九百二十一 志七郎、語学と文学を教え夢を眩しく思う事
留学生向けの特別授業も日程は進み、更に先日の黒竜に纏わる騒動に絡んで本来ならば留学前に来年度分の進級試験を先に受ける必要が有る所を、特別に帰国後に改めて相応の補習期間を設けた上で後から試験を受ける事が出来ると言う事になった。
こうした特別な措置が取られる事に成ったのは、先日の一件で多くの侍が命を落とした事と、解決に俺と阿我屯と言う魔法使いが居た事が割と大きな役割を果たした事等を鑑みて、幕府が幕臣の中に少しでも早く魔法使いを欲したと言う事らしい。
但し留学前に向かう土地の言語や慣習なんかに関する試験を受け、其れに合格しなければ今回の渡航団からは外されてしまうと言う部分に変わりは無い。
此方は幕府の……火元国の代表として留学する者が『旅の恥はかき捨て』なんて真似をやらかし諸外国に『火元人は恥知らずだ』等と言う印象を持たれるのを避ける為だと言う。
なんせ武家の社会は見栄と面子と家名が個人の命よりも大事だと言うのが此の国の常識で、万が一にも外つ国に恥を晒し其れが巡り巡って火元国まで噂が届く様な事にでも成れば、御家取り潰しだって有り得るのだ。
ちなみに義二郎兄上も北方大陸で色々と『やらかした』らしいが、其れ以上に多くの武勇伝を立てた事で悪い噂よりも良い噂の方が勝っているので無問題と言う事らしい。
なお義二郎兄上のやらかしも武勇伝も何方も丸っと含めて、戯作者の水鏡先生にぶん投げて『鬼二郎北方武頼伝』と言う黒い表紙の草紙物――黒本として絶賛刊行中で有る。
まぁ豹堂家の面々は一家揃って渡航した上で、万が一にも幕府に恥をかかせる様な事が有れば火元の地を踏めると思うな……とかなり強く言われて居たそうだ。
義二郎兄上を含めた前回の渡航団は皆元服済みで更に多くは家名を背負う覚悟が出来た嫡男が多くを占めていたが、今回は俺達の様な子供が多く尚且つ次男や三男以降の将来部屋住みや独立しなければ成らない者達で有る。
其の辺の覚悟の違いが有ると思われているからこそ渡航試験なんて物を受けさせられるのだろう。
「なぁ鬼切童子殿、此処の此れなんて訳すのが正しいんだ? 生活習慣とかは未だ何となくそんなもんだ……で丸呑み出来るんだが、異国語を辞書無しで読み解けとか割と無理難題では御座らぬか?」
同期の中では比較的仲が良いと言える森本家の獅志丸殿は、家禄の中から留学費用を工面出来無い事から当初は国に残る予定だったが、先日の事件を切っ掛けに幕府が出してくれる事に成って特別授業に参加する様に成った者の一人だ。
「えーと……ああ直訳するなら『私は貴方を愛してる』だけれども、火元人の男はそんな軟派な台詞を口に出す様な事はしないよな。だから『月が綺麗ですね』とか訳して於けば良いんじゃね?」
獅志丸殿が向かうのは俺と同じ西方大陸で、西方大陸語は向こうの世界の英語と極めて酷似した言語の為、多少勉強し直した程度で十分合格圏内に入って居る筈だ。
んで獅志丸殿が手にして居るのは教科書代わりに使われている向こうの娯楽小説で、農村出身の田舎者が冒険者として活躍し騎士へと成り上がり、主君の姫君に惚れられて結婚に至る……と言う様な前世にネット小説で良く見た事の有る内容の作品である。
其の中に出てきた主人公がヒロインの姫君に婚姻を申し込む場面で口にした『I Love You』の一言に対する翻訳に付いての返答が上記だ。
……まぁぶっちゃけ超絶有名な明治の文豪が学校の教師をしていた時代に残した逸話の丸パクリだが、向こうの世界の日本人と此方の世界の火元人は粗々同様の精神性を持っている様に思うので此れで良いだろう。
「成程な、確かに形振り構わず女性を口説かねば成らぬ町人ならば兎も角、私達武士が斯様な恥ずかしい言葉を口にしては成らんな。うむ、忝ない」
但し、其れが試験の回答として正解と成る訳では無い……恐らくは文学者でも有る平民先生辺りならば意図を汲んで正解としてくれるだろうが、他の先生だと不正解とされる可能性も有るだろう。
「いやいや、流石に試験の時は直訳を書いてくれよ? 読み解く時や火元人向けに翻訳する時なら意訳でも良いんだろうけどな」
