九十二 志七郎、温泉に浸かる事
光が溶ける、そう表現すれば伝わるだろうか?
視界の全てを埋め尽くす無数の蒼い魔法陣が、溶剤を掛けた絵の具の様に崩れ溶け落ちていく。
数えきれないほどの光が瞬く間に消え、そして最後の光がほんの僅かに強くなるがそれも一瞬の事で、それまで見ていた光景がまるで幻の様に消え失せ、それらを塗り替える様に元の部屋の姿が戻ってきた。
いつしか夕日も落ちて居たようで、先程まで部屋を満たしていた紅の光は消え、窓からは星や月の僅かな灯りだけが差し込んでいる。
「あ、あれ……」
「……む?」
魔法陣によって切り離された世界から帰還し一息付く、と急に立ち眩みの様な目眩がし、足に力が入らず、フラッとそのまま倒れそうになった所を兄上が抱きとめてくれた。
「この子達の足りない霊力を君の魂から補う形で力が流れているから、暫くは良く食べて良く休む様にね」
お花さんが俺の顔を覗き込み腕を取って軽く脈を取る、そして問題が無いと判断したのだろう、一つ頷くと笑顔を浮かべてそう言った。
「あん!」
「きゃん!」
「くーん」
と、足元から俺を心配する様な声で三つの声が上がる。
言われたとおり、四煌戌と名付けた彼等と俺の間には確かに繋がる何かが感じられ、それを通して俺の中からじわじわと熱の様な物が彼等に流れ込んで居るのが理解できた。
力が入らず震える手を伸ばし翡翠の頭をそっと撫でる、決してお前の所為ではないと。
翡翠もそして他の二匹にも思いは伝わったのか、彼等は競う様にして俺の手にその頭をこすり付けてきた。
柔らかな毛皮の手触りの向こう側に生命の温もりを感じ、自然と顔が笑みを浮かべているのを自覚する。
「仲が良いのは良いけれど、そろそろ食事を運ばせましょう。それを食べたら温泉に入って早めにお眠りなさい。さっきも言ったけれど、貴方もこの子も良く食べて良く休む事が必要よ」
パンパンっと手を叩く音を響かせてお花さんが制止の声を上げる、言われなければ確かにいつまでも撫でていたかも知れない。
名残惜しく思いながら俺は少しだけ力の戻ってきた手を引っ込めた。
「はふぅ~、極楽……極楽……」
「「「「きゃふぅ~」」」
「……ふぅ」
真上に浮かぶ満月の光の下、源泉掛け流しの露天風呂に浸かった俺達は揃って大きな溜息を付いた。
お花さん曰く、ここの温泉はかなりの力を秘めているらしく、四煌が浸かればそれだけでも大分俺の負担が和らぐそうだ。
精霊魔法に付いて勉強していけば、俺にもそういう事が解る様に成るらしいが、今の所はただ単純に気持ち良いと言う事しか解らないが、そういう物だと思っておこう。
霊獣とはいえ犬とおんなじ温泉に入る事に、旅館側から何か言われるかとも思ったのだが、この露天風呂は時折野生の動物やら、猫又やらが入りに来る事も有り、今更気にする事では無いと言う話である。
それでも他のお客さんが居れば良い気はしないだろうと、思うのはどうやら俺の考えすぎの様で、先程まで居た先客の男女――恐らくは夫婦だろう――は楽しそうに三匹の頭を撫でていった。
この世界に生まれ変わって以来、自宅の風呂に入っていたので知らなかった事では有るが、この火元国では混浴が一般的でこうした温泉だけでなく、江戸市中にある銭湯もその大半が混浴なのだそうだ。
木造住宅が密集する江戸の街では一度火災が起きると大災害となりやすい事から、火の使用はかなり制限がされており町民が住む長屋等では調理用のかまどすら無い事も有るらしい。
当然ながら内風呂と言うのは圧倒的な贅沢であり、それを許されているのは将軍家以外では幕府の重臣と大名家だけである。
それ以外の直臣とその家族は城内に専用の風呂場がありそこを利用するらしいが、流石にそこは男女別に成っているそうだ。
なので町人階級ならば余程の大店の娘であっても銭湯を利用する他無い。
