八十九 志七郎、足を洗い対面する事
山間の秘湯そんな言葉がよく似合う、そんな目の前に風景がひろがっていた。
関を超えた所の街道を逸れ、ゆったりとした峠道を暫く登った所、沢沿いの狭い間に立ち並ぶ幾つかの旅館。
沢からは所々で仄かに湯気が上がっている事から察するに、温泉が流れているらしく湯量はかなり豊富な事が解る。
また、微かながら卵の腐った様な臭いがした気がするので、恐らくは硫黄泉であることも想像が出来た。
前世の観光地化された温泉街とは違い、土産物屋等の店舗を見かける事も無く、観光資産と成りそうな物など何一つ見当たらない。
本当に鄙びた温泉地、そんな風情の場所である。
「兄上、やっと着きましたね……」
木々に遮られていた道の先が開け幾つかの宿が見えてきた頃、既に日は西に傾きその姿は山の向こうへと落ちかけていた。
ずっと子犬を抱いたままここ迄登って来たのだが、正直そろそろ腕が痛い。
「……ああ、日が落ちる前に着けたな」
目的の宿まではまだ少し歩かなければ行けないが、はっきりと見える場所にそれが有るのと無いのでは、モチベーションが大きく違う。
「「「くぁ、きゅ~ん、きゅ~ん」」」
と、改めて歩き出そうとした所で今までぐったりと眠っていた子犬が、身を捩り小さく声を上げた。
温泉の匂いを感じ取り不快に思っているらしく3つの頭がそれぞれスピスピと鼻を鳴らす、どうやらそれは兄上の引く馬も同じ様でブルルっと鼻で鳴いた。
そして子犬は前足で鼻を押さえる様な仕草をするのだが、3つの首6つの鼻の穴に対して2本の前足では当然全部を塞ぐ事など出来ない。
身体の制御権限はどれか一つの首だけが持っている訳では無いようで、前足をわちゃわちゃと何度も違う首へと移動させていた。
そんな風に暴れられると当然抱きかかえたままでは居られず、子犬は俺の腕の中から滑り落ちた。
「「「きゃいん!」」」
地面に落ちた衝撃に小さく悲鳴の様な声を上げるが、特に怪我をする程ではなかった様である。
「……直ぐに慣れる、暫しの辛抱だ」
そんな風に俺達がジタバタしているのに大して、兄上は馬の首筋、鬣を指で梳く様にして撫でながらそう言うと、馬はその言葉を理解しているかの様に静かになった。
「自分で下りたんだから、ちゃんと自分の足で歩いて行こうか……」
「「「ぅわん……」」」
兄上達程明確な意思疎通が出来ている感じではないけれど、抱き上げずに繋いだ綱を持った事でその意図は伝わったらしく、小さく返事らしき声を上げようやっと立ち上がった。
それから更に暫く歩き、子犬も馬も匂いに慣れてきたのか鼻を鳴らす事も無くなってきた頃、最奥のどん詰まりに建った目的の宿へと辿り着いた。
『白猫温泉、湯元猫屋』
門の上に掲げられた看板には見事な筆文字でそう書かれている、その旅館はぱっと見ただけでも家の屋敷より立派な佇まいに見える。
これは考えなくても高級旅館の類に見えるのだが、こんな所に1ヶ月も長逗留していた俺の師匠となる人、その宿泊費は一帯如何程に成るのだろうか?
と言うか兄上は財布を忘れてきている、俺の財布に入っている金額では1日分にも足りないと思うのだが、支払いはどうするのだろう?
