九百十八 志七郎、世の裏事情を知り幸願う事
色々と言いたい事を堪えつつ女性陣に促され居間へと行くと、彼女達は晩飯前に風呂を済ませると揃って席を外し其の場に残されたのは俺と吉人殿だけに成った。
「で、吉人殿……実際の所、本当にあの子を狙う様な輩は一切居なかったんですか?」
母上が態々お連の手を取って風呂へと連れて行ったと言う事は、彼女に聞かせたく無い話が有るなら今の内に済ませて置け、と言う事だと判断した俺は早速そう問いかける。
「いやぁ……ガチで護衛なんて面倒臭い仕事はコレっきりにして欲しいぜ。ああ、お前さんの想像通り何度か拐かしを企んでそうな下衆は居たぜ。あの子を狙い撃ちにした者とは断言出来ねぇけどな」
火元国で一般的に流通して居る金属の先端と吸口を持つ煙管では無く、木の塊から削り出された様に身えるパイプを咥え、燐寸に火を付けながらそう返事を返して来た。
御酒と煙草は二十歳から……なんて法律の無い此の世界では、酒も煙草も自分の稼ぎで嗜む分には特段誰かが文句を言う様な事は無い。
とは言っても流石に数えで十にも成らない子供が其れ等に手を出す様な真似をすれば、近くの大人が注意するのが普通では有る。
向こうならば中高校生が酒や煙草に手を出す様な真似をして居るのを目にすれば、警察官として注意の一つもするのが筋だが、十三、四歳位で元服し大人と見做されるのが普通で有る此方の世界では文句を言う筋合いの物では無いのだ。
……つーか、少年と言う名と仁一郎兄上同様に小柄な体躯の所為で幼く見えるが、吉人殿は義二郎兄上と同い年だと言うし、向こうの世界の価値基準でもちゃんと成人してるんだよな。
「あの手の下衆い連中は目を見りゃ一発で解る物だ、特にウチの船じゃぁ女子供を食い物にする様な屑は鮫の餌にすんのが掟だしな、まぁそーは言っても今回の旅で滓を片付けたのは殆ど御袋だけどなー」
美味そうに肺へと吸い込んだ煙を一気に吐き出してから、改めて口を開く吉人殿。
彼の言に拠れば、彼等の海賊団は堅気の船を襲う様な事は一切無く、他の海賊船を狩りつつ古の海賊が隠した秘宝や、他の海賊団の拠点を制圧して其処に溜め込まれた宝を奪うというのが普段の仕事なのだと言う。
其の際に堅気の船から攫われた女性なんかが『戦利品』として手に入れる様な事も有るが、そうした時にはその者本人か家族が身代金を払えるならばソレを対価に家へと連れ帰ってやる事もするのだそうだ。
商家の娘や貴族の娘なんかで有ればそうした身代金を得る事が出来る事も有るが、多くの場合は見合う対価を用意出来なかったり、行方不明のままの方が都合が良い……なんて場合も有ると言う。
其の場合、女性達は女衒の類に売り払われるという様な事は無く、独り身の団員の嫁として充てがわれるのだそうだ。
……中には彼等の戦利品として奪われる前に、下衆い海賊に嬲り者にされ男に対して心的外傷を抱えてしまう様な者も居るが、そうした者も無碍にされる様な事は無く、本拠地の下働きなんかで食い扶持を与えるのだと言う。
この辺は伯母上と言う女性が頭を務める海賊団だからこそ……と言う気もするが、彼女の薫陶を受け育ったであろう吉人殿が『義賊の誇り』とでも言うべき物を胸に抱いている以上、少なくとも彼の代で腐る様な事は無いと信じたい。
「火元国の人市やらの話は俺も聞いちゃ居るが、お前さんも海外に出る以上は気を付けろよ? 子供を掻っ攫うなら女より男の方が余程金に成るんだ。其れに西大陸は兎も角、他の場所じゃぁ奴隷売買なんざ日常茶飯事だかんな」
……お花さんの授業では奴隷の売買は世界樹の神々が定めた『天網』と呼ばれる此の世界共通の法律で禁止されて居ると聞いたんだが、其の辺はどうなって居るのだろう?
