第二七話 ダニエルの研究室 一
かつて大公ダニエル・ゼロナグラが治めていた領地はジバクマの国土南東部分だ。私たちが一年拘束されたダンジョン、毒壺があるリレンコフもダニエルの旧公爵領に含まれる。
広い公爵領の中でダニエルが本拠に選んだのはドゥキアだった。ジバクマの首都ジェラズヴェザからみて、ドゥキアはほぼ真東の方角に位置している。ジェラズヴェザからリレンコフに直進すると、およそ半分ほどの距離を進んだところで一本の川にぶつかる。それがスレプティ川である。クネクネと蛇行するこのスレプティ川に囲まれた地帯がドゥキアで、ドゥキアのおおよそ中央にダニエルの研究室はある。
つまり、ドゥキアへ辿り着くにはどうやっても川を越えなければならない。ジバクマはこのドゥキアを人間から隔離すべく、スレプティ川にかけられた橋を封鎖して人の往来を妨げている。ジバクマで人が住む街、というのはスレプティ川以北に集中しているため、橋さえ守っていればそれで十分な隔離となる。それ以外の方面からドゥキアに侵入するのはよほどの酔狂人だ。
ドゥキアの南に広がるのは果てしない熱砂地帯だ。熱砂の手前、東西方向はどうかと言うと、気候とはまた別の脅威が待ち構えている。東西いずれも、強大な魔物が数多く生息する魔境があるのだ。この魔物の巣窟を突破できる人間はいない……とまでは言い切れないのだが、そんな人間は常識外れの強さがあるにきまっている。一般人より少し強いだけの憲兵では、魔境の侵入者をどうこうしようがない。むしろ、侵入者を見つける前に魔境の魔物に殺される。どう転んでも、魔境に憲兵を配置する意味は無いのである。
橋を封鎖してドゥキア一帯を定期的に巡回する。これこそが、限られた人員で可能な現実的ドゥキア隔離策であり、ジバクマはこの方式を採用している。
橋が封鎖されているならば、橋を使わずに川を渡ればいい。首都を発った私たちは、ジェラズヴェザから東へ真っ直ぐに進んだ。川までもう少し、というところで休憩を取る際、アリステルがエルリックへ話を切り出す。
「入り口の場所は分かりますか、あなた方は?」
アリステルの目はポーラを真っ直ぐに見つめている。
「……本当に聞きたいことを聞いてもらってもいいですよ。無駄に時間がかかりそうです」
アリステルはポーラに“あること”を尋ねようとしてる。小妖精を持たないエルリックでも、アリステルの雰囲気の違いでそれくらいは自然と察することができる、か。
私はどうなのだろう? 小妖精の力に頼りすぎていて、逆に小妖精がいないと他者の考えや想い、言葉の裏にある本当に伝えたい内容が、よく分からないことが往々にしてある。
このアリステル班を結成する際、メンバー各員が特別班の一員として相応しい人物かどうか、小妖精を使って調査をしたことがある。誤って危険思想の持ち主や他国の間者を機密情報に近付けさせては大変だ。ただし、プライバシーを尊重し、国防と関係の無い点については調べていない。
本人が能力や精神、立場的に問題ない人物、というだけでは、“仲間”に組み込むことはできない。対象となる人物の配偶者や家族、親戚に問題人物がいない、ということまで調べ上げて始めて“仲間”の候補となる。どこの国でも、特別部隊の隊員選出においては似たような選別をやっているであろう。ジバクマの場合は私の能力がある分、かなり詳細なところまで調べられる。
選別作業に大活躍した“トゥールさん”こと“ソボフトゥル”はエルリックに対してただの一回しか使ったことがない。“質問”をひとつしただけでトゥールさんはフルルに両断されてしまったため、調査は十分にできていない。
情報収集能力の発動に際し、種々の制約を考慮しなければならないトゥールさんと違い、“ポーたん”こと“ポジェムニバダン”は、これといって制約がない。そのため、可能な限り長時間、喚び出したままにしている。一度召喚してしまえば、召喚主の私は特に何をする必要もない。私が特別に、あちらに行け、これを調べろ、と指示を出すまで、自動的に周囲の情報を集め続ける。これは利点であり欠点でもある。
私の気付かない罠を勝手に見つけてくれるのは明確な利点だ。しかし、喋った本人の表層意識ですら自覚していない、「言外のメッセージ」を拾ってくるのは、時に欠点となる。
人間は、たった四、五歳の子供であっても、自分の感情を隠す。好きな相手に対して、つい意地悪をしてしまうのは、気を引くための求愛行動の一環とも取れるし、自分の感情を隠し、誤魔化すための反動形成とも理解できる。
こういう行動のひとつひとつに対して、本人は特別に強い意識を持ってはいないだろう。しかし、無意識のメッセージがそこには込められている。想いが強ければ強いほどポーたんは敏感に反応し、そのメッセージを拾ってくる。
