六百九十九 志七郎、倒幕派に纏わる陰謀を知る事
「……鹿之子の名等、最早毛微塵程の価値も無い。そして俺の名は山中介では無い、其れは兄の名だ。俺は鹿之子 川下介、鹿之子家の三男だ」
武士は己の命よりも家名を汚す事を何よりも恐れるものだ。
個人の幸福を追求する事が当たり前に成っていた、前世の日本人的な感覚では少々理解し難い感覚だが、大凡人間以外全ての生き物が持つ最重要課題は『子孫を残し命を繋ぐ事』である。
家名を繋ぐのは即ち子孫が残り続けている証を残し続けると言う事で有り、延いては先祖の為した功績を語り継ぐと言う事なので、子々孫々に渡って先祖の悪名を語り継ぎたいと思う者は居ない事は容易に想像が付く。
そして其れ以上に武家社会に於いては、個人の付き合いよりも家同士の付き合いが優先される、故に一度悪名を背負った家の者は其れを雪ぐまでは、真っ当に扱われる事は無い。
ましてや其れが盗人等と言う武士の風上にも置けぬ恥ずべき事をやらかしたとも成れば、本人の打首は当たり前で下手をすると数代遡ってやっと血が交わる位には遠い親戚すらもが同じ苗字と言うだけで武家社会の中では一段下の扱いを受ける事に成る可能性すら有る。
其処まで離れた親戚にすらも影響を与える様な状況で、親兄弟に連座が適用されない筈も無く、事が明るみに出れば一族郎党諸共に死罪に成るだろう事は明々白々の状況なのだ。
それでも未だ俺が提案した様に実行犯として取っ捕まった彼が『武士として』腹を切る事が出来れば、連座が適用される前に自身で落とし前を付けたと言う扱いに成り、親兄弟にまで類は及ばない。
にも拘らず、彼は自身の家名を唾棄するかの様な口ぶりで、兄の名で呼ばれた事自体が不愉快だと言わんばかりの口調で、自分の正しい名を明かした。
「……事の始まりはあの阿呆が勝手にくたばり、有馬様が改易処分を受けた事だったのは間違い無い。だが其処から先の地獄へと転がり落ちていったのは、我が兄である山中介が禄でも無い連中に誑かされたのが原因だ」
そんな言葉で始まったのは鹿之子家が如何に零落していったのかと言う話だった。
鹿之子家は大藩弓削山藩の家臣として、相応の努力は必要な物の先行きの不安等は無く、寧ろ次期将軍を育てた藩だと言う事で、無難に仕事をしていれば順風満帆な生活が出来る筈の家だ。
けれども自分達の手が届かない所で起きた悲劇から主家が処分され、大藩の家臣と言う安定した地位を彼等自身何の落ち度も無い……とそう思える状況で失う羽目に成った。
だが当初は領地に残り新たに赴任してきた藩主の下で今までと同じ様に、仕事をして生活する事が出来るだろう……そう安易に考えて居たのだ。
しかし藩政に携わって来た重臣達や、特別な役職を担っていた家は兎も角、一山幾らの役人仕事は新藩主が連れてきた家臣達に持っていかれ、中堅未満と言える家の者達は皆纏めて浪人者に身を堕とす事と相成った。
弓削山藩の家臣として仕えて長い鹿之子家、その当主である彼等の父は当然の如く猟官活動等した事も無く、日々与えられた仕事を熟すだけの日々を過ごして来た中年が、江戸に来て改めて其れを為せと言われても無理が有る。
残り少ない手持ちの銭を使い、腐れ町近くの貧乏長屋に居を構え、慣れぬ生活に身体を壊し身罷るまでに然程長い時間は必要なかった。
そして父が逝って然程も経たぬ内に母も逝き、残ったのは長男の池上介、次男の山中介、三男の川下介の三人だけだったと言う。
不幸中の幸いと言えるのは、川下介の姉に当たる二人の娘は浪人落ち前に既に他所へと嫁いで居り、不幸な生活に巻き込まずに済んだ事だろう。
兄弟三人だけと成った後、川下介本人は元々何時かは家を出て、自身で身を立てねば成らぬと考えて居た事もあり、浪人生活にも大きな不満は無く日々鬼切りに出ては、そうして稼いだ銭の一部を貯蓄し、残りは家族の生活費として家に入れて居たと言う。
だが問題は彼の二人の兄達だった。
川下介の言に依るならば、長兄の池上介は毎日幾つもの幕府重臣家や、大藩小藩問わず藩邸を巡って猟官活動をしていたので未だ許せるとの事。
