第二九話 いわゆるひとつのフィールドワーク
私たちをゴブリン解剖作業から解放した数日後、エルリックが話を切り出してきた。
「開発していた魔法を、明日からより実践的な形で使用してみます」
声色こそ穏やかであれ、ポーラの顔に笑みは無かった。死地に赴く兵士のような悲壮感のある覚悟が垣間見える。
「新しい魔法を開発するという割には随分と早いように思いますけれど、魔法はもう完成したのですか?」
「魔法はまだ発展途上であり、改良点がいくらでもあります。ただ根本的な部分である、『最初に意図した用途』はもうなすはずなのです。技術的には然程目新しいこと、難しいことをやっていません。類似の効果を持つ既存の魔法は多分あるものと思われます。我々としても、独創的な創作魔法というよりも、手持ちの技術を組み合わせた程度の魔法としか認識していないです。魔法が正常に機能するかどうかはゴブリンで何度も試しました。それがはたして我々にも問題なくはたらくかどうか、実際に使ってみるまで分かりません。結果は精霊のみぞ知る、というところですね」
ポーラは具体的な内容には言及せずに、思わせぶりな発言に終始する。
死者蘇生魔法はたったひとつの例外を除き、誰もなし得なかった究極の難度の魔法。なのに、エルリックは開発した魔法を、『あまり難しいものではない』という。エルリックは難易度の基準が常人とかけ離れているため当てにならない。
それよりも気になるのは、類似効果の魔法が既に存在する、と言った点だ。死者蘇生魔法は確かに記録こそ残っているものの、あまりにも昔の話であり、真偽不明の伝説と化している。エルリックはもっと具体的に現存する魔法を指しているように思える。そんな現代社会でしばしば見られる程度の魔法で審理の結界陣がもたらす絶対の死を超越することなどできるのだろうか。もしや、私たちは物事を難しく考えすぎている……? いずれにしても分からない。
「これも実験のひとつです。実験は二日かけて行おうと考えています。二日がかりと言っても、両日長々と時間がかかるのではなく、安全性を少しでも向上させるために二日に分けるのです。一日目と二日目、そのどちらの段階で失敗したとしても、皆さんと再び会うことはできません」
「前に言っていたみたいに、エルリックが全員死んでしまう、ってことですかー?」
「概ねそんなところです。我々は死んでも人間と違って機能停止に至りません。それが皆さんにとっては仇となるでしょう。普通のアンデッドになってしまうと、我々には皆さんがアリステル班ではなく、ただの生者にしか見えなくなる。アンデッドにとって、生者はただの殺害対象に過ぎません。もちろん個体識別はできるのですが、個人としての尊重がなくなる、とでも言いますかね」
例えるならば、店先に並んだ肉や野菜などの食材のようなもの。一部の奇特な例外を除き、ヒトは食材を見ても個別の敬意など払わない。精々、『美味しそう』と思う程度だ。アンデッドから見た人間も同じ。アンデッドは生者を殺す。食べるためではなく、命を奪うためだけに殺す。
巷でよく言われる話に、『アンデッドは生者を憎んでやまない』というものがある。しかし、エルリックの話を聞く分には、アンデッドは生者を憎んでなどいなさそうだ。
生者が食事を摂るのは生存に必要だからであり、別に食材を憎んでいるからではない。同じように、アンデッドが生者を殺すのも憎いからではなく、アンデッドなりの事情があるように思われる。
「初日も二日目も、実験自体は数分で終わります。安全を期して皆さんからは大きく離れた場所で実験を行おうと思います。十分前後で私が成功を報告しに戻らなければ、我々は敵になったものと考えてください。皆さんはこの場から速やかに引き上げて首都へ帰るようお願いします」
エルリックの説明に私は引っかかりを覚え、気になった部分を尋ねてみる。
「二日間同じ実験を繰り返す、ということですか?」
