八百九十九 志七郎、召し出され速さに狂う事
あの後、仁一郎兄上が連れてきた猟犬と俺が召喚した四煌戌、彼等が辺りを嗅ぎ回り妖刀使いの臭いを探したが、なんとも奇妙な事に彼等ですら奴の痕跡を見つける事は出来ず、今夜は取り逃がすと言う残念な結果に終わってしまった。
「猪山藩猪河家四男猪河志七郎殿、上様の御召出に付き早急に身支度を整え登城せよとの事に御座る」
そして翌朝、四煌戌とヒヨコを連れた散歩を終え早朝稽古の場へと向かうと、其の場に上様からの呼び出しを伝えに来た幕臣の姿が有った。
普通に考えればこうした呼び出しは、早くとも朝食を終えた後に来るのが礼儀なのだが、其の時間すらも惜しいと幕府が判断したが故の緊急呼び出しと言う事なのだろう。
「上様の用事が済み次第、朝餉は城で食い其の侭志学館の授業に出る様にとの仰せだ。身支度と共に授業を受ける準備も早急に致す様に……猪河家の家長が国許に帰っている以上、正式な判断は嫡男殿の許諾を頂きたいがよろしいか?」
小なりとは言え我が家は大名家で有る以上は幕臣なので、幕府転覆を狙う様な事を考えて居なければ上様の命令に逆らう訳は無いのだが、だからと言って家長の頭越しに子弟に直接命令するのは基本的には推奨されて居ない。
この辺は割と面倒な筋目の話に成るのだが、武士が従うのは自分の主君に対してで有り、主君の主君に無条件で命令権が有ると言う訳では無いのだ。
上様はまぁ別格として、老中衆やその組下で有る奉行職の者から諸藩の家臣に直接命令を出した場合には必ずしも従う義務は発生しない。
勿論後の事やら因縁云々を考えれば簡単に突っ撥ねるのも不味い可能性も有るのだが……『例え相手が上様であろうとも、主君以外に従う義理は無い』と言うのが、武士の忠義と言う物なのである。
一寸極端では有るが分かりやすい例を上げるならば『上様に取って都合の悪い藩主を除く為に謀反を命じた』場合に上様の命に従うのか、主君に忠義を尽くし突っ撥ねるのか……と言う様な話ならば通じるだろうか?
そんな話は然う然う有る物では無いだろうが、頭越しの命令をぽんぽん出せば幕府と言う組織自体の威信を揺るがす可能性が有るため結構面倒な問題なのだ。
なので使者として来た比較的高位の者と思われる幕臣は、家長代理を務める事が出来る立場に有る仁一郎兄上の許可を求めた訳で有る。
「無論。我が末弟が持ち帰った昨夜の件が江戸に住む全ての者の安寧を揺るがす可能性が有る事は承知して居る。此奴の様な小僧で良ければ存分に使い倒して構いませぬ。志七郎そう言う事だ急いで用意して登城せよ」
……割と酷い言い様では有るが、妖刀は例外無くその存在を滅しなければ受けた傷が快癒する事の無い『呪い』を持ち、更に元と成った妖怪の持つ妖力由来の能力も有る極めて危険な武器で有る以上は、野放しにして置く事は絶対に許されないのも事実で有る。
其れを何とかする為に、実際に会敵した俺の話を聞き出そうと言う上の判断は当然の物だろうし、自分に出来る何かが有るならば喜んで協力したいとも思って居るのだから、その言葉自体に否は無い。
「はい!」
俺は素直にそう返事を返し、自室へと駆け戻るのだった。
「此度は危急で有る事と人通りの多い時間帯では御座らぬ故、騎獣を飛ばして参りますぞ。遅れぬ様に着いて来ませい…はぁ!」
仁一郎兄上程では無いが、堂に入った身の熟しで八本足の黒馬に跨った彼は、即座に手綱を扱き一気に加速する。
「四煌! 置いて行かれるな!」
其れに置いていかれぬ様に四煌戌の腹を踵で蹴り同時に言葉で檄を飛ばす。
「「「うぉん!」」」
声を揃えて三つの首が一声鳴いて、あっという間に魔法を使わぬ最高速度へと登り詰める。
「どうだい鬼切童子殿、普段は決して許されぬこの景色、状況が状況故に不謹慎だとは思うが……其れでも気持ち良い物であろう?」
自動車に優るとも劣らぬ速度で駆け抜ける騎獣の上からは、普段見慣れた大名屋敷街も江戸の街並みも一気に後ろへと消えていく様にも見えて、彼の言う通り確かに気持ちが良い。
前世には一応普通自動車免許は持って居たし、交番勤務時代には警邏車で街中を巡回したり、時には回転灯をブン回し警報音を響かせて赤信号を無視して犯罪者の乗った車両を追いかけたりした事も有る。
そうした時に感じたのは、気持ちの良さとかそう言う物では無く、無謀な運転で逃げる相手が自損したり、無関係な市民を引っ掛ける様な事が無いか……と兎に角事故を起こさない様に祈りつつ『停まりなさい!』と叫ぶ事しか出来ない無力感が強かった。
けれども今の此れは何方かと言えば、学生時代に後先を考えず自転車で首都を目指して爆走した時の様な、風を切る爽快感を感じる事が出来ている。
此れは乗っているのが身体が車体に覆われた自動車では無く、自転車や自動二輪の様に剥き出しなのが良いのだろうか?