流石に俺の言葉を鵜呑みにして不合格にでも成っては寝覚めが悪過ぎるので一応訂正の言葉を投げかけて置く。
「鬼切童子殿は確か北方大陸語も鈴木先生に学んでいるのだの? 此処はどう訳すのが良いのかのぅ」
獅志丸殿同様、割と仲の良い飯伏家の影千代殿がやはり同じ様な事を聞いて来るが、今度は北方大陸語を火元語に訳すのでは無く、逆に火元語の文章を向こうの言葉に訳すと言う課題をやっているらしい。
「済まん、西方大陸語なら会話も翻訳もある程度ソラで出来るが、北方大陸語を辞書無しは無理だ。素直に辞書を引いてくれ」
影千代殿は北方大陸へ行き向こうで錬玉術師では無く、義肢師に成る為の勉強をしたいのだと言う。
聞けば影千代殿の父君は鬼切で片足を失っており、今は木の棒を足に固定しただけの簡素な義足を着けて生活して居るらしい。
身内にそうした不具を抱えた者が居れば、其れを何とか出来る技術を求めるのは当然の事だろう。
そしてあの一件で黒竜を仕留めた義二郎兄上の雷撃が魔法を学んで得た物では無く、義肢師が生み出した特殊な効果を持つ最高級の義腕に拠る物だと知れば、其れを生み出す技術を身に着けたいと考えても不思議は無い。
「火元国でも妖刀の被害や鬼や妖怪に手足を喰われる様な被害は決して少なく無いからな。北方大陸まで行かずとも義肢を手に入れる事が出来るならば其の需要は決して少なく無い筈だ。頑張ってくれよ影千代殿」
義二郎兄上の其れは北方大陸でも最高峰の錬玉術師と義肢師が複数名手を組んで、彼の地で得られる最高の素材を惜しみ無く注ぎ込んだ最高級の義腕だ。
其れと同等の物を彼が作れる様に成るには可也の時間を要するだろうが、其処まで行かずとも火元国に現れる鬼や妖怪の素材を用いて『普通の身体』と同等に使える義肢が作れる様に成れば、怪我で引退を余儀なくされる武士や鬼切り者は劇的に減るだろう。
件の一件でも黒竜と相対した者の多くが命を落とし、運良く死ぬ事が無かった者も大半が腕や足を失う様な大きな怪我を負って居た。
幸い喰われる事無く只千切れ落ちただけだった者は、霊薬や聖歌と言った超常の能力の恩恵を受け回復する事が出来たが、もしも欠落した部位を他の鬼や妖怪に喰われてしまえば其れすら叶わなかった可能性は決して少なくは無い。
手足切断程の重症と成ると霊薬で回復するには其れこそ『即死さえしなけりゃ何とか成る霊薬』を傷を負った直後に使わねば回復する事が難しく、中途半端な霊薬では欠損を治す事は出来ず只傷口を塞ぐだけと言う結果にも成りかねないのだ。
聖歌の方は神仙の術同様に一旦失ったままで回復させたとしても、世界樹に情報さえ残って居れば、後から『元の状態に戻す』と言う事は不可能では無いが、巻き戻す時間が長く成れば成る程に成功率はどんどん下がっていくと言う。
神々が直接出張ってくれた場合には、異界の存在に喰われり妖刀の傷なんかで『世界樹から情報が抹消された状態』でさえ無ければ、どれ程古い傷でも『状態を上書き』する事で回復させる事も出来る事も有るらしいが……まぁ奇跡は簡単に起きないから奇跡なのだ。
そして何よりの問題が霊薬も聖歌も神々の奇跡も決して無料では無いと言う事だろう。
霊薬が欲しけりゃ錬玉術師に、聖歌を使って貰うならば聖歌使いに其々相応の礼金を払う必要が有るし、神々の奇跡を賜るならば奉納点を事前に溜めておく必要が有るのだ。
其れ等に比べ義肢師の作る義肢が経済的にどうなのかは一寸興味が有る。
材料持ち込みで小普請組や町人階級の鬼切り者でも手に入れる事が出来るならば、きっと其れは怪我が原因で引退を余儀なくされた者達が復帰する事が出来る様に成るかも知れないのだ。
そう考えれば精霊魔法使いや錬玉術師志望の者だけで無く、義肢師を志す者にも幕府が血税を投入して育成しようと考えるのは決して不思議な話じゃぁ無い。
「同じく北方大陸へ向かう者の多くは錬玉術師志望だが、他にも何人か義肢師志望の者が居るとは聞いて居る。彼等と切磋琢磨して絶対に技術を身に着けて来るんだのぅ!」
寝言としか思えぬ夢では無く絶対に叶える夢を抱き強くそう応じる少年の姿は、三十路半ばを過ぎた事の有る俺には少しだけ眩しく見えたのだった。




