九百二十九 志七郎、乗船を眺め許嫁背負う事
江戸の街を南に下ると何処を通っても江戸湾に行き着くのだが、其の中で朱雀大路と呼ばれる城の南門から真っ直ぐ伸びる道の先には江戸湊と呼ばれる江戸州最大の湊へと行き着く事に成る。
最大とは言っても他の湊は砂浜に漁船を上げる事が出来る様に、台座と成る丸太が並んでいる程度の整備しかされておらず、此処の様に桟橋が整備され更に定期的な浚渫が行われる事で其れ相応の大きな船が直接接岸出来るのは此処だけだ。
しかしそんな江戸湊でも伯母上が持ち込んだ寅女王号では、大き過ぎて船底が海底に乗り上げる所謂『座礁』を起こしてしまう為、船自体は沖合に停泊し乗り込む際には別の小舟を出して甲板から垂らされた縄梯子を使って上がる事に成る。
「一人ずつ順番に登れよ! 無理に何人も登ろうとしても梯子が揺れて危ないだけだからな!」
今回の渡航に参加する者の大半は武士で有り、普段から褌も締め袴を穿いて生活をして居る階層だし、万が一『コンニチハ』する様な事が有ったとしても、そもそも丸出しで生活して居る様な者も少なからず居る江戸では一々気にする者は少数派だ。
けれどもお付きの者として一緒に渡航する女中さん達の様な女性陣は違う。
女性用の下穿きが一般的では無く、縄梯子を登ると成るとどうしたって裾が乱れる事に成る着物では、縄梯子を上がる事なんて到底出来やしない。
では普段からあの船の上で生活して居る伯母上はどうしているのかと言えば……男装と言う程かっちりキメている訳では無いが、比較的男物に近い洋袴を穿いて居るので有る。
と言うか、そもそもとして船内は空間の関係上階段では無く梯子や縄梯子が使われている部分も有るし、客では無く一端の船乗りとして帆柱の上に上がったりする事も多い伯母上は基本的に船上でスカートを穿く事は無いらしい。
故に今回、乗船に当っては女性陣にもちゃんと両足が分かれている馬乗袴か洋袴若しくは股引の着用が義務付けられる事に成って居た。
女中や下男として付いていく者の渡航費用や生活費は流石に全額幕府持ち……と言う訳にも行か無い為、そうした付き添いの者が一緒に居るのは比較的裕福な家の者だけなので、袴の一本や二本程度であれば大した負担には成らないだろう。
けれども問題は俺達が其の枠と言う扱いで連れて行くお連や蕾にお忠で有る。
いや猪河家の経済状況的に彼女達の衣類を仕立てる程度の端銭は、其れこそ俺の小遣い銭からだって出せるが、なんせ彼女達は此れから成長期を迎えるお子様だ。
着物は反物を裁断せず端折って縫う事で解いてまた縫直し……と言う方法で成長に合わせて大きさを変えていける様に作る物なのだそうで、手間を別とすれば早々無駄に成る様な事は無い。
けれども洋袴を含めた洋服程では無いにせよ馬乗袴も身体の大きさに合わせて布を裁断し繕う為、成長したから解いて直すと言う様な事は着物程簡単では無い……そう思っていたのだが、実は袴も生地を端折って繕うやり方は一般的に有るのだと言う。
実際、普段から騎獣を乗り回し騎射の稽古をして居る蕾が穿いている袴もそうして繕った物だそうで、ガッツリ汚れる様な事が有れば解いて四枚の布に戻して洗濯して居るらしい。
考えてみれば半分に折って繕えば厚さは倍に成って夏場は多少暑いかも知れないが、最大でも倍まで成長しても同じ布で袴を誂える事が出来る訳だ。
向こうの世界とは違い布類は比較的安い物でも、そう簡単に使い捨てる様な事が出来ない位に高価な火元国なのだから、少しでも長く一枚の着物を着続ける為の技術は有って当然の話なのだろう。
「ほらそこ! 女が登ってる時に見上げんな! 興味の有る年頃なのは解るがそう言う真似をする無粋な野郎はモテねぇぞ!」
