八十八 志七郎、江戸を出る事
朝食も無事に終え、山間に設けられた白虎の関へとやって来た頃には、そろそろ太陽が頂点に近い位置へと登っていた。
江戸市街地の端からでも遠目に見ることが出来る事から、さほど距離は無いのかと思っていたのだが、実際に歩いてみると予想以上に遠かったのだ。
道の脇に約4km毎に作られた一里塚が関所の所に有るのが丁度3つ目だった事から、市街地から関所までは12km程ある事が解る。
前世の世界の話では、地上に立った時に見える地平線、水平線は大体4.5km先で、地球の丸みに遮られその先は見えないのだが、この世界では少なくとも10km以上先に有るものが見えるのだ。
流石にこの関所が市街地からでも見えるのは、それが可能なほどに巨大だからでは有るが、その見え方も上の方から徐々に見える、と言う事では無くただ遠くにある小さな物が少しずつ、少しずつ大きくなっていくだけなのだ。
それは今いるこの大地が地球の様に丸い星ではなく、様々な書に記録されている通りの平面世界であると言う証拠なのかも知れない。
ともあれ朝のかなり早い時間に出たにも関わらず、この白虎の関を越える為に多くの人達が並んでいた。
江戸市街からここ迄は田園風景であり、旅籠の様な建物は見かけなかった、と言う事は俺達の前に並ぶこの人集りは、俺たちよりもずっと早くに江戸を出たと言う事だろうか?
だがよくよく見れば俺達が通ったのとは別の山側から関所前へと下ってくる道がある、どうやら前後に並ぶ人々の大半はそちらの道からやって来ているらしい。
「……あっちは日向温泉郷へと続く道だ、江戸を出る者達はあそこで一泊してから来る事が多い」
兄上に拠ると、関所を越えるのに必要な手続きが数日に渡る事はザラであり、そういう者達が長逗留し易いよう、関所の前後さほどの距離の無い所に温泉地が整備されているのだそうだ。
だが流石に1月近くも留め置かれるのは至極稀なケースらしい。
「と言う事は、関所を越えれば白猫温泉郷も直ぐ近くに有ると言うことでしょうか?」
俺の疑問の声に、兄上はただ黙って頷く事で肯定の意を示す。
山を挟んで江戸側が日向温泉郷、向こう側に有るのが白猫温泉郷と言う事の様で、今日中に俺の師匠と成る方を迎える事が出来そうだ。
「……まぁ、この人数だと日の有る内に向こうへと抜けれたら御の字と言った所だな」
どうやら、関所を越えると言うのは思った以上の大事の様である。
「よし、次の者!」
関所に着いてから更にどれほど時間が経っただろうか、中々進まない列の中ただ只管ジッと待って居る内に俺達の順番が回ってきた。
既に昼を軽く回った時間で、昼食は日向温泉から弁当売がやって来たので、それを買い求めたのだが正直値段に対して中身が見合っているとは一寸思えない割高な物だった。
兄上は長時間待つ事に成るのを最初から想定してたらしく、子犬の餌は3日分用意してきていたらしい。
ちなみに子犬は関所に付いた時点で体力を使い果たしたらしく静かに成り、昼食を食べ終わった時には完全に寝入ってしまい今は俺の腕の中である。
山間に築かれた巨大な関所、その門扉は固く閉ざされており俺達の前に抜けていった者達は、一度小さな小屋へと連れて行かれた後、門扉に開いた小さな通用口から中へと入って行った。
俺達も同様に中へと案内されるのかと思ったのだが、その小さな小屋や通用口では一緒に連れてきた馬はどう見ても通る事は出来ない。
「猪山藩、藩主猪河四十郎が嫡男、猪河仁一郎である。幕府より出立許可を受けておる、書状と手形を検められよ、そして開門を求める」
「確かに承った、今暫く待たれよ」
通常、大名の妻子は幕府の許可無く江戸を出る事は許されていない、だが武芸の修行や公的な行事等が有ればその許可は比較的簡単に下りる、その証明としての書状だ。
