九百五『無題』
最初に手を出した獲物を斬り損ねたのはとんだ失態だと当初は思ったが、災い転じて福となす……今のこの状況を考えりゃ寧ろあの時斬らずに済んだのが幸いだったと断言出来た。
妖刀持ちの辻斬りが出たと言う報告は早速昨夜の内に上様へと届けられた様で、南町を預かる儂にも夜中の内に招集が来た。
そう簡単に足が付かぬ様に態々市街地の外を回って、北町の管轄区へと足を伸ばして事に及んだのが無駄に成ったのは少々癪では有るが、結果的に今の段階で手形を検められても問題無い状態だと言うのは幸先良いと言えるだろう。
夜通し行われた対策会議では、通り一遍の妖刀使い対策に付いて改めて周知する事に終始し禄に新情報等出る事無く、朝に成ってあの小僧を呼び出す事だけが唯一の決定だと言う様な無駄に長いだけの物でしか無かった。
儂の父が隠居し南町奉行の職を継いでから早三十余年、今日程に会議を無駄に感じた事は無い、此れも上様が何時までも後進に跡目を継がせて隠居する事をせず、耄碌して居る事の証と言えるだろう。
兎角、あの小僧が此処で語った話は事実こそ一通りきっちり抑えて居るが、推測の部分は掠りもしておらなんだ。
確かに儂は勃つ物も勃た無く成った老いぼれでは有るが残念ながら隠居等では無い、職分に関しては未だまだ現役で有る。
……まぁ跡継ぎと成る子に恵まれなかったのだから、儂の命が有る内は現役を続行せざるを得ないと言うのが正しいか。
一応、儂に何か有れば甥――勝手に家を出て火盗改何ぞに成った弟の息子――が家と役目を継ぐ事には成って居るが、何が悲しゅうて儂の血を一滴も引かぬ上に好き勝手やってきた者の子に儂や父祖達が築き上げてきた物を継がせねば成らぬのだ。
儂は今まで四人の妻を娶ったが其の誰にも子が出来なかった、最初の一人二人の時は石女を掴まされた等と嘯いては居たが、離縁の際には婚家と遺恨を残さぬ様にきっちり詫を入れ、それ相応の手当も持たせた。
三人目はやっと稚児を抱えたかと思ったら、家に出入りする洗濯屋の丁稚と姦通して居た事が発覚し、腹の子諸共に姦婦姦夫を重ねて叩き斬る羽目と相成ったので有る。
そして今の妻で有る四人目も結局子を孕む事は無く、恐らくは儂が種無しなのだろう……と諦めるかどうかと言う所で、歳の所為か息子の元気が無く成った。
高い銭を積んで京の都から『種無し男や石女でも孕ませる』と名高い『鶏肉』も取り寄せて見たが、折角食っても美味いだけで物が役に立つ事は無く、全てが終わりあの憎々しい馬鹿弟の子に全てを継がせねば成らぬと思った時だ。
一筋の光明とでも言える物をあの方が齎してくれた、此の妖刀倭寿繰を、只人ならば千、侍ならば百に届かぬ人数斬れば、儂の身体が若返ると言うだけで無く、種無しまで改善すると断言しつつ授けてくれたのだ。
彼奴は自身を六道天魔に通じた異界の神だと名乗って居たが、様々な功績や銭をせしめるだけせしめて禄に恩恵を与えぬ此方の世界の神々よりも余程慈悲深い存在では無いか。
……兎にも角にも的外れな推測を元に東西南北四つの町奉行だけで無く、下賤な火盗改や無能揃いの小普請組まで動員して始まった捜査の手始めは、捜査に当たる者達の手形検めからだった。
故に儂はあの時あの小僧を斬らずに済んだ事を喜んだのだ、妖刀は所持しただけでは罪として手形に情報は現れない。
けれども人を殺めたと在らば、何時何処で誰を殺めたのかまで手形を検めれば情報として出てくるのだから、捜査の手から逃れるのは簡単な話では無く成ってしまう。
今の段階で儂に罪は無い以上は手形検めを受ける事に何の痛手も無く、一度検めてしまえば其の後再び捜査の対象に成るのは可也先に成るだろう事は、南町の奉行として捜査や裁きに関わってきたからこそよく知っている。
