八百九十一 志七郎、義兄を頼り志摩決意する事
武家に縁の有る者が初陣に出ると為れば、家中から先導役とでも言うべき者を出して付き添わせるのが通例で、其れを他所の者に任せたりするのは御家の恥とされる事も有ったりする。
普通に考えれば俺が付き添えば良いのだが、運の悪い事に海外渡航前に前倒しで来年度分も進級試験を受ける為に、特別授業を組んで貰って居り自分の予定も自由に決める事が出来ない状況なのだ。
では他の手の空いている家臣が……と言う選択肢だが、此方も父上が国許へと帰っている関係上、屋敷に残っているのは母上達女性陣の護衛なんかの為に必要最低限度の人員だけで、此方も不用意に手を割く事は出来なかったりする。
次に思い浮かぶのは兄上達の誰かに頼むと言う方法だが、仁一郎兄上は千代女義姉上と野球の本戦開幕前に行われる公開試合の観戦に行く約束をして居るそうで、婚約者との先約を断らせる訳にも行かず駄目。
信三郎兄上は生まれたばかりの子供と未だ出産前の愛妾さん達の世話と、食い扶持稼ぎで忙しいので小鬼の森に行ってくれとは一寸言い辛い、いやその分手数料なんかを出せば良いのだろうが、実の兄弟間で銭の遣り取りは生々し過ぎて余りやりたく無い。
んで義二郎兄上は実の兄で有る事は間違いないが、既に他家へと婿に行ってしまった相手なので、やはり相応の礼を包まねば成らない辺り好ましいとは思えないのだ。
と成ると後頼れそうなのは義理の兄に成る二人だが伏虎義兄上の方は父上と共に国許へと戻っているのでどう考えても駄目で、最後に残ったのは断狼の義兄貴だけと言う事に成る。
「おう、お前さんがぬっぺら王を獲って来てくれたお陰で、ウチの長屋の者が助かったからな。その恩返しに成るってぇなら子供の初陣の一つや二つ面倒見てやるぜ」
そんな訳で以前俺が着ていた亀甲鎧四式を胸に描かれた家紋だけ上から塗り替えた物を身に纏った志摩を連れて、義兄貴の住む長屋へと朝早くから押し掛けたのだが、彼は気を悪くした様子も無く即座にそんな返事を返してくれた。
「義姉さんの話じゃぁお澄さん……二つ隣の部屋に住んでる大工の女房だがよ、ぬっぺふほふの肉でも回復仕切るか怪しい位に難産の負担が酷かったらしくてな、丁度良くぬっぺら王の肉を睦っちゃんが持って来なけりゃおっ死んでたんだ」
件のお澄さんと断狼義兄貴は直接血の繋がりが有る家族と言う訳では無いが、こうした長屋に住む町人達は大家が親で店子が子供の疑似家族とでも言う関係なのだそうで、長屋の誰かが困難に直面すれば助け合うのは当然の事だと言う。
そして同じ様に長屋の誰かが恩を受けたならば、其れを変わって返す事が出来るならば、率先してやるのも又当たり前の事なのだそうだ。
実際、義兄貴の兄嫁が産後の肥立ちが悪く苦しんで居る時、睦姉上がウバノミルクを調達してくるまで、その子供の面倒は丁度近い時期に上の子を産んでお乳が出ていたお澄さんからの乳貰いで過ごして居たと言うのだから、その子達は本気で兄弟同然と言えるだろう。
『遠くの親戚より近くの他人』と言う言葉は前世の世界にも今生の世界にも存在して居り、実際江戸に上がって来た本人は兎も角、江戸で生まれ育った二代目三代目とも為れば、何か有れば国許の親戚よりも同じ長屋の他人を頼るのが普通なのだそうだ。
その辺の感覚は同じ集合住宅と言う括りでも、隣の人の顔すら知らない前世の世界のマンションやアパートと言うよりは、寮や下宿屋の類……或いはシェアハウスやルームシェアと言った物の方が近いのかもしれない。
特に此処等の比較的店賃の安い長屋では、個々の部屋毎に竈は用意されておらず、井戸の側に有る共同の台所で食事を用意するそうで、薪代の節約の為に飯も長屋の住人全員分を纏めて焚くのだと言う。
つまり同じ長屋の住人は正に『同じ釜の飯を食った仲』な訳で、家族同然と断言するのも当然と言えば当然なのかも知れない。
「睦っちゃんとの祝言は未だ先だけどよ、猪山の御殿様にゃぁ内々の事たぁ言え、来年の睦月迄にゃぁ猪河家の家格に見合うだけの結納の品を用意しとけって話を貰ってるかんな。こりゃ実質嫁取り許可見たいな物だし、そーなりゃ御前様は俺っちの義弟だ」
……えーっと、睦姉上は俺の四つ上だから今年は数えで十四歳で、来年結納なら十五歳だから此方だと適齢期って事に成るのか?