俺の感覚で言うならば、そんな場所ならば不貞の輩が一定数居ようものなのだが、風呂場では三猿即ち『見ざる』『言わざる』『聞かざる』を守るのがマナーであり、それを守れない輩は銭湯どころか江戸から叩きだされる事になるらしい。
前世でも地方に行けば混浴の温泉というのは有った、だがそういう所でもマナーの悪い輩は我々か、もしくは地元のお兄さんと、楽しいお話をするハメになる事を考えれば、そうおかしな話では無いのかも知れない。
とは言え、諸外国では男女別に入るのが当たり前の地域が圧倒的に多いらしく、お花さんはこの場には居ない。
彼女自身は以前長い間この国で暮らしていた事もあり、気にせず一緒に入ってこようとしたのだが、付き人であるセバスさんが止めたのだ。
『淑女としての慎み』と『三百歳の婆が入っても誰も気にしない』の戦いだったが、少なくとも彼女の見た目を考えれば、セバスさんに軍配が上がると俺は思う。
まぁ、そんなお江戸の風呂事情は兎も角だ。
「こうして兄上と共に風呂に入るのは初めてですねー」
「うむ、俺が湯殿へ行くのは余程汚れた時位だ、大概は水浴びで済ませているからな」
大量の薪を使う風呂と言うのはかなり銭のかかる贅沢である、家の様な貧乏零細の小大名家の子が殆ど毎日風呂を沸かして居ると言う事自体がおかしな話なのだ。
「うちの場合は妹達が居るし、ただでさえ汗を掻く連中が多いからの。汗臭いままで外を出歩けば藩の沽券に関わる。まぁ俺が湯殿を使わぬのは俺が使う頃は混みあうからだがな」
俺は何時も夕方に沸かしたばかりの一番風呂に入るのだが、このタイミングは姉上達が入る時間帯であり、未だ七歳に届かない俺だからこそ許されている特権とも言える。
七歳になれば奥向きを出て俺も長屋暮らしになるが、その頃には今よりも遅い時間、他の家臣達が風呂に入る時間帯にそこを使うことに成る。
そうなれば兄上と同じように混みあう風呂場を回避する様に成るかもしれない、それとも義二郎兄上の様に外の銭湯を使うと言うのも手か?
それでもほぼ毎日風呂や最低でもシャワーに入っていた前世の事を考えれば、何日も風呂に入らないと言う選択肢は無しにしておきたい所である。
「しかし四煌戌と名付けたのだったか。この子は湯を嫌がらんな、犬も猫も洗うとなれば一仕事だというのに……」
そっと手慣れた手つきで四煌達の首元を梳く様に兄上が撫でる。
「わふぅ……」
「くぅん……」
「くぁぁぁぁぁ……」
よほど湯が気持ち良いらしく彼等は兄上が撫でるのに構わず、三者三様あくびをしたり溜息をついたりしている。
「こうしていると、ただの子犬なのだが、これが竜よりも強い霊獣の子とはな……。志七郎、済まなかった」
「え? 何を謝る事が有るのでしょう?」
「俺の対応に誤りが有ったから、この子の命を危険に晒した。魔女殿は気にするなと言ったが、もっと学んでいれば避けられた事だ。獣神様の加護を受けたと思い上がり、学ぶことをしなかった俺の過ちだ」
いつもと変わらぬ表情で右手では優しく四煌を撫でているが、湯の中では左手がきつく握りしめられている、きっとその内心では忸怩たる思いを抱いているのだろう。
動物達と心を通じ合わせ、彼等の事ならば何も知らない事はない、そう思い上がっていたのだ、と兄上は言う。
ギリッと歯ぎしりをする音が、俺の耳にもはっきりと届いた。
それに対して俺はどんな言葉を掛けるべきか……、少し考えてから口を開いた。
「足りないならば学べば良い、失敗したならそれを経験にして反省すれば良い。この子は生きています、間に合わなかったわけじゃないです」
下手な慰めは決して彼の為に成る事は無いだろう、かと言って責める言葉を口にするのも違う気がする。
「兄上だけの所為では無いです、この子を授けてくれた神の手紙でも『普通の子犬と同じ様に育てれば良い』と書いていたのですから」
神が知らぬ事をただの人間が知らなくてもしょうが無い、そういうつもりで付け加えた言葉は、一体何処まで兄上の心に届いただろうか?