正直、辟易とさせられるのが、任務の範囲外にある好悪の感情を拾ってこられた場合だ。例えば街中を移動しているときに、互いに愛を語り合う一組の男女がいたとしよう。普通の人からは熱愛中の恋人同士にしか見えなくても、小妖精のせいで私にはそう見えないことがある。男側の言葉に反応し、言葉の字面そのままにポーたんが『好き好き好き好き……』と恋情一色のメッセージを拾ってきたのに対し、女側の言葉からは何もメッセージを拾ってこない場合、女は男ほど強い感情を抱いていない、ということを意味している。ひどいと、女側から『面倒くさい』とか『お金、お金』とか、雰囲気台無しのメッセージを拾ってくることもある。男女逆のこともまた然りだ。
口では愛を囁いていても、内心は別のことを考えている。そんなのは日常においてありふれた常事のはずで、それに一々気を揉んでいては生活がままならない。私もそんな情報を些かも欲してはいない。しかし、その内心をメッセージとして言動に込めたとき、ポーたんはそれを読み取る。そのメッセージがフィールドやダンジョンに点在する『命を奪う罠』であろうと、街中で紡がれる『純愛』だろうと、『欺瞞』だろうと、ポーたんには何ら関係ない。メッセージが込められていればそれを読み取る、というだけなのである。
そんなポーたんに頼りすぎた弊害が、能力無しには他人の気持ちを汲み取れない今の私となっている。さらにその裏返しとして、人がどれだけ他人のことを理解できるものなのか、よく分からない。エルリックがたった今アリステルの言外の意味を察したのも、何らかのスキルや魔法を使ったのだろうか、などと考えてしまう。普通の人間はその程度、簡単に察することができるものなのだろうか。
「エルリックにはゼロナグラ公の生まれ変わりがいるのでしょうか? しばしば私たちはそれを前提として話を進めてしまいますが、ポーラさんは、そうだ、と言い切ったことは一度もありません」
エルリックと行動を共にした一年強、様々な出来事があった。生まれ変わりである可能性を強める一面も、生まれ変わりらしからぬ一面も、どちらもいくつも目にした。ただ、このエルリックという集団の行動原理が驚くほど独特で奇矯なことは疑いようがない。ダニエルの生まれ変わりではないとすれば、この新種もとい珍種のアンデッドたちはどこから降って湧いた、というのだろう。
まあ、生まれ変わり自体が眉唾な説であり、全く別の出自を持っていたとしても変ではない。
ポーラはどこかからコインを取り出すと、手の上でクルクルと動かし始めた。
「ズィーカ中佐は『違う』と思っている。それでいいのではないですか? それに正直、我々も自身のことを全て把握できていません。隠すつもりがなくとも、正確にはお答えできません。考えとして言わせてもらうのであれば、『おそらく違う』とは思っています」
エルリックは自分の言葉に確信が持てないのだろう。言葉をひとつひとつ選びながらゆっくりと話す。そんなポーラの様子からは、ポーたんは特に矛盾したメッセージを拾ってこない。
この、ポーたんが拾ってくるメッセージ、というのは、実はなかなか分かりにくい。私の目に映る映像、耳で聞いた言葉、そしてポーたんが拾ってくるメッセージというのは、それぞれ差、齟齬がある。それを適切に埋める作業は他の誰でもない、私が行わなければならない。スキルや能力というより知恵の問題になってくる。
メッセージの解釈は時にかなり難しい。特にこの新種のアンデッドから拾ってくるメッセージは通常の人間のそれと異なっていることが多々あり、解釈難度は高い。難度を上げる理由のひとつは、エルリックの思考が常人とは乖離があること。また別の理由としては、エルリックの口役を果たしているポーラの言動というのは、ポーラ自身が考えたものではなく、ドミネート操者が作り上げたものであること、が挙げられる。
操者の姿が見えない状態で、操者のメッセージを正しく解釈するのは極めて難しい。これは異国の言語の聞き取りに似た部分がある。話者が自分の目の前にいて口元がよく見える状態だと、話というのは聞き取りやすい。それが一転、話者が自分から見えない場所にいるとか、目の前にいるけれど口元を覆っている、などすると、聞き取りの難度は跳ね上がる。話者の表情や口の動き、身振り手振りは話の内容理解の助けになる。これは小妖精が拾ってきたメッセージの意味の理解や解釈においても同じだ。
ポーラの挙措は、本に例えるならば原著ではなく写本。どれだけ正確を心がけても、筆写を繰り返すと内容はほんの少しずつ変わっていく。操者が本当にやりたかったこと、込めたかったメッセージは、ポーラの動きに完璧には反映されない。だからこそ私はポーラの言動と小妖精のメッセージに齟齬や乖離を強く感じ、それがエルリックの理解を難しくする。
「我々の手足はほぼ全てが同じ場所で発生しました。出自が分からない手足は二本。一本の手足についてはもしかしたら我々よりもむしろラムサスさんの能力のほうが突き止めやすいかもしれませんが、我々には特に興味のない話です。もう一本については……少々特殊な経緯があり、『思い出す』のに色々と切っ掛けを必要としています。ただ、保持している記憶やゼロナグラ公が滅びた年月日から考えるに、我々は公と無関係の存在だと思います」