後は万が一にも腰の物が妖刀だと見抜かれた場合に備えて、適当な理由を付けて儂に同行する生贄共には聖歌使いを呼ばせぬ様にすれば目的は簡単に済むだろう。
あの小僧から吸い取った氣だけでも十年は若返った様な活力が身体に漲ったのだ、小普請組の者や氣も纏えぬ岡っ引きに下っ引き程度の下賤な物達でも、妖刀に其の血肉を喰わせれば全盛期以上の能力を得る事が出来るのは間違い無い。
……月に一人二人程度の辻斬りならば、よくある話と大きな騒ぎに成らぬと思っていたが、こうして大騒動に発展してしまった以上は、此の期に及んで幕府要職にしがみ付いて居るのは無理だろう。
しかし無事妖刀を孵化させ、子を成す事が出来る様に成ったならば、女房を連れて江戸を脱し西国に居ると言う『倒幕派』に合流するとしよう。
いや……女房は捨て置いても構わぬか、女房と畳は新しい方が良いとも言うし、倒幕派と合流してから向こうの者と縁付くのが良いな。
父祖が築き上げた南町奉行としての地位や名声を捨てる結果に成ったのは痛いが、全盛期以上の力を得て耄碌した爺が幅を効かせている幕府を叩き潰すのも悪くは無い。
妖刀の妖力に呑まれず無事に孵化させたならば、産まれてくる異界の神の眷属で有る大妖は少なくとも儂がくたばるまでは絶対服従だと言うし、倒幕派の連中も戦力に成る妖怪を連れていれば快く迎え入れてくれる筈だ。
其れに倒幕派と言うのは六道天魔の下で戦った者達の末裔だと言う話だし、彼の者に縁有ると言う神の眷属を従えるならば、幕府との敵対は避けられる事だろう。
どうせ遠からず敵対するならば、内側から食い破るか外から叩き潰すかの違いでしか無い。
倒幕派の頭目が如何なる者かは知らぬが、儂より若い者ならば呆けた爺よりは仕え甲斐が有る筈だ。
次期将軍と目されていた定光様は仁義に篤く情け深いが、悪を悪と断じて容赦する事無く裁く事の出来る好人物で、あの方を支える為で有れば血涙を呑んで忌々しい甥に家督を譲る事も決断出来たが、今残っている候補者達では其処までしてお仕えしたいとは思えない。
ましてや次期将軍内定者が居ない此の状況で上様が身罷られる様な事が有れば、先ず間違い無く跡目争いに因って幕府は酷い内紛に陥るのは目に見えている。
沈むと解っている泥舟に自ら進んで乗る者が馬鹿なのだ、少なくとも儂は自身を賢者だとは思わぬが、其れでも愚者だとは思って居ない。
幕府が自ら瓦解するか、倒幕派に因って打ち倒され新たな幕府が誕生するのかは解らぬが、何方にせよ儂が生きる場所は最早此処には無いのだ。
「河東様、此処の者達の手形検めは終わりました。残念ながら此処も空振りです」
……と、考えに浸っている内に四件目の中屋敷でも手形検めが終わったらしい。
「ふむ……確か此処等に有る大名家の中屋敷は此れで終わりで、次に行く所は少し離れていた筈だな。時間もそろそろ良い頃合いだし、何処かで昼飯にするとしようか」
丁度良いと言えば丁度良い、昼飯に託けて人目に付かぬ適当な場所に此奴等を連れ込み、全員妖刀の贄としてやろう。
どうせ平和呆けした上の連中は、人目の有る昼間に凶行に及ぶ事等無いと高を括っている筈だ。
捜査を早く進める為に手分けする為と、敢えて小勢の隊を複数組ませる様に指示したのも、各個撃破を容易とする為……此処に居る九人位ならば不意を打てば抵抗される間も無く食い尽くす事は出来るだろう。
さて、此処等で死体を隠しても簡単に露見せぬ場所は何処が有ったか……。
内心を隠しつつ儂は組下に居る可哀想な生贄をせめて苦しまぬ様に一太刀で食ってやろうと、心の中だけでほくそ笑むのだった。




