八百九十五 志七郎、澄んだ湯に浸かり腐れ街を知る事
「うわ! すげぇ……銭湯なのに湯が澄んでて底が見える……」
湯船に移動するなり唐突にそんな声を上げたのは、俺と違って町民階級の者故に銭湯には入り慣れている筈の志摩だった。
「ああ、此処は客も多いし常に新しい湯をがんがん沸かして殆ど掛け流しに近い状態だから、何時来ても新鮮な湯に入ぇれんだ。んでお前が知ってんのは多分腐れ街近くのボロ銭湯だろ? 彼処は薪も水も吝嗇ってて二、三日湯を代えない事すら有るかんな」
頭の上に畳んだ手拭いを乗せつつ、そう答えた断狼義兄貴の言に拠れば、腐れ街の近くには『幽霊銭湯』等と通称されるボロい銭湯が有るそうで、其処は他の銭湯よりも一段安い料金で営業して居る変わりに湯の状態は入れ替えた当日以外は最悪と言って良い物らしい。
一応、江戸でも銭湯組合の様な物は存在して居り、其処で最低限の料金や衛生に関する規定なんかの取り決めはされて居るのだそうだが、腐れ街に住む江戸の中でも特に貧しい者達も入りに来る件の見世は例外的にそうした『最低限以下』の営業を黙認されいると言う。
そんな衛生状態では客に伝染病の患者の一人も居れば一発で感染拡大しそうな物だが、その見世に行くのは其れこそ何時死んでも不思議は無い様な貧乏人か、小銭を稼ぐ程度の事しか出来ない小悪党位な者なので、病人が出ても誰も気にしないのだそうだ。
それに腐れ街の中にも違法営業の銭湯が存在して居るそうで、そっちの方は番所に人相書きが出ている様な大物と言って良い悪党なんかが入りに来る場所で、逆に組合所属の銭湯よりも大分割高なのだと言う。
怪盗山猫として荒稼ぎして居た志摩は、そっちの銭湯に行って居ても不思議は無いと思ったのだが、聞けば彼は悪徳商家から盗み出した銭の大半を孤児院の子供達や腐れ街近辺の貧しくとも正しい者の家に投げ込んで居り、自分で使う分は然程残さなかったのだそうだ。
……そう言われて見れば、志摩が盗み出した銭は合計で数万両に及ぶとも言われて居り、其れを溜め込んで居たならば俺に拾われた時の様な餓死寸前と言う状況に成るまで困窮する事は無かっただろう。
そんな訳で、志摩は俺に拾われ猪山屋敷の風呂に毎日入れる様に成るまで、どうしても身体が痒く成って仕方がない様な状態に成ってから、幽霊銭湯に行く……と言う生活をして居たのだそうだ。
「つか……その銭湯もそうだけど腐れ街が発端に成って伝染病……流行り病とか出たら割と洒落に成らないんじゃぁ無いか?」
前世の日本人は世界的に見れば病的な潔癖症の民族だと言われて居り、そんな日本人が徹底した公衆衛生の下で利用する銭湯ですら、水虫なんかの病気を貰う可能性の有る場所だった事を考えると、件の銭湯は割と本気で不味い様な気がしたのでそう問い掛ける。
「腐れ街の中で病人が出る分にゃぁ死んでも誰も困らねぇって事だろさ、其れにあの辺に住んでる俺っち見たいな者でも、彼処はよっぽどの事が無けりゃ行かねぇよ。普段はちっと足を伸ばすか湯船が近くを通るのを待つかするさね」
湯船と言うのは今俺達が浸かっている浴槽の事では無く、風呂を積んで江戸の川を巡回して居る移動式の銭湯とでも言うべき船の事らしい。
基本的に火の使用に制限の有る江戸の街だが、川の上で営業する湯船に関しては、万が一失火を出しても燃えるのはその船だけで、街に被害が出る可能性は低い……と見做されているらしく陸上の銭湯よりも営業する為の規制は少ないのだそうだ。
其れに船の上での銭湯営業と言うのは汲んで沸かす水が周りに腐る程有る為に、陸上の銭湯よりも基本的にお安いのだと言う。
何せ陸上の銭湯で湯に使われている水は、飲用に使われているのと同じ『井戸』の水が使われて居るのだが、この井戸実は地下水を組み上げる為の物では無く江戸の市街地の地下に埋められた『水道』の水なのだ。
向こうの日本の様に水道の利用量を計って利用料を決定する様な装置は無い為に、井戸の有る屋敷や長屋は井戸一つに対して固定の水道利用料が掛かるのだが、銭湯はその数十倍の料金が徴収されて居るらしい。