新種のアンデッドは記憶喪失を主張している。物忘れアンデッドだ。アンデッドというのは人間と比べて記憶力が良いのだろうか。あるいは悪いのだろうか。
エルリックは謎の新種。印象的には人間と同程度の記憶力と忘却性がありそうだ。
「新魔法の開発に成功すれば、これは特上の切っ掛けになりそうです」
記憶復活への期待を表情に滲ませるポーラを見て私は少しばかりの意欲が湧き、続きを話すよう促す。
「何が原因で記憶喪失になったのですか?」
一本の手足については私の能力で思い出すことができそうだ、と言っている。その記憶に興味が無い、とも言ったが、実際に記憶を取り戻せば、エルリックは喜ぶかもしれない。ならば私は記憶復活の手助けをしたい。
「生命を持った対価ですよ。皆さんだって、色々なことを日々忘れていっているでしょう? 忘れた、ということそのものを自覚できていないかもしれませんが、長期間保持できる記憶というのは、日々入手する膨大な量の情報の中ではごく一握りに過ぎません」
ポーラは今、『生命を持った』という言い回しをした。それは、『生命を持つ前』があったことを意味している。
アンデッドは不思議な存在だ。アンデッドは、アンデッドになる前こそ生命が必要だ。命を持つ何かが命尽きた後、一定の時間を経て偽りの生命を持つアンデッドに転化する。
ポーラの表現からするに、エルリックは通常のアンデッドに何らかの変化が加わって不完全な命を持つに至り、“偽りの生命を持つアンデッド”と“完全な生命を持つ生者”の中間のような存在になっている。さしずめハーフアンデッドといったところだ。
識者たちはしばしば、『生命とは何か』という問いについて考察する。明確な答えの出せない漠然とした問いであり、突き詰めれば突き詰めるほど難しい。そこへ、『偽りの生命とは、アンデッドとは何か』と問いを変えると問題は更に複雑になり、『ハーフアンデッドとは何か』と問いが変わった日には、事態は混迷を極めるだろう。浅学の私であってもここにいる新種たちが奇跡がかった存在であると、何とはなしに分かる。普段はあまり信じてはいない、精霊の導き、というものを感じるというものだ。
哲学的なことを考えているのが私だけではないのか、この場には冗談を言い出しづらい凜とした緊張感が漂っている。その空気に最も相応しい学者肌を持つアリステルが口を開き、しみじみと語る。
「エルリックは結界陣などどうでもよかった。そもそも、結界陣の効果すら知らなかった。でも、私たちを助けるため、あえて話を合わせてくれていた。そういうことなのかな、とふと思い、聞いてしまいました」
「買いかぶりすぎですよ。我々は我々の目的を達成するために動いている。言い換えると、やりたいことをやっているだけ。それがたまたま皆さんにとって都合が良かったに過ぎません。この先もお互いの利害が一致するといいですね」
ポーラの指の間をクルクルと回っていたコインは、ふっ、と姿を消し、どこかへと行ってしまった。
「ずっと聞きたかったんですけど、俺たちがドゥキアに行く意味ってあるんですか? エルリックの魔法の練習であれば、一緒に行ってもあんまり意味が無いように思います」
「私たちに訓練をつけていないと発作でも起きる身体になっちゃったんじゃないですかー?」
ポーラは、そうかもしれませんね、と言って笑うと、サマンダの肩を軽く撫でる。撫でられたサマンダは、にしし、と顔をくしゃらせて笑う。
サマンダと二人でいる時間が一番長いのは私で、二人っきりのときは私もサマンダには丁寧語を使わずに会話する。そんな私でもサマンダのこんな笑顔は見たことがない。
「我々と一緒に来る意味よりも、我々と一緒に来ないとどうなるか、を考えたほうがいいですよ」
「それって、付いてこなかったら殺すぞ、ってことですか?」
おお、ラシードよ。筋肉に栄養を取られるあまり、頭がそこまで……。と思ったのも束の間、ポーラやアリステルたちは笑っている。その笑顔は、ラシードの頭の悪さに呆れた様子ではない。
会話の意味が分かっていないのは私だけだった。今のはラシードなりの冗談だったのだ。
んんん。
やっぱり私はポーたんに依存しすぎている。
「ゲルドヴァで言っていた、『アリステル班共々姿を消して、ジバクマ軍の早まった動きを抑制する』というやつの続きですね」
「そうです。以前言ったことの繰り返しになりますが、皆さんが我々と行動を共にしていることを知っている人間はこう思うでしょう。『アリステル班がいる、ということはエルリックも近くにいるはずだ』と。思い込みでゲダリングへの突撃が始まるかもしれませんし、もしかしたら我々を戦争現場に引きずり出すために、皆さんを無理矢理前線に追いやるかもしれませんよ」
「バルボーサ大将が目を光らせていないとハイナー少将はそういうことをやりかねませんね。少将が言い出さなくても、賢老院が言い出すかもしれませんし……」
