八十四『目覚め』
日も明けきらぬ早朝、いや今はまだ深夜と言うべきだろうか。
そんな闇深き時間、誰にも気取られぬ様静かに慎重に屋敷を出た。
三百年前に諦めた筈の希望、それが叶うと本気で思っていた訳ではない。
ただ惰性で生きているだけの、何も生まず何も成さずそんな生き方に飽きていた。
何もせず生きていても失敗して死んだとしても、オラにとっては何にも変わらないそのはずだったのだ。
だから古い馴染みから持ちかけられた、確実性など全く無い話に乗ったのはある意味で遠回しな自殺の様な物だったのかもしれない。
しかしその結果、思っていた以上の収穫を得る事が出来たのは素晴らしい幸運だった。
三百年前、戯れに弟子を取り武を授け、その弟子が偉業を成した時、その結果自分は神に成れると本気で思っていた。
昇神に必要なのはそれを望む者の類稀なる優れた能力なのだ、武神もしくは闘神そうなれると思っていた。
自身の弟子が偉業を成したのだ、その師匠たる自身にはそれだけの能力があると本気で信じていたのだ、武神と呼ばれるには十分な武勇が有る……と。
だが神々は歯牙にも掛けなかった、それに不貞腐れ三百年無聊を囲っていた自分が、神と成る為の道筋を知る事が出来たのだ、何が足りず何を成せば先が見えるのか、それを知る事が出来たのだ。
なれば一刻も早くそれらを身につける為の修行を積みたい。
何の指標も無く何故自身が認められなかったのか、悶々と悩み苦しんでいたこの三百年とは違うのだ。
ゆっくりと息を吐き、今までの怠惰で愚かだった自分を脱ぎ捨てる。
「オラは神に成る、そして今度こそあのボウズの手助けをするんだお」
月を見上げそう呟く、それだけでも停滞していた自分が少しだけ前に進めた気がした。
「何も言わずにお帰りに成られるのですかな」
誰も起きていない筈の時間を見計らって出てきた筈なのに、不意にそんな言葉が背に掛けられた。
振り返らずともその声の主は解った、この家の当主だ。
「やるべき事は終わったんだお、長居するつもりはねーお」
「それでも、挨拶位する時間位は有りましょうに……」
「オラは色々と知らなくても良い事知っちまったんだお。長居したらお前さん達にそれを言わずに居られる自信がねーんだお」
世界樹での出来事、あの少年はオラが気を失い何も聞いて居なかったと思っている筈だ。
だが実の所あの分体は確かに力尽きていたが、此方に残した本体は何の問題も無く全てを見聞きしていたのである。
それ故にあの少年が危険な存在や外敵として排除される可能性があった事も理解している。
だからこそ浅間様はオラに助言を与え昇神の目処を付け、彼の行先に待ち構えるであろう苦難を少しでも和らげたいのだろう。
「やはり、志七郎は使命を持って生まれた子でござるか、それも人に言えぬ程の重き使命を……」
深い深い溜息とともに吐き出されたその言葉は苦悩に満ち溢れていた。
「まぁそういう事だお。神々の派閥とか色々厄介な話も絡むから、詳しい話は出来ねーお。でも10年かそこらの早急な話ではねーお。あのボウズが大人に成るまで気にせず、まっすぐに育てれば良いんだお」
きっとあの子が生まれて以来ずっと感じていたであろうそれを、オラははっきりと肯定する言葉を吐いた、だがそれと同時に安心を促す言葉も添える事を忘れない。
それでも、やはり親というものは子を心配するのだろう、オラの言葉だけでは彼の苦悩を払拭するには至らない。
オラには親も子も居ない、オラは生まれた時から天狗であり成体だった、いやオラだけではない、多くの妖怪はそこに発生した時から完全な状態なのだ。
完全な状態で生じて、時を経る毎に様々経験をして、強く強くなっていくのが妖怪なのだ。
