六十九 志七郎、江戸を出て名物と出会う事
「ぐぅ、ぎぼじわる……」
眼前に広がる極彩色に染りあらゆる物が歪んで見える奇妙奇天烈な風景に、俺はこみ上げる吐き気を噛み殺しながらそう口にした。
「ニャははー、徒人が通る場所じゃニャーですからニャ。道を間違えればあの世どころか別世界に行っちまう事も有るらしいですから、ちゃんとニャーの後を付いて来て下さいニャ」
この不思議な空間を先導し歩いているのはネコミミ女中のおタマだ。
あの後、おミヤが根子ヶ岳に住む猫王に、仙人の心当たりを問い合わせてくれたのだが、なんとその結果は大当たりで根子ヶ岳には未だ一人? 一匹の猫仙人が住んでいるのだそうだ。
神仙と言う言葉の通り、仙人は神と並び称される存在である。
例え武士階級とはいえ、人間如きが呼び出す様な事は出来ず、此方から足を運ばねば会うことは出来ない。
それ故に少なくとも俺自身が向かわねば成らないのだが、根子ヶ岳が有るのは江戸から遠く離れた火元国の最南端、龍尾島という場所にあり、徒歩で向かえば片道一ヶ月、馬と船を乗り継いでもその半分は掛かる様な距離である。
しかもその場でどれ程の時間が掛かる事かも解らない。
俺を含めた大名の子供は江戸を離れるのに幕府の許可が必要で、その申請にはどれ程の期間、何処に何をしに行くのか、詳細な報告を出さねばならない。
だが、仙人に会うと言う事を公にするべき事ではないらしく、俺が江戸を出ると申請していない。
ちなみに公的な行事、武芸や術の修行、各地の神社への参拝といった事であれば、さほど煩い事を言われる事も無く許可が下りるのが通例では有るらしい。
申請を出さねば関所を通る為に必要な手形が発行されることは無く、尋常な方法で江戸を出ることは当然ながらできはしない。
そこで猫達だけが通る事のできるという、世界の狭間の道、通称『猫の裏路』を通り根子ヶ岳へと向かうことに成ったのだ。
猫にしか通ることが出来ないならば、当然俺も通る事は出来ないはずである。
だが『七つまでは神のうち』と言いう言葉があり、七つに成る前の子供は人間では無いので、我が家に置いては俺だけがその道を通る資格が有るのだそうだ。
そういう訳で、こうしておタマの持つ提灯の灯りを頼りに道を進んでいる。
世界の狭間というだけあって、目に見えるのはなんとも言えない珍妙奇天烈な物だ。
遠く、遠くに有る様に見える山が数歩歩めば直ぐにその峰へと辿り着き、すぐそこに見える川へは近づく事は無い。
おタマに拠ると時間と空間が歪んでるから、遠くの物は近く近くの物は遠くに見えるのだそうだ。
目に見える物を頼りに歩めば先ず間違いなく迷い、地獄へでも行ければ未だ運が良い方で、運が悪ければ永遠に世界の狭間を彷徨う事に成るという。
時間が歪んでいる為にこの場では餓死する事すら無いというのだから質が悪い。
この世界には同様の場所が猫の裏路だけではなく、まだまだ無数に有るというのだからファンタジーな事この上ない。
「ニャーが知ってるだけでも、妖精の輪とか狸穴とかいろんニャ場所に開いてるニャ。そーいう所に迷い込むのを『神隠し』って言うニャ」
前世でも迷宮入りした行方不明事件を『神隠し』と言ったりする事が有った、無論向こうのそれはその大半は何らかの事件や事故による物だろう。
だが、もしかしたら世界の狭間を辿るこの道は、向こうにも繋がって居るのかもしれない。
俺はそんな事を考えながら、目の前でゆらゆらと揺れるおタマの尻尾を見失わない様に追いかけた。
むせ返るような暑さを感じ空を見上げると、そこには夏の焼き付けるような日差しが降り注いでいた。
「志七郎様、アレが根子ヶ岳ですニャ。あっちに見えるのは烏丸山、通称南の武士山ですニャ」