自国を戦勝に導きたい、という思いは、愛国心や正義感と言って差し支えないだろう。“愚者”とはいえ、賢老院もイグナス・ハイナーも国を滅ぼしたいとは思っておらず、戦勝を願っており、広い意味では私たちの味方のはずなのである。その味方が正義感で行動してここまで邪魔になる、というのも厄介な話だ。
イグナスという人物は無駄に声が大きく、あれで意外と尊敬を集めている。
戦況や国家の内部事情を何も知らずとも、少し頭の切れる人間であればイグナスと少し話すだけであの男を、『理想論を語る馬鹿』と見抜ける。しかし、頭の悪い人間はイグナスと話すと、『高い目標に向かって邁進する有徳の牽引者』と思ってしまう。見る者の頭の善し悪しでイグナスの評価は大きく変わる。
「それに、あなたたち二人が薬の合成魔法を習得しないと、ズィーカ中佐はこの先ずっと首輪に繋がれたままですよ。早く外してあげましょう」
ラシードとサマンダは朗らかに、はーい、と返事をする。返事の活力とは裏腹に、二人の魔法習得が近そうな様子はない。
薬の合成は、回復魔法ではなく変性魔法だ。サマンダもラシードも全く不得意な分野である。特にラシードは変性魔法がひとつも使えない。攻撃魔法の才能が全くなかった私に攻撃魔法を習得させてくれたエルリックが指導しているのだから、いずれは二人も薬の合成に成功するだろう。しかし、時間がどれだけかかるかは本当に分からない。
情報魔法は変性魔法の中の小分野であり、変性魔法は私の得意分野だ。私のほうが二人よりも早く習得できそうな気がするものの、ジバクマを空ける私が習得しても意味は無い。私以外の三人の中では、サマンダやラシードよりもアリステル本人のほうが適性を有しているかもしれない。
そういえばアリステルの魔力使用はいつ解禁になるのだろう。私はポーラに聞いてみることにした。
「班長はいつから魔法を使っていいのですか?」
「分かりません。ズィーカ中佐は症状が消失していますが、そもそもこの治療に寿命を延ばすまでの効果があるかは誰も分からないのです。それを確かめるには、中佐自身が効果を証明するしかない。魔力や魔法使用についても同様です。実際は魔力を使っても何の問題もないかもしれないし、使えばたちどころに元の病状、あるいは更に進行した病状になってしまうかもしれません」
「何度も話しましたからね、それは」
ポーラとアリステルは私たちが作る円の地面中心を見つめ、決して目を合わせようとしない。それでも二人は通じ合っている感じがする。一見すると、分かり合っている夫婦のようだ。……夫婦にしては、少し年齢差が大きいか。
「班長は器用ですから、練習さえできたら俺たちよりも習得が早いかもしれないですね」
アリステルの昔の二つ名は“優腕”だ。軍医に最適任な優しい人柄、様々な物事をその道の一流に次ぐ出来栄えでこなす器用で優れた腕。そういう意味があるらしい。
軍医に限らず、医者が使う魔法の中には、変性魔法に分類されるものがある。例えば毒を感知するディテクトトキシンや、身体の内部の状態を見極めるフィズィクレアボヤンスは歴とした情報魔法だ。アリステルはいずれも高いレベルで使いこなせる。変性魔法の適性が最も高いのはアリステルだろう。
「ポーラさんの言うとおり、僕はどれだけ生きられるか分からない。二人は習得した後、長生きして僕以外の魔力硬化症に悩める人たちも救わなければならないんだよ」
そんなことは言わないでほしい。せっかく長生きできる希望がわずかなりとも見えてきたのだ。仮に今の薬に寿命を延ばす効果が無かったとしても、更に改良すれば、もしかしたら確実な延命効果のある薬を作れるかもしれない。私たちのためにも、貪欲に生を追求してほしい。
「ちゃんと寿命が延びている可能性もあるのですから、先が短いと思い込んでいきなり自己犠牲の精神を発揮して三人の前からいなくならないでくださいよ、ズィーカ中佐」
「そんなことはしませんよ。僕も死ぬのは怖いですから」
今、エルリックに対しても『僕』と言った。アリステルは時折エルリックに対して攻撃的ともとれる発言をするけれど、逆にそれはエルリックを信頼している証なのかもしれない。一人称の変化はその説を支持する要素のひとつだ。
◇◇
東進を続けた私たちはスレプティ川のほとりに辿り着いた。スレプティ川には国で管理している一箇所を除き、ドゥキアに繋がる橋はどこにもかかっていない。潜入する以上、私たちは橋を渡ることができない。渡渉できる深さでもない。ならば、乗り物を作って水上を行くしかない。
「皆さんは船と筏、どちらが好きですか?」
ポーラが私たちの水上輸送手段の好みを確認する。ラシード以外の全員が、船、と答えた。
ふーん、そうなんですね、と言いながらエルリックが土魔法で作り上げたのは長方形の筏だった。
「やったあ。俺、一度筏に乗ってみたかったんですよ」
わざわざ確認をとっておきながら、なぜエルリックは船ではなく筏を作ったのだろう。まさかラシードを喜ばせるため?