「いえ、初日は魔法だけを使ってみます。二日目は魔法使用と結界陣の使用、両方を行う予定です」
エルリックの返答を聞き、私が疑問視していた部分が正しくそのとおりであったと判明する。
ポーラの発言を組み替えると、『初日は結界陣を使用しない』ということだ。結界陣を起動せずに新魔法だけを試行し、それに失敗するとエルリックは命を落とす。つまり、この新魔法は防御魔法ではない。
では、開発した魔法はやはり死者蘇生魔法なのだろうか。蘇生魔法を使う、ということは、魔法試用の前に誰かが死ぬ必要があるわけで、仮に蘇生魔法を受けるのが背高だとすれば、背高を何らかの方法で殺害した後に、背高以外のメンバーが背高に対して死者蘇生魔法を使う、ということになる。
エルリックは少なくとも二つ、場合によってはそれ以上の数の魔法を開発している。ひとつは食道を閉じる魔法……なのだろうか? 初日は、その食道閉鎖魔法の延長で安全にエルリックのメンバーのひとりを殺害し、しかる後、蘇生魔法で生き返る。
……一応それらしいストーリーを作ってみたつもりなのだが、チグハグさが大分目立つ。
それと、『失敗したら私たちだけで帰れ』と言われたが、こちらも考えものだ。
現在地は首都から見て南東方面の森の中。独力で首都に戻るのは時間がかかるだけで特に難しいことはない。しかし、最大の問題は帰還難易度などではない。首都に帰り着いたところでエルリックが敵になるのであれば私たちにもジバクマにも未来は無い。
エルリックが荒ぶるアンデッドとしてジバクマで生者殺害に乗り出すと、ジバクマの全軍を上げても討伐は無理だろう。となると、ライゼンを用いる必要がある。年々、力の落ちているライゼンだとエルリックに勝てないかもしれないし、勝てたとしても少なくないダメージを負うのは必定だ。
ワイルドハントとライゼンの衝突は周辺国にとっても大事件であり、これほど大きな事件をゴルティアに隠し通すのは不可能だ。
ライゼンの消耗ないし負傷といった情報を掴んだら、ゴルティア軍はミグラージュに大きな攻撃を仕掛けてくるに違いない。ライゼンがエルリックとの戦闘で死亡するか、大きな負傷を負ってしまうと、ミグラージュはゴルティアに落とされることになる。ミグラージュの要塞があるからこそ、ジバクマはゴルティアの攻撃を防ぎきれているのだ。ミグラージュを失えばジバクマはそれで滅亡一直線だ。
この実験に失敗すると、どのみちジバクマに未来など無い。ならば、私たちは実験に立ち会ってもいいような気がする。結果、エルリックに殺されるとしても、死期が少し早まるだけだ。
「私たち……いえ、私だけで構いません。実験に立ち会わせてはもらえませんか?」
「許可しません。それは我々の秘密に近付こう、秘密を暴こうとする行為に他なりません。どうしても知りたいというのであれば対価が必要です。必要な対価は以前、示したとおりです。ラムサスさんは心変わりして書庫の本に記された内容を我々に説明したくなったのですか?」
「……いいえ」
生命を持つアンデッドであることをエルリックは自認していた。そこから先にまだ何らかの秘密が隠されている。新魔法は秘密に干渉して作用するものとみて間違いなさそうだ。
◇◇
翌日、朝も早いうちに実験準備の開始となる。私たちは特に何をするでもなく、平和な森の一画でエルリックの実験成功と帰還を待つだけだ。森の奥へ消えていくエルリックの背中を見送ると、本当に何もやることがない。
アリステルは不安な面持ちで森の奥と懐中時計を交互に眺めている。
身体を動かさずにはいられないのか、ラシードは剣の型を始めた。サマンダのほうも魔力硬化症治療薬を合成するための魔法練習を行っている。
二人とも見るからに集中できていない。気を紛らわすための逃避行動の一種に過ぎず、練習としての価値はなさそうだ。
季節は変わりつつあり、早朝の梢を揺らして流れる風はひんやりと涼しい。北に位置する陰国のマディオフやゼトラケインであれば、涼しさではなく寒さを感じ始める時期かもしれない。
