八百九十七 志七郎、灯火を借り夜道で遭遇する事
何時もの茶店近くの船着き場で船を降り、閉店作業中の見世に声を掛けて提灯を借りる。
見世の屋号が入った提灯は店舗を持つ見世ならば大体何処でも貸出用の品を用意してある物で、出先で提灯が必要に成った時には其れを借りるのが割と一般的なのだ。
特に屋号入りの其れは見世の宣伝にも成ると言う事も有り格安で借りる事が出来るので有る。
但し格安とは言っても借りる時には一旦提灯と中に入れる蝋燭の代金を丸っと支払い、返す時に其の中から七割が返却されると言うのが一般的だ。
此れは提灯が壊れ物で有る事や、其の侭持ち逃げする様な馬鹿が全く居ないと言う訳では無い事から取られている措置で有る。
とは言え、一般的には此れもツケで支払うのが普通なので、実際に銭を遣り取りする様な事は無く提灯を返した成らば借り賃と掛け値だけが請求される物なのだ。
なので一旦満額支払って後から差額を返金を……と言うのは、掛け売りが認められない様な極々一部の無宿者や、借財の類を丸っと家法として禁じている猪山藩位の者であろう。
「志七郎様、提灯はあーしが持ちます。其の位はさせて下さい」
独り歩きならば兎も角家人と共に歩くので有れば、当然提灯を持つのは配下の者の役目なので、彼がそう言い出さなくてもそうする積りでは有った。
だが俺が命じるよりも先に、そうして率先して行動したいと意思表示をしてくれる事自体が、志摩の向上心の高さを示している様に思えて少しだけ嬉しい。
ただ……その根底に有るのが『俺に対する恩返し』と言う義務感から来る物かと思うと、仮にも三十路半ばまで生きた事の有る大人として、子供を縛り付けている様に思え少し心苦しくも有る。
けれども一度は問答無用で死罪を言い渡される十両を軽く超える額面を盗むという罪を犯した彼を、俺の配下とすると言う一種の司法取引とでも言う様な物で不問として貰った以上、志摩に他の生き方をする自由は無い。
故に俺は志摩を少しでもマシと言える待遇で扱い、彼自身が誇りを持って仕えられる主君で有る義務を負って居るのだ。
借りた提灯を志摩に預け黄昏時の道を歩いて行く、此の時間帯を表すのが『誰そ彼』と言う言葉が語源だと言う通り、通り掛かる者の顔すら氣を目に集中しなければ判別が難しい状況で有る。
特にこの辺りは大きな敷地を持つ大名家の屋敷が軒を連ねている所為で、其々の家の門近く以外は高い塀が有り、灯りらしい物は皆無と言って良い。
そんな中で志摩の手にした提灯の灯りは、其処に人が居ると言う良い目印に成るだろうし、逆に偶にすれ違う者が持つ其れも同様に人が通ると言う良い合図に成っていた。
……だからこそ少し先の辻から出てきた烏賊頭巾を被った提灯を燈して居ない侍の姿は逆の意味で異彩を放っている様に見えたのだ。
「何処の御家中の方かは存じませぬが、此の時分に提灯も灯さず何処へと向かわれるのでしょうか?」
其の男が佩いた刀の間合いに志摩が踏み込む二歩手前、俺は出来るだけ丁寧な口調を心掛けつつそう問いかけた。
頭巾を被り顔を隠して出掛けると言うだけならば、何処かの料亭なり遊郭なりに御忍びで遊びに行くと言うだけかも知れない、けれども提灯を灯さずに出歩くと言うのは流石に不審が過ぎる。
「……友人宅を訪ね、少々遅く成ってしまってな。今から帰宅する所で御座る、然程遠い場所でも無いからと提灯を持たずに出たが、横着せずに素直に借りて来れば良かったで御座るな」
名乗りもせず、そう言いつつも態々足を止め此方の間合いを測る様に上から下へと視線が動くのを見て、俺は即座に刀に手を掛けて志摩の前へと出る。
俺は提灯を目掛けて飛んできた居合の一閃を、同様に居合で以て受け弾き、其の侭八相の構えを取った。
「如何なる積りで刀を抜いたかは知らないが、我が家臣に手を出した以上は只で済むとは思うなよ? 志摩! 屋敷に走って応援を呼んで来い!」
