九百二十二 志七郎、出迎えを受け惚気る事
「お帰りなさいませお前様! 今日の夕餉には連達が獲って来た鹿鬼の焼き物が有るんです! 是非是非美味しく召し上がり下さいませ!」
授業と稽古を終え屋敷に帰って来た俺を迎えてくれたのは、そんな叫び声を上げながらブチかましを仕掛けて来たお連だった。
……別段攻撃を仕掛けて居るつもりの無い純粋な親愛の情から来る勢いなのだろうが、その体躯と年齢に見合わぬ強靭な筋力を持つ彼女が加減をせずに突っ込んで来る其れは、今の俺だと氣を張って受け止めねば吹っ飛ばされ兼ねない威力を秘めている。
彼女が江戸に上がって来てからは俺が出かけて帰って来る度に殆ど毎回の恒例なので、流石に慣れて来て強く当たって後は流れで往なせる様に成ってきているのは受けの技術が上がって来ていると喜ぶべき事なのだろうか?
「鹿鬼って事は今日は新宿地下迷宮辺りに鬼切りに行って来たのかい?」
野生の動物が縄張りを主張する為の臭い付けをするかの様に、俺の腹辺りにぐりぐりと頭を擦り付けるお連を撫でながら問いかける。
「はい! 怪童丸や御前様の四煌ちゃん達の御飯の為にも頑張って来ました! にしても江戸の戦場はよく整備されていて本当に戦い易いですね、地下だと鹿鬼も雷を落として来ないので連でも倒せるのは本当に有り難いです!」
怪童丸と言うのはお連が騎獣として飼育して居る熊の子で、未だ成獣と言う所までは育ちきって居ないが、其れでも彼女を乗せる事が出来る位には育っている。
熊は肉食の印象が強いが実は割と草食寄りの雑食で、野草や果実……特に団栗なんかを良く食べると言う。
だが成長期で食べ盛りの怪童丸には、毎日野菜類に加えて相当量の肉も与える必要が有るのだそうだ。
其の為お連は国許に居る時から自分の騎獣の食い扶持は自分で狩ってくると言う、実に猪山藩の者らしい生活をしていたのだが、江戸に上がって来てからも其の習慣は変えて居ない。
とは言え彼女が富田藩の者から狙われる可能性が有る以上は、一人で行動させる様な真似はさせて居らず、今日の鬼切りも居残り組の家臣が必ず一緒に行く様にしていたりする。
今日のお供が誰だったのかは知らんが、国許で鹿鬼を狙わせたと言うならば打っ飛ばす必要が有るが、地下迷宮で狩って来たと言うので有れば彼女に無理をさせたと言う程では無いだろう。
なんせ鹿鬼は空から雷を落とす『雷の術』と言う妖術を使う術者系の鬼で、肉体的な戦闘能力は鬼と呼ばれる者達の中では比較的低い方と言う位置付けだ。
其れでも小鬼辺りとは比べ物に成らない膂力を持つし、自身の角を加工した武器は其れ也の危険度を持つが、雷の術抜きの鹿鬼は猪山山塊最弱の鬼と呼んで間違い無い程度の存在にまで成り下がる。
既に手羽先や豚鬼を狩る事が出来る様に成ったと言う彼女ならば、難易度的にも食材的にも手頃と言える相手だろう。
問題は同じ階層に出現する馬鬼が彼女には少々荷が勝ち過ぎる相手だと言う事だが、若手とは言え猪山藩の家臣が一緒ならば問題に成る事は無い。
「鹿鬼は偶に食べると美味いもんなー。怪童丸も四煌戌も喜ぶだろう。済まんな態々ウチの子の分まで」
本来ならば四煌戌の食餌は主人で有る俺が用意するべきなのだが、留学に向けての特別授業が割と過密日程で組まれている為、此処しばらくは銭で買った素材で済ませて居たのだ。
四煌戌の食う食餌を全て銭で購うのは正直とんでも無く痛い出費なのだが、黒竜討伐に絡む褒美も入ってくる筈だし、八岐孔雀を討伐した際の報奨金も未だまだ残っているので大丈夫だろうと判断していたので有る。
其処を彼女が自分の騎獣の食餌を狩るついでに狩って来きた獲物を、小売での満額では無く卸値で買わせて貰える様に成った事で、御財布への被害は三分の一以下まで抑えられる様に成ったのは本当に有り難い。
