九百五十三 志七郎、稽古場に入り男の理性を疑う事
前世の日本とは比べ物に成らない位に治安が悪い江戸よりも、更に治安が宜しく無いこのワイズマンシティで、日も登らぬ内から四煌戌の散歩に出るのには少しだけ抵抗が有ったが、実際に行って見れば何の騒動に巻き込まれる事も無く屋敷へと戻って来る事が出来た。
まぁ考えて見れば幾ら此方が子供とは言え、並の牛よりも二回りは大きな三つ首の猛獣の背に跨った者を相手に、文を掛ける事が出来る様な気合の入った者等然う然う居るものでは無い。
そんな感じでお花さんの屋敷や精霊魔法学会の有る街区は、取り敢えず表通りだけでは有るが大体地形や地理は把握出来たと思う。
そんな訳で、久しぶりに俺との散歩が嬉しかったのか、それとも知らない場所での散歩が楽しかったのか、普段よりも幾分早い足取りで散歩を終えた四煌戌とその上を飛ぶ焔羽姫を江戸へと送還すると今度は武芸の稽古の時間だ。
此れは猪山屋敷でやっていた習慣をそのまま続けると言う意味だけで無く、魔法格闘の大家でも有るお花さんの弟子達も、此の時間に稽古をして居るのでソレに混ぜて貰うと言うのが本当の所と言えるだろう。
とは言えお花さんの弟子達の中に氣功使いは殆ど居ない為、一緒に稽古をして得られる物等無いだろう……と言う意見も有った。
しかしソレが間違いなのは、俺自身がお花さんや彼女に付き従って火元国に来ていた弟子兼執事のセバスさんとの手合わせの中で理解して居る。
氣は確かに身体能力だけで無く、武器の斬れ味や頑丈さなんかを高めたり、脳を強化する事で意識を加速し他人が一手打つ間に二手三手と行動を増やす様な事が出来たり……と万能に近い異能だ
けれども精霊魔法も使い方次第で氣と同等かそれ以上の事が出来るのだ。
単純な攻撃力強化として打撃を当てる瞬間に魔法を発動する事で、弾や矢の様な回避される可能性の有る投射型の魔法を確実に叩き込む『インパクト』と呼ばれる技術が有る。
その他にも風属性魔法の『軽やかな風』と言う魔法で一時的に身の熟しを軽くする事も出来るし、素肌を硬い革鎧並の硬さにする事が出来る『硬き土』と言う土属性魔法も有ったりするのだ。
更に多重詠唱は平行詠唱と言った複数の魔法を同時に使う技術も重ねる事の出来る熟練の魔法格闘家は、生半可な氣功使いの武士よりも強かったりするのである。
……実際、俺だけでは無く今は外に婿に出てしまったとは言え、兄弟では最強である事が間違いの無い義二郎兄上ですら、セバスさんに本気を出させる事すら出来て居ないと言うのだから、氣功使いだけが絶対強いと言うのは間違いなのだ。
更に言うならば義二郎兄上の所に居る家臣の虎男は、精霊魔法に依る強化すら無しに猪山藩の武士を複数人纏めて相手に出来る様な強者だし、結局の所どんな流派や技術を使っていようと『強い奴は強い』と言う所に落ち着くのだろう。
と言う訳で、口の字型の屋敷のど真ん中に有る稽古用に土が踏み固められた中庭に、俺は此方の大陸での普段着にする事にしたデニムの上下に木刀を携えて足を踏み入れる。
けれども今日は自分の為の稽古は殆どする予定は無い、昨夜夕餉の際に氣に目覚めたっぽいお連に氣の運用を教えなければ成らないからだ。
俺が家臣として拾った元『怪盗山猫』の志摩がそうだった様に、氣の扱い方を知ら無い所謂『野良氣功使い』は氣の間違った使い方で身体を壊す事も有る。
「御前様、遅く成って申し訳有りません。お花様から頂いた稽古用の此の服……どうですか?」
と、稽古場の端でお連が来るのを待っていた俺の背に、彼女がそんな言葉を投げかけて来る。
振り返ると其処には、白いタイツに脚を包み紺色の提灯ブルマを履き、上には胸に平仮名で『つらね』と書かれた長袖の白いシャツと言う向こうの世界の体操着にしか見えない格好のお連が居た。
……前世の親友が見たら大歓喜しそうな絵面に一寸顔が引き攣り、思わず『誰の趣味だよ!』と叫びたく成るがその思いを無理やり飲み込み