受けた刀の手応えに異様な物を感じ背筋に冷たい汗が流れるが、俺は其れを振り払う様に志摩に逃げる様に命を出す。
「は、はい!」
志摩は氣功使いの元盗人だ、逃げると言う行動に関しては恐らく江戸州内でも上から数えた方が早いだけの技術が有るだろう。
その上で俺がきっちり視線で牽制してやれば、奴の脇を抜けて屋敷の方へと逃げ去る事は、然程難しい事では無かった。
「勘の良い子供共だ……まぁ助けとやらが来る前にお前を斬って逃げりゃぁ良いだけの事だし、殺る事ぁそう変わりゃしねぇか。其れに無抵抗な町人を斬るよか、氣を纏う侍を斬った方が妖力が付くからな……我が神への捧げ物に成れ」
頭巾で顔を隠している為にその表情ははっきりとは解らないが、想像するに其の覆面の下の表情は獲物を前にした肉食獣が牙を剥く様な笑みを浮かべているのだろう。
「……貴様、妖刀使いか!?」
人斬りが神への捧げ物と言うのは、どう考えても此の世界の神々に対する物では無く、異世界の神――邪神や邪教と呼ばれる様な者の行動だろう。
妖刀を破壊する事が出来るのは、神器や霊刀の様な神々の能力を宿した物だけで、其れを扱う者は多くの場合本人の歪んだ欲望を叶える為に異界の神に頭を垂れた者で有る。
そして何よりも厄介なのは、一度此の世界に顕現した妖刀は使い手が死んだとしても、破壊されない限りは新しい宿主を求め、手にした者の精神に干渉し意思を歪めて行くのだと言う話だった。
妖刀は異世界の神が自身の居る世界の中でも比較的強く、此の世界に有る神々の張った結界で弾かれる様な者を送り込む為に、その者を器物に押し込める事で作り出す物らしい。
そうして作り出された妖刀は此方の世界で血を啜り、肉を食らう事で元々の世界に居た頃よりも強い存在として『羽化』するのだ。
目の前に居る男が妖刀を異世界の神から直接授かった一番目の人間なのか、其れ共ある程度育った妖刀を手にし精神を歪められた被害者なのかは解らないが、少なくとも此処で俺が倒さなければ罪なき江戸の住人に余計な犠牲が出るのは間違いないだろう。
「くくくっ! 美しいだろう? 此の血の様な深い朱……血を吸えば吸う程に深く美しく成るのだ……そしてその分儂は生き永らえる事が出来るのだ! 儂と同じ歳の悪五郎があれ程に若々しいのだって、人に知られぬだけで同じ事をして居るのだろうて」
言いながら刀を顔の横へと持ち上げ目の高さで水平に構える、其の立ち姿は所謂『五行の構え』には含まれていないが、多くの流派で普遍的に見られる構えの一つで有る『霞の構え』と言う奴だ。
「さぁさっさと死んでくれ!」
そんな台詞と共に繰り出されたのは、俺の顔を狙った横薙ぎの振り払い。
霞の構えの名は、其の構えから繰り出される横薙ぎの一振りで、相手の目を潰す事で視界を奪う様が『相手に霞を掛ける』と言う様な事から付けられた……と言う様な話を前世の曾祖父さんから聞いた覚えが有る。
故に其の構えを見た時点で、そうした『剣道には無い一撃』を警戒して居たのが幸いし、俺は其の攻撃に合わせて八相に構えた刀を前へと押し出し峰で受け止めた。
其の手応えは刃金と刃金が打ち合った物にしては妙に軽いが、きっと此れが妖刀特有の感覚なのだろう。
同時に彼奴の台詞から、目の前の侍が生い先短い御老人だと言う事も理解出来た。
若い頃の様に動かない身体、少し動いただけで息が切れ、長時間の作業も夜更かしもが日々辛く成っていく……そうした老いの辛さにつけ込んだ異界の神が、妖刀を用いて人を切れば若返る事が出来るとでも空気を入れたのだろう。
「悪いが生き汚い爺にくれてやる程、俺の命は安く無いんでね。其れに我が祖父の名を汚す様な言葉を口にされた以上は、討ち取らねば家に帰れやしない。せめてもの武士の情け、苦しまない様に首を刎ねてやるよ」
全身を巡る氣を腕力と脚力に最大限割り振りながら、鍔迫り合いをしつつ俺はそう言い返すのだった。




