八百八十八 志七郎、息子の事情を知られ留学について考える事
「志ちゃんには悪いんだけれど、今そうした物を一気に買うと仁ちゃんが種無しだったと勘違いされちゃうから一寸待って欲しいのよね」
俺の息子さんの元気が無いと言う問題が発覚してから、早速「銭は有るんや」と言わんばかりに効果が有るとされて居る食材を買い漁ろうと思ったのだが……残念ながらソレには母上から待ったが入った。
仁一郎兄上が無事優駿を制覇した事で色事解禁と成り、江戸に諸藩の大名が揃っている睦月の間に、千代女義姉上と正式な結納式が行われたのだ。
其れは今年一年何事も無ければ来年の睦月には祝言が執り行われる事に成ると言う事で有り、そんな時期に『下に効く』と言われている食材を猪山藩猪河家が買い漁って居ると成ると、世間は俺では無く兄上に『問題』が有ったのだろうと想像してしまうと言う。
武士は『武に拠って立つ者』で有り、其の拠り所は有り体に言って『強さ』なのだ、そうした強さの中には『下半身の強さ』も含まれて居る。
故に御祖父様の様に『男の子が生まれなかった』から『鶏に頼った』と言うのは未だ良いとして、そもそも『息子さんに問題が有る』と言うのは藩の跡取りとして余りにも外聞の良くない話なのだと言う。
対して実際に問題の有る俺の方はと言えば『未だ精通前の子供』なので、そうした事が即座に醜聞と成る訳では無く、正式にお連と祝言を上げる迄に何とかすればギリギリ無問題の範疇なのだが、どうしても今は時期が悪いと言う事に尽きる訳だ。
ちなみに何故母上が俺の息子さんの事情を知っているかと言えば、智香子姉上が御注進に及んだからである。
……此の世界の医療に携わる者達にも患者の個人情報を保護すると言った概念は有るし、そうした規範を纏めた『ヒポクラテスの誓い』に類似する物は『医神の教え』として存在して居り、姉上も他所の患者の情報を漏らす様な事は絶対に無い。
にも関わらず俺の情報を母上に流したのは極めて単純な話で『子供の問題は保護者に共有する』と言う、向こうの世界でも当たり前とされて居る常識的判断に依る物だ。
幾ら俺の中身が三十路半ばを回った良い年をしたおっさんだとしても、此方の世界では数えで十歳、満年齢なら未だ七歳と……今年の卯月に小学校に上がる年齢の子供でしか無いので、保護者に連絡されるのは仕方が無いと言えば仕方が無い事で有る。
兎にも角にもそう言う問題で、直ぐに銭を叩いて無事解決! とは行かない訳だ。
「でも志ちゃんがそう言う問題を抱えてて、早く解決したいと思うのも理解は出来るわ。そう考えると……やっぱりあの話は都合が良いと言えるのよねぇ」
母上の言葉に渋々では有るが納得した所で、彼女は心底気が進まないと言わんばかりの表情で、そんな台詞を放ちつつ溜息を一つ吐く。
「必要な物を家の御用商人を通して買って、此処の屋敷に届けるから仁ちゃんがとばっちりを受けちゃうんだから、志ちゃんが他所に行けば問題無い訳よね」
そしてそんな意味不明な供述を口にする。
ゑ!? 俺もう此の歳で家追い出されるの?
いや御祖父様がお連を俺の許嫁にしたのは、彼女の実家を合法的に乗っ取る為の政略が有ると言うのは解ってるけど、其れってお互いにもう少し大きく成ってからの話だよね?
其れ共、猪山藩が直接他藩を制圧すると言う外聞の悪さを嫌って、何処か子供の居ない適当な家に一度養子に出してから、お連の実家を簒奪するとかそ―言う戦略的な話か?
