六百九十八 志七郎、裏に悪意の影を感じ誇りに訴える事
真っ赤な血に塗れたその背中を見れば、其れ迄一体どれ程激しい笞打が行われて来たのかは一目瞭然だ。
にも拘らず、今まで顔色一つ変える事も無く、知っている事を白状する所か、泣き言一つ言わなかった鹿之子と言う苗字らしいその男は、俺の放った言葉一つで大きく表情を変化させた。
「あ、兄者……何なのだ、その倒幕派と言うのは? 名から察するに御祖父様の治世に不満を持って良からぬ事を企む連中と言った所だとは思うが」
現状、幕府や上様が百点満点の政をしているとは、言い難いのは事実では有る。
と言うか、人間のやる事である以上、絶対に何処かかしらに歪みや誤りが有るのは仕方の無い事で、そうした物の犠牲に成る者が零に成る事は無いだろう。
それでもこの火元国は、鬼や妖怪の害は有るにせよ概ね『天下泰平』と言っても、間違いではない程度には安定した政が行われている筈だ。
そんな中で『倒幕派』と呼ばれる者達は、大きく別けて二種類居るのだと、京の都から江戸へと戻る旅の途中で御祖父様から聞いた覚えがある。
一つは鹿之子の様に主家が何らかの失態を犯し、自身の責任では無い理由で浪人に身を堕とし、その境遇を『幕府の政が悪い』と酒の席で管を巻く連中。
そしてもう一つは戦国時代と呼ばれた頃のこの世界で、家安公では無く六道天魔……即ち尾田 信永に付いて戦った者達の末裔だ。
前者の大半は新たな士官先を求めて江戸に集まるのだが、そうした者達の多くが無事に猟官活動に成功すると言う訳では無い。
幕府以外で家臣を抱える事が出来るのは一万石以上の領地を持つ大名か、若しくは上位の幕臣位で、其れ等の者達で全ての浪人者を引き受ける事は出来ず、どうしても一定数は浪人者と呼ばれる主無き侍に成るのは避けられないのだ。
と言うか実際に猟官に成功するのは極一部で、そうした者達は鬼切りに出て大きな手柄を上げた者だったり、前の主とは主義主張の違いから袂を分かった物の、能力には信が置けるとして感状を与えられていたり……と、何かかしら他人寄り優れた点が有る。
けれども大半の浪人者は、武家の出である以上ある程度の武芸と氣功使いだと言う事だけでは、売り込みには少々弱すぎる、其れ等は武士ならば持っていて当たり前の事だからだ。
更に厄介な事に元の主君が有馬家の様に零落した場合には、その家から出された感状は鼻紙程度の価値すら無い、と見做される事も有る、
そうなると本当に大鬼や大妖討伐位しか、士官の手は無いのだが……其れが出来るだけの運と腕前を持ち合わせている者は稀だし、其の為に命を賭して危険な戦場へと連日通える度胸を持つ者は更に稀だ。
特に藩主の下で藩政を回す為の歯車と成るべく育てられた、陪臣家の嫡男は其れ以外の生き方を想定した教育を受けていない事も多く、自身の身に降り掛かった不幸を嘆くしか出来ない……なんて事は割と良くある話である。
しかしそんな者達とて腐っても武士、心まで腐り落ちてやけっぱちに成って江戸市中で暴れられでもしたら、洒落に成らない被害が出るのは想像に難く無い。
故に御祖父様の策略として、そうした芽の出ないだろう浪人者達を集め、瓦斯抜きの為の飲み会を定期的に開く様な事をしているのだ。
そうした飲み会では『己の不遇は幕府が悪い』と、そんな流れに成る事が多いらしく、結果彼等を『倒幕派』等と呼ぶ様に成ったらしい。
尤も彼等を敢えて倒幕派と称するのは、後者の者達……即ち旧尾田家家臣団を矮小化し、その存在を世間から隠す為の策略なのだと、御祖父様からは聞いている。
表立って倒幕派等と名乗れば、只では済まない事は馬鹿でも解る話で、彼等は当然その名を隠す。
けれども前者の様な矮小な者達の存在を、匂わせる程度に世間に流布する事で、後者の様な本当に危険な存在が居る事を市井の者達に知られぬ様にしていると言う訳だ。
