九百五十四 志七郎、帝国を知り魔法に付いて考える事
「この場に居る皆に聞きます、昨夜あの痴れ者を凹々にして学会の前に捨てた者が居るならば、怒らないから素直に手を挙げなさい」
騒ぎが一段落した後、氣を扱う為の呼吸法や身体の一部に集める方法等、氣の運用に関しての基礎の基礎をお連に教えた頃合いで、朝食の時間に成ったので中庭で稽古をして居た者達は皆、水属性魔法で軽く汗を流してから大食堂へと向かう事に成った。
そして寝坊や何だで稽古に出て居なかった者も含めて、皆が食卓に着いたのを見計らい、お花さんは普段の優しげな笑みでは無く、威厳有る流派の当主としての表情でそんな事を問いかける。
……こう言う場合の『怒らないから』と言うのは往々にして守られる事は無く、大概の場合はこっ酷く叱られる事に成る物だが『怒りに任せて怒鳴る』のでは無く『理路整然と叱る』ので有れば嘘とは言い切れないのかも知れない。
当然、心辺りの無い俺は手を挙げる様な事はせずに、ただ黙って周りを見渡すが、十数える程の時間を待っても誰一人として手を挙げる者は居なかった。
「そう、なら良いのよ。エイブラハム師は私の師。師の師といえば我が師も同然と、彼を侮辱したあの痴れ者を殴りに行く者が居たかと思ったのだけれども……そんな短絡的な真似をするお馬鹿さんが私の弟子達の中に居なくて良かったわ」
正確に言うならばこの場に居るのは彼女の弟子だけで無く、火元国からの留学生で学会の基本教育課程で一から育成されている魔法使いやその卵達も居る。
けれども猪山藩士の元に嫁入りした立場として、火元国からの留学生を受け入れるホストマザーとでも言うべき役割も担う彼女は、弟子だけで無く留学生のやらかしまで責任を持たねば成らないのだ。
故に弟子と留学生を纏めてこの場で軽く詰問したのだろう。
「まぁウチじゃぁ無いにせよ、あの様な場所を弁える事を知らない戯け者ならば、何処で誰の埋火を踏んでいても不思議は無いし、地元の犯罪組織にでも袋叩きにされたのかも知れないわね」
そんなお花さんの言葉に、一堂の者達の顔に納得の表情が浮かぶ。
うん、昨日の昼飯時に起こった騒動を見聞きした者ならば、彼女の言葉を聞いて『残念でもないし当然』と考えるのは仕方の無い事だろう。
「普段なら凹られる程度の弱い御前が悪い……で終わるんだけれども、アレあんなでも一応は王族だからねぇ。いえトニーラヴァンみたいな辺境の小国相手なら、別に揉めても構わないんだけどね、ただそんなでも帝国の一角だから面倒なのよねぇ」
精霊魔法学会は単純に一学校組織と言う訳では無い、『大魔法使い』と言う一種の戦略兵器とでも言うべき存在を育成出来る、世界中を見渡しても稀有な組織なのだ。
故に其処を相手に本気で事を構えようとする国は殆ど無い、絶対に無いと言い切れないのは過去に実際に学会相手に紛争にも近い事を行った国が有ったからである。
結果としては、そうした国の多くは大魔法使いの操る戦略級魔法と言う区分に有る大魔法に依って滅ぶか、滅ばないまでも壊滅的な被害を被って来たのだ。
しかし魔法学会に比類する様な組織が全く無いかと言えば決してそんな事は無い。
例えば東方大陸に有る『崑崙』と言う『鬼道』と呼ばれる術を研究する機関や、北方大陸に有る錬玉術師製造所に、火元国の陰陽寮なんかも、がっぷり四つに組んで戦える組織と言えるだろう。
そして南方大陸にも当然、そうした独自魔法を継承する大規模組織は存在しているのだ。
ソレは騎士魔法をカシュトリス帝国傘下の国家の者達に教育し運用する、騎士団と言う組織である。
騎士魔法も現地では『シュヴァリエ・マジー』と呼ばれるらしいが、世界樹諸島を含む他の地域ではナイツ・マジックと呼ばれているので、一般的には此方のルビが当てられてるのだ。
そんな騎士魔法は能力強化に特化した魔法で、在り方としては氣に割と近い物と言えるが、氣の様に波ぁ! と放ったりする事が出来る程の自由度は無い。
