九百十二 志七郎、瀕死の英傑を見定め野戦病院へと向かう事
江戸の街の半分近くが灰燼に帰すと言う事態は、幾度かの大火と呼ばれる様な火事に寄って引き起こされた事は何度か有る。
しかし大鬼や大妖と呼ばれる様な存在が江戸の市街に出現し、其れが暴れ回った事で此れ程の被害が出たのは、家安公が幕府を開き此の地を本拠地として大江戸と定めて以来初めての事だ。
故に多くの死傷者が出ている此の状況でも、生き残った武士や鬼切り者達はあの黒竜が城へと辿り着く前に討伐出来た事を喜び誇り勝鬨を上げる。
「兄上!?」
「御館様!?」
そんな場所で義二郎兄上と合流すべく四煌戌を走らせた俺は、想像以上の惨劇の爪痕と黒竜の頭の側で蹲って居る彼の姿に焦りを感じ思わず声を上げ鞍から飛び降り駆け寄った。
兄上の性格からして何の問題も無ければ率先して得物を突き上げ鬨の声を上げている筈だ。
にも拘らずああして居るのは、巨竜が倒れ伏した際に落ちて受け身を取り損ねたか? いや兄上の技量を考えれば其れは有り得ない、他に考えられるのはあの黒竜が『鼬の最後っ屁』とばかりに何らかの妖術でも掛けた可能性だろうか?
雑魚と呼んで間違いの無い小鬼ですら、個体に寄っては妖術の類いを使う者も居るのだ、妖刀を生み出す事が出来る格の大妖が、知恵無き獣が如き竜だと言う方が無理が有る。
竜に分類される生物は概ね何処の世界でも、無限に近い寿命を持つのが普通だと言うし、そうした者の分体とは言え実体化に至った個体が命を引き換えにして呪いを掛けたと成れば、其れこそ直接神仙の力を借りなければ治癒は難しいかもしれない。
そんな絶望的な状況を想定しつつ蹲った義二郎兄上の顔を覗き込むと、真っ青と表現するのが相応しい様な顔色で、吐き気を堪える様に口元を手で抑えていた。
「……御主達、済まぬが水を持ってきてくれ」
……ああ、そう言えば義二郎兄上は甘酒ですら酔い潰れる程の下戸なんだったか。
俺がしこたま撃ち込んだ酒の投槍は全てが綺麗に黒竜の口内へと入った訳じゃぁ無い、口を閉じている間は目やら鼻やら問わず散々叩き込んだのだ、黒竜の頭周辺は其れは其れは高濃度の酒精が漂っていたに違いない。
そうなれば当然目玉に長巻を叩き込んだ義二郎兄上が空気中に霧散した酒精を吸い込んでいても不思議は無い訳で……要するに今の彼は急性酒精中毒一歩手前の状態だと言う事だろう。
毒属性の魔法で酒が作れるのだから、同じ毒属性の魔法で有る『解毒』の魔法で回復すれば良いじゃないか……とも思えるのだが、何故か酒精に依る酩酊状態は精霊魔法の区分では毒では無いそうで解毒の魔法は効果が無いのだ。
「取り敢えず俺は四煌戌で聖歌使いの方を呼んで来ます」
「ああ、水は私の魔法で何とかするよ。酒は魔法で対処出来ないから本当に厄介だよな」
けれども神職の者が使う聖歌の中に有る『清新の聖歌』ならば、ほぼ全ての状態異常を一括解除すると言う効果が有る為、酩酊状態からも回復する事が出来るので有る。
残念ながら精霊魔法ではそうした一括解除の様な魔法は無いし、錬玉術で作られる『死んで無ければ何とかなる霊薬』でも回復する事は出来るが、使わなければ即座に命に関わる状況ならば兎も角、聖歌使いを呼んでくれば良い状況で一粒五十両を使うのは躊躇われた。
とは言え、義二郎兄上は生粋の下戸で急性酒精中毒だって手当が遅れれば命に関わる物で有る事もまた間違いない。
前世の世界でも春先辺りに飲みつけない酒を先輩に呑まされた大学生なんかが救急搬送される様な事案や、どんな理由かは知らないが派手な深酒の結果路上で寝込んだ者を保護したら救急搬送が必要だったなんて案件も散々っぱら見てきた物だ。
俺自身、酒は嗜む程度にしか呑んで来なかったが、捜査四課に配属された直後には歓迎会と称した場で、当時の課長からアルハラとしか言い様の無い呑まされ方をして一度は撃沈した覚えも有る。
まぁ其れは『時には暴力団員と裏取引する事も有る捜査四課の特性上、自分の酒量限界を知らないのは困る』と言う理由が有っての事で、俺も四課長に成ってからは後進に同じ事をしたし必要悪と言える行為だった筈だ。
流石に完全に酒精耐性が無い下戸を相手に無理矢理呑ませる様な真似はしなかったけどな、呑めない奴に呑ませる酒が勿体無い……『俺の酒が呑めねぇのか』なんて台詞は課の新人を歓迎する時以外は口にした事は無い。
今生では未だ酒を呑める様な歳じゃぁ無いが、果たしてこの身体はどれ位酒精に対して耐性を持っているのだろうな?
