八百八十九『無題』
陸地の魔物なんて自分の身だけで無く船も守って戦わねば為らない大海の魔物に比べれば所詮は雑魚に過ぎない……此の土地に来るまで俺は本気でそう思っていた。
戦い方だって潮の力で不規則に揺れ動く船の上や、息をする事も儘ならない水中に比べれば、しっかりと立つ事の出来る地面での戦いなんてのは児戯に等しいとすら考えて居た。
何せ陸地に生きる盗賊共や山賊共は、何奴も此奴も自分より弱い真面目に生きる者達に暴力を振るって略奪をするだけの屑ばかりで、同じ賊と言う字を背負う自分達『海賊』とは別物だと思っていたのだ。
勿論、海賊の中にも旅客船や運搬船なんかの堅気の船を襲い、略奪の限りを尽くす様な下衆が居ない訳じゃぁ無い。
けれども俺達の一味や付き合いの有る私掠船乗り達は、そうした外道な略奪の結果として賞金を掛けられた賞金首を狩ったり、古の海賊が隠したお宝を探したり、戦争中に敵国の軍船を襲ったりと……堅気に迷惑を掛ける様な稼ぎは絶対しなかった。
故に俺達『虎乙女の団』に所属する男達は、従兄の義二郎見たいな例外を除けば、陸地に生きる大半の男よりも強いのが当然だと本気で思って居たのだ。
けれども其れは所詮は子供の思い上がりだった……と、御袋の後を継いで船長の座を得る為の条件として出された『猪山藩での元服の儀式』で思い知らされた。
猪山藩と言う場所に生きる者達は、その殆どが魔物の血を引いた異能の存在で、特段魔物の能力を引き継いで居ない者でも氣を纏うのは当たり前、其れに加えて武芸の腕前だって俺を子供扱い出来る様な者がごろごろ居たのだ。
そして実際に元服の儀式で有る『北側斜面を突破して外の人里まで降りる』と言う段階に至っては、空の見えない鬱蒼とした森の中を、平な場所なんか殆ど無い斜面を登り、雷を落とす鹿の頭を持つ魔物を狩りつつ突破すると言うのはそう簡単な物では無かった。
鹿の落とす雷は単発ならば、雷帝魚を相手にするよりも容易に躱せるし、食らっても一発でどうこう成る程の威力は無い、けれども一発雷が落ちるとその音を聞きつけて鹿共が次々とやって来るのだ。
一匹二匹なら俺が負ける様な相手じゃぁ無いが、数で来られると流石にヤバいと感じ、その日は挑戦を諦め盆地に撤退する羽目に成った。
二度目の挑戦の時には、鹿連中に見つからない様に身を潜めながら移動を続け、何とか稜線の上まで上がる事が出来たが、其処で馬鹿デカい熊と出会し其奴を仕留めるのに時間と体力を使い過ぎて一歩も動けなく成った事で救援を呼ぶ狼煙を上げざるを得なかった。
助けに来てくれた者達の話では、俺が仕留めた熊公は鬼熊と呼ばれる類の魔物としては最小級の大きさで、強さも其れ相応の物でしか無いと言う話で、時期に依っては此奴等を貪り食う『百獣の王 向日葵』なんて化け物も此の山には出ると言う。
向日葵は此処の者達ですら単独撃破を考えるよりは、応援を呼んで集団で相手をするレベルの化け物だと言う話なので、其奴を俺が仕留める事を考える必要は無いのだろうが、陸地の魔物が大海の魔物よりも絶対に弱いと言う認識は改めるしか無かった。
まぁ救援に来た者達の中に家の団に所属する下手な男よりも強いだろう少女が混ざっていたのは、流石は御袋のルーツと言える土地だけは有ると言った所だろう。
彼女は俺より四つ下の十六歳だと言う話だが、既に北の斜面を突破した事が有るそうで、そう言う意味では俺より先を行っていると言って間違いない。
とは言え流石にタイマン張って勝てない相手では無いとは思うが……もし勝負する事が有るとして、女だからと侮れば不覚を取る可能性は決して少なく無いだろう。
兎角、三度目の挑戦は少しだけ時間を置いて、此処で手に入る素材で新たな得物を用意する事にした。
普段から腰に吊るしている舶刀は決して悪い得物では無く、鹿も熊も此奴で叩き切って来たが、大物を相手にする前提で考えるなら此奴と小口径の拳銃だけじゃぁ少々心許ないと思ったので有る。
其処で此処の鍛冶師に頼んで用意して貰ったのは、水中戦は勿論船の上でも比較的よく使う事の有る銛だった。
