九百三十一 『無題』
江戸城の一角に設えられた、決して華美では無いが火元国に居る最高峰の匠達の技術の粋が集められた何処よりも過ごし易さだけを追求して作られた邸宅。
当代の征異大将軍、禿河 光輝公が老齢を理由に大奥を解散した後に建てられた火元国でも一、二を争う権力者が住まうには少々質素とも言える建物では有るが、上様と御台様だけが暮らすには此れ位が丁度良いのだろう。
「志舞藩主御出 宗春、上様のお召により罷り越して御座います」
先代の征異大将軍の長男だった親父が上様との政争に負けた事で、俺は大藩とは言え一大名で一生を終える運命と相成った。
それを恨みに思う様な事は無かった、一藩主として政に関わっていれば、跡目争い等と言う物は大小有れども何処にでも有る事だと理解出来たからだ。
しかし次期征異大将軍と成る事が内定して居たと言われる従弟の定光が、愚かにも供回りの者の一人も付けずに鬼切へと赴き命を落とした事で、次期将軍の座を狙った暗闘が禿河の血を引く者達の間で静かに勃発して居たりもする。
俺自身は比較的内政を好む性質だった事も有り、碌な産業も無かった志舞藩の中で職人を育成したり、金山の開発をしたりと自藩を富ませる事に大きな喜びを見出して居たが故に、そうした争いに加わろうとは全く思って居ない。
「同じく山瓦藩三州家家中、溜志 和利参りまして御座います』
けれども同じ日に召し出され偶々連れ立って辿り着く事に成った我が父とはまた違う上様の兄の子で有る此の男は違う。
『暴れん坊御孫様』と巷を賑わせている従甥の武光に切られてた、禿河の名字に泥を塗った一族の……武士の恥でしか無い貞興の奴と繋がり、私腹を肥やし其れで多くの妾を各地に囲っている様な男で、どんな野心を抱いて居ても不思議とは思えない。
「宗春も和利もよう来たの。そう平べったく成った儘では話も禄に出来ぬ、茶を入れてやるから近う拠れ」
「「ははっ!」」
内心では此の様な人面獣心とも言える様な風聞を隠そうともしない輩と、同列に扱われる事に意義を唱えたくは有るし、仮にも直臣で大名で有る自分と陪臣に過ぎない此奴と同席しろと言うのにも腹立たしい思いは有る。
だが今回のお召は飽く迄も征異大将軍と其の配下……と言う関係では無く、叔父と甥っ子と言う関係で呼び出されたのだろう事を考えれば、其の程度の苛立ちを飲み込む程度の腹芸が出来なくて大名なんぞ務まる訳が無い。
「今日、其方等を呼び付けたのは他でも無い。貞興のやらかし……あの様な禿河の名と血を汚す恥晒しをこれ以上表沙汰にせぬ様に済ませたくての。手の者に調べさせた結果、恥ずかしくも儂の娘婿の中にも罪に手を染めておる馬鹿者が居るらしいのじゃ」
茶を立てながら静かにそう言う上様……いや、叔父上は言葉こそ荒らげる事無く静かな物だったが、其処に込められた怒りの情は過去に幾つかの藩や幕臣を取り潰した時に見せた物を軽く超え、直接向けられた訳でも無いのに背筋が凍りそうに成る程に冷たかった。
「其の点、和利は上手くやったの。貞興からの献金を貰うだけ貰って置きながら奴の益に成りそうな事は一切せず、寧ろ其の後ろを探るなり自分の手柄にしても良かっただろう物を態々注進して来たのだからの」
……其の言葉に俺は思わず目を見開いて横に並んで座った従弟の方を向く。
「否々所詮拙者は三州家家中の娘の所に婿入りしただけの陪臣に過ぎませぬ。殿が貰える物は貰って置けと仰って下さったからこそ受け取ったまで、かと言って其れを懐に死蔵しておいては蔵の肥やしに成るだけ……故に恵まれぬ娘を救うに使ったまでですわ」
成程な……山瓦藩主の三州 万象という男は、確かに色々と抜け目の無い男だ、猪山の悪五郎と伍する可能性の有る策謀家を上げろと言われたならば、真っ先に名前が出る男だろう。
そして同時に山瓦藩が独自戦力を率い、禿河の名を用いて悪事を働く貞興を排除した場合に起こるであろう無駄な厄介事を避けた事も理解する。
蔵に溜め込む銭は死銭に過ぎず銭は使ってこそ生きる物……と言うのは、次期藩主として養育して居る嫡男に対しても、江戸に居る間口を酸っぱくして言い聞かせている言葉でも有るので其れに関しても異論は無い。
