九百十五 志七郎、授業再開し事件の顛末を思う事
「でーあるからして、火元国の常識は外つ国の非常識、外つ国の常識は火元国の非常識で有る事を弁え、郷に入っては郷に従えの精神を持ちつつ、同時に火元国に帰って来た時に非常識の徒と成らぬ様に気を引き締め無ければ成らぬ訳でありまして……」
幕府内の再編はそう簡単に進まない中でも、一度決めた予定を中々変えようとはしない火元の官僚機構の悪癖は此方の世界でも変わらない様で、留学に向けた特別授業は今日も行われていた。
ただ……一寸、いや大分変わった事も有る、この授業に参加している者、即ち留学予定者の数がべらぼうに増えたのだ。
同期の者は俺を含め四人だけの予定だったのが、何故か十一人と三倍近い人数に増えたので有る。
はっきりと言ってしまえば、嫡男以外の者は全員留学志望に切り替わったと言う訳だ。
コレ件の黒竜討伐の際に俺と阿我屯の魔法が大きく貢献し、義二郎兄上の使ったあの雷撃が錬玉術師と其の発展形で有る義肢師が齎した技術に依る物だと知った上様が、留学に関わる経費を一切合切幕府で持つと宣言したのが原因で有る。
もしもあの時に俺と阿我屯が酒の魔法で奴の動きと吐息を止める事が出来なければ、被害は城下の一割二分程度では済まず南町方面の町人達が避難して居た城も落ちていた可能性は決して低く無い。
そして義二郎兄上が虎男の協力を得て竜種の迅速な討伐方を実行して居なければ、武士や鬼切り者達が真正面から打ち破るしか方法は無く、その被害は今回の比では無かったのも間違いない事実なのだ。
義二郎兄上の腕を奪ったあの妖刀から孵化した妖怪も、今回の黒竜も江戸に魔法使いは居ないと言う前提で行動して居た節が有った様に思う。
其の事は兄上経由で幕府ひいては上様にも当然報告は上げており、お花さんが大火を消し止めた事に端を発した『術者育成令』を更に強く推し進めなければ成らないと判断した様である。
元々の予定では渡航費用は幕府持ちで向こうでの生活費や学費は各家庭持ちと言う話だったのが、渡航費用と学費の全額負担は勿論として更に生活費に付いても一定額を支給した上で、足りない分も低金利で貸付を行う事に成ったのだ。
ちなみに支給される生活費は家賃其の他諸々込々で一月辺り一両と、前世の世界の価値基準で考えりゃ都内に住んで大学に通うのは難しいが、地方でならば十分生活が成り立つ額面と言えるだろう。
親元に居ても生活が割とギリギリで、子供が鬼切りで稼いで来る銭や食材すらも家計に加えるのが前提と言える小普請組の家庭では毎月一両の仕送りをする必要が有る留学が選択肢に入らないのは仕方が無い事かも知れない。
けれども其れを幕府が出す事に成った途端、こうして嫡男以外の者がほぼ全員と言って良い程に留学を志すと言うのだから『武士は喰わねど高楊枝』では無いが、体面を保つだけの生活を維持し続けるのも中々厳しい家が多いのだろう。
留学に出せば其れだけで一人分の口が減り代わりに幕府への貢献が加算され、無事術者と成って帰国すれば新設される『術者を集めた奉行所』に仕官が約束され、結果『役目を持つ分家』が自動的に立つと言うのだから無役無官の家に取っては美味しい事この上無い。
勿論、分家する以上は本家とは別家計には成るのだが、本家筋が恥を晒せば分家にも飛び火する可能性が決して低い話では無いのがこの国の常識で有る以上、御役目を得て役料が入ると成れば多少なりとも本家へ支援するのは当然の話だと考える家が大半だろう。
本家が恥を晒した……と言えば、今回の事件を起こした南町奉行河東家は正式に断絶する事と成ったが、表向きは件の黒竜が出現したのが南町奉行所の管轄区だったから……と言う話になっているそうだ。
流石に幕府要職の一つで有る四町奉行の内一人が、妖刀を手にして暴れ回った結果があの惨状だと言うのは、幕府に取っても醜聞以外の何物でも無い話で、箝口令……とまでは言わないまでも表向きは『無かった事』と言う扱いになっているので有る。
勿論、武家の者ならばそうした事は当然の事実と理解しては居るが、下手人を討ち取ったのが同じ河東の姓を持つ実弟の丁だったからこそある程度の温情は有って然るべき……と考えているのが大半なのだ。
もしも法度を厳格に適用するのであれば下手人で有る河東 丙の妻は勿論、家中の使用人や実弟や其の妻子すらもが連座で処罰を受けて居たであろう大罪なのは間違いない話で、流石にそれでは情が無い……と言うのが武家の共通見解で有る。