割と子供に……特に末っ子の俺にはだだ甘の母上が渋る様な話だとすれば、何方にせよもう此の家には戻らないとかそう言う事なのかも知れない。
「母上、短い間でしたが御世話に成りました、新しい家に行っても母上から受けた御恩は決して忘れません」
覚悟を決めて俺は一度姿勢を正すと両の拳を畳に押し付けて深々と額づきながら、そう感謝の言葉を口にする。
「……いきなり何を言い出すの? 遠くの世界に飛ばされて二度と会えないかも知れないと、一度は覚悟を決めた子が命懸けの旅路を帰って来てくれたのに、そんな子を元服もしない内から他所の家になんかあげる訳ないじゃない」
……どうやら俺の考えは早合点の類だった様だ。
「お花さんが言っていた貴方を西方大陸に有る魔法学会に留学させたいって言う話の方よ。丁度幕府の方でも術者育成の第二陣を出そうって言う話が有って、その者達を二十八義姉様が乗せていってくれると言うのよね」
ああ、成程……義二郎兄上に聞いた話だと二十八伯母上の船は北方大陸の錬玉術師と船大工が最新技術の粋を凝らした物で、北方大陸に行くのに乗った幕府御用船とは性能も安全性も比べ物に成らないと言う事だったな。
海を行く船の多くが風任せの帆船が主流の此の世界で、魔法……と言うか錬玉術を使った術具仕掛けの動力を持ち、回転羽根型推進装置を原動機で回して推進する事が出来ると言うのは二歩も三歩も先に言っていると言えるだろう。
京の都に行く途中で乗った三角姫号は蒸気機関を積んだ外輪船だったが、アレは異世界から来た者が一生を掛けて建造した物だと言う話だし、猪山藩で作った冷蔵庫同様に例外枠と考えるべきだな。
兎角、精霊魔法の本場で有る西方大陸に留学すると言うので有れば、其れは外つ国の魔法や術を使う者を育成しようと舵を切った幕府の方針にも合致するし、其処へと向かう船が猪山藩縁の物だと言うならば恐らく許可は出るだろう。
「向こうに居る間に向こうの商人を通じて手に入れるなら、変な噂が火元国まで届く事も無いでしょうよ。なにせ文字通り世界の反対側まで行く事に成る訳だしね」
聞けば精霊魔法学会が有るのは、西方大陸の中でも更に西側の『西海岸』と呼ばれる様な地域だそうで、母上の言う通り世界の東端に有る火元国の更に東側に位置する江戸とでは、世界の反対側と言い切って間違いない。
「其れに志ちゃん、許嫁の……確かお連ちゃんだったかしら? 彼女に一緒に西方大陸に行こうって誘ったんでしょう? 世界の反対側に行くなら早々刺客が来る事も無いだろうし猪山に居るよりも安全かも知れないわねぇ」
……確かにお連に出した手紙にはそんな趣旨の言葉を書いた事は事実だが、其れだって俺達がもう少し大きく成ってからの積りで書いた事だし、彼女に送った文章の内容を母上が把握して居るのも色々と怖い。
いや此れもお互い未だまだ子供なんだから保護者が色々と把握して居て当然と言えば当然なんだろうが……正直勘弁して欲しいぞ。
「幸い国許から江戸までは義姉様と吉人君が戻る時に一緒に連れて来てくれるそうだし、其の侭婚前旅行と洒落込んじゃいなさいな。あと武光君が他所の娘さんを此れ以上誑し込まない様に一寸気を付けて上げてね。お蕾とお忠が可哀想だから」
どうやら此の留学で精霊魔法を学びに行くのは俺だけでは無く武光達もと言う事らしい。
蕾やお忠は俺が拾ってきた妹みたいな物だし、武光が無節操に女の子を引っ掛けて彼女達が悲しむのは確かに本意では無い……が、二人が何故アレに惹かれたのかも解らないのだからどうすれば良いのやらさっぱりである。
「志ちゃんのお付きなんだから史麻君も当然一緒に行って貰うし……後は子供達の面倒を全部押し付ける様で申し訳ないけれども世話役の女中としておタマにも一緒に行って貰おうかしら? 猫又なら向こうから此方へ戻る術も有るだろうし適任よね」
世界の反対側所か世界を超えて旅する事も出来るんだから、猫又女中を参加させるというのは、定期的に報告なんかが欲しいだろう母上としては確かに適任なのだろう。
「……と言うか、お連を猪山藩から出しているので有れば、最早其れは決定事項で母上が嫌だって言ってもどうにも成らないんじゃぁ無いですか?」
留学期間がどれ程なのかは解らないが、その間白い飯と味噌汁におかずの組み合わせでの食事は、現地調達して食うと言うのはそう簡単では無いだろう。
けれどもおタマが定期的に『猫の裏道』を通って火元国と行き来してくれるならば、米や味噌を買って来て貰うのも無理では無い筈だ。
実際、義二郎兄上が北方大陸で暮らしていた間、おミヤの命で猫又女中達が其れ等を運んでいたらしいしね。
「解ってるわよ! でも私は折角帰って来てくれた志ちゃんを簡単に手放したくなんか無いのよ! せめて後四年は家で一緒に暮らせると思ってたのに!」
……俺の言葉が痛い所に刺さった様で、母上はそう絶叫しながら激情に溢れる氣を垂れ流しにしつつ、背骨をへし折る勢いで鯖折りを決めるのだった。




