九百八十七 志七郎、緑地に驚き御馳走に驚く事
来客用の厩舎を出て牧場の敷地へと足を踏み入れると、其処には周囲の荒野とは違う青々とした芒の様な草が一面を覆っている風景が広がって居た。
恐らくは牧場の敷地にしっかりと入り込まないと、この草は見えない様に立地が工夫されているのだろう。
でなければ延々と広がる荒野の中を進んできた俺達が、こんな綺麗な緑地帯を見逃す筈が無い。
お花さんから事前に聞いた話ではワイズマンシティの領土とでも言うべき領域の殆どは、塩害や乾燥に強い植物が疎らに生えている程度で概ね『荒野』と言って間違いない立地である。
そんな中にこんな青々と生い茂る草地が有れば、其処が何らかの『特別な土地』だと判断し、此の街では高級品である『野菜』を育てる畑を手に入れる為に、暴力的な手段を用いる馬鹿が出てくるのは火を見るより明らかだろう。
パッと一目見ただけで其処に生えているのがどんな草なのかは解らないが、其れでもコレは明らかに人為的に育てて居るからこその光景なのは何となく理解出来るし、此処が牧場だと言う事を合わせればコレが『牧草』の類なのは明白と言える。
想像するに此処に生えているのは塩害に強い性質を持つ牧草で、水はお花さんの屋敷で行われているのと同じく精霊魔法で賄われているのではないだろうか?
俺の記憶が確かならば、塩害と言うのは全ての植物を問答無用に枯らす様な物では無く、植物毎に『塩害耐性』とでも言う様な感じで塩害に強い弱いなんてのが有ったと思う。
前世の世界でも、海に面した場所に全く草木が生えていなかった訳では無いし、名前位しか聞いた覚えは無いが『浜茄子』なんて植物が有る位だし、ソレは浜辺に生える植物なのでは無かろうか?
兎角、そうした塩害に強い草を纏めて育てる知識と経験も、此処の牧場の持つ強い馬を育てる為の技術の一つなのだろう。
しかし人間と言うのは、こうした優れた技術や知識を持つ者も居れば、目先の利益を得る事が出来ると思い込んだら、トコトン阿呆に成る連中も居るのは事実である。
此処の事情を知らない者が此の一面の緑を目にしたならば、『此処は塩害と無縁の土地で、奪えば儲かる作物を作って一財産築ける!』と短絡的に考える馬鹿が一定数は先ず間違い無く出るだろう。
きっと此の牧場を作り此の牧草地を生み出した者は、ソレを見越して周辺の地面の起伏や建物の配置なんかを計算して、中が簡単に見えない様に工夫して建設したに違いない。
「さぁ入って、此処が俺の家兼従業員寮だ。ウチは従業員も皆家族だと考えているからね、だから此処の食堂で皆一緒に同じ物を食べて生活してるんだよ。おーい、マギー、悪いんだけれども昼食は四人分追加してくれるかい? 一寸お客様が居るんだ」
そんな牧草地を抜けて、今度は緑の絨毯と言う表現が相応しい様な芝生っぽい草が生えた恐らくは放牧地だろう場所の側に、お花さんの屋敷程では無いがソレでも邸宅と表現しても可怪しくない大きな一軒家が建っていた。
彼の言の通りなら此処は一家族が住んでいる建物では無く、何方かと言えば猪山藩の江戸屋敷の様に主人と配下が一緒に生活して居る場所だと言う事に成るので、そりゃ大きな家が必要に成るのも当然の話で有る。
「お客様? あらまぁ、随分と可愛らしいお客様ね。今日は良くも悪くも大猟だったから十人とか言われなければ大丈夫よ」
そんな言葉を返しながら姿を表した二十代半ば位の真っ赤な髪を三つ編みに結んだ女性は、俺達が見ている前だと言うのに躊躇う事無くジェームズ氏に抱き着き、軽くでは有るが唇を重ね合わせた。
「大猟って……また荒野兎共が牧草を狙って入って来てたのか……今日は何匹が罠に掛かってたんだい?」
恐らくはジェームズ氏の奥さんと思しき女性から抱擁と接吻を受けた彼は、照れる様子も無く即座にそんな言葉で問い返す。
「今日はなんと仕掛けた罠全部に掛かってたからね、六十匹だよ六十匹。解体するだけでも一苦労さ」