「怪童丸の御飯のついでですから気になさらないで下さい! それに御前様が勉学に励んでいる間に御家の為に尽くすのは妻の役目なのです!」
ふんすっ! と擬音が出そうな勢いで俺の言葉に答えるお連を可愛いとは思うが、其れは彼氏彼女とか恋愛感情とかそう言う類の物では無く、背伸びする子供を見て大人が感じて当たり前の感情の方で有る。
「お連ちゃーん! 美味しい鹿鍋の作り方を覚えるんじゃにゃかったのかにゃ? 早く戻ってこにゃーとサクッと終わっちまうのにゃー!」
と、玄関先でそんなやり取りをして居た所に台所の方から睦姉上がそんな声を投げかけて来た。
「あ! 義姉様、直に戻ります! では御前様、連は御台所に戻ります!」
……未だ満年齢で七つにも成って居ないお連が料理の勉強と言うのは一寸早い気もするが、普段から戉をブン回して鬼やら妖怪やらを叩き切って居るのだから、刃物を扱わせるのは危険だとかそう言う話は今更だろう。
「ああ、お連が頑張ってくれた晩飯、楽しみにしてるよ」
台所へと向かう彼女の背中に俺はそう言いながら笑いかけるのだった。
土鍋に並ぶ色とりどりの野菜と薄切りの鹿肉、そして漂う醤油と大蒜の食欲を唆る香り……うん、此れ絶対美味い奴!
「鹿肉は火を通し過ぎると固く成るから煮え過ぎない内にサクッと食べるのにゃ!」
我が家で普段食べるのは三割程度の麦が混ざった麦飯で、十割白米の所謂『銀シャリ』を食べるのはハレの日だけである。
けれども睦姉上の炊く麦飯は有名米と比べるとどうかは判らないが、前世で普段食っていた千薔薇木県警独身寮で出される『業務用米』と比べたら確実に美味いと断言出来る仕上がりだ。
なお家で食べている三割麦飯ですら世間一般からすると贅沢な部類で、小普請組や町人階級辺りの家だと五割麦飯や八割麦飯だったり、少しでも嵩増しする為に白米では無く玄米だったりする。
ちなみに割合の差は有れども麦飯を食わず銀シャリを毎日食う武士は、少なくとも此の江戸には居ないと言う事に成っている、上様ですら銀シャリを食うのは特別な理由が有る時だけなのだ。
此れは幕府の祖で有る家安公が、白米ばかり食っていると脚気に成ると言い残した事も有り、健康と武勇を維持する為に麦飯を食う事が推奨されて居るので有る。
まぁ脚気予防に関しては『飯ばかりではなくおかずも確り食え』とも言い残している辺り、家安公は多少なりとも栄養学の知識を持っていたのだろう。
天目山の鍛冶神様に聞いた話だと家安公の実家は食堂で、自身も料理が出来たらしいし多分其の推測は間違って無い筈だ。
睦姉上の作る料理は江戸風と言うべきか、前世の世界の料理に比べると少々味が濃い目で有る事が多いのだが、其れは麦飯と合わせて食う事で一番美味いと思える味付けになっているのだろう。
「では皆、頂きましょうか。頂きます」
皆を見渡し母上が両手を合わせそう言うと、
「「「頂きます」」」
その場に居る家族に家臣全員が手を合わせて声を上げてから箸を其々自分の鍋へと伸ばす。
「ちなみにししちろーの鍋はにゃーが作ったんじゃぁにゃくて、にゃーが見にゃがらお連ちゃんが作った奴にゃ。料理をするのが初めてにしては筋が良かったのにゃ! ししちろーはこんにゃ良い子を嫁さんに貰えるんだから幸せなのにゃー!」
一箸目につまみ上げた肉ともやしを口に入れた瞬間を狙って居たのだろう、唐突に睦姉上が女性が恋愛話をする時特有の物と思える微妙な笑みを浮かべつつそんな言葉を口にした。
……どうやら睦姉上の持つ食神の加護と言うのは、食材や素材の味を強化したりする様な効果は無い様で、お連が作ったと言う鍋の味は普段口にする姉上の料理と遜色無い物に思える。
「うん、美味い。姉上の味に全然負けて無いよ」
素直にそう言ってやると女中達を含めた女性陣は黄色い声を上げ、男性陣はもげ爆ぜろと言わんばかりの微妙な顔で鍋を突いて居たのだった。