睦姉上の誕生日が何時なのかは知らないので満年齢換算は即座には出来ないが、一歳から二歳引くと考えると……結納時点で満十三~十四歳、其処から暫く経ってから正式な祝言を上げるんだとしても恐らくは満十五歳位でって事に成る。
確か断狼義兄貴は信三郎兄上と同い年だと言う話だから、今年数えで十六歳と二人の年の差は二歳だし、ロリ婚ダメ絶対と言う訳では無い。
でもまぁ義兄貴と同い年の信三郎兄上に既に子供が居ると言う事を考えれば、此方の世界的には無問題な筈だ。
「恩義を抱えたまんまで義理の兄弟ってのも座りが悪いしな、ぬっぺら王の肉の件は此処等できっちり返して置きたい訳よ。んでそっちのが初陣に連れてく奴だよな? 見た所そこそこ出来そうだし、小鬼の森なんて吝嗇な場所じゃぁ無くても良いんじゃね?」
断狼義兄貴は『武勇に優れし猪山の』と謳われる我が家の父上が、可愛い末娘を嫁がせても良いと認めた者だけ有ってその武腕は生半可では無い。
実際『鴻鵠落とし』と言う二つ名を背負う彼は、鬼熊の毛皮を加工した防具を身に纏う事が出来るだけの腕っこきで有る。
得物の方も腰鉈は山犬の牙を練り込んだ刃金を用いた物で、主武器の短弓も古老妖木樹の枝で作った本体と首縊りの木の蔓の繊維を使った弓弦と、侍でも生半可な者では手にする事も難しい品ばかりなのだ。
彼の二つ名で有る鴻鵠落としと言うのは、空高くを飛ぶ白鳥の妖怪の群れをその短弓で誰よりも多く撃ち落とした事に由来する物なので、その弓が弱弓の筈が無い。
「あーしが本格的に武芸を学んだなぁ此処数ヶ月の話でやす。そんなあーしでも小鬼の森より上で戦えると思いやすか?」
断狼義兄貴の提案に志摩は懐疑的な声でそう問い掛ける。
「俺っちが見た所、軸の通った体捌きが出来てるし、少なくとも手羽先や豚足辺りに遅れを取る事ぁ無ぇだろよ。妖怪狩りじゃぁ無くて鬼切りの方での初陣にしたいってぇなら、兎鬼か……群れじゃ無く一対一に拘るなら人喰い鬼ってのも手だわな」
小鬼は江戸州に出る鬼の中では下から数えて二番目に弱い雑魚で、小鬼の森には其の小鬼と、其れより弱い最弱の犬鬼位しか出現しない場所で有る。
其の為、氣を纏えぬ一般町民の初陣と言えば此処と言う場所で有り、数えで五歳の満年齢三歳と言う幼さで初陣を飾った俺の様な特殊な例でも無ければ武家の者が行く場所では無い。
対して兎鬼は単独での戦闘能力で言えば小鬼と同等か少し上程度でしか無いが『即死攻撃』と言う危険な能力が有る為に、手練の侍でも単独で群れを相手取る様な事が有れば、命を落とす事も珍しくは無い相手で有る。
そして人喰い鬼と言うのは、其の名の通り人を野菜の様にバリバリと食い散らかす危険な鬼で、外つ国では『オーガー』と呼ばれたりもする此の世界では割りと何処にでも現れる一般的な強敵と言える存在だ。
人喰い鬼は同族すらも食事の対象としか見なさない種族だそうで、繁殖期に人に類する種族の女性を拐う時以外は、出会ったら倒すか食われるかの二択に成ると言う。
江戸州内に出現する鬼や妖怪の中では中の上と言った位の強さに区分されるが、氣を纏えぬ町人階級の鬼切り者が倒す事の出来る限界とも言われている鬼でも有る。
つまり人喰い鬼を相手に一対一で倒せたならば、武士として一人前と言っても間違いの無い相手と言える訳だ。
なお俺は未だ人喰い鬼と戦った事は無いが、多分今の俺ならば十分に倒せる相手だとは思うし、鬼熊の討伐歴の有る義兄貴も楽勝だろう。
問題は志摩の武術が人喰い鬼を相手に出来る程に練られているかと言う事だが……。
「御師匠様が国許に帰る前にあーしの腕前は、侍を名乗っても不自然じゃぁ無い所まで来てると言って貰えました。其れを証明するにゃぁ人喰い鬼を倒すのが一番ですよね?」
決意を秘めた目をした志摩がそう言ったのを聞いて、断狼の義兄貴はニヤリと好戦的な笑みを浮かべたのだった。




