九百八 志七郎、命を狙われ江戸最強参戦する事
続けざまに放たれた酒の投槍の魔法が多少なりとも効果が出たのか、黒竜の巨体が僅かに揺れた……その時だ、俺の背筋を逆撫でしたかの様な寒気が走り抜けた。
其れは前世の俺でも感じ取る事の出来る様なあからさまな殺気等では無い、今生に生まれ変わり初陣を経験してから何かにつけて命を賭けた戦いを潜り抜けた経験から来る虫の知らせと言う奴だ。
そう判断し咄嗟に四煌戌の腹を蹴り前へと走り出させる事で其の場から移動する……と、一瞬前まで俺が居た其の場所へと黒羽織の侍が刀を手に空から降って来た。
「くかかか! 此れを躱すか! 昨日の今日で早速相見えたが、相手に取って不足無しと言った所かの? いやしかし小僧を切らねば折角の大妖が無駄に成る様だからな、儂自ら其処の禿親父諸共叩き斬ってくれるわ!」
其の背に背負うのは『南』の小さな一文字、此れは彼奴が南町奉行所に所属する与力か同心、若しくは奉行や副奉行と言った役職持ちの侍で有る事を示している。
「ぬぅ!? 私の頭が鬘だと知っているのは幕府でも其れ相応の役職に就いている者だけの筈! 其れを知ると言う事は……貴様! 南町奉行の河東 丙か!?」
鬼切奉行と言う要職に就いている鬘……違う、桂様は普段からつるっ禿の頭に髷を結った鬘を被って生活して居り、実際に綺麗に禿げ上がった頭を見せた事が有るのは、同等か其れ以上の格を持つ者が集まる飲み会の席位だと言う。
桂家が先祖代々禿の家系で若い頃の未だ髪が房々な頃に、自らの毛で誂えた鬘を用意するのが伝統なのだと言う話は、家中秘伝とでも言うべき物で有り、其れを知る者は余程親しい間柄の者以外に広く知られた話では無いらしい。
故に桂様を禿親父呼ばわり出来るのは身内と呼べる様な者達以外では、幕府要職に有った者だと一発で特定出来たと言う訳で有る。
「奉行と言う幕府要職に有りながら妖刀に魅入られるとは恥を知れ! しかも朝の時点で行った手形検めをすり抜けた以上は、今日と言うたった一日の間であれ程の大妖を孵化させたと言う事……貴様! 一体何人の侍を斬った!」
町奉行と鬼切奉行と職分は違えど、奉行と言うのは幕府の中でも要職と言って間違いない立ち位置で職位の高さでは互いに同格の相手で有る。
「はっ! 自分の手で自らの子供を何人も殺めて尚も跡継ぎに恵まれた貴様に儂の気持ちなんぞ解ってたまるか! 其れにどうせ今の幕府は生い先短い爺がくたばれば跡目争いで酷い事に成るのが目に見えて居るのだ! 沈む船から逃げるのが賢い生き方よ!」
激昂する桂様に対して鼻で笑う河東 丙……其の名から察するに恐らくは火盗改の河東様の身内か何かなのだろう。
完全に開き直った様子でそう言い放った河東は、折角全体の指揮を取る立場に居る桂様が手の届く場所に居ると言うのに、其方よりも俺の方が優先度が高い様で、手にした赤鰯を此方へと向け飛び掛かって来る。
「……貴様が子宝に恵まれなんだ腹癒せに罪無き者を殺めて良い等と言う事は無い! 其れに私が我が子を狙って殺めたかの物言いは許せぬ! 皆の者、此奴こそが件の妖刀使いだ、討ち取れば褒美は望むが儘ぞ!」
其処に割って入った桂様が手にした軍配で赤鰯を受け止めつつ、周りに居る者達にそんな檄を飛ばす。
「くかかか! 有象無象が何人束に成って来ようと儂の活力が増えるだけぞ! あの化け物が孵化し斬れ味も其の妖力も殆ど無く成ったが、其れでも完全な塵芥屑に成り下がった訳では無いからな!」
四方八方から鬼切奉行所の与力や同心達が飛び掛かり数多の得物が襲い来る中を、河東は嘲笑う様な声を上げながら、赤鰯で其れ等を受け止め弾き捌き、あっさりと囲みを突破してのける。
其の動きは昨夜見た熟練為れども老齢故に鈍く衰えた武芸者の物では無く、老獪な技量と全盛期の若者の体力を併せ持った達人を超えた超人の其れだった。
