八百九十六 志七郎、灯火に着いて考え配下に覚悟をさせる事
一風呂浴びて外へと出ると、既に日は落ちかけ辺りは徐々に暗く成る時分と成っていた。
幸い町木戸が閉じられる亥ノ刻までには未だまだ時間が有るし、少し足の早い船を雇えば睦姉上の拵えた晩飯にも十分間に合う筈で有る。
風呂上がりで火照った身体で川の上を吹き抜ける風を浴びるのは、湯冷めして風邪を引く恐れは有るが、銭湯の中とは違い氣をきっちり纏えば、そんなことも無く帰れるだろう。
「んじゃぁ俺っちはさっさと帰らせて貰うぜ? 提灯を借りる銭が勿体ねぇかんな」
俺がそんな事を考えていると、断狼の義兄貴はそう言うと、即座に踵を返して江戸の雑踏の中へと踏み出して行く。
「今日は本当に有難う御座んした! お陰様で怪我一つ無く初陣を超える事が出来ました! 此の御恩は何時か必ずお返し致しやす!」
其の背に深々と頭を下げて御礼の言葉を口にすれば、彼は只右手を持ち上げ小さく降ると其の侭人混みの中へと紛れて消えた。
氣を纏う事の出来る俺達は、提灯等無くとも闇夜の中でも普通に見通し歩く事は十分に可能では有るが普通は其れをしない。
夜に街行く者が提灯を吊るすのは、灯りで前や足元を照らす為と言うのも有るが、だからと言って見える成らば点けなくて良いと言う物では無い、夜道を灯りも無く歩く者は盗人や辻斬りを企てている不埒者と見做されても当然とされて居るのだ。
前世の世界の感覚で言うならば、街灯が無数に有り十分に明るい市街地を走る自転車や自動車が無灯火で走るのに近い感覚だろうか?
自分の側は確かに見えるのだろうが、対向車線や交差点で無灯火の車がいきなり出てくれば、しっかりと電灯を点している相手と比べれば、どうしたって発見が遅れる物である。
電灯を点けるのは自分が見易くする為も有るが、其れ以上に自分の存在を他者に知らせる為と言う側面が強いのだ。
そして氣を纏う事が出来、夜の闇を見通す事が出来るのが当たり前で有る火元国の武士が、夜間出歩く際に提灯を持つのも、其れと同じく自分が此処に居ると言う事を他者に周知し、己が夜盗や辻斬りの類では無いと知らせる為なのである。
断狼の義兄貴が住む腐れ街近くの貧乏長屋までは結構な距離が有り、普通の巡回船を利用したり歩いて帰ったので有れば、町木戸が閉じられるより先には帰れるだろうが、其れでも提灯無しでは不審者扱いを受ける時間には成るだろう。
けれども彼は武士階級に有る者では無いので、市街地を走っても何の咎めを受ける様な事も無く、氣功使いの増幅された身体能力と瞬動と呼ばれる氣の運用を併用すれば、提灯が絶対に必要に成る前に帰り着く事も可能なのである。
勿論、此処等辺の様な市街地中心部の混み合った道で、そんな真似をして人を跳ねてしまえば、傷害其の他の罪で番所へとしょっ引かれる事に成る。
が、日が落ちればさっさと寝るのが当たり前の此の江戸では、此の時間帯ならば一部の色街なんかを有する様な繁華街とでも言うべき道以外は、然う然う出歩く者も居なく成っていく頃合いなので、少し中心部を離れれば人通りは殆ど無く成るだろう。
そうなれば其れこそ江戸と大川の間を二刻以内に駆け抜けると言う超高速籠屋の『猿組』並の速さで走って帰るんだろうし、彼の方はもう気にしなくても問題は無い。
「よし、志摩。俺達は猪牙船を掴まえて帰るぞ。晩飯の時間に間に合わないと残りを全部泰助辺りに食われてしまうからな」
猪牙船と言うのは猪の牙の様に細長いと言う意味で名付けられた小舟の事で、船足が早い為に荷運びにも交通にも使われている物だ。
ただ乗せる事の出来る人数が比較的少ない為に、定期巡回では無く一艘毎に雇われる様な形で運行されて居る、向こうの世界の感覚で言うならばバスでは無くタクシーに相当する船と言えるだろう。
