八十七 志七郎、朝日を浴びて走る事
朝、日が昇るよりも早く俺の一日は始まる。
以前から早朝稽古が有ったので、朝は早い方だとは思っていたが、今はそれよりも更に早く起きだすように成ったのだ。
「おはよう。まだ皆寝てるから静かにね」
「「「あん、あん!」」」
それは子犬の散歩の為である。
屋敷の庭だけでも十分な広さが有るので、放し飼いにしておけば十分な運動量をキープ出来ると思っていたのだが、どうやら運動量も3匹分と言う事なのか繋がずに放っておくと鉄砲玉の様に前後構わず突っ走しるのだ。
俺が側に居る時にはある程度指示に従うので制御する事も出来るが、俺が鬼切りへと出かけてしまうと全力全開で大暴れし、池に落ちたり床下に嵌って動けなくなったりと散々トラブルを起こしたらしい。
それからは昼間、俺が居ない間は繋いで置く様になった。
そうなると当然ながら運動量は全く足りなくなりストレス等も多くなる、それを解消する為に毎朝子犬を連れてぐるりと屋敷の外を散歩するのだ。
兄上に拠ると、屋敷の庭だけでは十分な広さは有るものの、いつも限られた範囲でしか行動できないでは、子犬の好奇心を満たすことが出来ず、不満を溜めてしまうらしい。
だから外へと出るのだが、3つ首の子犬という目立つ存在をあまり外に晒すべきではないと考え、せめて早朝とすら呼べぬ程早い時間を選んだのだが、正直今となっては要らぬ心配だったと思うしか無い。
俺と同じようにこの時間を選んで散歩をする者達が思った以上に多いのだ、それも彼らの連れている犬達は3つ首こそ居ないが、2つ首はそこそこ見かけるし、口からチロチロと赤い火の粉を吐き出す犬や、全身から真っ黒なオーラを放つ犬など、様々居るのだ。
それらを見るまでは俺の子犬が特別だと、ある種の優越感の様な物を感じて居た気もするが、そんな物はあっという間に吹き飛んでしまった。
考えてみれば御影山の山犬衆など、牛より大きく炎すら吐くような犬が居る世界だ、首が3つ有るくらいはさほど大きな特別には成らないのだろう。
「おはよう、今日も早いね」
「バウ!」
「おはようございます、今日も元気そうですね」
「ウォン!」
「おはようさんですー、子犬は可愛いねぇー。まぁ大きくなってもうちの子が一番可愛いですけどねー」
「ワン!」
「おはようございます、今日もいい天気に成りそうですね」
「きゃん! きゃん! きゃきゃん!!」
「う~……、あん! ああん!」
「きゅ~ん……くぅ~ん」
屋敷を出て一つ目の交差点に差し掛かると、件の犬達を連れた人達とすれ違う、こうして挨拶をかわすのもほぼ毎日の事になりつつある。
飼い主さん達と俺の和やかな挨拶と共に、犬たちは犬たちでコミュニケーションを取っている様なのだが、流石に身体の出来ていない子犬と成犬では、その肉体も精神も風格も段違いだ。
この界隈に居ると言う事は皆武家の飼い犬である、当然ながら躾は行き届き、うちの子犬の様な無駄吠えなどする事は無い、最初の一声も挨拶程度の物だろう、端から見ている限りでは、まさに『弱い犬ほどよく吠える』状態である。
でも、だからと言って闇雲に叱りつける様な事をしては駄目だ、コレは怯えて虚勢を張っている時の鳴き方なのだ。
皆もそれが解っているから、微笑ましい物を見たと言わんばかりの笑みを浮かべて、文句ひとつ言う事無く連れの手綱を引き足早に去って行く。
犬飼い同士の立ち話や散歩しながらの会話と言うのは、武士の社交としても中々に重要な位置を占めるのだと、兄上には聞いていたがそれが出来る様に成るのはまだまだ先の話らしい。
ちなみに兄上も散歩には出るのだが、連れて行く犬の数が多すぎる為、他の犬が少ない朝食後に出かけるのが多いそうだ。
