九百五十七 志七郎、大魔法と便利魔法を天秤に掛ける事
書庫に所蔵された呪文書を読んで、俺は今まで自分が手にしていた物が、飽く迄も実戦で使う為に簡易化された文書なのだと理解した。
お花さんから書写する様に指示され、実際にそうした呪文書には『詠唱するべき内容』と『魔法の名前』だけしか書かれて居なかったのに対して、此処に有る書には『開発経緯』や『正しく運用する為の注意事項』等が事細かに書かれているのだ。
俺の持っている呪文書では一頁に幾つもの魔法が書かれているのに対して、此処に有る書では一つの魔法に対して少なくとも四、五頁、多い物だと一冊丸々が一つの魔法に関する研究内容が論文の様に書かれている物も有る。
火元国でお花さんから魔法を習った際には、確かに一つひとつの魔法に対して丁寧に座学を行い、その上で彼女の監督下で実践する……と言う事を繰り返して覚えて来たので、呪文書の内容は簡潔でも問題なかったのだろう。
けれども本だけで魔法を学ぼうとするならば、此処に有る書物の様に様々な事が詳細に記載されている物で無ければ事故が起きる可能性が極めて高い事は容易に想像が付く。
「コレは……後から通常の図書室の本も読んでおく価値は有りそうだな」
思わずそんな言葉が口から溢れ出る。
魔法を単純に戦いの道具にするだけならば、其処まで気合を入れて勉強する必要は無いだろう。
アクセルを踏めば加速しブレーキを踏めば減速する、そしてハンドルを切って曲がる事さえ解っていれば、取り敢えず自動車を走らせる事は出来る。
それに加えて安全な運転をする為に道路標識なんかの交通法規を覚え、免許を取らねば公道を走る事は出来ないが、態々エンジンの機構や車体の構造を全て把握する必要までは無い。
とは言え、軽自動車に軽油を給油する様な真似をしない程度の知識は絶対に必要だとは思うが……。
兎にも角にも単純に『使えれば良い』と言うだけならば、態々呪文図書室に有る本で基本魔法を復習する必要は無いだろう。
けれども今、こうして基本魔法の上位に当たる属性に依らない高位魔法に関する記述を読む限り、多くのソレはより大規模な戦場でより強力な魔物を倒す為に、威力や効果範囲を拡大したりする試みの結果生まれた物の様に思える。
向こうの世界で死に際の曽祖父と手合わせした後に言われた『奥義は基本の中に有り』と言う言葉は、武術にだけ適用される物では無く勉学でも……恐らく魔法でも其処は変わらないのでは無かろうか?
全ての土台と成る基礎を疎かにすれば、どんなに立派な上モノを建てたとしても、一寸の衝撃で全てが崩れさる事に成るだろう。
どんな技術でも基礎をきっちり固めて、その上に応用を積み上げて行く必要が有るのだ。
勿論、お花さんから受けた授業がそうした基礎を蔑ろにした物だとは思わない。
俺が彼女から受けた授業の大半は座学で有り、魔法を使う上で必要と成る理論と倫理に重きが置かれていた。
しかし如何に彼女が丁寧で正しい教育を施して居たとしても、受け取る側の俺が誤解していたり、理解した積りになっているだけで実は全然理解して居なかったなんて事も有るかも知れない。
そうした可能性を潰して置く為にも復習はして置くべきだろう。
「ぬ? 向こうの部屋に有るのはお花殿に習った魔法が有るだけではないのか? いや、呪文書に記される魔法が取捨選択された物だと言うならば、余等の知らぬ魔法があの部屋に有る可能性も有るのか……しかしソレは恐らく実用的な物では無いのでは無いか?」
隣の机で呪文書を読んで居た武光が、俺の呟きを聞いて囁く様な声で此方にそう問いかけて来る。
彼の言う通り俺達が知らない魔法が、禁書以外にも有る可能性は割と高いだろう。
例えば『〇〇の肉を程よく焼く魔法』なんかの調理系魔法は、お花さんから写させて貰った呪文書にも幾つか有ったが、其れ等は肉の種類毎に別の呪文扱いだった事を考えると、料理の為の魔法は割と膨大な数有っても不思議は無い。
お花さんの呪文書は戦闘向けの魔法が大半を占めて居り、便利系とか生活系とでも言う様な魔法は割と少なかった様に思える。
コレはお花さん自身が長い冒険者生活の中で、どんな状況でも自力で生きていく事が出来るだけの技術を身に着けて居り、その上で先々代の鈴木家当主と夫婦に成り家事で手を抜く事を厭う性質に成ったからなのではなかろうか?