正直な話、此の件を全て明るみに出した所で得をするのは、幕府転覆を企む倒幕派の者達だけだろう。
とは言え、こうした幕府に取って不都合な事実を隠蔽ばかりしていては、市井の民に幕府に対する不審が募って行くのもまた事実で有るが……その辺の匙加減もまた政の難しさだと言える。
向こうの世界でも日本近隣の某国では国際電子通信網上でとある事件に絡む文字列が記載された頁は表示すらされない……と言う様な検閲が行われていると言う話も聞いた事が有る。
民主主義を標榜して居ながら其の判断材料で有る『表現の自由』や『報道の自由』を縛る事で、実質的な独裁体制を作る事が良い事だとは思わないが、そうした自由が認められた日本でも『報道しない自由』を行使する報道機関なんかが居るのだからやはり難しい。
なお奴の現妻は今回の一件を『丙が責任を取って腹を切る前に離縁状を書いていた』と言う事にして、正式に離婚を成立させる事にしたらしい。
こうした恣意的な法運用を前世の日本で報道機関に素っ破抜かれでもしたら、先ず間違い無く政権与党は散々に叩かれ政治基盤を粉々にされる可能性は決して少なく無いと思う。
向こうの世界の幕末と言われた時代程、反幕府勢力と言える様な雄藩は今の所此の火元国には無いらしいが、御祖父様を以てしても尻尾の掴めない『倒幕派』と言う勢力が有る以上は油断する訳にも行かないのもまた事実である。
御祖父様の策略で江戸に纏まっていた自称倒幕派とは違い、本当の倒幕派と言うのが一体どの様な勢力で、どんな理由が有って幕府転覆を目論んでいるのか……。
ただ単純に禿河に取って代わり、新たな権力者として君臨しようと言うだけの話ならば『世界征服を目論む悪の組織』なんて言う創作の世界で良くある悪役として、簡単に斬って捨てる事も出来るのだろうが、現実は何時でも想像よりも悪い結果に成る物だ。
警察と言う組織で多くの事件の現場を見ていた頃には、そうしたどう考えても『奇怪しい』としか言えない案件を幾つも見聞きした、まぁ……大概の場合は『犯罪者の頭が奇怪しい』なんだけれどもなー。
しかし犯罪の全てがそうした奇怪しい人物が起こすと言う物では無い、中には止むに止まれぬ事情が有り事件を起こさざるを得なかった者も居るが……ぶっちゃけそうした事情は俺達警察が鑑みる物じゃぁ無く、後から裁判で情状酌量云々で精査する物だ。
なので現場の一警察官としては『被疑者≒頭の奇怪しい人』と略々決めつけて捜査して居る者も決して少なくは無かった印象が有る……俺? 俺は勿論多数の例に漏れず『暴力団員≒キ印』と一部の例外を除いて決めつけて居たな。
情状酌量を云々するのは警察では無く検察や裁判官の仕事で、警察官は法で定められた手続きに従い粛々と立件するがお仕事なのだ。
なんせ向こうの日本は現場の上司の判断に従って発砲した結果、被疑者を射殺してしまった事を殺人事件として刑事告訴され裁判で争う様な国だ、裁判の結果としてはその警察官は無罪と成った筈で有る。
ただ……俺が生まれる前に有ったと言うシージャック事件で犯人を狙撃し、結果として射殺してしまった狙撃手も無罪には成ったが、報道機関の執拗な叩きに耐えられず辞職したと聞く。
『筆は剣よりも強し』と言う言葉は『言論は武力に勝る』と言う意味で使われる言葉だが、特に日本という国は其れが顕著だったと言えるのでは無かろうか?
対して此方の世界の報道機関とでも言うべき『瓦版屋』は、向こうの日本程に強い影響力を持っているとは言い難い。
報道の自由や表現の自由なんかが憲法で保証されて居る訳では無いので、其れ相応の後ろ盾なんかが居ない状態で下手な事を書けば、武士が直接どうこうする事は無くとも都合の悪い事を書かれた者の依頼を受けた強面のお兄さんが「今日は」と来る事は有りえるのだ。
……故に幕府が睨みを効かせれば、ある程度の情報を隠蔽する程度の事は、向こうの世界に比べれば大分容易だと言えよう。
其れが健全な政だとは欠片も思えないのは、俺が前世に染み付いた民主主義こそが至上の法制度と思っている証拠なのかも知れない。
「おい猪河! 聞いてるか? 此処、試験に出るぞ? 幾らお前さんが大名家の子で船主の甥っ子でも試験を落としたら留学を認める訳には行かないんだぞ? お前さんが行かないと成ると渡航費用が三倍以上に成るってんだからしっかりしてくれや」
と、そんな事を思って居ると……授業を上の空で聞いていなかったと判断したらしい先生から、中々に生々しいお叱りの言葉が出た為に、俺は慌てて考えを振り払い黒板の文字列に集中し直すのだった。