関所で特に警戒されているのは『入り鉄砲に出女』と言う言葉が有る通り、江戸への銃器の持ち込みと、大名の妻と娘その逃亡である。
銃が持ち込みを禁じられているのは、他の武器よりも容易に他者を殺める事が出来、数が揃えば少数でも大きな反乱を起こしうると見做されているのだ。
そして大名の妻や娘といった女性が江戸から出る許可が下りる事は、男子に比べると限りなく稀だ、基本的に女性は各大名家、各藩に対する人質なのである。
中には男装をして江戸を出ようとする女性も居る為、男女問わず関所を出る者は厳しく取り調べを受けるのだそうだ。
その結果、身元を偽ったり偽通行手形を使ったりして、関所を不正に抜けようとする『関所破り』をしようとすれば、軽くて打首、場合によっては更に獄門と呼ばれる晒首の刑にすらされる程の重罪であり、そうなれば武士でも町人でも一族郎党にまで連座する。
関所を回避して山道などの裏路を通って移動する場合にも『関所破り』とよばれるが此方の場合、人目に付かない程大回りをすれば大概は危険な鬼や妖怪の住処を通る事に成る為、まず成功する事は無いらしい。
後者の場合には後から発覚したとしても、何のお咎めを受ける事も無いのだそうだ。
どちらにせよ普通に考えれば、リスクが大きすぎる為そうある事では無いらしいが、後者のほうは多分一郎翁は常連なのではないだろうか。
だがそんな取り調べに時間をかけず簡単に出る方法が有る、それは俺達の持つ鬼切り手形の提示だ。
神々の力により世界樹や本人の魂とリンクしており、決して偽る事の出来ない物であるこの手形を開示する事で、何処の誰かと言う事は一発で証明出来るのである。
「猪山の末弟、鬼切童子殿で御座るな。手形を検める故失礼仕る」
子犬を抱きかかえ両手が塞がっている俺にそう声を掛け、お役人は腰に下げた手形を手に取った。
俺と兄上双方の手形を確認し書状を検める、その時間はほんの数分程度。
一組が小屋へと呼ばれその後門の通用口へと案内されるまでは、早くても20~30分は間が開いていた、その時間の差は歴然だ。
こんなにも簡単に済むので有れば、町民でも鬼切り手形取得していれば良いと思うのだが、武士ならば兎も角それ以外の階級の者は鬼切りとしての実績を上げ続けなければ、その資格を剥奪されるのである。
「猪河家中ご兄弟である事、確かに確認致しました。随行は馬一頭に犬一匹、此方も確認致しました。旅のご無事をお祈り致します」
そんな言葉と共にゆっくりと門扉が左右に割れていく、木製の所々金属で補強されただけのそれが、地響きにも似た音を立てて開かれていく。
「……ここを一歩でも越えれば、そこからはもう江戸州ではない。短い旅路では有るが気を引き締めろ」
江戸州内ならば江戸に常駐する数多くの鬼切り者によって、鬼や妖怪は戦場と呼ばれる場所に押し込まれており、まず人の住む場所へと出て来る事は無いが、一歩外に出たならばそれらが出没し、人を襲う事は決して珍しい話では無い。
流石に街道沿いや宿場にはそれらが簡単に近づく事が出来ないような処置がされているのだが、今度はそれを利用し旅人を狙う賊が出ることが有るのだそうだ。
鬼や妖怪と言う明確な人類の敵が居ると言うのに、私利私欲の為に他者を傷つける事を躊躇わない不貞の輩が居る事に驚きすら感じるが、江戸市中に腐れ街の様な場所がある事を考えれば、どうしても一定数はそう言う連中が居るのも仕方が無いのかも知れない。
場合によっては人間を切るかも知れない、それを思い一瞬だけ足を進める事を躊躇するが、意を決して前へと出る。
そして俺はこの世界へと生まれ出て初めて江戸から出た。




