九百二十四 志七郎、ドヤ顔で誇り変名に思い馳せる事
運転免許の学科試験めいた○×選択式試験の結果、俺は無事に留学費用を幕府から出して貰える事が決定した。
なお俺も先生達も勘違いしていたのだが、此の試験に落ちたからと言って留学が認められないと言う事は無かった、但し其の場合には渡航費用や留学中の生活費に向こうで学ぶ為の学費なんかを全部自腹で工面しなければ成らないと言うだけだ。
まぁ普通に考えれば一万石少々の小大名に過ぎない猪山藩の財政では、世界の東の果てに有る火元国から、文字通り世界の反対側で有る西方大陸の西海岸と呼ばれる地域まで行く渡航費用を出すだけでも帳簿が真っ赤に染まる事に成るのは容易に想像が付く。
けれども黒竜の一件を受けて幕府が打ち出した全額負担の話が出る前から、俺の留学が既定路線だった事からも解る通り、最悪自腹でも十分に渡航費用は賄えるし何なら俺の手形に振り込んで有る銭だけでも釣りが来る位だったりする。
この辺は伯母上が船を出してくれて安く上がるからこそ……と言う側面が有るのも間違いは無いが、其れ無しでも俺一人が西海岸へ渡航するだけならば其れこそ千両も掛かる訳では無いので何とかなったりするのだ。
もっと言ってしまうと俺とお連だけで留学するのであれば、お花さんが『瞬間移動』の魔法を使ってくれれば、一瞬で世界の反対側に有る精霊魔法学会に行く事も出来るので、渡航費用云々は然程大きな問題じゃぁ無い。
しかし其の場合には向こうに着いてから掛かる生活費や学費なんかは当然丸っと自腹だし、何か有った時に火元国の禿河幕府と言う後ろ盾に頼る事も出来ない様に成る為、此の試験はきっちり合格しておいた方が良かったと言う訳だ。
志学館に通う身では無いお連に関しては自腹では有るが、其の費用は御祖父様持ちなので気する必要は無いとは言われているが……相手は『悪意に置いて優る者無し』とまで言われる『悪五郎』だ、絶対一石二鳥或いは三鳥四鳥を狙う策略が有るのだろう。
「獅志丸殿に影千代殿は試験どうだった?」
先生が朱筆で正誤と点数を書き入れた答案用紙を手に席へと戻って来た友人二人にそう話を振ってみる。
「拙者は何とかギリギリ合格で御座る……火元国の常識は外つ国の非常識、外つ国の常識は火元国の非常識と授業では散々聞いていたが、きっちり認識を改めねば何処かでやらかす故気を引き締めねば成らぬで御座るな」
そう言いながら見せられた獅志丸殿の答案用紙は合格点で有る七十点を一問超えた七十二点と、言葉の通り境界線ギリギリだった。
見れば武士が特権階級では無く、外つ国の貴族相手の場合には下風に立たねば成らないと言う辺りが、彼には今ひとつ受け入れ辛い様である。
「郷に入れば郷に従えと言うでのぅ。要は京の都の公家衆と同じ扱いと言う事であろ? 我等は上様の臣で有って帝の臣では無い、外つ国で貴族と認められぬのも仕方無い話なのだろのぅ」
対して九十八点と一問間違えただけの答案を掲げる影千代殿、彼の方は公家と武士と言う火元国の中に有る立場の違いを考えて概ね理解して回答したらしい。
間違えた一問は引っ掛け問題にまんまと引っ掛かってしまったのだろう。
「で、拙者達よりも外つ国に詳しい筈の鬼切童子殿は一体何点取ったで御座るか?」
「然様、拙等が回答を晒して居るのだから、鬼切童子殿も見せるのが公平と言う物だのぅ」
そう言う二人に対して俺は、自分でも少しだけウザいと思える笑顔を態と作り満点の答案を机の上に晒す。
「確りと問題文を読んで特別授業で習った事を思い出せば取れない点じゃぁ無いだろう?」
敢えて煽る様にそう言うが大半は俺同様に満点乃至は影千代殿の様に一問二問程度の間違いで合格して居る様で、獅志丸殿の様なギリギリ合格と言うのは少数派だ。