対して次兄の山中介は本来ならば兄に何か有った時の予備として部屋住みと成る立場故か、自分から何かの努力をしたりはせず、日々ぐうたら過ごして居たと言う。
そんな日々を過ごす内に、池上介は何処で知り合ったのか『倒幕派の集い』に呼ばれる様に成り、定期的に無料酒を呑みに行く様に成ったらしい。
と、其処までならば未だ良かったのだ、問題はこの飲み会に山中介が参加を希望にしたにも拘らず其れが認められず、やはり何処で知り合ったのかも解らぬ男達の飲み会の方にお呼ばれする様に成ったと言う事だ。
二つの飲み会は双方に出る者も居れば片方にしか呼ばれない者も居たと言う。
鹿之子家の兄弟は、恐らく長兄が御祖父様の画策した飲み会に、次兄が別の何者かが主催した飲み会に其々行く様に成ったらしい。
川下介も自分の稼ぎで外で飲み食いする事も有り、そうした催しに兄達が出掛ける事自体には何ら不満は無かった。
其れが変わったのは次兄が行ってる飲み会が、完全無料の宴からそれなりの銭を取る物へと変化した時だ。
次兄は川下介が稼ぎ溜めていた銭に手を付け、其れで足りなく成れば元主家だった有馬家に忍んで行って金の無心をし、其れで駄目でやっと自分で鬼切りに行って稼ぐ様に成ったと言う。
とは言えそんな次兄の変化は他の兄弟から見れば、明らかに奇怪しな物として目に写った。
いやぐうたら者が働く様に成ったならば、其れは決して悪い変化では無い様に思えるだろう。
だと言うのに、その変化を訝しんだのには当然理由が有る。
仮にも大藩で役人をしていた家の子なのだ、彼等とて酒で身持ちを崩す者の姿を見た事が無い訳じゃぁ無い、そうした者達と比べて明らかに『その宴会で出される酒』に対する執着が強すぎたのだ。
其処等の酒屋で買ってきた酒では決して満足せず、寧ろ不味いと吐き出し暴れる様な始末。
しかもそうして暴れる時には、氣を纏わずとも常人離れした異様な怪力でと成れば、その宴会で出される酒に何か有るのだろうと、そう考えるには十分な状況だろう。
なので銭さえ払えば人数が増えるのは大歓迎だと言うその飲み会に、訝しんだ長兄が共に行く様に成ったが、其処で大きな誤算に打ち当たる……木乃伊取りが木乃伊に成ったのだ。
今まで呼ばれれば行くだけだった無料の飲み会に呼ばれても、其れを無視してでも決して安くは無い銭を払って怪しい方の飲み会へと足を運び『特別な酒』とやらを浴びる様に飲んで帰る……彼の兄達はそんな生活にどっぷりと嵌まり込んでしまった。
長兄に至っては浪人暮らしから抜け出す為の猟官活動すらしなく成り、その飲み会で知り合った者達と連れ立って鬼切りへと出掛け、その銭を叩いて他では飲めない酒を飲む。
それでもまぁ……そうした生活で満足しているならば、其れは其れで兄達の人生だ、そう考えて二人の下を離れ自分は自分で身を立てよう、そう考えていたその時だった。
「件の飲み会の主催者が、兄等に盗みを働く様に持ちかけたのだ。特別な酒は残り少ない、今までの様に銭だけで贖う事は出来ない。欲しければ特別な宝を手に入れ其れを献上すれば酒を与える……とな」
……その言葉を聞き、俺は一発で理解出来てしまった、多分その『特別な酒』とやら麻薬の類だ。
最初は安い値段でバラ撒き、習慣性が付いた辺りで値を上げて金銭を搾り取ったり、場合に依っては『クスリが欲しけりゃ●●を殺して来い』と、麻薬中毒者を使い捨ての鉄砲玉に仕立て上げる。
それは前世の世界でも海外黒社会の粉が掛かった麻薬の売人が使う手口だ。
「そして指定された宝の目録に、猪山藩猪河家が帝より賜ったと言う至宝と言うのが有った。金色に輝く人の頭程の大きさの宝珠だと言う。其れを手に入れれば酒は勿論、主催者が懇意にしている藩への士官の口利きもする……そう言う話だったのだ」
帝から下賜された人の頭程の金色の宝珠? うわぁ……すげー心当たりが有るぞ、其れ絶対ヒヨコの卵の事じゃないか!
思わぬ流れで繋がった色々とヤバそうな話に、俺は驚きを噛み殺しつつも、その背後に動く謎の黒幕に思いを馳せるのだった。