けれども氣には無い圧倒的に有利な点が一つ有る、ソレは騎士魔法に依る強化は隷下に居る一般兵まで纏めて強化されると言う事だ。
更に厄介な事に帝国は皇帝が崩御する度に帝位を巡って内乱を繰り返して居る様な土地柄故、騎士魔法の使い手達が平和呆けして居る様な事は無く、皇帝の号令一つ有れば何時でも内乱の鎮圧や外征に打って出る事が出来る練度を維持して居るらしい。
魔法学会と騎士団が本気で打つかり合うには海と言う広大な障壁が邪魔をするが、騎士魔法の熟練者は学会に居る最上級魔術師の数を軽く凌駕する人数が居るそうで、万が一にも本気で事を構える様な状態に成れば西方大陸を丸ごと巻き込む大乱に成るだろう。
「まぁ……当代皇帝のカトリーヌ=リンヴァーグ=カシュトリス二十三世陛下は、理知的な御方だし然う然う全面戦争なんて事には成らないとは思うけれども、其れでも此方に留学して居る帝国貴族が『舐められた』と暴発する可能性は零じゃぁ無いかしらねぇ」
カシュトリス帝国の皇帝は必ずしも男性が即位すると言う訳では無いそうで、帝国傘下の王国の中で選帝侯と呼ばれる称号を持つ者達が『皇帝に相応しく神々にも認められるであろう者』を選んで即位させるのだと言う。
当代皇帝のカトリーヌ二十三世は元々リンヴァーグ王国と言う小国の王女で、本来ならば皇帝の座に付く様な家柄の者では無い筈らしいのだが、男は騎士魔法を女は聖歌をと言う教育方針が影響して、過去に何人もの女帝を排出した名家でも有ると言う。
なおカトリーヌ二十三世と言うのはリンヴァーグ王国の王女として過去に二十二人のカトリーヌが居たと言う事で有り、カトリーヌと言う皇帝は当代が初めての事らしい。
なので帝位に着いた時点でカトリーヌ=リンヴァーグ二十三世から、カトリーヌ=リンヴァーグ=カシュトリスと名前が変わるのが普通らしいのだが、彼女は二十二世までの何人かのカトリーヌを敬愛しており、二十三世を名に残すのに強く拘ったのだそうだ。
そんな話がお花さんの口からさらりと出てくる辺り、恐らくその皇帝陛下と彼女は既知の間柄なのだろう。
考えて見れば世界でも上から数えた方が早い様な冒険者で有り、一人で国を滅ぼせる様な人材がゴロゴロ居る学会と言う組織の重鎮なのだから、諸外国の主だった王侯貴族に既知を得ていても何ら不思議は無い。
そう言う訳で彼女が外交力を使って事態を穏便な方向で終息させる積りなのだろうが、確かに現地に居る帝国人が暴発して、地元の犯罪組織とドンパチ始める様な事に成ったら、纏まる物も纏まら無いだろう。
「にしても……本当にあのアホボンは厄介事しか持って来ないわねぇ。流石は『魔法が使えぬ者は貴族に在らじ』が基本の帝国で騎士魔法も聖歌も碌に覚えず、地元の精霊魔法の私塾からも匙を投げられた逸材だけは有るわねぇ」
逸材とは本来は人並み以上に優れた才能を持つ人材を指す言葉だが……彼女は『常軌を逸した人材』と言う意味で皮肉としてそう言ったのではなかろうか?
「一応、学会の方でも妙な動きをする輩が居ないか注意する様にして頂戴、私の所に上がっている報告では、どうやら下手人には相当の手練が混ざっている見たいだからね」
曰く、全身痣だらけに成る程の凹々振りだと言うのに骨折した箇所は一部だけで、ソレは命に関わる様な物では無いと言う。
感情的に成った集団の袋叩きと言うのは、誰かが歯止めを掛けなければ『やり過ぎる』物だが、そうした行き過ぎた被害を与えた様子は一切無く、犯人が誰か他の者に伝えられない様、的確に顎と歯だけが砕かれていたのだと言う。
「コレが策謀の類なら本当に仕掛けた奴の頭の中を見てみたい位には面倒臭い手よね、なんせあの逸材なら何処で誰に喧嘩を売ってても全く不思議とはだーれも思わないんだから……食事の前に気が滅入る話をして御免なさいね。さ、じゃぁ朝食にしましょうか」
溜息を一つ吐いて表情を切り替えたお花さんがそう言うと、その場に漂っていた緊張した空気があっという間に弛緩するのだった。




