八百九十四 志七郎、性的嗜好の歪みを恐れ洗髪料を欲する事
脱いだ着物を纏めて鍵付き戸棚に入れ、木板の鍵を取ると其れを此の銭湯の従業員に手形と一緒に預ける。
鬼切り手形は当人以外の者が手にした時には、其れと分かる様に赤く染まるので、本人確認をするのには此れ以上無い程に便利な道具なのだ。
こうして組合わせで預けて置けば、入浴中に鍵を無くす様な事にも成ら無いし、人様の財布や着物に手を出す不埒者を見世の客から出さない為の営業努力の一環と言えるのかもしれない。
なお血塗れの鎧と着物を洗濯女に預けた志摩は、其れ等を後から猪山屋敷に配達して貰える様に手続きをし、代わりの着物を借りて其れを同じ様に鍵付き戸棚へと放り込んでいた。
前世の感覚で考えると少女と見紛う様な志摩が銭湯で男湯に入浴しようとすれば、不埒な視線を向ける児童性愛者が居そうな物だが、そもそも此方の世界の風呂屋には男湯、女湯と言う区分け自体が存在しない。
地方の温泉なんかだと敢えて別けている場所も有るのだそうだが、男女の人口比率が極端な此の江戸では区分する方が非効率的なのだと言う。
故に混浴が一般的なのが江戸の銭湯なのだが、だからと言って男共が女性をジロジロと見る様な真似が推奨されて居る訳では無い、銭湯では『見ざる、言わざる、聞かざる』の所謂『三猿』が常識なのだとされて居るのだ。
なので幼い少女と見紛う様な志摩が、無数の燭台で照らされた脱衣所に居た所で、不躾な視線を送る様な輩は殆ど居ない。
まぁ前世の世界でも混浴では無い銭湯に男親が幼い娘を連れて行く様な事が有れば、そうした娘に興味の有る変態が視線を向ける事は有っただろうが、それとて可能な限りバレない様にしていた筈だし、露骨に視線を向ける様な事をしなければ問題無いのだろう。
「おう脱いだらさっさと入るぞ。あんまり遅く成っちまうと木戸が閉められちまうかんな」
俺達同様に全裸に成った断狼義兄貴が前を隠す事も無く手拭いを肩に掛けて、そんな台詞を口にする。
志摩の方も手拭いで前を隠す様な事をして居ない辺り、此方の世界では男が前を隠すのは恥ずかしい行為なのかもしれない。
……逆に志摩の場合は前を隠すと其れこそ少女と勘違いされるから、敢えて隠していないのかもしれないが。
兎角、俺も二人を見習って前を隠す事無く、促された通りに浴室へと足を踏み入れた。
其処は僅かな灯火が天井近くを照らしているだけで、極めて薄暗く湯気が立ち込めている為に、氣を目に集中しなければ自分の足元すら見るのも難しい様な空間だった。
ただ足の裏の感触や時折聞こえる『かぽーん』と言う音から察するに、どうやら床面は化粧煉瓦張りで、手桶なんかは木製なのだろう。
「此処じゃぁ氣を纏うな。三猿を破って人様を盗み見してる下衆野郎と勘違いされんぞ」
と、前に立って先ずは洗い場へと先導してくれて居る断狼の義兄貴がそんな忠告をしてくれたので、俺は慌てて氣を纏う為の呼吸を敢えて乱す。
「まぁ此の時間なら女が風呂に入ってるってな事も無ぇだろうし、若い身空で衆道に染まった陰間の類と勘違いされるだけかも知れねぇけどな」
向こうの世界でも一部の銭湯が衆道家がその場で出会った『同士』と致す、所謂『発展場』に成っていると言う様な話は聞いた事が有るが、そう言う部分は此方でも然程変わり無いらしい。
尻を掘るのも掘られるのも御免な俺は、普段から無意識に纏っている氣すらも出ない様に、更に気をつける事にする。
「志七郎様、お背中お流し致します。普段はあーし等下人と御侍様が一緒に入る様な事ぁ無ぇですから、此の機会にきっちり御奉仕して恩を返さねぇと!」
……頼む志摩よ、お前の可愛らしい顔を赤らめてそう言う台詞を言わないでくれ、俺にはそっちの気は無いし息子さんに問題すら抱えてると言うのに、性的嗜好まで歪んでしまったら洒落に成らん。
