九百八十三 『無題』
江戸の屋敷を立ち東街道を西へと只管進み、他所では見かける事の無い様な巨大な看板を横目に北へと進路を変えると、鬱蒼と木々の生い茂る大きな山が見えてくる。
此の奥に人里が有る等と言うのは事前に知らねば誰も思わないだろう、そんな山の奥深くに猪山藩と言う場所は有るのだ。
幸い俺は山裾に有る北之郷と言う集落に立ち寄った際に、猪山藩の若者達と出会う事が出来たので、彼等に同行する事で無事に山を超える事が出来たが、彷徨いている鬼や妖怪は兎も角真っ当な道が見えない此の山を単独で越えようと思えば遭難して居ただろう。
そんな感じで割と苦労する事無く猪山藩へと辿り着いた俺は、大根流鍬術の開祖で有り此の地の産土神で藩主猪河家の氏神でも有る天蓬大明神様に、無事弟子入りする事が出来たのだ。
「大根流鍬術……荒田起こし!」
大根流の奥義と呼ばれる技の殆どは、鍬に氣を纏わせソレを大地や敵に叩き込む事で発生する莫大な破壊力を用いる物だが、今修練して居る荒田起こしと言う技は全身に氣を均等に纏う事で一呼吸の内に超高速で八回耕すと言う物である。
「そうだ其の感じだ。大根流を学ぶ武士の殆どは大きな一発を繰り出す奥義にばかり目を向けるが、此の流派の根底は何処まで行っても百姓が行う野良仕事を、鬼や妖怪に獣達から田畑を守る為に転用した物に過ぎない。故に田畑を知らずに極める事は出来ぬのだ!」
荒田起こしを繰り出し俺が耕しているのは、彼の神が祀られている神社の境内に有る神田で、本来ならば禰宜一族が米を作りソレを祭神である天蓬大明神に納める場所なのだが、丁度田起こし前に俺が弟子入りした事で修行の場所として貸して貰ったのだ。
「鍬の基本をある程度復習したら鎌と槍の扱いも教えてやろう。其方は武士の武芸は身体に合わなかったと聞いているが、大根流の鍬術に適正が有ったと言うので有れば、草刈り鎌と竹槍を用いる百姓の武芸にも適正は有るやもしれぬでな」
……正直、幾ら適正が有ったとしても神様自身が『百姓の武芸』と言い切る技を学ぶのに、全く抵抗が無いと言えば嘘に成る。
けれども実家の伝手に頼らず一人の男として武芸で……鬼切り者として身を立てると決めた以上は、例えソレが他の武士から嘲笑を買う物だとしてもしっかりと身に着けた上で、手柄と言う結果で黙らせる以外に道は無いのだ。
「押忍! 大根流鍬術……高波返し!」
地面の底へと打ち込んだ氣を一気に弾け飛ばす『爆砕天地返し』とは違い、高波返しは地面の表層少し下に氣を走らせる事で雑草や害虫なんかを一気に蹴散らす田起こしの最後を〆る技だ。
ソレを武芸に応用したならば地面からせり上がった氣の奔流が、津波と成って効果範囲の敵を一気に押し流す事が出来る為、間合いを詰められ過ぎた時には便利な大根流の基本技の一つである。
「うむ、良し、今朝は此処まで! 良い感じに耕したな。朝餉を食らったら鎌の扱いを基礎から叩き込んでやろう」
天蓬大明神様がそう言って踵を返すと、丁度朝飯の支度が出来た所の様で、禰宜さんが俺達を呼びに来る姿が有ったのだった。
「そー言えば、御師匠様は何の神様なんですか? 他の神様は大概は○神何々ってな呼び方されてますし、野火家の氏神様も『博神 赤木様』ですしねぇ?」
山菜の天麩羅に豚鬼の生姜焼き、肉や根菜がどっさり入った味噌汁と白菜の漬物に山盛りの麦混ぜ飯と、大藩浅雀の藩主家である実家でも何かの祝い事でも無けりゃ食えない様な贅沢な朝餉に舌鼓を打ちながら、雑談の積りでそんな言葉を口にする。
「む? 知らんのか? いやまぁ猪山の者は皆、儂を大明神としか呼ばぬから江戸の者は知らんのも無理は無いのか? 儂は『妊神 天蓬』と言うのが正式な名だの。まぁ儂は『妊む神』では無く『妊ませ神』だがな」
妊神……と言う肩書きを持つ神様は天蓬様以外にも何柱か知っては居るが、少なくとも俺が知る限りに置いて他の神々は皆女神様だ。
子宝と育児は兎も角、妊娠に出産と言う大業は男では同仕様も無い事なのだから、其れ等を司る神の多くが女神様なのは当然の事と言える。
笑いながらそう言った御師匠様の言に拠れば、彼は元々は他の世界で水軍を纏める元帥の地位に有った偉い神様だったらしい。
其れがこの世界で妊神と成ったのは、当時居た世界で仕えて居た神の帝の御屋敷に大層強い者が新たに厩番として雇われたと聞き付け、本当に強いので有ればそんな下位の官職では無く自分の軍に引き入れようと考え、其の者を見に行ったのが切っ掛けだったと言う。
