九百九 志七郎、妖刀使いを振り切りお台場方面へと向かう事
火盗改の皆が妖刀使いと成り若返った南町奉行の河東 丙を受け持ってくれた事で、取り敢えずの安全を取り戻した俺は其れまで同様に桂様の横で固定砲台に戻る……と言う事は無かった。
江戸の天守閣とタメを張れる程の巨体を誇る黒竜は、俺が放つ酒の投槍の魔法が自身に影響を及ぼし始めている事をきっちり理解して居る様で、河東の指示が途切れた今は一路城へと北上するのでは無く、明らかに此方へと敵愾心を向け始めたのだ。
刀や銃の様に普段から身に着けている得物は兎も角、其の身を覆い守る鎧を纏っていないこの状況で……いや、例え完全装備でも竜の様なとんでもない化け物を相手取るのは勘弁して欲しい。
「鬼切童子よ! 彼奴が此方へと目を向けたと言う事は、其方の魔法が少なくとも嫌がらせ程度には効果が出ている証拠! 兎角御主は其の侭魔法を放ちつつ捕まらぬ様に逃げよ! 他の者達は少しでもあの化け物に痛い目を見せてやれい! いざ! 私に続け!」
その様子を見た桂様は、俺に引き撃ちを指示し自身は鬼切奉行所の精鋭を率いて黒竜を食い止めると言う選択をした様だ。
一人だけ逃げると言う事に気が咎める物が無い訳では無いが、三十代半ばまで生き部下を率いた経験も有る大人と言う『中身』が入っている俺は、役目を忘れて突っ込む様な間抜けを晒す程子供では無い。
「以下同文! 以下同文! 以下同文!」
其の背中に『御武運を』と一言だけでも掛けたかった、其れをしてしまうと『以下同文』が使えなく成り改めて呪を編み直す必要が出てくる為、俺は無言で首肯するだけで彼等を見送り手綱を引いて四煌戌を西へ向かって走らせる事にする。
あれだけの巨体が歩いただけでも、木造建築が殆どの江戸の街は壊滅的な被害を受けるのは避けられない、けれども奴が俺を目指して移動すると言うので有ればある程度進路を誘導する事も出来るだろう。
そう判断した俺は現在地から西側に有る、海から出現する大妖に備える為の砦で有る柳川砲台要塞……通称『台場』へと向かう事にしたのだ。
砲台要塞の名の通り其処は多くの大砲が備え付けられており、氣を纏う事の出来ない町民階級の者でもある程度戦力として数える事が出来る、江戸を守る要所の一つで有る。
残念ながら今黒竜が居る場所は大砲をぶっ放してもまともに届かない位置だが、少しでも西側に誘導する事が出来れば射程距離に入る筈なのだ。
「Graaaaaaa!」
途切れる事無く撃ち放たれる酒の投槍の魔法は、黒竜の顔に傷一つ付ける事は無いが其れでも度数の高い酒精が目に入ったりすれば、其れ也には痛いらしく苛立たし気に咆哮を上げ、其の度に口の中へと槍は吸い込まれる様に入っていく。
酒の投槍の魔法で放たれる酒は毎回全く同じと言う訳では無いが、大凡で一升と言った所で含まれる酒精の割合は大体八割と蒸留酒としても可也高い方に区分出来る濃度で有る。
けれども触媒を用いずに魔法だけで生成した酒は、酒精以外の成分が水だけと言って間違いない味も素っ気もない物で、ぶっちゃけ不味いと言い切って間違いない程度の物でしか無い。
そんな物を無理矢理呑まされている様な状態なのだから、やってる事は『俺の酒が呑めねぇのか』なんてアルコール・ハラスメントよりも性質が悪い、相手の口に不味い酒が入った一升瓶を無理矢理突っ込む様な真似なのだから黒竜が怒りを感じるのは当然の事だろう。
並の人間ならば一発で急性酒精中毒を起こして病院送りに成る様な酒量では有るが、あの巨体では此れだけ叩き込んでもほろ酔い程度の状態なのでは無かろうか?