訝る私の視線に気付いたポーラがこちらを振り返って事情を説明する。
「魔法による手製の筏には乗ったことがあるのですけれど、船のほうは実物にしか乗ったことが無いんですよね。それで筏を選んだまでの話です。他に深い意味はありません。ズィーカ中佐たち三人には、筏とは別に船を作ってあげましょうか?」
筏に乗るとかなり濡れそうだが、初めて作る船など乗り物として危険極まりない。沈没に至る危険性を考慮するならば、ここは筏に乗ったほうがいい。
「私は筏に乗ります」
「私もー」
安全性とは別の部分に思考を傾けていたのか、アリステルがひとり、返事をし遅れた。
じゃあ、僕も、と口を開きかけたところで、ポーラが先に言葉を発する。
「ズィーカ中佐にはひとり乗りのカヌーくらいの船を作ってあげます。筏と船、どちらが早く向こう岸に着くか競争しましょう」
アリステルはポーラに退路を封じられた。タイミングを逸したアリステルは、久しぶりにポーラの玩具にされてしまう。カヌーとやらが沈んでも、エルリックはきっと助けてくれる。装備が水没する心配はあっても、溺死の心配まではしなくていいだろう。
でき上がったアリステル用のカヌーの見た目は悪くなかった。素人目には既成品と遜色ない。舳先には人頭大の飾りがついていて、よくよく見ればアリステルを象った船首像だった。
「なんですか、これは?」
私が尋ねると、ポーラは顎に手をあてて天をひと睨みしてから口を開いた。
「これは師の教えです」
ポーラの答えから小妖精は別段目立ったメッセージを拾ってこない。つまり、エルリックが言ったのは、その場しのぎの嘘ではない。それなのになぜあんな難しい顔で悩んでから返答する。何とも理解に苦しむ。
それにしても、この新種のアンデッドに師匠がいたとは衝撃的だ。アンデッドには親がいなければ子もいない。それと同じように、師や弟子がいないように思ってしまっていたが、知性あるアンデッドならば、師がいても別段おかしくない。というか、不本意ながら、私たちはこの新種のアンデッドから技術を授かっている弟子なのだった。
教えの真の意味は何だろう。船を作るときには沈まないように祈りを込めてお守りの人形を作れ、という一般的な船首像と同じなのだろうか。何とも人間味のある師匠ではないか。
私たちが乗る筏には装飾が無い、と思ったら、渡されたパドルにはブレードが片端にしかなく、もう片端には人頭像があしらわれていた。
像は私たち各人の顔を模したもので、いずれもニコニコと満面の笑みを浮かべていた。日頃、エルリックの目には私たちがこういう風に見えているのだろう。
造型はデフォルメされておらず、写実的な分、若干気持ち悪かった。サマンダだけは自分の像を見て結構喜んでいた。
エルリックが持つパドルはその殆どに人頭像が付いていなかったが、ノエルの握るパドルだけは女性と思われる像が付いていた。近くで見せてもらえなかったので、像がいかなる人相を持っているかは分からなかった。
川岸を離れ、私たちはそれなりにパドルを漕ぐものの、疲労知らずのアンデッドたちの力強いパドリングと比較して、どれだけ推進力として貢献できているのかよく分からない。ラシードだけはエルリックに張り合って必死に漕いでいる。
ポーラはパドル操作をせず、筏の上でノンビリと釣り糸を垂らしている。
私は釣りについて詳しくないのだが、パドルでこんなに物音を立てている環境で魚は釣れるものなのだろうか、と疑問に思う。
そんな私の否定的予測は外れ、ポーラは獲物を釣りあげた。糸の先に付いていたのは、魚ではなくクラブだった。
その後は何も釣果が無かったものの、一杯のクラブを釣り上げたポーラはご満悦だった。
アリステルのカヌーより先に向こう岸に辿り着いた私たちは、アリステルがひとり寂しくパドルを漕ぐカヌーの到着を待つ。
アリステルの船首像があしらわれたカヌーの上で懸命にパドリングするアリステル。自己性愛者が他者と同じ船に乗ることを嫌い、特注品のひとり乗りのカヌーを漕いでいるかのような、実にシュールな光景だ。
岸に着いたナルシスト……ではなく、アリステルをラシードがカヌーから引き上げる。人力で広いスレプティ川を渡りきったアリステルは慣れないパドリングの疲労により腕がブルブルと震えていた。それを見たラシードはこう言う。
「大分筋肉に効いたみたいですね、班長!」
「魔力使用は控えても鍛錬は怠っていないつもりだったのに、少し慣れない動作をするとこのざまだ。我ながら情けない」
何ということのない二人の掛け合い。しかし、私は知っている。この二人が完全にすれ違っていることを。
アリステルはラシードの一言を、労りや慰めの言葉として受け取った。
ところがどっこい、ラシードはそんなことを全く考えていない。『パドル漕ぎはトレーニングとして良い負荷であり、あなたの筋肉の成長を助けてくれますよ』と、言っただけ。思いついたことを口にしただけなのだ。
そんな残念な真実を語ったところで誰も何も得しないため、私は口をつぐむ。
黙る私に代わってポーラが口を開き、クラブの種類が何なのか、食べられるクラブかどうか喜色満面にアリステルに尋ねる。
「それは毒クラブです。毒抜きの方法はありません」
息絶え絶えのアリステルの返事を聞いたポーラの顔からは喜びが消え、絶望の表情へと変わった。いつもながら分かりやすい百面相である。
希望を失ったポーラは口惜しそうにクラブを放流するのであった。
無事に川を越えた私たちはドゥキアに広がる湿地を走る。ドゥキアを巡視する憲兵の姿は全く見かけず、フィールドの魔物を少しばかり倒しながら、問題なく研究室の入り口に到着した。