仕留めた鹿の角を先端部として使った三叉の銛は、突いて良し投げて良しと強度と軽さを兼ね備えた絶妙なバランスで作られて居り、使った素材のお陰で雷の属性まで宿っていると言う、海の魔物を相手にするのに此れ以上無い良い武器で有る。
更には二度目の挑戦で仕留めた熊の毛皮を利用して革の鎧も仕立てて貰った事で、並の魔物からの攻撃は躱す必要も無い程の防御力も得た。
此奴も俺が海に生きる者だと知った職人が気を効かせた事で、錆びる様な金属を留具にも使う事無く、着たままで泳ぐ事すら出来る様に可動部分が干渉する事の無い様な作りになっている。
此の二つの武具が手に入ったと言う事だけでも、遥か東の果ての島国へと来た価値は十分に有ったと思える程の品だ。
そうして其れ等の装備を身に纏い挑んだ三度目の挑戦で、俺は無事北の山を突破し風間藩と言う場所へと辿り着く事に成功した。
猪山は山奥に有るだけ有って俺が今まで旅してきた多くの港街に比べるまでも無く明らかに鄙びた土地だったが、猪山藩と風間藩の境界近くに有る冨山と言う街は、そこそこ大きな港街と遜色無い発展した街だった。
一泊した宿の者の言葉に拠れば、此処冨山は猪山藩の男達が山を超えて遊びに来る色街を抱える場所で、猪山から流れて来る魔物素材の取引で多くの利益を産む場所として風間藩側も統治に力を入れて居る場所の一つだと言う。
猪山藩の北にはもう一つ富田藩と言う場所も有るそうだが、そっちの方は最近は色々と問題が多いらしく、此方に着いたのは運が良かったと言って良いだろう。
元服の儀式として猪山藩北側突破と言うのは、藩主家の者だけに義務付けられた事で、他の家の者であれば一番簡単な南側の突破でも元服自体は認められるらしいが、多少也とも自分の武勇に自身が有る者ならば此処を目指すのが普通だと言う。
何せ此処には色街が有るのだから、元服の儀式ついでにもう一つの意味でも大人の男になろうとするのが普通らしい。
そうした事情が有るからか、宿の者も必要が有れば女を用意すると言う様な話をして来たが、嫁に取る訳でも無い女と身体を重ねるのは不誠実だと言う俺の信念から其の申し出は断る事にした。
変わりに元服の祝いとして、酒と料理を一ランク良い物にしてくれると言うのは喜んで受け入れて、其の日は美味い飯と酒をかっ喰らってぐっすり眠り、翌日は来た道を其の侭辿って猪山藩へと無事帰還する。
突破した証としては、泊まった宿の名前が刺繍された手拭いを持って帰れば良いと言う話だったので其れだけを持って帰ったが、土産の一つも買って来なかった事で御袋に気が利かないと言われた事には少々腹を立てる事に成った。
けれども船員達を纏め上に立つ者として、そうした気遣いが出来ないと言うのは確かに問題が有るだろう、実際御袋が何か用事で側近達だけを連れて船を下りたりした時には、必ず酒樽やツマミになりそうな物を土産として持ち帰って居た筈だ。
そうした気遣い云々も御袋が引退して俺が船長に成るなら、必ず出来る様にしなければいけない事だろう。
と成ると江戸とか言う湊街に残して来た船員達に土産物を用意する必要が有るな……折角山奥に来たのだから、海では手に入らない様な独特の物を準備するのが良い筈だ。
そんな風にさっさと江戸へと戻り、其の侭船を継いで自由に海原を航海する事を考えて居たのだが……
「吉人……アンタを船長に据えるのは、お前が嫁さんを娶って子供が出来てからの話だよ。万が一にもアタシが引退して、子供も居ない内におっ死ぬ様な事に成ったら、折角育ててきた団がどうなるか解った物じゃぁ無いかんね」
と、御袋が唐突に卓袱台をひっくり返す様な事を言い出しやがった。
「んだからお前に合いそうな娘っ子を見繕って置いたから、さっさと見合いしてズッ婚バッ婚キメて孕ませちまいな」
……そして更に爆弾を打ち込んで来る、んな事が出来るならとっくの昔に童貞なんぞ捨ててるわ!
そう思いながらも、流石に会う事すらせずに断るのは相手に失礼過ぎる……そう考えて会ってしまったのが、俺の年貢の納め時だとは多分世界樹の神様達でも知らなかった事なのだろう。
運命って残酷なんだなと俺は汗で湿った布団に二人で横たわりそう思うのだった。