エルリックが姿を隠してからおよそ四半時間、森の奥、姿を消した方角から、鋭く高い音が鳴り響いた。実験開始の合図だ。これから十分程度で実験成功の合図が送られてこなければ実験は失敗したものと判断し、私たちは森を抜けて街道に出て、首都へ真っ直ぐ向かう。そういう段取りになっている。
エルリックは、『笛を鳴らす』と言っていた。今しがた鳴り響いた甲高い音は指笛だろうか。あるいは土魔法の笛でも吹いたのだろうか。アリステルのように時計と見つめ合って時間が過ぎるのを待つのは私には無理だ。ラシードやサマンダを倣い、手慰みに水魔法で笛の制作を試みる。
エルリックの土魔法に触発され、最近は私も時間を見つけては水魔法による物作りに勤しんでいる。私の水魔法の技量ではまだまだエルリックのように凝った造形の物は作れない。精密なものほど難易度が高いので、大雑把な物、単純な形をしている物が作成対象だ。
氷で長い円柱を作るのは初心者の練習として適当だろう。しかし、頭の中では簡単に出来上がる氷円柱も、実際にやってみると案外難しい。基礎部分の円が真円ではなく楕円だったり、もっとひどいと不整な多角形だったり、柱の先のほうが折れたように曲がってしまったり、上の方と下の方で柱の径が違ったり、辺や面の凹凸が目立ったりと散々な出来にしかならない。
今の私の造形力では、人形を作ってその人形の顔に表情をつけるなど想像すらできない。それに、上手く作れるようになったとしてもエルリックの土魔法ほどの汎用性は出せないように思う。エルリックは土魔法で調理器具を作れるが、私の水魔法で鍋を作ったところで完成するのは氷の鍋だ。氷の鍋では食材を煮たり炒めたりができない。食事や料理への使途は限定されてしまう。綺麗なコップを作り出せるようになれば、夏場の水分補給くらいには向くかもしれない。
最初に属性を選択する時、変な意地を張って水魔法を選ばずに土魔法を選んだ方が良かっただろうか。土魔法を選んだらエルリックはもっと喜んでくれたかな? ああ、今の私が過去に戻れたら絶対土魔法を選ぶのに……。
ぼんやりと考え事をしながら水魔法を繰り返すうちに、遠くから再び笛のような音が鳴り響き、全員で顔を見合わせる。三人とも安堵の表情を浮かべていた。サマンダにいたってはいつのまにか魔法の練習をやめ、両手を握り合わせて祈りを捧げていた。
そういえばアリステルは東天教だったけれど、サマンダの宗派は何だっただろうか。以前、紅炎教だと言っていたような気がする。アリステルも、回復魔法の技術はともかく、信仰心という意味ではそこまで敬虔な東天教という印象は受けない。
私は特定の宗派はないが、前まではどちらかというと紅炎教寄りの考えをしていた。もちろん、マディオフやオルシネーヴァ等のようなアンデッド弾圧色の強い過激派の紅炎教ではなく、ジバクマに根ざした真っ当なほうの紅炎教だ。
では、新種のアンデッドと浅からぬ関わりを持ってしまった今は……。
止めだ、止め。この先にはラシードと同じ道が待っていそうだ。私は筋肉教に入信する気などサラサラない。
私は私だ。物の見方、考え方というのは教義任せではなく、自分で決めるべきものだ。
◇◇
エルリックが私たちの所へ戻ってきた。メンバーは八人全員揃っていて、誰も欠けていない。ポーラの顔には普段の余裕の笑みが戻っている。いや、むしろ普段以上の自慢顔かもしれない。
アリステルがポーラに駆け寄る。
「実験は上手くいったんですね」
「少なくとも失敗はしていないようです。成功程度の検証には時間がかかり、それなりの成功なのか大成功なのか、まだ分かりません。結果はおいおい、ですね」
新魔法の効果が分からない以上、大成功と成功では具体的にどのように成果が異なるのか推測がつかない。大成功すると元どおりの新種の状態、ハーフアンデッドまで戻れるけれど、まずまずの成功ではスリークォーターアンデッド、ないしクォーターライフくらいまでしか戻れない、とか……? うーん、やはり蘇生魔法という説からして間違っているのかもしれない。