私たちがしているのは潜入であり、ここで憲兵に会わなければならない理由は全く無い。しかし、出会わなければ出会わないで、憲兵が本当に仕事をしているのか不安になる。実際のところ憲兵はちゃんと巡視をしていて、エルリックがそれを避けて走っただけなのかもしれないが、走路を選ばぬ私たちには与り知らない話である。
入り口を見ながらポーラが言う。
「どこぞのダンジョンの入り口、と言われたら納得してしまいそうな趣きがありますね、この研究室の入り口は」
エルリックが何気なく口にした、“入り口を見た感想”は、私たち“仲間”には本人の意図しない、それなりの意味を持っている。この発言は、エルリックが研究室の入り口に見覚えがない、ということを暗に示している。これもまた、エルリックがダニエルの生まれ変わりであることに否定的な要素のひとつになる。
それはそれとして、言われてみると毒壺の入り口に似た印象を受ける。自然の創作物というには人為的な制作感とおどろおどろしさのある不気味な作りをしてる。
私たちは毒壺に随分長居したが、入り口を見たのは入った時と出た時のニ回だけであり、滞在期間の割に入り口の記憶は強く残っていない。
悪の枢軸の本拠地、と言われたら、なるほど、と思えるような気色の悪い入り口を通り、中へ入って奥深くに進んでいく。次第に道は大きく広がり、眼前に研究室の本当の入り口が姿を現す。
そこには横に長い大きな一枚岩があった。一枚岩の上に伸びる壁には、引き摺ったような痕が人の背丈より少し長く刻まれている。岩には横一直線に窪みがある。
「研究室はこの奥にあります。そして奥に進むには、鎧戸の役割をしているこの岩を持ち上げなければなりません」
研究室に入るにあたり、鍵なんて大層な代物は求められない。なんらかの方法でこの重い岩を持ち上げられる者だけが研究室に入れる。極めて単純明快な規則である。
「魔法で破壊してもいいですけれど、この岩は持ち上げて通ったほうがいいのですね」
「エルリックでも破壊は少々難しいと思いますよ。壁も天井も床も、物理的にも魔法的にも恐ろしく頑丈です。成分としては特別な物ではなく、別の場所に持って行くと普通の強度に落ちるのですが、この場所にある限り鉄壁以上の強度があります」
「そう言われると、少しばかり破壊に挑戦したくなってしまいます。しかしながら後々も利用することを考えると、壊さずに入ったほうが賢明の模様です」
ポーラと二脚以外のエルリックは一枚岩へ近寄り、全員で岩に力を込め始めた。横に伸びた窪みを取っ手代わりにして、岩に上方向の力を込める。だが、岩はピクリとも持ち上がらなかった。岩は見るからに重い。数十人でかかって挙上できるかどうか、という重さがありそうだ。
「あー、我々が少し力んだ程度では全然ダメみたいです。それで、正規の開け方、というのはどうやるのです?」
「そこの燭台のような台座に魔力を注ぐことで岩が持ち上がります」
アリステルが指し示す先には、人の腰の高さほどに立つ、ひとつの台座があった。この岩は魔力で開閉する研究室の入り口扉なのだ。一旦持ち上がった岩は数分すると勝手に下りてくる、というアリステルの追加解説を聞きながら、背高が台座に手をかざす。
背高がその姿勢を維持すること数十秒、イデナとマドヴァが徐に動き出しては背高の横に並んで各員、台座に手をかざす。
三人仲良く台座に魔力を注ぐのは十秒前後で終わり、三人は一斉に手を下ろした。
「どうしたのです? 数分は魔力を注がないと必要量が充填されません。少し時間がかかると思います」
手を下げた背高たちにアリステルは補足説明する。
するとポーラは首を横に振った。
「我々では何分やっても無駄です。魔力が全く入っていきませんからね。どうやら我々の魔力では足りないようです」
「入っていかない、とはどういうことでしょう?」
アリステルが何か言おうとしていたのに、うっかり私の口から疑問が溢れてしまった。上官を遮る部下とは、全くいただけない。
「言葉どおりの意味です。台座に開いた口のような場所に魔力を注いても、どんどんと周りに漏れていくばかりで中に入っていきません。方法が間違っている、というよりも“魔力圧”が足りていない印象を受けます」
魔力圧なる単語は初めて耳にする。魔力圧の不足とは、精石の魔力残量が低下すると完全に枯渇する前に魔道具が機能しなくなる現象と同じと考えていいものだろうか。
私もアリステルも、エルリックであれば問題なく扉を開けられるだろうと決めつけてしまっていた。まさか入り口で躓くことになるとは……。
「中佐。最後にこの入り口を開けたのは誰ですか?」
「それは……お答えできません」
言い淀むアリステルの表情をポーラは横目でチラリと窺う。
「ああ、もう分かったので結構です」
エルリックがダニエル本人であれば隠す理由は無かった。けれども、エルリックがダニエルとは別人、とあっては、教えるべきではない。アリステルはそう判断し、口をつぐんだのだ。
無闇な漏洩を厳に慎むべき情報であることは間違いない。しかし、エルリック相手にその判断が正しいかは疑問が残る。実際、数秒とせずに察されてしまったようだし……。
「魔力的にも物理的にも、岩に錠はかかっていないようです。それならば、やり方を改めて力ずくで持ち上げるとしましょう。皆さんにも手伝ってもらっていいですか?」
エルリックに依頼されて私たち四人も岩の挙上に加わる。アンデッドと人間、合計十人で岩へ思い切り力を込める。だが、それでも岩が持ち上がる気配は無い。
アリステルが苦味を噛んだ顔で言う。
「これは……こんな形で足止めを食うとは思いませんでした」
これだけやってもびくともしないとは……。ここにポーラと二脚の二人が加わった程度ですんなり持ち上がるとも思えない。重量物を持ち上げるための何かいい方法はないものか?