ちなみに俺個人として有って欲しいし、無ければ自身で開発したいとすら思っている料理系魔法が一つ有る。
ソレは『はじめちょろちょろ中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火をひいて、ひと握りのワラ燃やし、赤子泣いてもふた取るな』を自動で行ってくれる『炊飯魔法』だ!
前世でも今生でもお米の国に生まれ育った者として、三百六十五日三食全てとは言わないが飯が無い生活は耐えられない。
向こうの世界では自炊なんてして来なかった俺では有るが、炊飯器を使って米を炊く程度の事は出来るし、『炊き込みご飯の素』なんかを使ってソレを作った事が無い訳じゃぁ無い。
あっちの世界で普及していた電気炊飯器程の利便性を求める積りは無いが、界渡りの際に向こうで買った飯盒を使って簡単に飯を炊ける魔法が有れば、何処を旅するにせよ炊きたて御飯が食べられると言う事だ。
一応、此方の世界で竈を使った炊飯の練習はしたが、アレは飯を炊いている最中に他の事が殆ど出来ない位には面倒臭い作業である。
しかもソレを行うのに必要と成る薪なんかの燃料代も馬鹿に出来る物では無く、長屋住まいの町人達は朝に一日分の飯を纏めて炊いて、昼食や夕飯には冷めた飯を湯漬けにしたりして食う程らしい。
そうした炊飯事情は定住者だけで無く火元国を旅する連雀商人や、渡世人や股旅者等と呼ばれる博徒の様な根無し草も大きく変わる物では無いそうで、木賃宿を発つ前に三食分の飯を炊き昼は握り飯、夜は雑炊と言う感じで食うのだそうだ。
けれども炊飯魔法を覚える事が出来れば、燃料代無しで飯を炊く事が出来るし、炊きあがりに合わせておかずを用意する事も出来るだろう。
うん……そう考えると、此処で爆裂とか言う大規模攻撃魔法を覚えるよりも、料理魔法を色々と覚える方が有意義に思えて来たぞ?
なお爆裂は起点となる場所を指定し其処を中心として属性を帯びた魔力を、その名の通り激しく爆発させると言う魔法だ。
基本魔法に有る爆の上位互換と言える魔法だが、本に記載されている内容をそのまま鵜呑みにするならば、爆が一坪程度の範囲吹き飛ばすのに対して、爆裂が一畝もの空間に効果を及ぼすと言う。
爆でも起点を今いる場所に設定されたなら、氣に依る意識加速と身体能力の向上を併用しても、完全に回避するのは難しい程度の攻撃に成るが、爆裂は範囲内に居ればまず間違い無く大被害を被る筈だ。
ただし大きな問題として、この手の範囲攻撃魔法は敵味方の区別を付ける事は出来ないので、接敵前に敵陣に打ち込む用の攻撃で使い所は中々に難しいと言えるだろう。
「うん、取り敢えず俺はやっぱり向こうで便利系の魔法を探すわ。特に炊飯魔法が有るなら絶対欲しいし、無いと分かったならソレを此方に居る内に研究しておきたい」
単純な攻撃力を求めるならば俺の場合は、氣の運用を更に高めていく事で幾らでも補いが付く。
未だ覚えていない技術では有るが、恐らくは御祖父様は俺に錬土行と錬火行を叩き込んでくれるだろう。
ソレと裸の里で見せて貰った大技を組み合わせれば、御祖父様が地下迷宮の壁を薙ぎ払った様な事は不可能じゃぁ無い。
故に俺が精霊魔法に求めるのは単純な攻撃力では無く、氣では為す事の出来ない様々な便利な現象と言う事に成る。
「うむ、その辺の判断は人其々違って当然と言う事なのだろうな。お蕾もお忠も必ずしも余に付き合う必要は無いぞ。自身を高めるのに必要と思った物を探すと良い。余は取り敢えず此処に有る書物を読む事にするがな」
俺の言葉を受けて武光はそんな言葉で俺を送り出し、自分の呪文書に目を付けたらしい魔法を書き込んで行くのだった。