実際、奴の足取りは未だ千鳥足と言う様な状態では無く、元気に足元に集う侍や鬼切り者達を蹴散らしている。
……あれだけ派手に吹っ飛んだり踏みつけられたりして居るのだから、無傷で済む筈も無いし命を落として居る者とて決して少なく無いだろう。
けれども其れは皆覚悟の上で江戸の街と、其処に住む多くの戦う力を持たない者達を守る為に捨て石と成ってくれているのだ。
彼等の死傷は決して無駄な犬死になんかでは無い、最悪でも城を守り切り其処に避難して居る者達を守り切る事が出来れば其れで勝利と言って良いので有る。
「以下同文! 以下同文! 以下同文!」
魂枯を起こさぬ拍子を意識しながら酒の投槍を撃ちつつ四煌戌を走らせる事暫し……そろそろ台場に備え付けられた大砲の射程距離に黒竜の巨体が入るそんな時だ。
前世の世界で学校なんかの運動会で開会を告げる時に使われる昼花火が城から上がり三度火薬の弾ける轟音が聞こえて来た。
そして其れから一拍子遅れて、夜の花火が天に昇る時に響かせる笛の音と共に、目に氣を込めなくても見えるだろう濃密な白い氣の塊が城から放たれる。
天を駆けた氣の砲弾は多少の減衰は有るにせよ、そのまま弾ける様な事も無く黒竜の身体に打ち当たり、僅かながらも其の巨体を揺るがせた。
今の氣の運用は見覚えが有る、アレは恐らくは大分前に小僧連の皆と一緒に仕事を請け負った『抱え大筒のおハナ』の放った氣功花火だろう。
実際に今あの黒竜を攻撃したのがお花ちゃん本人なのかまでは解らないが、間違いないのは素で氣を纏う事が出来る者が錬風業を修めた上でしか放つ事の出来ない莫大な氣に拠る一発だと言う事だ。
其れが続けざまに二度三度と飛んできている辺り、お花ちゃんだけで無く同門だと言う彼女の母親辺りが大筒を並べてぶっ放して居る可能性も零では無いかもしれない。
空で弾けて氣の雨とでも言うべき物ですら、生半可な攻撃は弾き返す甲羅を持つ鬼亀の群れを一気に削れる威力が有るのだ、其れが弾ける事無く塊のままで直撃すれば其の威力はあの黒竜の巨体と鱗を以てしても無傷とは行かない様だ。
其れを合図にする彼の様に……いや、実際合図にしたのだろう、台場の方からも無数の砲弾が雨霰と黒竜に向かって降り注ぐ。
飛んできているのは砲弾だけでは無い、太い槍の様な物も黒竜に向かって飛翔して居る辺り、恐らくは台場には大砲だけで無く弩砲の様な物も有るのだろう。
銃に氣が乗らないと言われているのは、そもそも金属と氣の相性が余り良いとは言えない上に、小さな銃弾では込められる氣の総量が少なく飛んでいる内に減衰仕切ってしまう為だ。
けれども弓や弩で使われる矢は竹や木の様な植物由来の物が殆どで、其れ等は銃弾に比べて圧倒的に氣の持ちが良い、故に砲弾の大きさならば其れ也の氣を込める事が出来る大砲と並んで、弩砲が廃れる事無く現役で使われているのだろう。
ちなみに此方の世界のお江戸では、台場に其れ相応の大砲がきっちりと備え付けられて居り、何処ぞの世界の幕末の様に大砲が足りないから寺から鐘を持ってきて並べて大砲を水増しするなんて真似は必要無い……まぁそもそも寺が無いんだがな。
黒竜は吐息を俺の魔法で潰され、大砲や弩砲の様な其れ也に痛い攻撃を受け、可也鬱憤が溜まっている様子で有る。
しかし派手な飛び道具がばんばん飛んで来る状況に成れば、黒竜の前足が届く範囲に残る侍や鬼切り者達も居らず、溜まった鬱憤を打付ける相手も居ないと言う状況に陥っている状態の様だ。
「Gyaaaoooooon!」
苛立たし気に咆哮を上げる黒竜だが、そうすれば大きく開いた口には酒の投槍が叩き込まれるのだから溜まった物では無いだろう。
……可哀想だが此れは戦いだし、奴の所為で散ったであろう侍達や傷付く者達の事を考えれば手段を選んでいる余裕は無い。
其れでも未だに大した傷を負って居らず歩を進める足も鈍って居ない辺り、流石は名の有る大妖と言った所だろうか。
「遠くの者は音に聞け! 近くの者は目にも見よ! やぁやぁ我こそは火元国に名を響かせる天下無双の快男児! 豹堂義二郎と其の徒党也! 悪辣為りし邪竜討伐の為! いざ! いざ! いざ! いざ参らん!」
無数に響く砲音に紛れる事も無く天から轟くそんな台詞と共に、台場方面から飛んでくる義二郎兄上……あの軌道は多分投石機にでも乗って飛んできたんだろうなー。
と、そんな事を思いながらも次々に同様の方法で空を飛び黒竜の背に飛び乗る侍達が、少しでも戦い易い様にと、俺は只管に酒の投槍を浴びせ続けるのだった。