「もっと人手が欲しいですね」
「巡回に来た憲兵が手伝ってくれたら楽なのにな」
ラシードは相変わらず馬鹿なことを言う。私もうっかり同じ案を考えていたのは不覚の一言に尽きる。
「この場所に連れてきてもいい人間……。しかも人数はそれなりに必要」
「難しく考えなくてもいいですよ。ひとりが数人分の重さを持ち上げればいいだけ。建設現場ではよくある光景です」
ポーラが余裕の笑みを浮かべるとエルリックの面々は土魔法で様々な道具を作り始めた。
建設現場の重量物挙げといえば思い浮かぶのが梃子だ。梃子を活かすにはある程度の広さと頑丈な道具が要る。梃子の原理は知っていても、そのための道具を持たない私たちは手段として思い浮かばない。
エルリックは普段から土魔法で何でも作っているからこそすぐに想起できる。建設現場でワーカーとして働いていた経験も活きている。土魔法の汎用性の高さを伊達に日頃謳っていない、というものだ。
クレイクラフトが上手いからこそ、こうやって何でも作って使ってみようと試みられる。そして色々作るうちに土魔法で物を作るのがまた上手くなる。良い循環が成立している。
川越えの時、カヌーやパドルに装飾を作っていたのも、こう考えると無意味ではない。工作精度の向上という形で巡り巡って役に立つ。
岩の窪みに沢山の鉤が取り付けられる。フックからは金属線が伸び、いくつもの動滑車と定滑車を経由して最終的に取っ手という形で私たちひとりひとりの手元に渡された。
「人間、最も強い力を発揮できるのが脚と腰です。そこで、皆さんにはその取っ手を思いっきり引っ張り上げてもらいます。あの岩に直接力を込めようとしてもどうしても無理な体勢しか取れません。握りやすい取っ手を掴み、腰の入りやすい体勢で力を出すことにより、あの岩に今までよりずっと大きな力を加えることができます。さらに――」
背高たちが私たちの身体に魔法をかける。それは筋力増強魔法だった。
いやはやあまりにも万能過ぎる。身体能力強化の補助魔法まで使えるとは、エルリックはどれだけの魔法を習得しているのか。
「試行回数は最小限でいきましょう。回数を重ねるほど最大筋力は落ちていきます。最初の一回か、悪くても二回で決めるつもりでお願いします。さあ、いきますよ」
今度はポーラも岩の挙上に加わる。腕のない二脚にも身体に巻きつける道具が用意され、本当に本当の全員で岩の挙上にあたる。
合図と同時に力を振り絞ると、岩が少しずつ上がっていく。
「も……もう少し……もう少し持ち上げてください」
掠れた声でポーラが私たちに檄を飛ばす。
男の肩幅くらいは浮き上がった、というところで再びポーラが口を開いた。
「この高さのまま……少しだけ耐えてください」
ポーラがそう言った直後、背高は持っていたハンドルを手放し、岩の下にできた僅かな空間に魔法を展開していく。背高のクレイクラフトが岩下に瞬く間に広がるが、魔法の展開速度よりも私たちの身体の疲労のほうが早い。筋力が落ち始め、岩が少しずつずり下がっていく。
「あと少しです。皆さん、あと少しだけ……」
「うあああああああーー!!」
ラシードが顔に青筋を立てて叫び限界まで力を振り絞ると、岩の降下が止まる。
こちらも脚が震えてきている。しかし、ここが踏ん張りどころだ。歯を食いしばって力を込める。
早く……早く終わって……。
悲鳴を上げているのは脚腰の筋肉だけではない。握力まで無くなってきた。ハンドルから指が少しずつ滑り始めている。指が外れては終わりだ。
その思いが焦りを生み、強い緊張によって手から汗が吹き出す。グローブをしていても汗が摩擦を減らしてしまうように錯覚し、より強い緊張感が身を襲った直後、ポーラが作戦の完了を告げる。
「もう大丈夫です。皆さん手を離してください」
ハンドルから手を離した瞬間、肉体の限界を超えていた私とラシード、それにポーラが床に倒れ込む。
気付けば脚や腰だけでなく全身の筋肉に力を込めていたようで、岩の挙上には直接関与していないはずの首や肩の筋肉までバキバキになっている。
痛む首を動かして横に目をやると、アリステルもサマンダも肩で息をして膝に手をついている。皆、本当に力を出し尽くした。
上がりすぎていた息が整い、暗く色を失っていた視界にジワジワと色が戻ってくる。目眩のような感覚が落ち着いて私が身体を起こしたのは、ポーラが起き上がったのと同じタイミングだった。