「今日これからまだ何かやるのでしょうか?」
「検証は内々で済む話であり、皆さんに目立って何かをしてもらう必要はないですね。いつもと同じくハントをして、訓練して、食事して、講義していればそれで問題ありません」
私たちの行動予定にしれっとハントが組み込まれている。オルシネーヴァから帰還した頃から、私たちもフィールドで魔物を狩る機会が増えた。
もちろん、エルリックに出会う前も街道付近に巣食う魔物の討伐等は行っていたが、あれはあくまで街道整備の一環だ。軍人として、首都防衛部隊の任務として了解可能な範囲でしか魔物の討伐は行っていない。
今私たちがいる場所は、ヒトが暮らす街から遠く離れている。こんな場所に生きる魔物を討伐したところで民草の生活を守ることにはならない。これは軍人業務などではなく、完全にハンターのやる仕事だ。
エルリックは将来的に私たちをワイルドハントに仕立て上げる気ではなかろうか。以前、“仲間”と『報酬としてエルリックがジェダの身柄を要求するのではないか』と考えた時には腸が煮えくり返ったものだが、現在では、エルリックが私たちをワイルドハントにしようと考えていたとしても、腹は立たなくなってしまっている。
腹が立たないどころかむしろ、『それはそれでありかもしれない』とすら思ってしまう。目的があるからこそ国を守りたいのであり、目的が別の形で叶うのであれば、ワイルドハントとしてフィールドを駆け巡るのも悪くなさそうだ。アリステル班の皆と、それにジェダは一緒に連れていけそうだ。他の“仲間”は戦闘力的に厳しいか……。
あまり真剣に考えるものではない。仮定未満、何でもありが許される空想の中の話だ。
「今日はフィールドで何が見つかるかなー? ラムサスの魔法じゃなくて、たまには私が獲物に忍び寄って倒してみたいなー」
「魔物は並の軍人よりもよほど勘がいいですから、魔法とか弓矢で仕留めるならともかく、魔物の背後に忍び寄って仕留めるのは大変ですよ。でも、サマンダさんの隠密能力ならできるかもしれませんね」
ヒトを見ると襲いかかってくる攻撃的な魔物であれば軍人でもそれなりに戦って討伐できる。しかし、積極的にヒトを襲う魔物よりも、ヒトを見ると一目散に逃げ出す魔物のほうがずっと多い。ハンターは軍人と違い、そういう逃げ足の速い魔物も狩れなければならない。
私たちは逃走型の魔物を仕留める能力に乏しい。現有能力でそれらをどうやって討伐するか、ポーラとサマンダは談義する。そこにラシードも加わり、ハンター談義は次第に熱を帯びる。
「またどこかのダンジョンに皆で行きたいですね」
二人とにこやかに語らうポーラが、ポロリと願望を漏らした。
そんなポーラに対し、いえ、それは遠慮しておきます、とラシードとサマンダは一秒と悩まずに断りの返事をした。
いい思い出に昇華されているかと思いきや、毒壺はかなりの心的外傷になっているようだ。
サマンダはまだしも、ラシードが断ったのは意外だ。これも最下層に蔓延る人類の宿敵、ゴキブリの影響か……。
◇◇
初日はその後、特に何事もなく時間が過ぎた。そして翌日、同じ要領で実験は開始された。昨日同様に私たちが緊張しているかというと、実はあまり緊張していない。なぜなら実験開始前のエルリックがあまり緊張していなかったからだ。もちろん、平気を装った強がりなどではない。そういう明確な意図のある演技はどれほど上手かろうと、小妖精の前には意味がない。
落ち着いている理由をポーラに一応尋ねてみたものの、有用な情報は何も聞き出せなかった。気分が良い時は饒舌になるエルリックだから、もしかしたら口を滑らせるかもしれない、と期待していたのだが、残念である。
待つことおよそ十分強。今日もエルリックは成功の笛を鳴らした。もう班員たちは大げさに喜ばない。成功して当然、くらいに思っているのかもしれない。