いや、やはり其れだけじゃぁ無いな……京の都へと向かった時に『風の行軍』を掛けて駆け抜けた時に感じた快感とは又違う『何か』を俺は今感じているのだ。
うん、やはり此れは『本来許されない行為を特別に許された』と言う優越感と背徳感から来る快感なのだろう。
多分前世の世界でも俺が白バイ乗りにでも成っていて現場へ急行する時には同じ様な物を感じて居たかもしれない。
「その犬、図体の割に速いな。未だ速度を上げれるならばもう一段速く行くが……行けるか?」
と、流れる風景と風の感触に浸っていると、不意に幕臣がそう声を掛けて来る。
どうやら彼の乗る八足馬は未だ全力全開と言う訳では無い様で、三つ首故に体格が無駄に大きく見える分、鈍重そうに思えるのだろう。
とは言え、今の速度は四煌戌が素で出せる中では割と上限に近い速度で有り、短い時間ならば更に加速する事も出来るがその速さは長時間保つ物では無い。
「魔法を使えば着いていけます、一刻も速く下手人を捕らえねば無辜の民に余計な被害が出る。子供とは言え俺も武士の端くれ其れを容認する様な積りは有りません」
けれども俺には精霊魔法と氣と言う超常の能力が有り、其れ等を用いれば余程の速さでなければ着いて行けないと言う事は無い筈だ。
「よし、よく言った! 為れば此奴の最高速度で一気に城まで駆け抜けるぞ、着いて来い! ハイヨー黒把!」
そう叫ぶや否や手にした短鞭を八足馬の尻へと叩き込む、するとグンッと音が聞こえる程の勢いで一気に速度が上がっていく。
「翡翠! 風の行軍! ついでに俺の氣も好きに使えお前等!」
短縮詠唱の鍛錬も積んだ事で、此れ位明確な自己強化で有れば一々対象を指定したりする事も無く『誰』が『何』を使うのかだけ指示を出せば魔法を使う事は出来る様に成っていた。
更に氣を融通する事を認める指示を出せば、彼等は八足馬に劣らぬ速度で追従してくれる。
残念ながら俺は白バイ隊員の様に速度計を見ずに体感だけで速度を推し量る訓練は受けていないので、今の速度が実際にどれ位なのかは解らないが、其れでも分かるのは高速道路でも此の速度で走れば恐らく捕まるだろうと言う事だけだ。
俺の記憶が確かなら、向こうの世界の競走馬が出した世界最高速度の記録は時速八十km超と言う様な話だった筈なので、あの八足馬はそんな競走馬よりも圧倒的に速いと言って間違いないのだろう。
「ははは! 良いぞ! 此れでも尚も付いてくるか! 流石はあの鳥獣司の弟だ! 此の八重 重松が駆るスレイプニルの眷属が引き離せないとはな! 良い、実に良い! まぁ互いに真っ当な馬では無いから馬比べとは行かぬがな!」
……どうやら此の人も何時ぞやの川船の船頭の様な速度狂の類らしく、万が一にも転けたり人を撥ねたりすれば間違い無く命を落とすだろう此の状況が楽しくて仕方が無いと言わんばかりの笑い声を上げる。
「何人足りとも拙者の前は走らせぬ! ハイヨー!」
そうして俺が城にたどり着いたのは恐らくは、屋敷を出てから四半刻も経たない程の短い時間での事なのだった。