ラシードはまだ床に倒れたまま腕で顔を覆い天を仰いでいる。腕や脚の先は未だにブルブルと震えている。きっと最も力を出し切ったのがラシードなのだ。立ち上がれるまでに回復するには今しばらくの時間が必要だろう。
「一度は下に潜り込めそうなくらいまで持ち上がりましたけど、少し岩は下がってしまいましたね。ここからもう何回か同じことをやるんですか?」
「いえいえ、それには及びません。これくらい持ち上がれば後はジャックアップで簡単に上がります。ほら、もう結構上がってきてます」
私が倒れ込んでいた間に作られたと思しき見慣れぬハンドルがその場にあり、轆轤に繋がったハンドルをシーワたちはグルグルと回している。ハンドルの回転に従い、非常にゆっくりとではあるが、岩が持ち上がっていっている。
「これも建設現場で身につけた技能ですか……?」
「我々はワーカーですからね。建設などの現場作業をやっていれば誰でも覚えます。ただ、土魔法を使えるものには相性のいい業務だというのに、魔法を得意とするものはあまり現場作業を好まないことが多いらしく、土魔法は限定的にしか活用されていませんでした」
建設というのは大きな金の動く仕事でありながら末端の作業員が受け取れる賃金はそう多くない。魔法の得意な人間が好んで従事することはないだろう。魔法が使えるならば、もっと安全で快適で安定していて賃金の高い仕事がいくらでもある。
ポーラは、ゴーヘイ、ゴーヘイ、と掛け声をしてシーワたちを励ます。
建設作業の作法は知らないが、何となくその声出しは使い方を間違っているように思った。疲労しないアンデッドを励ます人間の図と相まり、それはとてもシュールな光景だった。
岩の挙上に私たちが参加した意味はあったのだろうか。ジャックを使えば最初から全部どうとでもなったのでは……?
自分のやったことが徒労のように思えてしまい、私は深く考えるのをやめて思考を無にした。
◇◇
「憲兵と思われる人間複数が地上の入り口に近付いてきています」
前置きもなく、ポーラはそう言った。岩は上げ終わり、シーワたちが中を確認している最中のことだった。
「一直線に入り口に向かってきています。皆さん、研究室に入りましょう。中には物性瘴気等の危険は無いようです」
岩の下を全員がくぐると内側からハンドルを回し、岩を下ろしていく。
だが、上げる時よりは速いといっても、岩の下りる速度はとても緩慢だ。
外からはわずかに人の話し声が聞こえてくる。
「もっとスピードは上がらないんですか?」
「これで全速力です」
声は次第に大きくなってくる。
岩はかなり下がったが、それでもまだ半分程度しか下りていない。向こう側からこちら側を覗き込むことが十分可能なくらいには地面から浮かび上がっている。これだけ岩の下に隙間が空いていれば、どれほど鈍い者であろうとも異常に気付く。
エルリックはハンドルを回す手を止めると土魔法で隙間を埋め、さらにその上から魔法をかけた。その魔法にポーたんが反応をみせる。小妖精の拾うメッセージを解釈するに、エルリックはこの場をやり過ごすための細工を施したのだ。おそらくこれは変装魔法の変法。
岩の裏で待つことおよそ五分、ポーラがフウッ、と大きく息を吐いた。
「もう入り口からは離れていきました。上手く誤魔化せたようです。ジバクマの憲兵はちゃんとお仕事をしているようで安心しましたね」
危機が去ったことを態度で示すようにポーラは私たちを茶化す。幻惑魔法が功を奏したことに気を良くしているのかもしれない。
幻惑魔法の新しい可能性を見せられた感がある。ディスガイズは容姿を変えて他者になりかわるもの、という印象が強かった。これは一種の思い込みだ。思い込みを取り去れば使いようは色々だ。情報魔法使いである私は物事や事象を中庸な目で見なければならない。思い込みや決めつけは禁物。これを機会に幻惑魔法に対する考えを改める必要がある。
憲兵が去っていった後、今度こそ最後まで岩を下ろしきり、私は研究室の内部に足を進めることになった。
「ゴーヘイ」は「go ahead」の略で、クレーン等の巻き上げ作業時の合図として使われます。なんとなく使ってみたくなっただけで、特に伏線というわけではありません。この世界の現場作業でも日常的に使われている単語としてご理解ください。