笛の音が響いてから数十分ほどでエルリックは私たちの待機場所に戻ってきた。
「今日は随分時間がかかりましたね。実験成功後、検証作業でも行っていたのですか?」
アリステルの問いにポーラが答える。その表情には実験成功の喜びが窺えず、だからといって落胆している様子もない。
「そんなところです。魔法は想定通りの効果を発揮し、結界陣は無事に使用できました。が、想像以上に厄介な魔道具ですよ、これは。オルシネーヴァの検証もまだまだです」
「と、言うと?」
「仔細は省き、使用にあたってあなた方が覚えておくべき部分だけ言うとしましょう。結界陣を一回に連続して使用できる時間は三十分未満と考えてください。そして、一回使用したら数日は使えないかもしれません」
ひとつ問題を解決したと思ったら、また新しい問題が出てきた。連続使用時間の制限も冷却期間も、ダニエルが使用者だった時には挙がらなかった問題だ。オルシネーヴァが作った使用手引にもそんな注意は書かれていない。エルリックが魔法を用いて裏技的な使い方をするからこそ発生する問題だ。魔道具側にかかる負担か、使用者側にかかる負担か……。
「三十分未満となると使うタイミングはかなり慎重に選ばないといけませんね。特に、尋問形式で相手から情報を引き出そうとする場合には不向きです。標的が少し時間稼ぎを始めるだけですぐに制限時間にぶつかってしまいます」
「魔法を改良していけば使用時間は伸ばせると思います。ただ、現在ではこれが限界です。今日はもう結界陣を使用しましたので、次に使えるようになるのは数日後です」
少しばかり使い方に制約ができてしまったものの、元々奥の手として使うべき魔道具だ。エルリックと結界陣で足りない分は私が補えばいい。相補的な役割は十分に果たせる。
国内にも国外にも向けられる刃を入手した私たちは首都へ移動を開始した。
◇◇
実験の成功から二日後、私たちは首都に到着した。エルリックとともに訪れる初の日中の首都ジェラズヴェザである。
アリステルとポーラを先頭にして大通りを堂々と進む。検問では憲兵に驚かれたものの、レネーが上手く差配してくれていたようで、初めてレンベルク砦を訪れた時のようにエルリックだけが足止めをされる、ということはなかった。
危険人物の往来を通達されていなかった都民の視線がエルリックに殺到する。一緒に歩く私たちも自然、衆人環視の中を歩くことになる。
もみくちゃにされてもおかしくない圧倒的な量の人間に驚きを覚える。ここ二回の訪都はいずれも夜、しかも人目を避けての侵入だった。都が抱える人口は今回も前の二回も変わらないというのに、街が見せる顔の違いの激しさに、全く別の街に来たように錯覚してしまう。
エルリックからすれば、これは数えて三回目の首都。しかし、都民がエルリックを見るのは初めてだ。
軍人と歩を並べるローブの集団。フードの下に見え隠れする髑髏仮面。集団最前部を歩くポーラは髑髏仮面をしていないが、美しい顔立ちは髑髏仮面とは全く別種の吸引力がある。対比効果とはあなどれないもので、不気味な髑髏仮面はポーラの美しさを、ポーラの美貌は髑髏の恐ろしさを互いに引き立てあっている。
都民がエルリックに向ける視線に籠っている感情は好奇心が主で、そこに少しばかりの警戒心が混じっている。明確な敵意はほとんど感じられない。
エルリックが初めてジバクマ国民に姿を見せたゲルドヴァの街、毒壺があったリレンコフ、そしてレンベルク砦での会戦。エルリックは隠密行動だけでなく、人目に付く場所での活動もそれなりに行っている。そして、その都度、規格外の衝撃を残してきた。表向きは初訪問となるジェラズヴェザだが、都民はこの髑髏集団の正体がワイルドハントだ、と分かっているはずだ。しかしながら、誰もはっきりとはそれと口に出さない。人海に広がるのは具体名を伴わない靄のかかったざわめきばかりだ。
