七十一 志七郎、武人と出会い、王者と出会う事
「猫は皆履物なんぞ無く素足で暮らしてるもんニャ。そのまま上がったらええニャ」
唐突に現れた大猫がそう言うのを訝しみながら見上げると、彼は片眉を(毛むくじゃらの顔で眉毛は無いのだが)上げるような仕草を見せ、
「ニャンだ? おみゃー、ニャーが誰か解らねぇのかニャ?」
その口ぶりからは顔見知りで有ると言っているのだろうが、こんな大きな猫又の知り合いは居ない、……と思うのだが。
「幼くとも武勇に優れし猪山の男。仮にも修羅場を共にし、ましてや助けに来た者を見忘れるたぁ、情けニャいにも程があるニャ」
言っている事はキツイがその口調はむしろ誂うような物であり、本気で言っている様には見えなかった。
だがその言葉で彼が誰なのか検討が付いた。
あの屍繰りと戦った夜、応援に駆けつけた猫又達を率いていた征鼠少将の肩書を持つ猫又だ、名前は確か斑目……だったと思う。
白い毛皮のごくごく一部に灰色がまだらに混ざっているのだが、恐らくはそれが名前の由来なのだろう。
だが、あの夜は全身を甲冑で鎧っており、顔の一部だけしか晒されていなかった。
顔だけ見るのであれば何の特徴も無い白猫である、余程の猫好きならば、その顔を見るだけで個体の判別も出来るであろうが、少なくとも俺にはそんな真似は出来はしない。
「ニャーにも人間の面は全部一緒に見えるニャ。種族が違えば顔なんか解かりゃしねーニャ」
相変わらず考えている事は駄々漏れらしく、俺が何かを言うまでも無く、彼は肩を竦めやれやれとでも言いたげに首を振った。
「ニャーもおみゃーも種は違えども武芸者ニャ。体幹の乗り具合、歩の間合い、個体識別に使える要素なんか幾らでも有るのニャ」
まさか猫又に武に付いての指摘を受けるとは思わなかった。
だが、考えてみれば妖怪と言うのは武器を使わず戦う存在と定義されているが、猫又はその力の源で有る尾を武器に変化させて戦うことも有るのだ、人間同様に武術を学んで居ても何らおかしくな事は無いだろう。
そして目の間に居るのは、少将の位を帝から賜る様な猫又である、その武勇は察して余りあるだろう。
「まぁ流石におみゃーみたいな童子ニャ、そこまではまだ無理ニャ話だったニャ。さて、猫王様が待ってるニャ、さっさと中に入るのニャ」
俺が感じている衝撃など、どこ吹く風と行った風情で斑目はさっさと中へと入って行く。
彼に言われた通り、俺は草鞋を脱ぐことも無く畳の上へと足を踏み出した。
「遠路遥々よう来たでごわす。おいどんが当代猫王、桜田紋次郎黒虎でごわす」
上座の一段高いところに座った恰幅の良い黒猫が座っている。
居並ぶ猫又達は皆全裸? とでも表現すれば良いだろうか、その毛皮を堂々と晒しているのだが、恐らくこれも権威付けなのだろう、猫王は綺羅びやかな錦の衣を身に纏っていた。
その姿は猫の頭を除けば、五月人形の武蔵坊弁慶の様にも見える、そう弁慶だ。
太ましいその姿は一見すると怠惰で鈍重な者に見えるかもしれない、だが先程斑目に指摘された事を念頭に置いて見れば、着物や毛皮の上からでも脂肪の内側に力強い筋肉がしっかりと付いている事が解る。
よく見れば座り姿も軸が立っており、決してその姿はただ太っているだけのデブ猫のそれでは無く、よく鍛えられた力士の様だった。
「猪山藩、藩主猪河四十郎が子、猪河志七郎でございます。この度はご拝謁賜り誠に有難く存じます」
両の拳を畳に付け座礼をする、この時頭を下げ過ぎない様に家をでる時に注意を受けていた。
額を畳に付ける程深く頭を下げてしまえば、それは猫王よりも猪山藩が下であるという事に成ってしまい、巡り巡って幕府の将軍の権威に傷を付ける行為に成るのだという。