そんな事を思いながら、俺は兄貴と志摩に挟まれて洗い場まで移動するのだった。
洗い場は前世の銭湯とは違い蛇口や鏡の様な物は無く、手桶を突っ込んで湯を掬い易い高さの小さな湯船の周りがそう言う区分になって居るらしい。
木の椅子に並んで座った俺達は、番台で買った使い捨て前提の比較的安い天糸瓜束子を湯に浸し、同じく買った小さな石鹸を其れに塗り込み泡立て身体を洗う。
前世の世界では銭湯で湯に浸かる前にする事と言えば先ずは掛け湯だったが、毎日風呂に入れる者ばかりでは無い此方の世界では、最初に身体をきっちり洗ってから湯船に向かうのが作法だと言う。
「ごしごしご、ごしごしごしの、ごしごしご」
背中を流したいと言いう志摩の願いを無下に断るのも躊躇われた為に、俺は彼に背中を預けその間に此方は断狼義兄貴の背中を流す事にした。
こうした触れ合いは、裕福とは言い難いとは言え町人としては一般的と言える家の出の断狼義兄貴は慣れた物の様だが、悪徳孤児院で育った志摩に取っては逆に『幸せな家族の象徴』的な感じで憧れていた物らしく、俺の背を洗うのもとても楽し気な声を出している。
一通り背中を擦り終わったら俺と義兄貴は自分で前を洗い、志摩はやっと自分の身体を洗い出す。
そうして一足先に身体を洗い終えた俺達は、頭から湯を引っ被り全身の泡を流してから、再び石鹸を泡立てて頭を洗う。
残念ながら普段家の風呂場で使っている洗髪料や中和剤は智香子姉上御手製の錬玉術に依る産物で、一般的には石鹸で髪を洗って臭いを押さえた専用のお酢で中和するのが普通なのだ。
ちなみに洗髪料や中和剤は何方も可也人気の有る品だそうで、月に一度大量に生産されては御用商人の悟能屋に纏めて卸されているが、一滴足りとも残る事は無く捌けていくと言う。
髪は女の命と言うが……やはり専用品を使った方が圧倒的に綺麗に仕上がると言う事らしく、見合い前には男女問わず其れを買い求める者が高騰した値段を見て、一部の豪商や比較的裕福な武家以外は諦めるか、無謀な鬼切りで命を張るかの何方かだそうだ。
今の所は豹堂家の望奴が其れを生産し卸したりはして居ないそうで、智香子姉上の調合した物だけが市場に流れている状況なので篦棒な儲けを出しているが、北方大陸に留学している者が戻ってくれば少しは安く成るのだろうか?
いや多分、鬼切りを安全にする為の術具や霊薬の生産が優先されて、美容品と言う贅沢品の値が下がる程に作られる事は無いかもしれない。
実際、望奴が其れを作らないのは、智香子姉上の財布に手を突っ込む行為だと言う事も有るのだろうが、其れ以上に御近所さんで有る小普請組の幕臣から受ける霊薬や術具の生産に追われているからだろう。
そもそも火元国に古くから伝わる霊薬を作れる薬師は火元国中何処にでも……とまでは言わないが、小藩で有っても藩都に行けば最低でも一人は見つかるが、外つ国渡りの術で有る錬玉術を扱える者は今の所は智香子姉上と望奴しか居ないのだ。
そしてたった二人で江戸中の術具や霊薬の需要を賄える訳では無く、二人は依頼を選り好みする事が出来る立場だと言える。
そんな彼女が月一とは言え、洗髪料や中和剤を定期的に卸し、猪山藩屋敷の風呂場にも設置して居るのは、概ねの女性が持つ『美への執念』を甘く見ていない証左と言えるのでは無かろうか?
俺としては石鹸で頭を洗いお酢で仕上げる……と言うのには少々違和感が有るので、旅立つ前に洗髪料と中和剤の調合法は習って置いた方が良いかも知れないな。
と、そんな事を考えながら頭を洗い終えお酢で〆てから、臭いが消えるまで何度も湯を被り、其れから三人揃って湯船へと向かうのだった。