日中の首都というものは基本的に騒がしいものであり、今の私たちの周りに広がるざわめきは首都の喧騒として常識的範囲内にとどまっている。しかし、『何か珍しいものがある』という集団意識が拡散するためか、周囲には次第に多くの人間が集まり、人が集まっている様は更に多くの人間を呼び寄せていく。
人が増えれば、思い切った言動を始める者も現れる。城壁に向かって歩くうちに、観衆のひとりが大声を上げた。
「ワイルドハントだ!! ゲルドヴァのワイルドハントが首都にいるぞ!!」
恐怖に駆られたひとりの叫び。何も知らなければそう思うだろう。しかし、小妖精は見逃さない。こいつは恐怖に駆られたのでも、観衆に注意を喚起したのでもない。恐怖と恐慌を煽動しようとしたのだ。しかも、『私たちを嵌めよう』などという、何か明確な目的をもっての煽動ではない。おそらくこいつは、『首都に混乱が起これば面白そうだと思った』とか、そんなくだらない理由で叫び声を上げた。これもまた人間の心の醜さだ。
そいつが、唾棄すべき下衆だ、と分かるのは私だけ。愉快犯にはその場の全員で蔑視を一瞬向けて、その後は無視するのが最も効果的だというのに、観衆はその愉快犯にまんまと煽られる。偽りの恐怖が人々の心に恐怖の種をまき、芽生えた恐怖は人から人へ伝播していく。
ざわめきは響動となり、芝居がかった絶叫があがり、それなのに誰も逃げ出さず、人垣と絶叫がますます多くの人を呼び、私たちの周りに巨大な人山ができていく。
私たちを取り囲む観衆は、まるで誰かに命じられたかのように円を作って私たちを取り囲んでいる。前も後ろも、私たちと観衆の間には一定の距離があり、その円よりも内側には誰も踏み入らない。
エルリックが常識はずれの力を持っているのは紛れもない事実であり、人外の集団であることもまた事実。ただし、事実が事実なのは私たちにとっての話であって、ジバクマ国民にとっては真偽不明の噂でしかない。愉快犯が煽動などせずとも観衆はワイルドハントに対して恐怖の感情をそれなりに抱いていたはずだ。だからこそ、煽動前も後も観衆は距離を保ってエルリックを見物している。
巨大化していく人海を割って私たちは進む。人混みに紛れて誰かがこちらに何か投げてきてもおかしくない。警戒はエルリック任せではならない。私も周囲に睨みをきかせる。
人々の視線のほとんどは、班員ではなくエルリックに向いている。私の視線と観衆の視線が交差することは乏しく、私は視線をマジマジと観察できる。
数えきれない視線を見て、ふと思う。観衆が向けている目は、私が考えていたものと少し違うようだ。
奇異の成分は含んでいるし、“おそれ”の感情も多分に含まれている。だが、よくよく見れば、恐怖というより、畏敬という言葉のほうがより当てはまる、そういうおそれ方だ。
そうか、分かった。観衆は首都を歩くエルリックの姿に、かの日のダニエルを重ね見ているのだ。エルリックを見てダニエルを連想するのは、何も軍人に限った話ではない。
「オルシネーヴァの大軍を打ち破ったワイルドハントだ!!」
またひとつ大きな声が上がった。観衆の数が増えすぎて、それを口に出した人物の姿を視認できない。小妖精が拾う情報の限りでは、発言者に煽動の意図はない。知っていること、思ったことを大声で叫び、少しだけ自己顕示欲を充足したかっただけだ。
エルリックはレンベルク砦とその付近で二度、オルシネーヴァと大きく衝突した。軍事情報とは民間人においそれと開示されるものではないが、レンベルクの悪夢の件は隠そうとしても隠しとおせる規模の話ではない。国があの会戦について国民にどのような発表を行い、どの部分を機密としたのか、私たちは把握していない。
ジバクマの軍事関係者がどれだけ固く口を閉ざしたところで、オルシネーヴァ側から必ず情報が流れ、ジバクマの民間人の耳に届く。内容として話題性は抜群だ。知らない者はいない、もはや常識、というレベルにまで広く深く浸透しているのかもしれない。