ちなみに猪牙船を最も使う者は仕事終わりの此の時間帯に吉原へと下る者達と、逆に朝帰りで利用する大名家や大店の者と言った感じに成る。
下りは緩やかとは言え川の流れに乗る事が出来るので少ない力で船を動かせる為、船賃は割と安いのだが逆に登りは流れに逆らう必要上、どうしても安い値段での運行は難しい。
其の為に吉原に向かう際には船を利用するが、朝帰りに船を利用するのは比較的裕福な者と言う事に成るので有る。
そんな感じなので此の時間に船着き場へと行けば停泊して居る猪牙舟は居ないが、客を捕まえに大名屋敷街へと登っていく船に声を掛ければ、割安とは言い難いにせよ、朝一の船に比べれば安い銭で乗る事が出来るのだ。
なお俺は普段から四煌戌に乗って登城し、当然帰る時も彼等の背中で移動するのだが、今日は銭湯に寄る事に成った時点で『送還』の魔法を使い先に送り返したので、船に乗る必要が有るのは人間二人だけである。
必要が有れば何時でも召喚出来るからこそ、サクッと送還すると言う選択も取れるし、万が一船を使う事に成った場合、あのデカい図体を連れてじゃぁ船賃がトンデモ無い事に成るからってのが最大の理由だけどな。
「あーしの所為で態々銭湯に寄る羽目に成ったんですから、船賃はあーしに出させて下さい。人喰い鬼の討伐報奨金は未だ残ってますし、素材の分の銭も後から入って来ますんで」
江戸城近くの銭湯から最寄りの船着き場は、城の周りに有るお堀に面した場所に有る為、普通に歩いても五分と掛からず辿り着く道程だ、其処に着くまでの間に志摩が唐突にそんな事を言い出した。
「其れでお前の気が済むなら構わないが……俺のお付きとして一緒に行動する様に成ったら俺の財布を丸っと預ける事に成る訳だし、銭に関してはあんまり気にし過ぎ無くて構わんぞ。鬼切りで稼ぐなら船賃位は端金だしな」
江戸州内でも突発的な遭遇に頼るのでは無く、ある程度稼ぎの見通しが立つ戦場に限っても、今の俺が本気で鬼切りに勤しめば四煌戌の食餌の肉を確保した上で、必要無い素材を売り払えば一日で十両を稼ぐのも難しい話では無い。
そう考えると、高々一分は端金と言い切って間違い無い額面で有る。
特に今は火取の伯父貴と一緒に倒した八岐孔雀の討伐報奨金として受け取った千両も丸っと残っているし、ぶっちゃけ人喰い鬼一匹分の銭なんか誤差の範疇と言える程なのだ。
それでもつい先日まで大怪盗として大枚を盗み出して居たとは言え、腐れ街で暮らすドが付く貧民達と然程変わらぬ程度の生活で、飢え死に一歩手前まで行った志摩の懐具合を考えれば十分大金の範疇に入るのだろう。
この辺の感覚の差は本気で是正して行かなければ成らないなぁ……何せ今俺が言った通り、彼が俺の配下の者として行動を共にする様に成ったならば、財布を預け会計の際には彼が俺の財布から銭を出すと言うのを任せる必要が有るからだ。
前世の世界でも下の者を連れて食事に行った時に上の者が奢ってやる……と言う行動自体は普通に有る物だが、流石に財布自体を持たず全ての会計を使用人に任せるなんてのは、極々一部の上流階級だけの風習だろう。
けれども此方の世界の武士や公家ならば、家臣や家人を連れて出歩くのが当たり前な上に、そうした階級に居る者達の世界では『銭』は下賤で汚れた物と言う認識が一般的で有り、銭に触れなければ成らない支払いを下の者に丸投げするのが当然なのである。
火元国で取引の殆どがその場で銭を遣り取りしない『掛け売り』が一般的なのは、そうした上流階級の者が銭に触れたく無いから、品物や食べ物をその場で受け取っても銭は後から取りに来い……と言うのが理由なのかもしれない。
そんな事を考えながら、俺は船着き場の前を通り掛かった上りの猪牙舟をつかまえ、其れに乗り込むのだった。




