九百三十五 志七郎、朝餉の席に着き偉大なる魔女を思う事
「と言う訳で、貴方達は此の街では私の保護下に有るとは言え、飽く迄も異邦人で有り一般人と言う扱いです。火元国の様に無礼討ちは通りませんのでくれぐれも注意してくださいね。まぁ素手での喧嘩程度なら問題ないですけれどもね」
真っ白なテーブルクロスの敷かれた円卓が数えるのも馬鹿らしい程に並ぶ大食堂へと集まった若者達を前に、朝食が配膳されて居る中でお花さんがそんな言葉を口にする。
とは言え、そんな事は外つ国へと渡航する前に行われた特別授業の中で散々言われて来た事だ。
それでも尚も念を押す様にそんな話をして居るのは、朝帰りして来た彼が言っていたミェン一家とドン一家の抗争の話が彼女の耳にも届いて居たからだろう。
この食堂で食事を取るのは俺達の様な火元国からの留学生だけで無く、彼女の弟子達がソレ以上の人数居るのだ、誰かかしらから話が行って居ても何ら不思議は無い。
「街の中で揉め事に巻き込まれそうに成ったなら、先ずは皆さんに渡した精霊魔法学会の生徒である事を示す記章を見せて、下手に争うと面倒な事に成ると思わせて威嚇してちょうだい」
このワイズマンシティと言う都市国家は折角海に面した土地だったと言うのに、近場の海を強力なモンスターが抑えて居た為に沿岸漁業すらままならず、農作物も乏しいと言う人が生きるのには少々辛い土地だった。
しかし『魔神ガーゼット』の弟子の一人で精霊魔法学会初代学長だった『カルヴィン・ワイズマン』師が、その圧倒的な魔法の力で沿岸のモンスターを一掃し良港を得るに至ったのである。
その直系子孫が運営する学会は今でも此の街では可也重要な立ち位置に有り、都市国家内での発言力は下手な政党よりも強いと言う。
事実として他の大陸や都市国家から多くの留学生が流入しそうした者達が落とす金銭は、此の街の経済の大きな割合を担っていると行っても過言ではない。
分かりやすい例として挙げられるのは、今俺達の眼の前に運ばれている食事の主食となる『米』だろう。
コレは西方大陸で栽培された物では無く、火元国からわざわざ輸入して居る物なのだ。
とは言え、俺達や第一期渡航団の為に新規に輸入を始めた品と言う訳では無く、京の都で奇天烈百貨店を運営する綾重屋が、家安公が此処で学んで居た頃から販路を維持していた物なのである。
火元産の米に此方での需要が其れ程有るのかと言えば、正直地元の者達にはそう多く売れていると言う訳では無い。
けれども東方大陸からの留学生や、綾重屋が販路確保の為に独自に育成して居る『転移』の使える精霊魔法使い達の様に米を主食として食べたいと言う需要は決して小さな物でも無いらしい。
まぁ幕府の打ち出した『術者育成令』を受けて輸入量を増やしたのは事実らしいが……。
兎角、米以外にも北方大陸や南方大陸からも留学生が多く来る以上は、各地からもそうした土地土地の食材を確保し販売する事で得られる利益が有り、更には此処の港から他の都市国家へと輸出すると言う流れまで出来ていると言う。
無論、留学生や移民に対して地元の者達も全面的に大歓迎と言う訳では無く、それなりに軋轢が有るからこそドン一家の様な犯罪組織にも其れ相応の支持者達が付くのである。
だがそうした犯罪組織の者達も表立って精霊魔法学会と事を構えようとはしないと言う。
何故ならば彼等の構成員やその家族にも少なからず学会に所属する学生は居り、彼等の学業に支障をきたす可能性は決して零では無いからだ。
更に言えばお花さんを含めた五大魔法使いと呼ばれる世界の頂点に君臨する魔法の使い手達は、一人でも小さな都市国家ならば一夜で更地に成るだけの能力を持っていると言われている、そんな者達を本気で怒らせる馬鹿は然う然う居ない。
なお五大魔法使いと言うのは飽く迄も『今』の呼称で、時代に依って四大だったり六大だったりと人数に振れが有るらしいが、此処二百年ばかりはずっと『赤の魔女』ことお花さんがその中に含まれていると言う。
「さて……食事は行き渡ったわね? じゃぁ食べましょうか……頂きます」
「「「「頂きます」」」」
にしても……食事の前に手を合わせて『頂きます』って言うのは火元国の文化の筈なんだが、火元国からの留学生だけじゃぁ無く他の地域出身と思われるお花さんの弟子達も普通に行ってるぞ?