……脚にぴったりした大きさの洋袴や股引ならば見上げた所で、見えるのは精々布に包まれた尻位な物だろうが、馬乗袴の場合には裾を敢えて脚絆で絞って居ないならば、隙間から色々と見えてしまう事も有り得る。
所謂『巻きスカート』の形で股座を分ける仕切りの無い『行灯袴』程『諸に見える』と言う訳では無いにせよ『見えそうで見えないが見えなさそうで見える』と言う状況が男心を擽る物が有るのは向こうの世界で流行った『チラリズム』と言う言葉が示しているだろう。
「おら! 野郎共はちゃっちゃか登れ! 後が支えてんぞ! んで登ったら荷物の引き上げを手伝え! 急がねぇと日が有る内に出航出来やしねぇ! 女衆は慌てないで確実に登れよ! 落ちたのを助ける羽目に成る方が余っ程手間が増えるかんな!」
向こうの世界ならば『女尊男卑』とでも取られかねない台詞をがなり立てる新人船長の吉人殿だが、此方の世界の『男は強くてナンボ、女を守れずして何が武士か』と言う価値観とは割と合致していたりする。
外つ国で生まれ育った吉人殿は何方かと言えば『レディファースト』の価値観を持っているとばかり思っていたのだが、必ずしもそうと言う訳では無いらしい。
まぁ船の安全な運行の責任者で有る船長が男尊女卑だの女尊男卑だの下らない理由で物事を判断する様では色々不安があるし、其の辺は合理的な判断を優先する性質の方が安心だ。
女性の袴の中を覗き見しようとした……と名指しに近い形で注意され周りの者達に笑われている先輩は可哀想だとは思うが、長く高い縄梯子にビビって尻込みして居た者の緊張も解れた様に見える辺り狙って言ったのかも知れない。
なんせ彼は俺と同じく悪五郎の孫で有り、正々堂々が旨で有る武士とは違い『卑怯? 卑劣? 勝利の何が悪いのだ?』が基本の海賊なのだ、其の程度の悪知恵は出てきて当然と言えるだろう。
「御前様……連の手足では一寸届かないのですけれども……」
今回の渡航団で最年少のお連の身長では確かにこの縄梯子を登るのは少々辛い物が有る。
「俺が背負って登れば良いだろう。此方で支える事は出来ないから自分でしがみ付いてくれ。但しくれぐれも首を締める様な事は無い様に注意してくれよ?」
故にそう提案したのだが……彼女が只の女中枠では無く俺の許嫁だと紹介してある同期の面子から、妬みと嫉みの籠もった刺すような視線が飛んで来た。
……基本的に今回の渡航団に居るのは嫡男じゃぁ無くて次男や三男以降の継ぐ家の無い者だし、と成れば当然嫁の来てなんざぁ今の時点で有る訳が無い。
皆も色恋沙汰に色めき立つには未だ早い年頃だと思うんだが……『男女七歳にして席を同じゅうせず』と言うのが当たり前の教育で有り、十代半ばが元服年齢の此方の世界では数え十歳でも十分恋愛や結婚を意識すると言う事なのかも知れないな。
「「忍術 壁歩き!」」
と、そんな台詞と共に呪文を詠唱するのでは無く、指を独特の形に組む『印』と呼ばれる物を素早く組み立てると、生粋の忍術使いで有るお忠だけで無く、武光までもが船腹に対して水平に立ち歩いて登り始める。
なお武光の背中には蕾が負ぶさって居るが、普通に縄梯子を登る予定の俺とは違い両手が開いているので、確り『おんぶ』の体勢で彼女の膝裏を支えて居た。
人を背負う時って意識しないと手が尻に行きがちだが、其処をきっちり避けて居る辺りは流石は生まれながらの女誑しで有る禿河の血筋と言う事だろうか?
……にしても武光の奴、武芸だけじゃぁ無く忍術まで身に着け始めて居るとかマジで何処まで多才なんだ?
いや氣が扱える時点で一定量以上の魂力が有る事は確定だし、努力すれば術の類を身に着けるのは不可能じゃぁ無い……のか?
「よし、次は俺の番だな。お連、落ちない様に確り掴まるんだぞ」
「はい!」
何の苦も無くすいすいと登って行く武光達を少しだけ羨ましく思いながら、俺はお連を背負って縄梯子を掴むのだった。