少なくとも甘酒や少しの御屠蘇で酔い潰れる様な事は無いから、義二郎兄上程極端な下戸と言う事は無いとは思うし、錬火業と言う氣を高める技術を将来的に学ぶ事を考えれば少しでも強い体質だと嬉しい。
と、そんな事を考えながら『風の行軍』を併用し最大速度でお台場砦へと向かったのだった。
死屍累々……其れ以外に此の場の光景を表す言葉を俺は持って居なかった、此の砦が直接黒竜の攻撃を受けた訳では無いが、最寄りの拠点だと言う事で奴に蹴散らされた多くの侍や鬼切り者達が此処へと後送されて来たのだろう。
「此方! 選別赤の者は未だ居るか!?」
その状況は当に歴史物の物語に出てくる野戦病院其の物と言った状況だった。
「選別黄色や緑の者は此方に来て自分で霊薬を使って回復すんのよ! 聖歌使いの方々を無駄に酷使する訳には行かないのねん!」
大規模な震災なんかで被災地への応援に行った者達ならば、此れに近いか其れ以上に悲惨な状況を幾らでも見ているのだろうが、残念ながら俺はそうした現場に出た事は無く伝聞でしかこうした状況を知らなかったのだ。
警視庁の合同捜査本部に出向した際にも、警察史上に残る程に大量の死者が出ていた事件では有ったが、こうした野戦病院さながらの治療環境に遭遇する事は無く、殆どの被害者はきっちりと設備の整った病院へと搬送されて居た為、やはり機会が無かったのである。
向こうの日本と比べて命の値段が安いと言える此の火元国では有るが、だからと言って命を粗末にする事が推奨されて居ると言う訳では無い。
黒竜に蹴散らされても尚命を繋ぐ事が出来た者達は、此処に運ばれ選別を受け、聖歌使いや薬師に錬玉術師が用意した霊薬での治療を受けている様だ。
幸い外科医療に関しては聖歌や霊薬の様に、受けた傷を一瞬で回復すると言う超常の治療法が存在する為、向こうの世界よりも選別で黒(治療不可及び既に死亡)と判定される者は少ない様で其の分赤(緊急治療で助かる)と判別される者が多いらしい。
そんな惨状の場所から貴重な聖歌使いを義二郎兄上一人の為に引っこ抜くのは気が咎めるが、兄上も放置すれば命に関わる可能性が高いと言う点では選別赤に区分される状態だろう。
……いや、待てよ? 義二郎兄上の治療が出来るならば必ずしも聖歌使いじゃ無くても良いんじゃないか? 幸い此処には義二郎兄上を最優先しても誰も文句を言う筋合いの無い人材が居る。
「望奴! 義二郎兄上が酒でぶっ倒れた! 何とかする霊薬は無いか?」
霊薬で何とか成るならば、救急救命の最前線と言える此処から貴重な人材を引っこ抜かずに済む。
そう判断した俺は他の薬師達と共に霊薬作りをして居る望奴を見つけると即座に声を上げた。
「ありゃりゃん! 家の御館様は生粋の下戸なんだから酒は洒落に成ってないのよ! んでもそんな時には此れ『すっきり爽やか剛力鬱金デラックス!』ー」
こんな事もあろうかと……と言いた気な顔で、何処ぞの青い狸の様な口調と共に取り出された小瓶を掲げる望奴。
義二郎兄上の下戸っぷりは江戸でも知らない者は居ない程で、更には無数の恨みや妬みを買う様な行動をして来た所為も有ってか、外食なんかをすると奈良漬の様に酒精の含まれた食べ物が敢えて出される様な事が偶に有るらしい。
勿論、食べる前に気が付いて其れを避ける事もするが、時には避けきれずに口にしてしまう事も有ると言う。
そんな時の為に望奴は常に此の色々と突っ込みたく成る名称の霊薬を常備して居るのだそうだ。
俺は其れを受け取ると、再び四煌戌を飛ばして兄上の元へと掛け戻るのだった。




