九百二十六 志七郎、根回しに気を使い窓口と成る事
「と言う訳で、今回で私達が行う留学生向け特別授業は終了と成る。幸いこの教室の教え子の中から赤点を割る様な愚か者は居らず、全員が幕府の特待生として其々の目的地へと向かう事に成るが……幕府の代表として、禿河の名に泥を塗る様な事をせぬ様にな」
担任の安藤 昼摩先生が教室に揃った同期の留学希望者達を見渡し、改めて念を押す様に厳しい顔でそう言った。
世界史と地理を専攻して居ると言う前世の日本で言う『社会科教師』で有る彼は、志学館で教官と言う御役目を持つ者の中でも特に外つ国の事情に明るいと言う事で留学希望者全員に特別授業を行って居り、もしも誰かが何かをやらかせば責任を問われる立場なのだ。
「最後の授業は各地での過ごし方では無く其処に行くまでの船上での生活に着いてだ。船の上は例え上様でも船長に逆らう事は許されない特別な場所だ。船乗り達の格言に『板子一枚下は地獄』と言う言葉も有る。其れだけ船の上と言うのは危険な場所と心得よ」
何時にも増して強い口調でそう言う安藤先生だが、実は今回の授業に付いては俺が入れ知恵していたりする。
要は先日、武光と一緒に吉人殿に案内されて見て来た事と、受けた注意事項を丸っと其の侭伝えた……と言うだけの事では有るが、幕府の御用船とは違う船を使う事で起こり得る懸念も有ると考えたのだ。
御用船ならば其の船長は当然幕府の重臣の一人と言う事に成り、武家の子弟でも然う然う其の言に逆らう様な事はしないだろうが、今回乗るのは小藩猪山に縁有るとは言え立ち位置的には民間船と言う事に成る。
其の為、一部の大藩や上級武家の子弟の中には、実家の立場を笠に着て馬鹿な真似をする可能性が零とは言い難い……と、俺も先生も双方が思い至ったのだ。
先生が口にした板子一枚下は地獄と言う言葉は、どんなに大きく安定して居てノンビリと浮かんでいる様に見える船でも、底板一枚挟んだ下は底も解らぬ深い海で其処に穴でも開けば乗っている者全員が丸っと纏めてくたばる可能性は割と高い。
馬鹿をやった当人が独り勝手に死ぬだけならば唯の阿呆と捨て置けば良いが、船の上での騒動は下手を打つと乗員全員を巻き込み諸共に一発で地獄逝き……と成る話で有る為割と洒落に成らんのだ。
「お前等は未だ酒も煙草も早すぎる歳だから問題無いとは思うが、共に外つ国へと渡る者の中には何方も嗜む年頃の者も居る。もしも万が一船の中で煙草を吹かす様な馬鹿が居れば家格を気にせずぶん殴ってでも止めさせろ……と船長からの命も有るそうだ」
そう此れ……この事だけは絶対に全員に知らせて置く必要が有る事だ、幾ら世界最新鋭の術具を色々と積んだ特別製の海賊船とは言え木造船で有る事に変わりは無く、海のど真ん中で万が一にも火事なんぞ出そう物なら全員丸っとあの世逝きで有る。
恐らくは乗船の際に吉人殿からも改めて船上生活の注意事項としてこの事は言われるだろうが、名義上は民間船舶で幕府の立場からすれば町人階級の者と言う事に成る船長の言葉を真剣に捉えず従わない馬鹿が絶対に居ない……と断言する事は出来ない。
しかし此処で幕府が運営する直臣の為の学問所で有る志学館で『船の上では上様ですら船長に逆らう事は許されない』と断言させた事で、家格を理由に無体な真似をする馬鹿は減る……筈だ、減ると良いなぁ。
武光が船上でも禿河を名乗って居るので有れば『上様の御孫様』と言う権威を持って、家格の権威を振り翳す馬鹿を牽制する事も出来るのだが、渡航に当っては徳田と言う変名を使う事に成っている以上は其れをする事は出来ない。
基本的に権威を悪用する様な輩は、自分よりも上の権威を持つ者に弱い……と言うのは古今東西変わらぬ話だ。