其れでも組合の銭湯は大人一人十文小人一人五文と、向こうの世界の銭湯と比べても格安なのは此方の世界でも火元人は病的な潔癖症の民族だって事なのだろう。
ちなみに件の幽霊銭湯の値段は大人小人問わず一人五文で、湯船の方は大人五文の小人四文と微妙に湯船の方が安いらしい。
にも拘らず、なぜ腐れ街の住人が幽霊銭湯の方を利用するのかと言えば、余りにも汚過ぎる者が湯船や他の銭湯を利用しようとしても『湯を汚すから』と断られるからだと言う。
なので腐れ街周辺に住む真っ当な者は、其処まで汚れる前に他の銭湯や湯船を利用し入浴するか、寒くない季節ならば自宅で大きめの桶でも使って行水してある程度汚れを落としてから風呂屋へと行くのだそうだ。
「へー、腐れ街の外と中じゃぁ其処まで生活違うんですねぇ。あーしも孤児院を抜けてからは完全に腐れ街に沈んだ様な身だったんで他所の事ぁ知らねぇからなぁ……志七郎様に恥をかかせる前に教えて貰って有難う御座んす」
孤児院を抜け出した志摩は追手が居た訳では無いけれども、役人の類に見つかれば強制的に元々居た場所へと連れ戻されると思い、役人の手が届かない場所だと噂に聞いていた腐れ街へと逃げ込んだのだそうだ。
そして其処で先日会った七兵衛親分に拾われ、腐れ街での生活流儀を学んだと言う訳で有る。
「おう、気にすんな。この辺の事も含めてもこの間のぬっぺら王の肉分の恩は返しきれちゃぁ居ねぇからな」
家族……厳密に言えば唯同じ長屋に住む他人だが、其れでも家族に等しい人物の命を結果的に救った恩を返すならば、其れに等しい奉公が必要なのだと断狼義兄貴は気負った素振りも無く言い放つ。
「にしても……俺っちも腐れ街の中までは入った事ぁ無ぇが、彼処の中にゃぁ井戸も通ってねぇんだろ? どうやって銭湯なんて馬鹿見たいな水を必要とする商売やってんだろうなぁ」
腐れ街から然程離れていない場所に住む断狼義兄貴も、実際に其の中まで好奇心で踏み込む様な事はしてこなかったらしく、志摩が言っていた貫目の高い犯罪者向けの銭湯とやらがどうやって営業して居るのかと首を撚る。
「腐れ街は元々湿地だったって話だし、水道じゃない井戸を掘って其処から水を得て居ても不思議は無いんじゃぁ無いか? 其れか井戸の無い長屋に住んでる者みたいに他所から来る水屋から買ってるとかも有り得るか?」
長屋には多くの場合、共用の井戸と台所と便所が有るのだが、店賃の安い長屋だとそうした設備が無い場合も有るのだと言う。
其の場合、瓶を担いだ棒手振りが売っている水を買い、食事は煮売屋の惣菜と握り飯を買い、便所はその辺の草叢で済ませる……と言う様な生活に成るらしい。
基本的に腐れ街の中にあるボロ屋の類にはそうした設備は無く、水が欲しけりゃ少し離れた川で汲んでくるか水屋から買い、食い物は路上に放置されて居る物や飲食店の裏の塵箱を漁り、便所は其処らの物陰で……ってな生活だと言う。
「まぁ小便は兎も角、糞は拾って持っていく奴が居るから、何時までも放置されてて臭いままってな事ぁ無いですけどね、其れこそ腐れ街の中にまで屑屋の連中は来て糞でも何でも拾って買ってくれるんですから」
屑屋と言うのは其の名の通り塵屑なんかを拾って歩く商売の者達で、紙屑は勿論の事生塵だろうと野糞だろうと火を炊いた後の灰や煤だろうと片っ端から拾い集めて再利用する事で銭を得るのだと言う。
前世の世界でも古新聞や古雑誌、空き瓶に空き缶なんかを拾って歩き、再利用業者に持っていって金に変えて生活費を得ている路上生活者なんかの話は聞いた事が有るし、そう言う商売が有っても不思議は無いのだろう。
そんな事を思いながら、俺は肩まで湯に浸かりゆっくりと温まるのだった。
諸般の事情で次回更新は土曜日では無く日曜日深夜となります
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