何処まで行っても権威、権威、権威、と嫌に成るほど権威主義な世界に思えるのだが、威信や権威という物がどれほど重く重要な物であるかは前世の世界でよく知っている。
警察官が不祥事を起こし報道されれば、それが他県の事で有っても捜査に影響を感じたものだ。
前世の日本では政治不信が有っても暴動だの武力蜂起だのが起こることは無かったが、一寸他所の国を見れば日常茶飯事だった。
それは国民の多くが武器を手にする事が無く、暴力的な事が極端なまでに社会から排除されていた結果だろう。
対してこの国はどうだろうか? 武士階級だけでなく多くの者が鬼斬りを経験するこの国ならば、幕府や藩主の権威が失われたならば、きっと成り代わろうと言う者が出て来る様に思える。
武士の権威が猫又等の妖怪に通用する物かどうかは解らないが、少なくとも猫又が示す権威の証は俺ですら感じられるのだから、共通する部分は有るのだろう。
早すぎず遅すぎず、頭を下げている長さにすら気を付けながら顔を上げる。
正直、上様に謁見する時以上に気を使った。
あの時は多少のミスをしても父上が尻拭いをしてくれると言う安心感が有ったが、今は俺一人であり、何よりも俺がやらかせば人間全ての威信に傷を付ける可能性が有るのだ。
「そう気負う必要は有り申さぬ。おんしの事は母上からの文にて、宜しく頼まれてごわす。おいどんでは父上に命ずる事は出来申さぬが、それ以外では万事取り計らう故、安心するでごわす」
猫の表情は今ひとつよく解らないのだが、恐らくは苦笑しているのだろう、猫王は目を細めながらそう言った。
しかし、母上からの文とはどういう事だろうか?
「おんしの家で世話に成っておるおミヤはおいどんの母上でごわす。そしておんしが会いたいと言っている猫仙人はおいどんの父上でごわす」
……えーと、つまり俺はおミヤの夫に会いに来たと言うことだろうか。
それならば、もっと融通が効きそうな物だと思うのだが、多分ここでも権威が邪魔をしているのだろう。
「母上の頼みだからこそ、条件付きとは言え父上がおんしと会う事を了承したでごわす。仙人は世俗に関わらぬのが理。他所からの問いであらば猫仙人がこの山に居ることすら答えられなんだわ」
……いい加減、この表情に考えが全部出てしまうのはなんとかしないとマズいよなぁ。
しかし条件付きと言うのはどういう事だろうか? そんな話はここまで全く聞いていない。
「条件付きとは? 私は何も聞いていませんが?」
「ああ、ここまで来た時点で父上が出した条件は達成しておる。自力で山を登り切る事が条件でごわす。父上はおんしの様な童子が会いに来ると聞いて、ここまで登れぬと高を括ったのであろう」
成るほど確かに、普通ならば五つの満年齢で四歳に満たない子供が登れる山ではないだろう。
前世では仕事や行事以外で山登りなどした事は無いので、この山がどれ程の難易度かの指標は無いし、体感で標高を測る事も出来ないが、それでも素人が装備も無く登れる山では無いこと位は理解できる。
氣孔という超常の力が無ければここまで来ることは出来なかっただろう。
殆ど垂直に近い岩壁を駆け上がったり、谷間に掛けられた丸太を渡ったりと、思い返してみればよくもまぁここまで無事に来れたものだ。
「さて、父上と早々に引き合わせる事も出来き申すが、折角客人を迎えて歓迎の一つもせぬでは猫王の名が廃るという物でごわす。先日の派兵への礼にも過ぎたる品を頂いた事も有る、先ずはこの龍尾の幸を御賞味あれ」
猫王がそう言うと運び込まれる料理の数々、居並ぶ猫又達は待ってましたと言わんばかりにその料理へと飛びかかっていった。
……俺への歓待じゃないのかよ。




