七百 志七郎、謀を想像し幕府の面子気にする事
己の知る全てを白状した事で少しはすっきりしたのだろう、川下介は丸で悟りでも開いたかの様な仏の笑みを浮かべて、大きく大きく一つ息を吐いた。
「俺の知っている事は全て吐いた。兄貴達が彼処まで奇怪しく成ってしまった理由は解らんが、きっと何者かが酒と称して妙な物でも混ぜて居たのだろう。そしてそんな手管に引っ掛かった時点で武士の恥。出来れば兄貴達……いや愚か者達全てを止めてやってくれ」
それから口にした言葉は命乞いをする様な物では無く、今夜にでも再び罪を犯すかもしれない兄達と、そして同じ境遇に有るだろう者達を止めて欲しいと言う切なる願い。
家長の権が強く自分達よりも上の立場の者には、忠実に従うのがこの火元国の常識だ。
無論、兄弟喧嘩の様な物は有るにせよ、実際に何か大きな決断をすると為れば、下の者達の言う事を全て無視して家長が独断を下しても、其れを非難する様な声を上げるのは難しいのがこの国である。
……例え其れが盗みや喧嘩、果ては戦の様な、前世の価値観に置いては明確に『悪』で有り『罪』だと判断される様な事柄でも、家長が命じたからには従うのが当然だと多くの者は考える。
特に武家では主君が命じた事ならば、例え其れが己の生命を投げ出すに等しい様な事だとしても、絶対に成し遂げるのが当たり前なのだ。
しかしだからと言って、全ての武士が上からの命令に一切文句を言わない、所謂『イエスマン』だと言う訳では無い。
時には主君の不興を買い、放逐されたり下手をすれば切腹を命じられる……そんな悲壮な覚悟を決めてでも、忠言を口にする者は居る。
志学館では『主命は万難を排して必ず成し遂げるべし』と教えると同時に『忠言の忠は忠誠の忠である、主君が明らかに誤った命を出したならば、生命を賭けてでも諌めるべし』とも教えられた。
彼も生真面目な性質が故に兄達が命じるが儘に窃盗団に身を置くような真似をしたが、其れが明らかな誤りだと此処に来て気が付き、己の生命を省みる事無く其の誤りを正す事こそが兄達に対する忠の心だと判断したのだろう。
「うむ、其の言葉確かに余が聞き届けた! 確かに其方は過ちを犯した、其れは変え様の無い事実だ。だが其れを素直に認める事が出来た以上、其方は立派な侍だ! 他の誰が否定しても、余が……この禿河 武光が其れを認めよう! 故に安心して腹を切るが良い」
そしてその心の有り方は、武光にも正しい物と映った様で花札の『芒に月』の月を『旭日旗』の様な図柄に変えた、そんな図柄の入った印籠を懐から取り出し彼の眼前へと突き付けた。
『芒の旭』は禿河本家の家紋で有り、態々其れを出した上での言は、武光個人の責任で軽々しく扱って良い物では無い。
少なくとも此れで彼は『何処の馬の骨とも知らぬ罪人』では無く『武士として堂々と腹を切り死ぬ名誉』を持った者として扱われねば成らない相手と言う事に成ったのだ。
その言葉を聞くなり、代貸は直ぐに彼を戒める縄を解き、
「咎人とは言え御武家様だ、畳の入った牢に移して丁重に扱え。傷の手当もだ、事が済んだならこの方にゃぁ見事な切腹をしてもらわにゃ猪山の名に泥を塗る事に成んぞ。御武家様……鹿之子様と言いなすったか、貴方様は世辞の句でも捻って待ってておくんなせ」
近場に居た下の者達に彼の処遇を変える指示を出していた。
代貸も猪山藩猪河家に中間者として仕えて長い、当然武家の習いに付いては相応に知識が有るのだろう。
故に武光が口にした『将軍家を代表した言葉』を忠実に守り、その心に見合う対応をしようとしているのだ。
「……先程の暴言、申し訳御座いませぬ。にも拘らず格別のご配慮、誠に忝のう御座る。この川下介、最期の散り華に相応しい意地を込めて割腹せしめる事をその紋所に誓わせて頂きます」
縄を解かれ自由に成った川下介は、痛むだろう背中や肩を気遣う素振りすら見せず、そう言いながら武光に向かって平伏するのだった。
「取り敢えず捜査の取っ掛かりは掴めたが……この案件、猪山藩だけで蹴り付ける訳にゃぁ行かない奴だぞ? その辺ちゃんと考えてたのか?」
川下介が別の牢へと移され、その檻が閉じられたのを確認してから、俺達は地上へと戻り蕾とお忠を交えて、事の次第を相談する事にした。
その中で俺は武光の言動で気になった部分に付いて問いかける。
「ぬ? ああ、下手人が多いからな。国許に多くの者が出払った状況では確かに手が足りぬか……」
するとそんな応えが返って来て、俺は思わず大きな大きな溜息を吐く。
「違うそうじゃ無い。お前の話じゃぁ偽山猫は既に何件か盗みを働いてるんだろう? と為れば当然、火盗改も動いてるだろうし、其れが倒幕派の仕業なら上様や御祖父様の手の者が探って無い訳が無いだろう」
捜査活動と言うのは誰か一人が抜け駆けに走っただけで容易く瓦解する。
この手の謀に置いて御祖父様の手の長さは、恐らく俺達が想像するよりも遥かに長いのは間違いない。
特に江戸の『倒幕派の集い』は御祖父様が策を巡らせて集めた者達で、其処に監視の目が入っていないと言う事は有り得ないのだ。
である以上、此処までの大事に成るまでただ単純に放置していたと言う事は有るまい。
可能性として考えられるのは、何時でも捕まえる事の出来る実行犯を泳がせて、黒幕を探っていたと言う事では無かろうか?