「奴隷の取引って天網とか言う奴で禁止されて居るから、そう簡単に出来る事じゃぁ無いと聞いているんですが?」
『聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥』と言う言葉に従い、俺は素直に彼に問いかける。
「天網で禁止されてる事を破った所で、直ぐ様天罰が下るってな物じゃ無ーのよ。実際俺達のやってる海賊狩りだって厳密に言や『他所の船を襲う行為』で立派な略奪な訳だ。んでも俺達ゃ生きてんだ神様だって見てねぇ物を全部裁く事なんざぁ出来ねぇんじゃね?」
『バレなければ犯罪では無い』と言う言葉は、法律の執行者で有る警察官としても武士としても認めたくは無い言葉だし、バレて無い罪だからこそ罪の意識に苛まれる事も有ると思う。
けれども実際の所、犯罪は明るみに出なければ罪に問われる事は無いので、遵法精神や道徳心に欠ける者がその言葉で罪を犯す自分を正当化する姿を前世に沢山見てきた。
そして捕まった時には多くの者が『運が無かった』とか『悪気は無かった』等と馬鹿げた言葉を口にするのだ。
恐らくは吉人殿の言う通り、世界樹の神々も日々の業務に追われて無数に起こる細かな犯罪一つひとつを、神としての権能を以て裁くと言う様な事は出来ないのだろう。
まぁ何でもかんでも神様がしゃしゃり出て来て天罰ズドンでは、其の土地其の土地の治安を維持する為に活動する奉行所や火盗改の様な者は必要無いだろうし、人が人として発展して行く事も無いのだから、手形検めでバレる位で丁度良いのかも知れない。
それでもまぁ恐らくは『やり過ぎて世界の均衡を崩す』程の天網違反をやらかせば、神々が直々に出張って来る事も有るのかも知れないが……
しかし六道天魔との戦いと言う火竜列島を丸っと世界から切り捨てる瀬戸際に成っても、神々が直接降臨し参戦した訳では無いし神案件と言うのは多分歴史上そう何度も有った事じゃ無いのだろう。
「所で先程まで一緒に茶を飲んでいたあの女性は何方ですか? 見覚えが無い方が一人居たと思うんですが……」
割り切れない物を感じながらも一応は納得した事にして、もう一つ気になる事を聞いて見る。
「あー……えっと、その、な? 解るだろ?」
すると途端に言葉を濁す吉人殿、彼も義賊の看板を背負う無法者の類な上に、伯母上の後を継いで船長の肩書を持つ一角の男の筈だ。
しかし其の反応は年相応の若造の其れに見え、彼の持つ名の価値を考えると一寸所では無い程に滑稽に見えた。
「解らないから聞いて居るんですが?」
彼の様な武張った性質の男が言葉を濁すと成れば、其れは先ず間違い無く色恋沙汰だとは容易に想像は付く。
それでも其れで察して引けば、今度は先程の名も知らない彼女の面子を潰す事にも繋がる可能性が有るのが見栄と体面で生きている武士の社会だったりする。
……特に色恋沙汰では男は女に勝つのが難しい案件の一つだしな。
中には『惚れさせた方が勝ち』と言わんばかりに、自身の魅力を武器に好き勝手する男が居ない訳では無いし、実際上様の大奥はそうした彼に惚れた女性を集めた場所だったらしいが、そうした多数を囲って揉めない男は稀有な例だろう。
女性は物心着いた頃にはもう『女』で有り色恋を知るが、男はある程度成長し身体が出来て来なければ色に意識が向かない物だと言うのが向こうの世界では割と常識の様に言われていた覚えが有る。
少なくとも三十路を過ぎて童貞を貫いた男では、そうした高みに至る事はまぁ無理な話だろう。
「……嫁、俺の嫁」
ボソリと呟く様に帰って来た返事に俺は思わず口にした茶を吹いた。
一足飛びに踏み込み過ぎじゃ無いか? 猪山へと向かう前に見た彼は前世の俺と同類の気配を纏う氣よりも色濃く漂わせていた筈だ。
其処から恋人だと言うので有れば未だ解るにせよ、言うに事欠いて『嫁』とは……国許で一体何が有ったんだか。
気管に入り込んだ茶を吐き出す為に咳き込みながら、俺は吹き出した茶を手拭いで手早く拭き取りつつ、彼の結婚生活に幸有れと願わざるを得ないのだった。