「さて……それじゃ、走ろうか」
「「「あん!」」」
他の皆が一通り居なくなった所で、俺は子犬にそう声を掛けた。
先程までの怯えた様子は無く、3つの首が綺麗に揃った声で可愛らしい返事を返してくれた。
普段、武士は江戸市中を走るのは禁止されている、それはその姿を見た町人たちが緊急事態だと感じ、混乱を招きかねないからだ。
前世で言うならば、用も無いのにパトカーがサイレンを鳴らし走っている様な物だろうか? 通りがかった者は、何か事件が起こったのかと不安になるだろう。
だがそれにも幾つか例外が有る、その一つが犬の散歩だ。
犬を連れて走っていれば、誰がどう見ても緊急事態では無く、犬に運動させていると一目で理解できる、だから認められているのである。
俺達は誰彼憚る事無く朝焼けの中を全力で走り出した。
「……戻ったか、調度良かった。これから出かける、遠出する訳ではないから特に準備は要らない、そのまま付いて来い」
小一時間ほど走り朝稽古が始まる頃合いに屋敷へと戻ると、仁一郎兄上が馬に鞍を乗せながらそう言った。
「こんな朝から何処へ行くのですか? それも俺まで一緒なんて」
「……お前の師となる人物を迎えに行く、許可が下りたと先程知らせが届いた」
先程って、まだ日が登って幾らも立たない時分である、この時間に知らせを届けるってのは一寸腑に落ちない。
まぁ、恐らくは昨夜遅くに許可が下り、それを朝一で届けてくれたと言った所だろう。
「解りました、この子を繋いで来ますので一寸待ってて下さい」
「……いや、その子犬も連れて行く。少しでも早く名前を付けてやらないと躾にも影響がでる」
「解りました、でも結構走らせたので馬の足に合わせて行けば、多分へばりますよ?」
散歩の後は疲れて休む位に走らせろ、そう俺に指示を出したのは他ならぬ仁一郎兄上だ。
それと同時に走ったり止まったり進路変更をしたり、そういった事を俺の指示通りに行動させるのが、犬の躾では重要な事らしい。
「問題無い、この馬私が乗る訳ではないからな」
相変わらず多くを語りたがらない兄上の後に続いて再度門を出る、すると子犬は疲れた様子も見せずまた外に行くのが楽しいと6つの瞳全てをキラキラと輝かせ俺を見上げ、激しく尻尾を降った。
どうやらコイツの元気は俺が思っている以上に無尽蔵なようである。
向かう先は江戸の西に有る白虎の関所、その直ぐ外側にある温泉地『白猫温泉郷』だ。
その名前から想像が付くかもしれないが、火元国に幾つも有る猫又の修行場その一つで、温泉の管理もまた猫又達が行っているらしい。
武家屋敷街を抜け、長閑な田園風景が広がる中、ぽつりぽつりと見かける屋敷は、各藩の下屋敷である、我が家の下屋敷は江戸に最も近い所に有り市街を出て直ぐの場所だが、今日は特に用事が有るわけでは無いのでスルーである。
「「「きゅーん……、きゅ~ん」」」
馬と子犬を引きながらゆったりと田畑の中を歩いて行くと、唐突に子犬がそんな声を上げた。
「……もう少し行った所に茶店が有る、そこで飯にするからもう少しだけ頑張れ」
流石に疲れたのかと思ったが、兄上の反応を見る限りでは空腹を訴えているらしい。
「茶店でこの子が食べる物が有るでしょうか?」
茶店まで行って食事と言うのは、俺達の食事を終えてから与えると言う順位付けの為なのは理解できる。
だが、街道沿いの茶店ならば、どこでも人と馬が食べる物は用意されているらしいが、犬の食事が常備されているかは、その場所によりけりだ。
「……しっかりと持ってきているから大丈夫だ。……俺達が食べる分は忘れてきたがな、ついでに財布も忘れてきたらしい、済まんが立て替えてくれ」
……うちの兄上達は皆が皆、俺も含めて何か抜けてる様な気がする。