観衆は私たちを取り囲みこそすれど、誰も進路を妨げない。ポーラが歩くと人垣は勝手に割れていく。同居したおそれと好奇心のバランスが観衆の立ち位置と動きに反映されている。怖いもの、珍しいもの見たさに集まった観衆は局地的な人口集中地帯を作り上げ、人垣は城壁まで長く伸びていた。
衆目という言葉が示すように、観衆の中で機能しているのは目、次いで口。手と足が積極的に動いて私たちの足を止めることはない。しかし、城壁の正門に配置された門番はさすがに素通りを許さず、エルリックの足を止めた。
アリステル班だけが門を通され、門の内側にある門番詰め所の一室に誘導される。エルリックは正門前でそのまま待機だ。
私たちが正門を通り抜けるわずかな時間にも、見物人の海は広がりを見せていた。このまま門の前にエルリックを待機させ続けるのは誰のためにもならない。かといって、門の番を任された防衛兵に言ったところでどうしようもない。門を通ろうとしているのは民間人ではなくワイルドハントなのだ。門の通行に必要となるのは現場にいる下級の兵の判断ではなく、責任を取れる、上位の立場にいる人間の指示だ。
そんなものを誰が与えられるのか。ダニエル・ゼロナグラもアンデッドであり、ワイルドハントの長だった過去を持つが、ダニエルが壁門を通行できたのは国から正式に貴族として認められていたからだ。今のエルリックは国と公式な関係を持っていないのだから、ダニエルは前例として参考にならない。法や規則に則ってどうこうできる話ではなく、誰かが例外的な許可を出さなければならない。
積極的に責任を取る形ではなく、責任を被せられる人間として候補に上がりやすいのが国王のジルだ。ジルが許可を出すのは、どちらかというと受動的な話。能動的に許可を与えられるのは軍の大将たるレネーだ。ただし、首都の防衛構造ゆえに、レネーの声ひとつでエルリックが壁内に入ることはできない。
他に候補として考えられるのは“仲間”の議員だ。しかし、議員たちにどこまで情報が共有されているか分からない。エルリックが壁の中に入ろうとしている、という情報が伝わらない限り、議員としても動きようがない。
情報に即応する期待が持てるのは、やはりジルとレネーだ。あの二人であれば、いずれ騒ぎを聞きつけて上手くやってくれるはず。ただ、時間はそれなりにかかるものと予想される。手続きの煩雑さを思うと、決して五分、十分で話は完了しない。私たちの待機はまた長くなりそうだ。今更ながら、軍人も憲兵も待機の時間が長い職業だ。
さて、この時間に問題となるのが賢老院の“愚者”たちだ。エルリック入都の報せはこいつらの耳にも届く。天変の戦闘力を持つワイルドハントの入都という一大事に接した愚者はどう出るだろうか。
手続きに時間がかかること自体は仕方ない。結界陣を公然と使うことを考えれば、いずれは必ずぶつかる問題だ。しかし、それに今、直面する必要はあっただろうか。まずはジルたちに成果を報告するべきなのだから、例のごとく晩を待って潜入したほうが、最終的にかかる時間は短くて確実なはずなのである。このことは前もって話しておいたのに、エルリックはなぜだか頑なに日中の登庁を求めた。
待機場所として宛行われた薄暗い控え室の中、アリステルたちには聞き取れないほど小さく抑えて溜め息を衝く。
首都ジェラズヴェザや地方の大都市は軍と憲兵団の二重態勢で防衛と治安維持を行っている。都庁はじめ、各種行政機関の本庁が軒を連ねた壁内の警備を行うのは混成隊だ。混成といっても、もっぱら憲兵団員で構成されている。
私たちは、エルリックといわゆる別室待機させられている。待機とは名目だけで、事実上の軟禁だ。解放がいつになるかは私たちも警備兵もお互いに分からない。警備兵が正規の仕事をこなしていることは、理性では理解できるのだが、いざこうやって自分が行動の自由を封じられると、警備兵に対して多少の不愉快な感情を抱いてしまう。