武士山と言うのは京の都と江戸の間に有る山で、掛け軸等の絵を見る限りでは富士山にそっくりうり二つの山である。
言われてそちらへと目を向けると、山脈と呼ぶに相応しいだろう山々が連なっており、その一部がたしかに富士山の様にも見えなくも無い。
どうやら郷土富士等と言われる『○○富士』とご当地の山を呼ぶのと同様の文化がこの国にも有るらしい。
「ここから少し行った所に茶屋が有るから、そこで一息付いたら山登りですニャ」
日の位置はほぼ真上に有ることから察するに恐らく今は昼前後の時間帯だろう。
家を出たのが夕方と呼ぶには少し早い時間だったことを考えると、夜通し歩いたのかそれともかなりの時差が有るのだろうか。
どちらにせよかなりの距離を移動したというのに、さほど疲労感も無ければ腹が減ったと言う感じも無い。
それでもその後に続く山登りに備えて休んで置く必要は有るのだろう、言われるままに付いて行くと、藁葺き屋根の建物が見えてきた。
建物の前には緋毛氈の敷かれた縁台に朱色の傘が立てられて居り、如何にも茶店と言った感じに見える。
「ここの見世は氷菓子が有名ニャンですよー」
確かに江戸と比べてもかなり蒸し暑いこの場所ならば冷たい物は美味しそうだ。
だが冷凍庫やら製氷機があった前世ならば兎も角、どうやって氷を調達しているのだろうか。
「おや、おタマじゃないか。藪の入にゃまだ早いだろう、とうとう何かヘマやらかして暇を出されたのかい?」
と、見世の中から顔を出した白い着物に白銀の髪が印象的な色白の美人が、そんな言葉を掛けてきた。
「お屋敷のご子息様が猫王様に用事があるんで、案内してきただけニャ。そんなヘマなんてしてニャいニャ!」
「あはは、冗談だよ冗談。そんなにムキに成るんじゃ、本当は相当ヘマやらかしてるね。んで、そちらのお坊ちゃんが猪山の鬼斬童子かい?」
怒りも露わに言い返すおタマを笑いながら軽く流して、此方へと向けられた視線はその口調に反して随分と冷たく鋭い。
それにしても、鬼斬童子の名前は江戸を遠く離れたはずのこの場所にまで知られてるのか……。
「……猪山藩、藩主猪河四十郎が子、猪河志七郎です」
そんな内心を飲み込んで、名乗りを上げて軽く会釈をする。
「おやまぁ、お武家様に先に名乗らせちまったねぇ。あたしゃこの茶屋の女将で雪女の白石てんだ、江戸からの長旅お疲れさんで御座んした」
と、彼女は途端に表情を崩し、商売人らしい笑顔を見せてそう言った。
ああ、成るほど雪女ならその妖力で氷くらいは幾らでも作れるのだろう、最もこんな暑い場所に雪女が居ると言う事自体が普通では無い気もするが。
「こんな糞暑い日に猫のお山に登るなんざ、酔狂も良いところだと思うんだがね。まぁ、うちは銭さえ貰えるなら氷も茶も幾らでも出すから、ゆっくりしておいき」
その言葉に甘え縁台に座り傘の陰に入る、直射日光に当たらないだけでも涼しいとまでは言わないが、それでもかなり暑さが緩和された気がする。
直ぐ横に座ったおタマも汗一つかいていない様に見えるが、暑いは暑いらしく小さな扇子で袖口を扇いでいた。
扇子はこの世界では誰しもが持っていて当たり前の物である、当然ながら俺も腰の帯に差し持ち歩いている。
此方の世界に来て知ったことなのだが、扇子や団扇を使う時には、顔を扇ぐのではなく袖口から着物の中に風を送る様にするのがマナーらしい、と言うかそのほうが随分と涼しく感じられる。
そうしてしばし座って寛いで居ると、
「あいよ、太祖様直伝の『しろくま』だよ」
山盛りのかき氷に果物を散らしたアレが出て来た。
いや家安さん、江戸だけじゃなくてこんな所にも影響有るんですね……。