実際、前世にも組織犯罪の捜査では末端の実行犯は敢えて見逃して、首謀者を洗い出し一網打尽に逮捕する……と言う様な事も有った。
其れは実行犯を捕らえる事で、捜査の手が及ぶ事を警戒した主犯格の者が、海外等に高飛びするのを避ける為だ。
海外に逃げられると、向かった国と日本が『犯罪人引渡し条約』を結んで居ない限り、その国の捜査機関が日本での指名手配を理由に逮捕してくれる……と言う様な事は無い。
某怪盗漫画で有名な警部さんが所属する国際刑事警察機構を通じて、国際指名手配を依頼する……と言う方法も有る。
が、実際には残念ながらあの漫画の様な強権を持つ組織では無く、飽く迄も現地警察に協力要請をする為の国際組織と言う位置付に過ぎず、余程の凶悪犯でも無ければ日本での犯罪を理由に、その身柄が確保されると言う事は極めて稀なのだ。
兎角、そんな感じで主犯格を捕らえる準備をしていると言うのに、別管轄の警察官が末端をサクッと逮捕してしまい、蜥蜴の尻尾切りで終わってしまう……と言う事は組織犯罪捜査では割と良く有る話である。
そして今回の一件は、川下介の言葉から組織的犯行である事は確定し、其れ等を束ねる謎の黒幕が存在する事も示唆された。
此れは俺の想像に過ぎないが、御祖父様達は倒幕派の者達を何者かが麻薬漬けにして、其れを手駒にしようと言う企み自体は知っていたのではなかろうか?
倒幕派の浪人達は飽く迄も替えの効く、使い捨ての手駒に過ぎないだろう。
だからこそ碌な下調べもせずに猪山藩邸へ押し入るなんて安易な真似をしたのでは無いだろうか?
「使える手駒を一から育てるとも為れば、早々簡単に使い捨てる様な真似は出来ないだろう? 適当な連中を麻薬漬けにして使い捨ての手駒にしてる黒幕が居るんだ、其奴を潰さなけりゃ結局似た様な事が繰り返されるだけだ」
次に使われるのは浪人者では無く、腐れ町辺りなら一山幾らで拾える様な破落戸の類なら未だ良い方で、下手をすれば今度は何も知らない無辜の民が、その毒牙に掛かる可能性も捨てきれない。
「ならばお忠に探らせれば良いのでは無いか? 余が打ち倒した悪党共の裏を調べてくれたのもお忠だ。余では解らぬ事もお忠は様々な手管手練を使って調べてくれるのだぞ!」
んー、自分の配下に居る者の能力を信頼し仕事を任せるのは良い事だが、此れは一寸成功体験が大きく成り過ぎて過信に成りつつ有るな?
「まぁ何方にせよ、先ずは火盗改に話を通してからじゃ無いと不味い。川下介は猪山藩の屋敷から逃げるのを兄上が直接見て捕えたから良いが、他の連中を勝手に捕らえると火盗改だけじゃ無く、幕府の面子をも潰す事にも成りかねない」
幕府の面子と言う言葉に、武光は未だ不満気な表情を隠さず、不承不承と言った様子で黙って頷いたのだった。