「う、うん、活発そうで良く似合ってて可愛いよ」
なんとかそう言った。
正直な話こう言う制服の類は似合う似合わないとか、そ~言う次元を超越した物だとは思うのだが、新しい服を着た女性は取り敢えず褒めて置くのが処世術と言う物だと、俺は前世の人生で学んで居る。
「……本当はお花様は此の白い下穿き無しで、上も袖の短い物を進めてくれたんですけれども、流石に端ないと思ってこう言う格好にしたんですが、御前様はそっちの方が良かったですか?」
微かに頬を赤く染め上目遣いで可愛らしくそう尋ねて来るお連。
「い、いや、良い判断だったと思うぞ。此処は俺だけじゃぁ無く他の者達も居るからな、肌は出来るだけ見せない方が良いだろう」
別に瞳義姉上や坂東美々殿に屋良椎菜殿辺りを悪く言う積りは無いが、火元国の一般的な価値観では、女性が脚や腕を露出するのは好ましい事とはされていないし、俺自身も余り良いとは思わない。
全ての者がそうだと断言する訳では無いが、其れでも大多数の男と言う物は何処まで行っても性的な欲に忠実な生き物だ。
此れは理性云々の話では無く『物理的に溜まるモノが有り』ソレを定期的に放出しなければ成らないと言う生物としての根幹欲求が有るからだ。
この辺は向こうの世界でも女性には余り理解されなかった事だが、解りやすく例えるならば用便を足す欲求を我慢し続けろと言われても無理なのと近いと言えば納得して貰えるだろうか?
兎角そうした溜まったモノを出したいと言う欲求こそが『男の性欲』で有り、ソレが溜まっている状況では男の理性は割と脆い物に成る。
しかもその溜まる速度は一定と言う訳では無く……欲求が不満する様な物を見聞きしたりすると一気に加速するなんて事を聞いた覚えが有る、早い話がエロい物を見るだけで男の陰嚢はズンドコ仕事を加速するのだ。
つまり男は女性の肌を見るだけで理性が削れていく生き物だと言っても過言……かも知れないが、まぁそう言う物なのである。
俺達火元国から来た留学組の者は武士として恥ずかしい真似は慎む様に教育を受けている筈では有るが、男の欲望は時にそうした教育を超越してしまう……ソレは向こうの世界で警察官と言う立場に居たから良く知っている事実だ。
なにせ若い女性の間者が用いる色仕掛けの類は、有史以来延々と続いている手口で有り歴史を紐解けば枚挙に暇が無い程である。
俺の記憶に有る最も古いその手口は、日本の隣の大陸が春秋時代と呼ばれていた頃の末期の話で、越と言う国の軍人が呉の王に美しい女性を差し出し結果として呉が滅んだと言う物が有った。
後に『兵法三十六計』と言う書が書かれた際には『第三十一計、美人計』として記されて居る程に効果が有った手口だと言う事なのだろう。
ちなみに『三十六計逃げるに如かず』と言う言葉は上記兵法三十六計に書かれた『走為上』……『走げるを上と為す』と言う最後の計略『勝ち目が全く無いならさっさと逃げろ』と言う言葉から来ているらしい。
……閑話休題、幾らお連が未だ幼い少女で野郎の欲望の対象には成り辛いとは言え、絶対では無いので肌の露出は少しでも少ない方が良いのは間違いない。
此れは純然たる事実で有って、俺が彼女の肌を他の野郎に見せたく無いとか言う独占欲の類では無いと断言して置く。
「さて、それじゃぁ今日は氣の扱いにt「てぇへんだ! てぇへんだ! おい、お前等! あの話聞いたか!? 聞きたいか!?」
頭を過る不埒な思いを取り敢えず棚の上に片付けて置いて、お連に氣の扱いに付いて教えようとして居た所で、聞き覚えの無い叫び声が稽古場に響き渡り、遮られた。
「学会の新入生が誰かに凹られ半殺しにされて、学会の正門前に捨てられてたのが見つかったんだ! ソレ誰だと思う? なんと南方大陸からの留学生でイー・ヤン・ミーって王族だってんだから驚きだ!」
覚えの有る名前が丸で瓦版屋の売り文句の様な向上を上げる男の口から出たのを聞き、俺は思わずお連から視線を切って其方を見てしまったのだった。




