を、きっと“仲間”は喜んで受け入れる。
ふっ、ふふふふ。実際にそうなっても無駄だ。
無言で考え事をしていた私は、うっかり少しだけ笑いを漏らしてしまった。
生温い空気を含んだ馬車に揺られながら何の気なくぼんやりと私の方を見ていたラシードが私の表情変化に気付いてギョっとしている。
「なんでもありません」
空笑とは、思わぬ失敗をしてしまった。私はひとつ咳払いをしてから表情を引き締め、いつもの凜とした情報魔法使いの顔を作った。
空笑は私の失敗ではあるが、人から見られることではじめて失態になる。失敗が失態となったのはラシードが妥当な理由もなく私をずっと見ていたせいだ。全く、女性に視線を注ぎ続けるなんて礼儀がなっていない。大好きな自分の筋肉でも大人しく見ていればよかったのだ。ああ、ラシードは腹立たしい!
エルリックがマディオフに行く時は、エルリックに『足手まといで邪魔だから付いてくるな』とでも言われない限り私は無理にでも付いていく。そして必ず力になってみせる。
小妖精の情報調査の力だけではない。エルリックは私たちの見ていた“幻像のエルリック”ほど頭が良くないようだから、私程度の頭脳でも知恵の足しになるはずだ。
思考を要する難題にぶつかったら私も一緒に頭を捻る。エルリックの考えつかない素晴らしい案を私が閃けば、きっとエルリックは喜んでくれる。
ポーラが感謝感激しながら私を褒めちぎる様子がありありと瞼の裏に浮かぶ。エルリックの奉謝と慰労の雨あられには、さしもの私も愉悦上々の心地ではないか。
うん、これはなかなか良いマディオフ行になりそうだ。情報魔法使いたるもの、先のことは一手のみならず、十手でも百手でも読んでおかなければならない。もっともっと考えなくては……。
忌まわしいアンデッドのワイルドハントによって北の異国へ連れ去られるうら若き薄幸の情報魔法使い。異国で待ち受けるは残酷な運命と張り巡らされた奸計。巧妙な罠に絡め取られそうになるワイルドハントを、類稀なる能力と冴え渡る頭脳を持つ南方の情報魔法使いが華麗に救う。
最初は魔法使いを道具としか見做していなかったワイルドハントだったが、度重なる困難を乗り越える中、いつしか魔法使いに深い敬愛の念を抱くようになっていく。そんな中、現地で偶然出会ったひとりの男性がひと目で魔法使いに恋心を抱き、ワイルドハントから魔法使いを奪おうとする。心揺さぶられる魔法使いの姿にワイルドハントは怒り狂い、男性と激しい戦闘を繰り広げて……。
ああ悲恋、なんて耽美。これは後世に語り継ぐべき麗しの奇譚になる。
真剣実直に未来の想定を試みる私を馬車は不規則に揺らし、いつの間にか眠りへと誘うのだった。