エルリックはともかく、私たちは壁内の移動の自由を与えられてもいいはずだ。レネーに会いに行ければ、エルリックの入場許可を取りつけるまでの時間を大幅に短縮できるはずだ。
アリステルが部屋を出て城壁警備の責任者に直接話をつけに行こうとする。
現場責任者の階級とは如何ほどのものだろう。大佐クラスだろうか、それとも将官クラスだろうか? 上位階級の人間に要求を通すのは骨折り作業で億劫なものだ。アリステルのように弁舌さわやかでないと任せられない。仮に私が大佐かそれ以上の階級にあり、なおかつ年齢もそれなりだったとしても、交渉力は中佐のアリステルのほうが上だろう。私はあまり弁が立たない。
警備兵との話し合いの場に私が付いていって小妖精を使役しても、あまり交渉の役には立てない。私たちはアリステルが交渉成立させるのを控え室で気長に待つ。
三十分ほど経つと、外から民間人ではなく警備兵のものらしき話し声が目立つようになってきた。断片的に聞き取れる限りでは、真偽不明の怪情報がいくつか飛び交っている。
どうやら大将のひとりがこの場所に向かってきているらしい。
国家賓客を迎えるならいざしらず、約束なしで飛び込んできたワイルドハントを大将格の人間が出迎え、壁内に招き入れる、などという話はない。たとえレネーであっても有り得ない。それにレネーの所属は憲兵団ではなく軍だ。警備兵がレネーに判断を仰いだ結果、レネーがここを訪れる、とは、流れとしてどうにも考えにくい。
響動めきは徐々に大きくなっていき、ある音量に達したところでいきなり静かになった。詰め所の外からそこはかとない緊張感が控え室の中にまで滲み入ってくる。
辺りが静かになることしばし、アリステルが控え室に戻ってきた。
アリステルは静寂を壊さぬように静かに扉を閉めると、アリステル用に開けておいた椅子に座りすらせずに、気まずそうに口を開く。
「大将閣下が直接エルリックに会うってさ」
違うだろうな、とは思いつつも、一応私は尋ねる。
「大将とは、バルボーサ大将でしょうか?」
「ううん。ジベウ大将だ」
警備兵の最高責任者は軍の大将ではなく、憲兵団の大将ジェフ・ジベウだ。外から聞こえてきた話し声で見当はついていたが、改めて言われると驚きの感がある。大佐や将補などを全てすっ飛ばしていきなり大将が出てくるとなると、不吉な予感がする。
ジェフは、国を守る、という志こそあれど、“愚者”とズブズブのしがらみがあり、野心だって人並み以上に持っている。
「エルリックを懐柔するために手を打ってきましたね」
「詳しい話は聞けていないし、多分、現場の警備兵は誰も詳細を知らないと思う。だけど、そういうことだろうね」
敵もさるもの、だ。下の立場の人間ではなく、いきなり最高責任者を出してきた。こういう事態を“愚者”側で事前に想定していたのだ。もちろん、“愚者”の総意ではなく、ジェフの独断の線も否定しきれない。ジェフの人間性からして、そういうことをやる可能性は十分にある。
いずれにせよ、ジェフが出てきた、ということは、ジェフはおそらく何らかの取り引きをエルリックに持ち掛ける。それにエルリックがどう答えるか。
エルリックが私たちに協力する絶対的な理由が存在しないことに、今更ながらに不安を覚える。“愚者”の権力や資金は圧倒的だ。私たちよりもずっと魅力的な報酬をエルリックに提示できる。
ジェフはここからそう遠くない場所でエルリックと話すのではないだろうか。私もドミネートが使えたらジェフとエルリックの会話を盗み聞くことができるのに……。
ポーたんにもトゥールさんにも、見えたものや聞こえたものをそのまま私に伝える能力はない。対話が小妖精の能力圏内で行われたとしても詳細までは掴めない。それに密室に侵入する能力もない。小さくても狭くてもいいから何かしらの入り口が開いていないと、小妖精は入っていけない。
エルリックが“愚者”に懐柔されてしまうことを怖れながら、私たちは薄暗い部屋の中でただ時が過ぎるの待つのだった。
 




