九百二 志七郎、教室で喧騒に包まれ直訴に及ぶ事
「鬼切童子殿! 妖刀持ちの辻切りと……其れも侍の隠居と思しき者と交戦したと言うのは誠に御座るか!?」
城の豪華な朝食を鱈腹頂き、くちい腹を擦りながら教室へと足を踏み入れると、俺の顔を見るなり同級生の一人がそんな事を問いただして来た。
「直臣の家にはもう話が回ってるのか。ああ、昨日の夕暮れ時に提灯も持たず歩く御忍び姿の侍が居たんで誰何したら斬りかかられた」
此処に居る者の家は身代の大小様々有るにせよ、皆間違い無く幕府直臣なので彼等の祖父達は誰一人例外無く捜査対象の内に含まれる。
そして同時にこうした大捕物とでも言うべき自体に成れば、定められた役目を持たない様な小普請組に区分される家の者達も、捜査や捕縛の為に動員されるのは間違いない。
何せ想定される相手は当然の様に氣を纏う事が出来る侍だ、老いた者とは言え其奴を捕らえるのに氣を纏う事の出来ぬ町人階級の『岡っ引き』や、その手下で有る『下っ引き』達では足手纏でしか無いのだ。
妖刀を破壊する為に必要と成る神器や霊刀の使い手が居れば当然動員されるのだろうが、残念ながら我が家に仕える霊刀使いの先代笹葉は、慢性化した腰痛が悪化し刀を振れる様な体調では無くなり隠居した時点で刀を神々に返還している。
江戸に常駐する侍の数は大凡十万人と言われているが、其の中に神器や霊刀を神々から賜った者は両手の指で足りる程度の数しか居ない。
しかも彼等の多くは笹葉同様に割と高齢の者が多く、彼等の力で妖刀が孵化する前に圧し折るのは中々難しいと思われる。
だが其れをどうにかする方法が無い訳では無い、神器や霊刀の使い手よりは圧倒的に多い聖歌使いが力を貸せば、一時的にでは有るが普通の武器を神器や霊刀と同様に妖刀を破壊しうる能力を与える事が出来るのだ。
ちなみに聖歌使いが現場に出る利点は他にも有る、妖刀は個別の能力とは別に『与えた傷が癒えない』と言う共通する呪いを有しているのだが、『治癒の聖歌』に寄る其の場での回復は『傷を受けていない』と言う形にする為に呪いの縛りを受けないのである。
妖刀の持つ傷が癒えないと言う特性は極めて厄介な物で、人間は全身何処に傷を負っても血が流れ出し、其れが癒える事が無ければ何時かは出血多量で命を落とす事に成るのだ。
其の為、妖刀使いとの戦いに聖歌使いが参陣してくれれば、其れだけで死者が八割は減るとすら言われているのである。
「しかし此度の一件は武士全体の恥で有り、幕府の恥故に大社への救援を要請せぬ事になったと父上が言って居たが……本当に大丈夫なのだろうか?」
俺の返答にざわついた教室内で、不意にそんな台詞を口にした者が居た。
「ゑ!? 一寸待て! あの妖刀使いを相手に聖歌使い抜きで勝負を挑むのは自殺行為だぞ!? 奴の妖刀は一合撃交える毎に氣を吸い喰らうんだ! 傷を受けなくても鍔迫り合いにでも成れば其れだけでも致命的だ!」
今朝俺は上様達の前で、其の事をたしかに証言した! 其の事を真摯に受け止めてくれていたならば、武士の面子とかそんな下らない物に拘る事無く、万大社の神職に助けを求めて居る筈で有る。
もし彼が言った言葉が本当ならば、其れは先ず間違い無く上様の決定では無く、何処かの誰かが間に入って命令を改竄したと言う事なのでは無かろうか?
