九百十三『無題』
強い……身内贔屓なんぞして居る余裕も無くはっきりとそう断言出来る程に、今の兄貴は間違い無く猛者と呼べるだけの実力者だった。
何せ老獪と言える程の経験と肉体的に最も充実して居るであろう全盛期の身体能力を併せ持ち、其れを良心の呵責等と言う物無く好き勝手絶頂に振るう事が出来るのだから、弱かろう筈が無い。
「剛規! 幾ら貴様の剛体術が見事でも奴の攻撃をまともに受けたら不味い! 出来るだけ躱すか往なす様にしろ! 仲基は中距離を保って援護に専念! 史村は刀に触れぬ様に注意して何としてでも取り押さえろ!」
其の出自や家中での序列に関わらず実力者だけを選抜して集めた火盗改の中でも、隊長格とも為れば皆江戸でも上から数えた方が早い実力者で有る。
其れを長官を含めて五人纏めて相手取って尚、全く遅れを取る事無く戦いが膠着して居ると言う時点で、今の兄貴が尋常では無い戦闘能力を有しているのは明らかだ。
「河東! 気を抜くな! 何としてでもお前が奴を仕留めねば成らんのだぞ! 事態が此れ程の大事と成った以上は身内の手で汚名を雪がねば弟のお前は勿論、其の女房子供までが連座と成るのは明々白々だからな!」
向こうの攻撃は剛規が引き受けてくれると信じ、あたしは防御を捨て最前線で両手に持った枹を間断無く叩き付ける……が、其れすらも錆びて今にも朽ち落ちそうな赤鰯で捌かれる。
事前に聞いていた程では無いが、其れでも刀に得物が触れれば間違い無く纏った氣が奴に吸われているのが実感出来、其れを活力に変えているのか五対一の状況でも息一つ乱す事は無い。
当初は各隊の部下も交えて数の暴力で押し潰すと言う戦術を取ろうともしたのだが、今の兄貴相手では半端な腕前の者では逆に奴が回復する為の生贄にしか成らず、仕方なく此の場に居る隊長格の者だけで何とか膠着へと持ち込んでいるのだ。
……其れにしても町奉行の職に有る者が直接刀を振るい罪人を切る様な事は然う然う有る事では無いし、江戸市街地の四半分の治安を担う御役目は決して暇では無く余暇に鬼切りへと出掛ける事すら難しい。
にも拘らず此処までの腕前を得て維持して来たと言うので有れば、其処には一体どれ程身を削る様な努力が有ったのか?
代々南町奉行を担う河東家の嫡男として、其の家名に恥じない様に腕を磨いて来た……と言葉で言うだけならば簡単だが、其れを兄貴の歳まで維持し続けるは万人が出来る様な事では無い。
「糞兄貴! 何故だ! 何故斯様な真似をした! 河東の家名を辱め没落させた愚か者に何故成り下がった!」
両手の得物を交差させ赤鰯を抑え込む事を試みながらそう問いかけるが、動きを止めれば他の者に討ち取られるのは馬鹿でも分かる事で、素早く刀を引きながら蹴りを一発くれて間合いを取られる。
「河東の家名を辱めたのは他ならぬ貴様では無いか丁! 貴様が家で大人しくして居たならば、儂とて此の様な真似をする事は無かっただろうよ! 何故儂だけが全てを我慢し続けねば成らなんだ! なのに何故我が子では無く貴様の子に家督を譲らねば成らんのだ!」
同時に激昂した様子で吠えた内容から察するに、やはり子供が出来無かった事が今回の件を引き起こした最大の要因と言える様だ。
そしてアタシが家を離れ、火盗改で名を成した事もまた兄貴の癇に障ったのだろう。
兄貴は名奉行と呼ばれるような派手な御裁きをした事は無い、だが決して無能な奉行だったと言う訳でも無い。
彼の実直で真面目な仕事振りは所属は違えども、江戸の治安を守る立場として良く知っている。
兄貴は配下の与力や同心達を上手く使い、小さな事件の芽が育たぬ内にしっかりと潰して回る能吏と呼ぶに相応しい仕事をして居たのだ。
けれども持て囃されるのは派手な事件に関わり其れを力尽くで鎮圧するアタシ等火盗改や、事が大きく成るまで事件を見つける事が出来ず世間の目に触れてから其れを裁く……そんな他所の町奉行なのだから彼が不満を募らせるのも無理は無い。
「アタシが気に入らないなら、アタシに当たりゃ良かったでしょうに! 其れにウチの子に家を継がせるが嫌なら、もっと早く他所から気に入った子を養子にでも取りゃ済んだ話じゃないの! アンタの腹癒せでどんだけの人を殺せば気が済むのよ!」
……だが、だからと言って無辜の者達に犠牲を強いて良いと言う謂れは無いのだ。
あの化け物を孵化させた時点で一体何人を斬ったのか? 彼れを討伐する為にどれ程の犠牲を払う必要が有るのか? 彼れが暴れた事でどれだけの民が命を散らしたのか?