そして一寸様子見の積りで喧嘩を吹っ掛けたら、元帥と言う軍の最高峰とも言える立場の自分を叩きのめせる程に強かった。
御師匠様は相手の武勇を称賛し、四分六の盃で義兄弟の契を交わした上で、厩番等と言う下位の官職では無く自分の右腕として水軍に来ないかと誘ったのだそうだ。
しかし相手はその誘いを受ける事は無く、逆に自分の扱いが低い物だった事を知り、怒髪天を衝く勢いで怒りを顕にし神の帝の屋敷を後にしたと言う。
だが其れは仮にも家臣として引き立てた立場で有る神の帝からすれば、自身に楯突く行為で有り反逆にも等しい行為として写った様で、全軍を挙げてその者を打ち取る様に命じたのだそうだ。
一度は義兄弟の契を交わしたとは言え、元帥と言う立場で神の帝に仕えて居た御師匠様は、此れも戦場の習い……と、其の者を討伐する為に兵を率いて出陣したと言う。
神々の軍勢を相手に一歩も引かずに戦う姿勢を見せた其の者は、数の暴力に屈する事も無く逆に様々な術や技を用いて軍勢の大半を叩きのめして見せたらしい。
そんな中で御師匠様は襟首を捕まれぶん投げられ、空の彼方を突き抜け星界の端から端までぶっ飛ばされて、この猪山の地に落ちて来たのだそうだ。
「幾ら神の身でもそんな勢いでぶん投げられて、山に直接叩きつけられては流石に命は無い、そう判断し儂は水神としての権能全てを使って湖を作り、其処に堕ちる事で何とか命だけは助かったのだ」
だが問題はその後だ、此の世界では火水風土と言った物は精霊達が持つ力で有り、神々の権能の範疇に有る物では無いのだそうで、異世界の水神としての権能を使い此の世界を改変した事が世界樹の神々から問題視されてしまったのだと言う。
そうして此方の世界の神々の命を受けた者達が御師匠様を捕らえに来たのだが、当然其れに『はい分かりました』と素直に応じる訳も無く、別の世界とは言え水軍の長にまで登り詰めた武勇を遺憾無く発揮し抵抗に抵抗を続けたらしい。
最終的には人間の手では無く、此方の世界の武神が複数出張って来て、取り押さえられる事に成ったが、其れまでの二年と二ヶ月の間に此の山で暮らして居た猪山藩猪河家の先祖に当る者達を相手に三十人もの子を拵えていたと言う。
今でも余程の腕が有る産婆の力を借りたとしても妊娠出産に事故は付き物だと言うのに、御師匠様は自分の子は勿論、当時の小さな集落に住む他の者達の出産も助け、一人も事故無く無事に取り上げて見せたのだそうだ。
其の結果、御師匠様は『子宝の神』で有り『出産の護り神』としての業績を認められ、無事に此の世界の神の一柱として世界樹の神々にも受け入れられる事に成ったのだと言う。
「江戸の屋敷に居る御宮御前の産婆としての師匠は儂だからな、お前にもそっちの方の技術を教えてやろうかとも思ったが……此処に来て早々に若い連中がやっている艶本の交換会に溶け込む様な助平には女人の身体に触れる技を教える訳にはいかんわな」
御宮御前と言えば将軍家縁の者でさえ高い銭を積んででも、女房の出産を手助けして貰いたい……と引く手数多な有名産婆で、俺自身も彼女が取り上げてくれたと聞いて居る。
其の技が有れば、確かに合法的に女性にアレコレ出来る様に成るんだろうが……
「いや、其れは要らねぇっす。俺は相手の居る女児に手を出す趣味は無いんで、其れに家安公も『可哀想なのは抜けない』と女人を手籠にする事を戒める言葉を残してますしね」
艶本で女性を手籠にする様な話を読んで興奮するのは良いが、ソレを実際の行動に移す様な奴は男の風上にも置ける者じゃぁ無い。
「うむ、其の心意気や良し。取り敢えず儂は未だ休暇が残っているし、その間はお前さんを鍛えるのに暇な時間を費やす事にするから、死なずに着いて来るのだぞ?」
本来神様って奴は死ぬほど忙しいし、下手すりゃ本当に忙し過ぎて死ぬ程だと言う話で、俺の様な他所者を弟子に取って修行を付けてくれるなんて事は有り得ない話なのだ。
けれども今、御師匠様は世界樹の偉い神様に言われて休暇を取っている期間だそうで、俺は運良くその間に来たので暇潰しに稽古を付けて貰えていると言う訳である。
そんな神様直々の稽古を受けられる幸運を噛み締めながら、俺は江戸でも可也の額を出さねば食えないだろう朝飯を鱈腹食うのだった。