故に江戸の町民達は倒幕派と言うのは、床屋談義程度の事しか出来ぬ者達だと本気で信じている者が大多数と言う事に成っているのである。
「成程、確かに鹿之子はその倒幕派の集いに呼ばれるだろう境遇の者ですな。真逆、伯父上の元家臣にそんな不心得者が居るとは……」
俺が鹿之子当人に聞かれぬ様、少し離れた場所で武光に倒幕派に付いて説明してやると、素直に納得した様子でそんな答えを返してきた。
「いや多分鹿之子だけでは無いと思うぞ。弓削山藩は十五万石の大大名だろう? 其れが丸っと潰れたんだぞ、鞍替えに失敗してる者は決して少なく無い筈だ。恐らくは其の大半は御祖父様の作った方の倒幕派に流れているんじゃ無いか?」
愚痴吐き場である倒幕派の集いは定期的に開催され、其の度に実は幕府の機密予算から出された銭で、彼等に無料で飲み食いさせる事で瓦斯を抜き、其れで江戸の平和が維持出来ていた今までであれば、費用対効果としては悪い物では無かったのだろう。
しかしそうした集まりが、盗人を企てる場へと変化したと言うので有れば、其れは決して見逃して良い事では無い。
けれども其の飲み会を上様の手の者が差配している以上、其の場でそうした企ての話が有れば、絶対に見逃す事は無く事前に鎮圧されるであろう事は明白だ。
だが倒幕派の集いとは関係無い所で盗みを企てたのだとしたら、其の立場を指摘されただけで彼処まで顔色を変えるのは不自然である。
と成ると考えられるのは、倒幕派の集いで繋がった他家出身の浪人者と結託して、盗賊団を結成した……とかそんな感じなのでは無かろうか?
んでもなー、未だ一寸話を横で聞いていただけだが、彼は割と武士の誇りとかそう言うのを大事にする性質だと思うんだよなぁ。
そんな奴がそう軽々しく盗人に身を堕とす様な事をするか? 銭が欲しいだけなら無理をしない程度に鬼切りに出るだけでも、俺の様な子供ですら日当で十両位稼ぐのは決して無理な話では無い。
苛烈な笞打にすら表情を小揺るぎもさせぬ様な豪の者ならば、単独での鬼切りは勿論、他の仲間と協力して鬼切りに励めば、下手な家で家臣勤めするより稼げる訳で、捕まればほぼ確実に命を落とす盗人に成る寄り余程危険は少ない筈だ。
其れにこの男は、自分の命惜しさに仲間を売る事を是としない様な、義理堅い一面の有る見所の無い者では無い。
そんな侍然とした男が、私利私欲の為に他所様の懐に手を突っ込む様な真似をする事自体、何かが奇怪しい様に思える。
「この一件、浪人崩れが只盗みに手を染めた……ってなだけじゃぁ無い、裏に何か深い闇が隠されている様に思える。同時にあの男を切り崩せるかもしれない一手も思いついた。まぁ聞くだけなら無料だし一丁仕掛けてみるか」
何というか、こう……俺の中に残された刑事の勘が何か有るとビンビンに言っている様に感じるのだ。
「うむ、何を仕掛けるのかまでは余では解らぬが……裏に何か怪しい者の影が有る事は余も感じるのだ。此処は一丁、兄者の知恵回りを見せて貰おうか」
うん、やっぱりあからさまに怪しいよなぁ、ああ言う義理堅い性質の男は自分を律する精神だって並の者より強いだろうしな。
「なぁ、一寸俺も聞きたい事が有る。時間は取らせないから、少しだけこの男と話させてくれ」
……そう判断した俺は再び鹿之子の牢へと戻ると、代貸にそう許可を求めた。
とは言え此れはお願いの体を取っては居るが、彼にとっては主筋に当たる俺の命令だし、当然断る事等出来よう筈が無い。
彼が脂汗を流しながら一つ頷くのを確認し、
「取っ捕まった以上、お前さんの命を永らえる事が出来ないのは、まぁ解ってる事だとは思う。だが盗人風情と嘲られながら首を斬られ後世まで鹿之子の名を汚すか、其れとも武士らしく正々堂々と全てを吐いて腹を切るか、どっちが侍らしい死に様だと思う?」
それからそう問いかけたのだった。