お花さんは恋仲に成った我が藩の者の所に嫁ぎ、一人息子が一人前に成るまで火元国で生活していたのだから、ソレが習慣付いていても不思議は無い。
恐らくは彼女がそうして居るから、弟子も見習ってソレをする様に成った……とかそんな感じなのだろう。
さて……今朝の献立はと言えば、厚切りの燻腿炙り肉と目玉焼き、人参と馬鈴薯に芽花野菜と南瓜を茹でた温野菜の撒拉托、乾酪の香りが美味そうな此方はマカロニチーズと言う奴だろうか?
そうした前の世界で言う所の比較的アメリカンな品々をおかずに、火元人や東方大陸の者は米を、他の地域の者は麺麭を食べると言う感じである。
食事の用意はお花さんの雇っている料理人達が担当し、給仕は揃いのお仕着せを身に纏った女中さん達だ。
正直言えばこの屋敷自体が猪山藩の城よりも大きく、そこで働く者達の数も下手をしなくても猪山藩邸よりもずっと多いだろう。
火元国と言う世界の果てのちっぽけな島国の中では、赤の魔女と言う世界中の王侯貴族が敬意を払うに値する肩書を持つ彼女も、小藩の一陪臣の妻として扱われるが……彼女がウチの家臣の妻だと言う事自体が色々と間違っているのだ。
外つ国の冒険者は自らの手で土地をモンスターの手から奪い取り、一国を起こす事も決して珍しい話では無いと言う。
このワイズマンシティとて初代学長がモンスターの驚異を打ち払った事で生まれた国なのだから、その話は決して立志伝を喧伝する事で身分の低い者達に夢を見せるための夢物語と言う訳では無い。
その上で世界中の冒険者の中でも彼女よりも上だと断言出来る強さを持つ者は、両手の指で足りる程しか居らず、そうした者達の多くは国を起こしたか、もしくは何処かの国の重鎮と成っているらしい。
けれどもお花さんは精霊魔法学会でもこの町でも、その肩書と実力に敬意を払われる事はあれども特別な権限やら権力やらを有している訳では無いと言う。
しかしソレはお花さんが軽んじられていると言う話では無く、彼女自身がそうしたモノを望んでいないからだ。
森人と言う神仙を除けば最も長い寿命を持つ彼女は、一度権力を手にしてしまえばその座に長く居座る事に成るだろう。
だがソレはその国の停滞を意味し、彼女が森人の長老達の様に植物の様に生きては居るが眠っていると言う状態に成った時に国が滅びるだけである、だからお花さんは権力を求めない……と以前聞いた覚えが有る。
何よりも女としてのお花さんは、夫で有った先々代の鈴木家当主に操を立て、一朗翁と言う息子を育てた事で既に満たされており、これ以上に求めるモノが有るとすれば偉大な魔法使いとして一人でも多くの優秀な弟子を育てる事だけなのだと言う。
だからこそこの屋敷には火元国から来た留学生を含まずに百人を超える弟子達が生活して居るのである。
「御前様、御前様! この燻腿肉汁が凄いです! 卵も半熟で美味しいです! 御前様は目玉焼きには醤油ですか? 塩、胡椒ですか? 連はこの桜色のタレが気に入りました! 外つ国にはこんなに美味しいモノが有るんですね!」
と、そんな事を俺が考えていると、同じ食卓に着いていたお連が、笑顔でそんな言葉を投げかけてきた。
彼女が嬉しそうに目玉焼きに掛けているモノを受け取って一寸舐めてみる、牛乳と牛酪に……あとは赤茄子の風味、コレは多分『オーロラソース』と言う奴だろう。
ちなみにケチャップとマヨネーズを混ぜたモノも前世の日本では『オーロラソース』と呼ばれるが、コレはベシャメルソースに裏ごししたトマトを加えた仏蘭西料理で使われる方の奴だ。
うん……美味いは美味いが、睦姉上の料理の方が美味いとか言うのは流石に高望みが過ぎるよなー、と思いつつ俺は目玉焼きにウスターソースを掛けるのだった。