パッと見る限りでは合格線を割り込んで居る者は居ない様で、少なくとも同じ学年で留学を志した者は皆無事に出立の為の銭を幕府が出してくれる事に成ったらしい。
……但し、同時に行われていた他の教室での試験では、やはり不合格者は出たらしく悲鳴とも怒声とも付かない叫び声が複数志学館に木霊したのだった。
「真逆とは思うが、あの叫び声を上げた中にお前は居ないよな? 武光」
四煌戌の背に跨がり家路を辿りながら、同じく愛馬を諾足で進ませる武光にそう問い掛ける。
「兄者……余をうつけだとでも思うて居るのか? あの程度の試験を落とす様な馬鹿では無いわ」
……嘘だ、此奴は学べば学んだだけ物事が頭に入るし、武芸も身に付く万能の秀才とでも言うべき才能の持ち主では有るが、だからこそ『出来ない者の事が理解出来ない』と言う『頭の良い馬鹿』な側面が有る事を俺は知っている。
前世の兄貴も似た様な性質の人間だったが、彼は常に柔和な笑みを浮かべ敵を作らない為の腹芸を厭わない狡猾さが有った為、そうした本質を知っているのは恐らく身内と言える者だけだった筈だ。
対して武光は割と粗忽に人の気にしているであろう事をズバッと言ってしまう性質だが、悪意が無いのが解る人懐っこい性質も合わせて持って居る為、今の所は酷い失敗をやらかす様な事はして居ない。
……ただ其れは志学館で相対する者達は彼が上様の孫だと知っており、それ故にある程度上から目線なのは当然だと受け止めてくれて居るからこそだろう。
「外つ国では上様の威光も紋所入りの印籠も効果は無いんだ。試験の通り飽く迄も一人の武士として立ち振る舞わねば成らない事を忘れるなよ?」
厳密に言うならば上様直系の孫で禿河の姓を持つ武光は、今回の渡航団で唯一『貴族』として振る舞う事が許される血筋の者なのだが、正式に次期将軍が内定して居る訳では無い事から他の者達同様に『貴族未満平民以上』の立場で渡航する事に成っているのだ。
正直この辺の身分制度云々は俺にとっては只々面倒臭い物としか思えないのだが、此の世界全体が階級差の有る事が前提と成っている社会なので其の辺は許容するしか無い。
とは言え前世も日本が異様に平等と言う物が重んじられていただけで、海外に行けば貴族や王族と呼ばれる階級の者は普通に居たし、我が国にだって政財界辺りに目を向ければそうした古い因習とでも言うべき物を大事にして居る者は未だまだ居た様に思う。
俺が所属していた捜査四課が相手をする暴力団も、親分を筆頭に擬似的な親子兄弟を形成すると言う意味では立派に階級社会だし、そもそも警察と言う組織自体が階級が上の者からの命令には絶対服従が求められる階級社会其の物だったし今更と言えば今更だ。
「無論だ! 外つ国では余は禿河を名乗らず徳田の姓を名乗る様に言われている。何故徳田なのかは知らぬが、太祖様の頃から変名を名乗る際には徳田 進之介を名乗るのが慣例だそうだ」
……それ絶対、家安公が幕府を開いた後も某時代劇みたいにお忍びで街に出る時に使ってた偽名だろ!
日常的にTVを見る習慣の無かった俺でも知ってるんだから、多分向こうの世界の日本人ならある程度の年齢以上なら知らない者は居ない筈だ。
「ならお前も外つ国では進之介で通すのか?」
もしそうなら一緒に行く蕾やお忠に史麻辺りが間違わない様に慣らして置く必要が有るだろう。
お連は武光とは殆ど顔を合わせて居ないし、母上からくれぐれも二人を長く一緒の場所に居させるな、と口を酸っぱくして言われて居るので早々彼を呼ぶ機会も無いだろうし気にする必要は無い。
「いや、飽く迄も変名とするのは名字だけで徳田 武光と名乗る予定だ。まぁお蕾やお忠に態々呼び方を変えさせるのも大変だろうから、良かったと言えば良かったがの」
俺の言いたい事はどうやら彼にも解った様で、からからと笑いながらそう答えつつ、屋敷へと向かう道をゆっくり進んで行くのだった。