「さて……約束通り、小僧貴様を喰ってやろう。ほんに魔法使いと言うのは厄介な物の様だからの。されどお前さえ居らねばあの薄汚い化け物だけで江戸百万の者達を皆殺しにする事も容易い事よ」
……実際、奴が此方へと来て俺が酒の投槍が途切れた事で、急速に酒の分解が進んでいる様で、黒竜は本の僅かな間に調子を取り戻した様子で前衛の侍や鬼切り者達を薙ぎ払って居た。
「以下同文! 以下同文! 以下同文!」
俺の役目はあの竜を誰かが討伐するまでの間、少しでも酔わせて弱らせる事で河東の相手をするのは俺の仕事じゃぁ無い。
直ぐ様そう判断し俺は魔法を連射しつつ、再び四煌戌の腹に踵を入れて遁走を決め込む事にした。
幸いあのデカい図体の竜の口は多少移動した所で狙い射つ事は不可能では無い、其れに……
「良くもまぁ碌でも無い真似してくれちゃったわね此の糞兄貴!」
自らの手で彼奴を討ち取り汚名を雪がねば成らない者が此の場に参上したのだ、彼れの相手は彼と其の仲間達に任せれば間違い無いだろう。
「丁か……今の儂ならば貴様を刻むのに何の躊躇も無いぞ。兄より優れた弟など存在しないと証明してやろうぞ!」
やはり火盗改一番隊隊長河東 丁は丙の弟の様だ。
恐らくは南町奉行と言う先祖代々引き継いだ安定した立場を持つ兄は、向こうの世界の警察の様に自身の管轄区で何か不祥事が有る度に、瓦版なんかで誹謗中傷にも近い様な記事で批判される事が多いのだろう。
対して実力だけでのし上がり華々しい活躍をする度に其の名を高める弟の存在は、余程忌々しい物だったに違いない。
そんな俺の予想は大きく外れて居ない様で、奴は俺を追うのを止めて丁に赤鰯を向け斬りかかって行った。
「相手は河東ちゃん一人じゃぁ無ぇゾ! 二番隊隊長、史村 建! 推して参る!」
何時ぞや着ていた様な派手な緞子では無く、与力の身分に相応しい落ち着いた色合いの着物に黒羽織を纏い、顔も白塗りでは無く渋い侍の姿をした史村が赤鰯を握った手を掴み取り、立ち関節で肘を破壊しに行く……が丙は自ら飛び投げられる事で其れを振り払う。
そうして倒れた一瞬の隙を突き、上から無数の銭が雨霰の様に降り注ぐ。
其れは只の銭では無く羅漢銭と呼ばれる縁の部分を鋭く研ぎ澄ませた一種の手裏剣だ。
「三番隊隊長、仲基 工。義と朋友と幕府鎮護の為、討ち取らせて貰います!」
しかし其の羅漢銭も決め手には成らない、地面に倒された丙は起き上がる事無く其の侭で結構な距離を転がる事で全てを躱してのけたのである。
だが其れすらも織込み済みだったと言う事か、そうして転がって行った先には……
「ふごっ! 四番隊隊長、剛規 楓。此処から先は一歩も通さ無ぇぞ! ぶひぃ!」
『鉄壁の剛規』の二つ名を持つ彼は鎧すら纏って居らぬのに、立ち上がりざまに繰り出された逆袈裟の一太刀を金属音を響かせてその身体で受け止めたのだ。
赤鰯に成って尚も氣を喰らう筈の妖刀の一撃を其の侭受けても傷一つ無いと言うのは、其れだけ彼の持つ剛体術と呼ばれる防御に特化した体術の完成度が高い証左だろう。
火盗改は家柄を問わず純粋に実力者だけを集めた江戸最強の集団だ、其れが隊長格の者だけで無く部下達まで揃って丙を取り囲んだ以上は、先ずまぁ奴が逃げると言う事は無い筈で有る。
「鬼切童子よ! 此処は私達火盗改に任せてあの化け物を潰すのだ! ……左側! 剣戟薄いぞ何やってんの!」
火盗改の長官碇 権兵衛様もが部下達を率いて参戦して来たらしい。
「くかかか! 下賤な火盗改共が揃い踏みたぁ……景気が良のぅ。愚弟諸共、全員きっちりブチ殺してやるわ!」
……妖刀の妖気で脳を侵されてきたのか、丙は完全に俺に対する敵愾心を失った様に、火盗改に向き直ったのだった。