故に『船長の権威は船の上では上様すら霞む』と正式な幕府の見解として周知して貰う事で、無事目的地へと渡航出来る様にと言う判断なのだが……果たして何処まで効果が有る物か。
他にも水の使い方や便所に関する注意事項等、俺達が吉人殿から受けた話の内容を追認する形で先生が生徒達に言い聞かせる形で授業は進んでいく。
とは言え、恐らく同期生達の中で馬鹿をやらかす奴は出ないとは思う。
なんせ俺達は未だ元服前で子供として振る舞うのが当然の年齢故に、大人に逆らうなんて事を考える者は然う然う居ない。
問題は元服前後の生意気盛りと言える年頃の者達だろう、火元国で一端の大人として認められる元服は大体数えで十四歳前後で、子供の成長の中でも第二反抗期と言われる頃合いで有る。
向こうの世界でも『厨二病』なんて言葉でも表現される事が有った『必要以上に大人振った振る舞い』や『過剰に斜に構えた態度』に『自分が他人とは違う特別な存在だと思い込む』なんてのも丁度この頃の年齢だ。
特に厄介なのは『家格が高く』『反抗期を拗らせた』『自分が特別だと思っている』者だろう。
もしも今回の渡航団の中にこうした性質の者が居ると、其れが騒動の火種に成る可能性が割と高い。
……武光は上様の孫と言う『幕府内最上位の家格の高さ』と『次期将軍を自称する程に自分を特別だと思っている』者なので割とヤバい立ち位置に居るのだが、幸い未だ幼い事と父親の末路に絡む伯父家の没落を知っているから馬鹿な真似をする様な事は無いだろう。
寧ろ武光が原因で騒動に成りそうなのは、他家の者がお付きとして連れてくる女中さんや乳姉妹何かを『寝取る』様な事が起きる可能性の方だが……此れもやはり彼が未だ色恋沙汰に疎い子供なので然う然うそう言う話には発展しない筈だ。
と言うか、幕府が禿河姓を持つ者を武光以外に渡航団に入れないのは、多分そうした色恋沙汰での騒動で船が沈む可能性を加味してるんじゃぁ無いかなー?
御祖父様や母上から聞く話や、熊爪の従叔父上が国許に娘達を残して江戸へと上がる決断を即座に下した時の会話を鑑みるに、禿河の名と血を継ぐ者は多くの場合自動的に複数の女性と関係を持つ事に成るのだろう。
実際、今の段階でも蕾とお忠が何故か武光に惹かれて居る様子を見せ、かと言って奪い合う様な暗闘をする訳でも無く、何方もが彼の役に立ちたいと積極的に友好的な関係を維持している様に思える。
……多分、彼奴が此の儘成長していけば、兄貴分と言う立場を任された俺は、上様若き頃の御祖父様の様に彼の色恋沙汰に纏わる騒動を色々火消しして回らにゃアカンのやろなぁ。
脳内が思わずエセ関西弁に成ってしまう位に面倒臭いと思いつつ、恐らくは其れから逃れる事が出来ないのだろうと思って居る自分が居る。
『悪意に置いて優る者無し』とまで謳われる御祖父様が絵図面を引いてまで、武光と俺との間に義兄弟としての関係を作ったのだから、其れを反故にするのは容易ではないだろうし、関係を維持する方が圧倒的に此方に取っても利益が有る……多分そう言う風に成る筈だ。
せめて今回の渡航中に外つ国の女性を『ゲットだぜ!』して来る様な事が無けりゃ良いなぁ。
「聞いては居ると思うが今回の渡航では幕府の御用船では無く、北方大陸の最新技術で作られた世界最大級の帆船で猪河の従兄が手に入れて来て、彼が再び外つ国へと戻る際に相乗りさせて貰うと言う形に成っている。なので困った事が有れば先ずは猪河に相談しろ」
吉人殿が船長を継いだ以上、決して間違った事を言っている訳では無いし事前に話し合った結果では有るが……上から下まで船旅が終わるまでの間、武士同士の揉め事は全部俺が仲裁しないと駄目って事なんだよな。
表面上は澄ました顔で先生の其の言葉を受け止めて居るが、心の中では盛大な溜息を吐いて居たのだった。