そんな俺の考えは兎も角として、実際交戦したが故に知る其の危険性を口にしてしまった事で、此の場に居る誰もが家族の危険を感じたのか喧騒が一層大きく成る。
「席に着け、静かにしろ、授業始めるぞー」
丁度そんな時、やる気の無さげな声でそんな台詞を口にしながら、安藤先生が教室へと入って来た為に取り敢えず一旦話を打ち切るのだった。
午前の授業が終われば昼休みを挟んで午後の特別授業が始まる為、短い昼休みの間にやらねば成らない事が有る。
そう考えた俺は鬼切奉行所の中庭で営業して居る屋台で飯場賀と揚げ芋に高良を組みで買い昼飯を手早く済ませると、直ぐに政所へと足を向けた。
とは言え父上や仁一郎兄上ならば兎も角、七子四男の俺が真正面から上様に御目通りを願っても、直ぐに認められる筈が無い。
上様に面会を求める事が出来るのは旗本の……『御目見得以上』の格を持つ者だけで有る。
猪河家は小なりとは言え大名家なので家格は十分なのだが、そうと認められるのは当主本人か、当主が江戸を離れている間ならば嫡男で有る兄上だけだ。
では御家人と呼ばれる御目見得以下の者が上様と相対する事が出来ないのかと言えば、必ずしもそう言う訳では無い。
自分から上様に面会する様に願い出る資格が無いと言うだけで、例えば廊下で控えている所に上様が通り掛かり、向こうからお声掛けが有ったならば、其処で返答したり陳情したりする事は許される。
勿論、そうした形でお声掛けがそう何時でも有る訳では無いし、其れを望む無役の者が城に大挙して押し寄せる様な事が有れば、ぶっちゃけ上様としても邪魔で仕方が無いだろう。
其れに役目を求める者は別段御家人衆だけでは無く大名家とて同じ事で、大名や旗本達は伺候席と呼ばれる謁見の順番を待つ為の席次が与えられているのだが、其の場所とて家格が高い者ほど上様の居る謁見の間近くの場所が与えられいるのだ。
なのでそうした席の無い御家人は、上様の目に留まる事すら難しいのが実情では有るが、其処をどうにかする裏技が全く無いと言う訳では無い。
政所に直接入る事は出来なくても、出口近くで上様が出てくる所を待ち構えて、向こうからお声掛けして頂ける様に上手く見た目で自己主張すれば良いのだ。
上様は普段から政所に有る自分の政務室で昼食を取るのだが、今日は朝餉に俺が食わせて貰った物と同じ献立を此処で食ったので、其の分昼には一旦屋敷に戻って愛妻の手料理を食べる筈なのである。
故に俺は早飯でちゃっちゃと昼食を済ませ、政所の前で上様お声掛けを待つ他の御家人と共に片膝を着いて頭を垂れて待つ。
大人の中に子供が一人居れば、敢えて自己主張なんかせずとも十分に目立ち上様の目に留まるだろう。
本来ならば『家』を通さず上様に直接対応を願う様な真似は『直訴』と呼ばれる罪に成るのだが、今朝の一件で言い忘れた事を伝えに来たとでも言えば、恐らくは不問とされる筈だ。
なお直訴には本来正しい作法と言う物が有り、其れに従うならば口頭でどうこうするのでは無く、先ずは羽織袴で正装し詳しい内容を認めた訴状を用意して、其れを先を割った青竹に挟んで持ち、通り掛かった駕籠や馬に差し出す……と定められている。
その際、供侍は訴状を持つ物を二度追い返すが、其れでも諦めずに再び訴状を差し出すと『再三に渡る為に仕方無く』訴状を受け取り主君へと渡すのだ。
前世の世界で見た時代劇の類では、直訴=死罪と言う様な扱いをして居る作品が多かった覚えが有るが、少なくとも此方の世界では訴状の内容が虚偽で誰かを陥れる様な物で無い限りは直訴が罪として扱われる事は無い。
其れでも訴状の内容に虚偽が無いかを調べたりする関係上、訴人は一旦捕らえられ事情聴取を受け、手形検めに拠る身元確認をされ、その上で身元引受人に引き渡される事に成る。
その際、訴人が陪臣でも武士階級の者で有れば家族が身元引受人として認められるが、町人階級の者の場合は其の者が所属する土地の領主が身元引受人に成るのだ。
訴状の内容がその領主にとって都合の悪い物の場合、あっさり処断されそうに思えるが、万が一にでも其れを行った場合には、引き渡した側の面子を潰したと言う事に成る為、直訴を理由に処罰すると言うのは割と難しい話だったりする。
まぁ実際の所、直訴自体は決して珍しい話では無いらしく大名行列が行き来する季節には、街道沿いを長距離旅すれば割竹と訴状を持った正装の者が居るのは割と風物詩の一つとして数えられていたりする話だと言う。
と、そんな事を考えている内に、周りに控えて居た御家人達に緊張が走るのを感じ取り、俺は改めて姿勢を整えるのだった。