荒野兎と言うのは、この辺に昔から生息する兎で極々普通の動物で有り魔物の類では無いと言う。
荒野に所々生えている草木を齧って生きて居るのだが、此処の牧場で栽培されている牧草は、そうした野生の草木よりも美味いと言う事か、それとも大量に有るから腹一杯食いたいと言う事か、牧草地に入り込んで来るのだそうだ。
一匹二匹ならあら可愛いで済むとしても、ソレが何十匹と来るので有れば、家畜の食餌を守る為にも狩らざるを得ない。
「罠が全部埋まってたって言うなら、もしかしたらそれ以上の数が来ていて中に入り込んでいるかも知れないな。うん、昼を食べ終わったら皆で手分けして牧草地を確認して置いた方が良さそうだ」
荒野兎は野兎の一種で有り基本的に群れを作る事は無く、複数が一緒に行動するのは春に産まれた仔兎が独立するまでの短い期間だけらしい。
そして今日捕まった六十匹もの荒野兎はどれも若い個体では有るが、既に仔兎と呼べる時期を過ぎた大人と呼んで差し支えない大きさのモノばかりだと言う。
「こうして塊の肉を苦労せずに食べれるのは贅沢で嬉しい事だけれども、牧草地に被害が出るようじゃぁ確かに問題よね。それに菜園で育てる野菜が狙われる可能性も有るし、しっかり見回って頂戴ね。その代わり夕飯は腕によりをかけて美味しい物を作るから」
マギーと呼ばれた女性はそう言うと、俺達の方へと向き直り
「どうぞ食堂に来て頂戴、貴方達運が良いわね。今の話の通り今日の御昼は兎の炙り焼きと生野菜の盛り合わせと、一寸贅沢な献立なの。そんな日にウチに来るなんて本当にツイてると思うわよ」
外つ国へと向かう為の特別授業の中で、清浄野菜でしか生野菜を食べる事が出来ないのは、下肥を肥料として使う東方大陸以東の文化圏だけの話で、牛馬の糞尿を主原料にして完全醗酵するまで時間を置いて使う外つ国では生野菜は珍しい物では無いと習った。
此処が牧場である以上は、牛馬の糞尿はソレこそ売る程出る物だろうし、ソレを使っているからこそアレだけ青々とした牧草を育てる事が出来ているのだろう事は容易に想像が付く。
其処から転じて余った堆肥を家庭菜園に転用していても何ら不思議は無い、恐らくは塩害に強い作物なんかも存在して居るのだろう。
……ただ、ソレをこうして身内だけで食べて仕舞うと言うのは、売る程に作るのは難しい何らかの理由が有ると言う事なのだと思う。
彼女に促され食堂へと向かうと、此処の従業員と思しき面々とその家族であろう沢山の子供達が大きな食卓に座って食事が始まるのを今か今かと待ちわびていた。
パッと見た感じでは子供達が座っている席に有るのは、向こうの世界で年末辺りに良く売られているのを見かける『クリスマスチキン』の様な形の骨付き肉で、恐らくは食べやすい部位として『兎の腿肉』を彼等に回して居るのだろう。
対して大人達の所に有るのは平たい肉で、其の形状から察するに背中辺りの肉なのでは無かろうか?
「さぁ貴方達も空いてる席に適当に座って頂戴。肉は腿でも背ロースでも好きな方を言って、沢山有るし残して傷んでも勿体ないしどんどん食べて頂戴ね。調理前の肉なら凍結の魔法で凍らせて街で売っても良いけど、焼いちゃったら売り物には成らないから」
どうやらマギーさんは只の牧場の奥さんと言うだけでは無く、少なくとも風と水の複合属性である氷の魔法が使える魔法使いの様だ。
……旦那が連れてきた『御客様』と言う言葉だけで、決して安い物では無い塊の肉と生野菜と言う『御馳走』を振る舞う事を許すと言うのは夫に対する信頼だけで無く、彼女自身が相応の戦力としての自信を持っているからなのかも知れない。
そんな事を考えながら俺は、武光と共に下座に当たる椅子に腰を下ろしたのだった。
昨日も体調不良を理由に一日更新を延期しておいてアレなのですが……
5月1日月曜日も少々出かける用事が有る為、執筆更新の時間が取れません
その為次回更新は5月2日深夜以降と成ります、ご理解とご容赦の程宜しくお願い致します