其れを考えれば長官の言う通り、河東の家名を名乗る者達と其の郎党全てが、連座して武士の身分を奪われ死刑の中でも特に重い鋸挽や火罪に処されても不思議は無い程だ。
恐らくはアタシが兄貴を討ち取り身内の恥を雪ぐと言う形に成ったとしても、河東本家の取り潰しは免れず一応は分家として別の家を起こした形で有るアタシの家や従兄弟達の家を巻き込まない様にするのが精一杯だろう。
万が一取り潰しと連座を免れたとしても、南町奉行と言う幕府の要職を務める家柄の者が此れ程大きな被害を出す事件を起こした時点で、御役御免と家禄没収は間違い無い。
種無し兄貴の所に嫁に来ただけで巻き込まれた形の義姉さんにゃぁ申し訳無いが、やらかす前に離縁状を渡して無けりゃ此方で庇う事も出来やしない以上、彼女の経歴に味噌が付くのは諦めるしか無いだろう。
「今だ! 畳み掛けるぞ!」
間合いが離れた瞬間を狙い近場の建物の屋根へと飛び乗った仲基が、羅漢銭を雨霰の様に降り注がせるが、他人から吸い取った潤沢な氣を扱えるらしい兄貴は、其れを躱す事すら無く金属が打ち合う様な音を響かせて弾く。
「あいーんよ! そらよっと!」
けれども其れは狙い通りだった様で、いつの間にやら後ろに忍び寄っていた史村が奴の襟首を捕まえ空高くへとぶん投げ、続けざまに奴目掛けて剛規もぶん投げる。
「ふんごっ! 剛規流剛体術『肉砲弾』!」
全身の筋肉を氣の力で硬化させる事でありとあらゆる攻撃を弾くのが剛規の使う剛体術と言う技だが、其の防御力を体当たりと言う方法で攻撃力に転嫁するのが肉砲弾と言う技だ。
本来ならば相撲の立ち合いの様な形で地面を蹴り前へと進む力と合わせて使う事で、巨大な牛鬼すらをも簡単に弾き飛ばしてしまう威力を秘めた大技だが、其れを史村が使う柔の術と合わせる事で回避不能の合体技に仕上げたのが今の奴で有る。
空中で自由の効かない所に、鉄の砲弾よりも固く重い剛規が打つかって来る此れは、決まれば必殺の一撃と言えるだけの威力を持つ。
しかし其れで勝負が決まる程度の相手ならば、此処までの苦労はして居ない。
奴は剛規の体当たりをまともに受けながらも、其の勢いを利用して空中で体勢を立て直すと、綺麗に着地を決める姿勢を取る。
だが其れをぼーっと見ているのでは火盗改の隊長は務まらない、そう簡単に躱す事の出来ない空中に居る内に仲基の羅漢銭が奴の氣を削り、アタシと長官は目と目で合図し拍子を合わせると、着地の瞬間を狙って互いの得物を同時に叩き付ける体勢へと入る。
両手に得物を持つアタシの二連撃と居合の一太刀を得意とする長官で、合わせて三つの攻撃を全て躱し受け往なす事は不可能な筈だ。
長官が放つのは恐らく首を取る一撃の筈、ならば此方も確実に一撃で仕留められる様に頭蓋を叩き割る振り下ろしと、水月から心の臓へと向かっての突き上げで有る。
得物から溢れる程の氣を込めた其れ等の攻撃は、どれか一つでも決まれば即死させる事は出来ずとも、長く生き永らえる事は出来ぬ程の手傷を負わせるのは間違い無い。
恐らくはあの化け物は他の侍達が命懸けで討伐してくれるだろう、為れば此処で此奴を仕留めねば『火盗改の河東』の名が廃る!
南町奉行の河東が潰える以上、此方で家名を残す事に尽力せねば今は無き父母の墓前に何と言い訳して良いかも解らない。
そうアタシは改めて実の兄の命を奪う覚悟を決めるのだった。