人間の様に代を重ねる重さという物を経験する妖怪は稀だ。
だから親子の情というものをオラは理解できない、でも目の前に居る男があの小僧に向けている物がそれであるという事は容易に想像が付く。
「……家安が六道天魔と戦った時も、猪山の衆は勇敢に戦ったお。何処の馬の骨とも解らないあの少年を盛り立て、最後の最後まで決して引くことは無かったお」
そうだ、あの小僧の魂が何処から来たものだろうと、その身体に流れる血は勇敢にして勇猛な猪山の戦士の血だ。
「だからどんな苦難でも、どんな試練でも決して負けねー筈だお。お前らはきっとあの小僧をそういう男に育てる、そうだお?」
「武勇に優れし猪山の……、その言葉に相違は有りませぬ。仰る通り如何なる事にも決して負けぬ、決して折れぬ男に育て上げましょう」
強い強い決意を秘めた瞳でこちらを見返しそう言う彼は、先程までの苦悩を抱えた老人では無く、一人の武士であった。
その言葉の力強さにオラはゆっくりと一つ頷き、懐に持っていたものを取り出した。
三百年間一度足りとも使う事のなかったオラの魂、オラの力の源、天狗が天狗たる証、八手の団扇だ。
「これをあの小僧に預けるお。オラは二十いや……十年、あの小僧が元服するまでに昇神するお」
昇神、神に成る、言葉にすればほんの短な、簡単にすら聞こえる一言だ。
だが決して簡単な事ではない、本当ならば二十年でも短い位である。
その間、団扇を手放せばオラの能力は大半が封じられ、仙術と武術しか残らない。
だからこそ新たな事を学び、己に足りない物を身につける事が出来るだろう。
「神に成り新たな力を手にして取りに行くお。だから、だからそれまで力を蓄えさせるんだお。オラはあの小僧のお陰で目覚める事が出来たんだお、だから小僧が旅立つまでにオラは神に成って必ず恩を返すんだお」
あの小僧と共に世界樹へと行ったからこそ、オラは浅間様と会うことが出来、神成る条件を聞く事が出来たのだ。
武神に成るにはその時代に置いて誰よりも優れた武芸が、軍神と成るには個人の武勇ではなく智謀知略を重ねて軍を率いる事が、闘神と成るには己よりも格上の者を数多く一騎打ちで打ち破る事が必要なのだと言う。
六道天魔を打ち破った家安はきっとオラよりも強く成っていた、その彼が武神に成らなかったのだから、オラが武神と成れる通理は無い。
従軍経験の無いオラが軍神となれる訳もなく、己よりも強い者と相対した事すら無いのだから闘神となる事も出来ない。
それらを加味した上で、浅間様はオラに天目山へ行けと言った。
あの山には古くから鍛冶の神が住んでいるのだ、その元で修行し鍛冶の刀匠の神となれと言ったのだ。
そして小僧が成長しその身に見合う武具が必要と成った時、それをオラに作れと命じたのだ。
神と成ったオラが作った武具を纏わねば成らぬ程に、あの小僧が背負う使命は困難な物なのだろう。
この国の神が力を得る事を良しとしない他の地域神や、この世界から力を削ぎたいと考える外の勢力、小僧を狙う可能性の有る者は数知れない。
浅間様は小僧が成長しそれらに抗える様に成るまで、隠し通すつもりなのだろう。
直接そう言われた訳ではない、だが小僧が聞いた事、そして小僧の魂を返した後、オラにだけ言われた事、それらを総合すればそう考える以外には無い。
だからオラは小僧が大人に成るまで神に成るのだ。
「確かに承りました。大天狗の大団扇、しかとお預かりいたします。我が子志七郎、そして神より授かりし霊獣。過不足無く養育する事、お約束致します。神と成る貴殿に誓いましょう」
「では、オラは行くお。次に会う時は神と成ってるお……新たなる刀を打つ神、新刀神に」
鍛冶の聖地天目山を目指して旅立つのだった。