流石に踏み倒すなんて事は無いと思うのだが、手持ちが足りない状況と言うのは中々に心臓に悪い。
前世ならば一寸そこらのコンビニにでも入れば、ATMで下ろす事もできたがそんな物は当然存在しない。
そんな俺の心配を他所に、兄上は馬を引いて門の中へと躊躇する事無く進んでいく。
「いらっしゃいまし、猫屋温泉へようこそですニャ!」
慌てて後を追いかけると、厩番らしき猫耳の少年がそう言って兄上から手綱を受け取っていた。
武士の馬の世話と言うのは例え宿に泊まる時であっても、馬廻りと言う役職の武士が務める、それが居なければ自分の手でするのが普通だ。
武士に取って馬とは大事な武具の一つであり、大事な家臣でも有るのだ。
なのでここ迄あっさりと宿付きの者に手綱を任せると言う事は、余程通い慣れた宿で信頼出来る者でなければあり得ないだろう。
「そちらの霊犬は足を洗って頂ければご一緒に部屋へと上げる事は出来ますが、ご一緒ニャさいますか? それとも厩でお預かりしましょうか?」
そんな様子に驚きを隠せない俺に対して、その少年はニコリと人好きのする笑みを浮かべてそう言った。
「あ、う、厩でお願いします。屋敷には上がらぬ様、躾をしている所ですので……」
「……いや、今日は共に上げる。ご先方にはコレも紹介せねば成らぬからな」
「畏まりました、ではそちらの足湯をお使い下さいませ」
そう促され、前庭に設けられた東屋へと足を向けた、そこには小さな木製の湯船が有りそこを流れているのはどうやら温泉の様で母屋から木の水道を通して留まる事無く流れ続けている。
草鞋を脱ぎ足を付けると、殆ど一日中歩いて疲れきった足に染み渡る様だ。
「兄上、よろしいのですか? 例外を作るのは躾に良くないと、言っていたでは無いですか」
あまりの気持ちよさにほうっ、と一つ溜息をついた後、俺はそう問いかけた。
「只犬ならばあまり良い事では無い。だがその子は霊獣だ、一刻も早く名を与えその存在を確定させねば成らぬ、只犬とは魂の強さが違いすぎるからの」
「存在の確定、ですか?」
「そうだ。名を与えて初めて魂はこの世界に定着するのだ。名の無き者はこの世界に生きているとは言えぬのだ。そら、その子の足も洗ってやれ早う会いに行かねばな」
詳しく聞いてみたい事柄なのだが、それを遮る様にして次の指示を出す。
魂の定着、と言う事には多少なりとも心当たりは有る。
俺がこの世界に生まれ変わり、志七郎である事をまだ受け入れる事が出来ていなかったあの頃、俺は魂抜けで命を落としかけたのだから。
もしかしたら、この子犬にも魂抜けの兆候が有るのかもしれない、それならば兄上の言う通り急いだ方が良い。
「きゅ~ん、きゅ~ん!」
「きゃいん! きゃいん!」
「きゃん! きゃん!」
慌てて子犬を抱き上げ湯に下ろす、湯から立ち昇る硫黄の匂いが嫌なのだろう、三つ首揃って悲壮な声を上げながら、精一杯に足を上げ湯に着かぬ様に頑張るが、身を捩ったりしないのは先程落とした事を覚えているからだろうか?
「「「はふぅ~」」」
だがそんな抵抗も虚しく湯の中へと下ろすと、今度はその暖かさが気持ち良いらしく、一瞬にして蕩けきった表情で溜息をついた。
「……よし行くぞ。中へ入るまでに又足を汚してはいかんからな、抱いたまま連れて行くのだ」
軽く子犬の足を洗い手ぬぐいでその湯を拭った後、そう促され東屋から母屋へと続く板張りの道を素足で歩き宿へと入る。
「ようやっと迎えが来たか、ここの湯は浸かれば心地良いが臭くて敵わん。鼻が馬鹿に成りそうだ」
玄関を抜け、ロビーに当たるであろう場所へと踏み込んだ所で、上階からそんな言葉が降ってきた。
ロビーは吹き抜けに成っている様で、見上げると2階3階の廊下がその吹き抜けに面している事が解る。
その声の主は3階に居た、角度的に肩から上しか見えないのだが、金糸で彩られたベストに真っ白のシャツ、蝶ネクタイを絞めたその服装は明らかに異国の物だ。
だがそれ以上に目を引くのはその顔で、どこからどう見ても人間の物では無く、純白の毛に覆われた犬のそれであった。
「あれは……犬鬼? 犬鬼が俺の師匠となるのですか?」
「犬鬼? 我輩をコボルトの様な下等妖魔と一緒にするな! 我輩は誇り高き狼人族の戦士である!」
呆然と思わずそう呟いた俺の声に、彼の犬面人はそう怒鳴り返すのだった。