まぁ妾を囲うのに使っていると言う点に着いては、奥方が文句を言っていないので有れば、役得の範疇と目溢ししてやるのが同じ男としての情けだろう。
……外に作った妾は兎も角、女房公認の側室に関しては俺だって両手の指で余る程には抱えて居るのだから、女癖に着いて文句を付けると外つ国に有ると言う投げたら戻ってくる投擲武器の様に自分に突き刺さるだけだな。
「そして宗春、数いる大名家の中で確実に倒幕派の毒が回って居らぬと断言出来る家は、残念ながら両手の指で数えられる程しか無いのだ。無論、儂の子が婿入りした藩は信用出来るとは思うが……其れも絶対では無い」
そっと茶碗を此方へと差し出しながら、そう言う上様は普段大名として御目見得する際に見せる武士の総棟梁としての威厳有る姿では無く、年相応の草臥れた老人の様に疲れ切って居る様にすら見えた。
「上から下まで確実に信用出来る猪山藩は今期は国許だからの。直近に禿河の血を引く者が藩主の座に着いて居り確実に信用出来るのは宗春よ……其方だけじゃ」
成程な……貞興の馬鹿がやらかした一件で禿河一族の中に獅子身中の蟲が潜む事が露見し、南町奉行のやらかした一件で江戸在住の武士の数が一気に減った。
上様の言う倒幕派とか言う輩が本気で幕府転覆を目論んで居るので有れば、今は間違い無くこれ以上無い好機となり得るだろう。
いや……倒幕派で無くとも上様の跡目を狙う様な愚か者達にとっても然う然う無い好機と言える状況だな。
俺としても幕府の混乱から動乱の時代へ……なんてのは折角育てた志舞の地が荒れるだけで何の得にも成りはしない。
「つまり我が志舞藩と山瓦藩で協力し幕府に仇成す者を影から討ち取れ……と、そう言う御用命でしょうか?」
出された茶を一口啜り爽やかな苦味と甘みを堪能してから、ゆっくりと一つ息を吐き改めてそう問いかける。
「いや……其れでは其方の得が無さ過ぎるじゃろう。影仕事は儂等の様な年寄が行う故、お主等には儂の代わりに表立って動いて貰う事に成る、故に此れを持っていけ。万象にも同じ物を持たせたい所じゃが彼奴は禿河では無い、だから此れを持つのは和利お前じゃ」
言いながら畳の上を滑らせ眼の前へと転がって来たのは『芒に旭』の紋所が入った印籠……此れは禿河の名と血を持つ者が上様の代理人として振る舞う事が許された証と成る品だ。
確かに我等は結果的に傍系と成った血筋で他所に婿入りした身では有るが、禿河の血を色濃く引く者なのは間違いない。
「此処で手柄を上げたからと言って主等が次期将軍の座に着く事は難しかろう。とは言え、主等の数居る子や孫に禿河を名乗らせ、更に其の子……主等の孫の代で輝か光の通字を与える事も出来よう」
成程、つまり上様は次期将軍の座は必ずしも自分の直系とは限らない……と、そう言いたい訳だ。
上様の直接の子は皆還暦近い年齢で、もし将軍の座に着いたとしても長期間其の地位に居続ける事は出来ないだろう。
其の事を考えれば次期将軍の座は上様の孫世代と言う事に成るが、其の中では貞興の奴を討ち取った武光が手柄と言う意味でも名声と言う意味でも一歩抜きん出ていると言える。
しかし此処で俺達が……いや、我が藩の家臣達が手柄を立てたならば、孫が将軍の座に座る事も絶対にあり得ないとは言えなく成ると言う訳だ。
そして和利と俺を同時に召し出した理由も合点が行った、我が志舞藩と山瓦藩で共闘しつつより多くの手柄を挙げられる様に競争しろと言っているのだろう。
山瓦藩の三州家としては自分の血筋が将軍の座を射止めると言う訳では無いが、自藩の江戸屋敷で育った子が将軍に成れば其の利益は決して小さな物では無い。
一歩先に進んでいる武光は今回の渡航団に参加し西方大陸へと留学すると聞く、その間に少しでも多くの手柄を積み上げて置けば、我が孫を将軍の座に据える事が出来るかも知れない。
掛け金は家臣の労力と命、得られる物は我が藩の更なる繁栄の可能性……決して分の悪い博打では無いな。
「確かに承りました。つきましては今回江戸に上がってきている者だけではなく、国許に残っている者も呼び寄せ更に戦力を拡充する許可を頂きたい」
自分だけでは無く主家を巻き込む博打に躊躇する和利よりも先に印籠を手に取った俺は、そう言って上様に向かって頭を垂れるのだった。




